カラー版 重ね地図で読み解く大名屋敷の謎
必需品の飲み物とお気に入りのアイスを買いに寄ったセブンイレブンで嬉しい書籍⤴️を購入しました。コロナ騒動あけの楽しみがもう一つできた✴️ 蓋し、コンビニの雑誌コーナーもなかなか侮れませんよね。而して、この本のどこが嬉しかったのか? それはわたしにとって、
【壱】「ミッシングリング」が提供されている
【弐】歩く楽しみを幾重にも補助してくれそう
注:その都市の面積はどれくらい?
↗️普通大人の足で一時間で囲める正方形(a square) の面積が「1平方キロ」です。
🍎山手線内の面積
63平方キロ
🍎その沿線周辺を含む「山手線界隈」は(ニューヨークのマンハッタン区の81平方キロより
ちょびっと広い)おおよそ 84平方キロ↖️根拠ありませんから❗️
🍎東京23区の面積
622平方キロ
🍎ちなみに行政単位の東京都の面積は
2194平方キロ
所謂ロンドン中心部は大体横15キロ✖️縦12キロの
180平方キロ
ちなみに「the City of London」(= Square mile)の面積は、4平方キロ
(↗️この「mile」は名詞「square」を後置修飾している形容詞です。これと同じ。すなわち、
「the present members, 現在の現役のメンバーさん」と区別される後置修飾の「the members present, 出席しているメンバーさん」)
ちなみに行政単位のグレーターロンドン
1569平方キロ
英国の首都はどこですか? と、日本人が英語で尋ねる場面に遭遇した
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ca167df8690712a1a40859cb113aaff1
【壱】「ミッシングリング」が提供されている
わたしは新百合ケ丘(神奈川県)に引っ越すまでの足掛け九年間、東京都民(フラットは江戸川区で葛飾区は新小岩駅のすぐ近く)でした。家賃がバブル直前にもかかわらずリーズナブルだったのと、オフィスのある神田と逆に成田空港へのアクセスの利便性で決めただけのことで特にこだわりがあった訳ではないです。けれども、住めば都じゃなかった住めば歴史のない街は少ない。ということで、いつの間にか古地図片手に今の江東区や墨田区から千代田区の東部と中央区の南部や文京区の東部と台東区の南部を散策するのが日本にいるときの休日の楽しみになりました。
江戸の庶民の暮らしとか連想しつつ、また、江戸期の著名人の活躍ぶりを思いだしながらーー亀戸天神から富岡八幡宮と回向院が囲む三角形エリア、ご存知の本所・深川・両国を巡り永代橋か新大橋か両国橋を渡って両国広小路から浅草寺と神田大明神に至る/広がるーー<江戸>の下町を散策するのは実にたのしい。誇張抜きに、東京スカイツリー界隈や門前仲町、三越前とか神田紺屋町のカフェでは真面目に向こうの席に八丁堀の旦那が座っているように見える境地になるくらいたのしい。
而して、実にたのしいのですが、実はこの下町と隣接しているあるエリアと下町の間には観念をもってする表象認識において明確な境界がある。例えば、たびたび移転を繰り返したものの1805(文化2)年以降は、現在のJR東京駅日本橋口前に置かれた北町奉行所や現在の有楽町界隈にあった南町奉行所まではなんとかたどり着けるけれどもそこから先は五里霧中になる。藤木桂さん梶ようこさんの作品とかの希少なご教示を除けば実像がつかめない。
はい、下町エリアからそちらを覗いても分厚い白い霧に覆われてなにも見えない。そうそれがこの「カラー版 重ね地図で読み解く大名屋敷の謎」がカバーしている武家屋敷領域だと思うのです。そして、わたしのいう「ミッシングリング」とは同書の1ページ1ページが重ね地図でこの霧を払ってくれる逆転の経緯を示そうとした喩えです。
畢竟、「江戸」は「ロンドン」や「パリ」とは違って、元々栄えていた商業交易都市に全国区の政治権力機構とそのメンバーやそれらにつかえる官僚が転入してきてできた🌺花のみやこ🌺ではありません。
それは、家康公と秀忠公(両者の征夷大将軍在位 1603年 - 1623年)、徳川幕府、江戸幕府の初代と二代将軍の、特に「大坂の陣」(1614年 - 1615年)以降秀忠公没(1632年)までの両将軍のリダーシップによる大名領国配置ーー①外様大名は比較的大きな石高で京都・江戸から遠隔地に、②徳川連枝と家臣系、および、徳川幕府樹立に貢献した大名は(所謂「御三家」と彦根の井伊家を唯一の例外として)比較的低い石高で京都・江戸の近傍または要所にという例のあの大名領国配置ーーとも通底している屋敷配置指針に覆われた政治空間だったのです。
加之、それは神君家康公の八朔江戸入り以来一世紀を越えるーー上野・神田の台地を切り崩しその残土をもってした江戸前の埋め立て、就中、東京湾ではなくて銚子は太平洋に注ぐようにした利根川の流路変更等々のーー都市開発のことごとは置いておくとしても、「江戸」は全国区の政治権力の機構とそのメンバーや官僚が新たに集結した政治区域に、漸次、庶民が仕事を求めて流入して、蓋し、漸次、見た目としては🧅玉葱の皮🧅の如く🥬キャベツ🥬の皮の如く中心を幾重にも覆うようにーーその中期初頭の元禄の末(1688年 - 1704年)から享保(1716年 - 1736年)にはすでに*人口百万を越える当時世界最大のーー巨大化した都市だった。
注:江戸の人口↖️ネットから転載、強調はKABUによるもの
(URL転記できないのでご興味のある方は「江戸時代 江戸 人口」でご検索ください😢)
(a)江戸の町人人口は、寛永 11 年(1634)に約 15 万人、明暦 3 年(1657)に約 28 万人、元禄 6 年(1693)に約 35 万人、享保 6 年(1721)には約 50 万人と推定されている。 これに武家人口 50 万人を加えると、江戸の総人口は約 100 万人となる。
(b)1721年、江戸は約100万人を誇る世界一大きな都市であり、世界二番目の都市は63万人のロンドンであった。
ロンドンの発展はいくぶん限られていた。その理由の一つは、汚水処理が効率よくできなかったことである。この問題はヴィクトリア朝【1837年 - 1901年】の下水パイプが発明されるまで解決されなかったが、江戸では、し尿を集めて処理することで、汚水処理にあたっていた。
ことほどさように、白黒はっきり言えば、江戸においては下町の庶民は後から来た<お客さん>、武家と武家地が江戸の<正規のメンバーとその居住領域>なのです。ふみゅ、だからこそ武家地の屋敷や施設には(ロンドンでも「表札」は普通今でも見られないにしても)「地番表示」も「表札」もなかったの、鴨。武家コミュニティーでは皆がそれを知っているのが前提だから。
要は、江戸の武家地の配置は徳川幕府が土地と家屋をゲームのピースにして描いた全国支配指針ジグソーパズルの完成図面の、そのミニチュア画像でもあったということ。
ならば、他方、お客さんの庶民は武家地に来るなら「武家地図面冊子」とかで事前に調べて来なさいよ、と。ならば・・・。
ならば、古地図を小脇に抱えてする<江戸散策>において<江戸>の精髄エリアである「武家地」が五里霧中のままというのはーー名古屋に行ってきしめんを食べないとかSKE48劇場に行かないとか、または、博多に出張したのに屋台ラーメン食べなかったとかHKT48劇場に寄らなかったとかまでは非常識ではないとしても、ーーそれはルーブルに行って Mona Lisa を見なかった、興福寺訪れたのに阿修羅像見なかった、難波通ったのにたこ焼きも食べずNMB48劇場にも寄らなかった。あるいは、大英博物館(British Museum)寄ったのに Rosetta Stone 拝まなかった(↖️同博物館のエントランス近くにあるので「見ない」のは無理、鴨)に等しい滑稽譚。
繰り返しますが、本書「カラー版 重ね地図で読み解く大名屋敷の謎」はそのミッシングリングを軽やかに楽しく埋めてくれる。まだ、本書を片手に実際に歩いたのは本書パート1の「江戸城周辺の大名屋敷」だけですがそうわたしは思いました。
ブログの⤴️⤵️画像:記事内容と関係なさそうな「食べ物やお料理さん系」が少なくないことの理由はなんだろう?
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4e03beafbd5b690bed61fda9e978db7a
【弐】歩く楽しみを幾重にも補助してくれそう
コロナ騒動以来散歩自体する機会が減っていました。本書は俄然その惰性を打ち破ってくれた。何事もはじめるのが大変。まして、歳とって再開には何らかの切っ掛けが肝要だと思います。歳とると何事も面倒に思えるから。
而して、(1)歩くことそのもの(as such)のたのしさ。他方、(2)歴史が幾重にも覆っているある国の首都を歩くたのしさ。そして、(3)自分がそこに各々数年滞在したことのある東京とロンドンの違いを足で比べ/想像するたのしさは本書「カラー版 重ね地図で読み解く大名屋敷の謎」がわが家に提供してくれそうなもう一つのそれも格段に良い事柄(another good one and something else)です。なにを言いたいのか? 歩くことで都市とその内部や近傍界隈各エリアのなにがわかるというのか?
簡単です。それは、
距離
高低
方角
これ侮れませんよ。例えば、ーー天動説の開祖コペルニクスは地球が太陽を廻る軌道を漠然と円軌道と考えていたのに対して、ティコ・ブラーエとその弟子ケプラーは数十年積み重ねられた彼等の観測を踏まえてそれが楕円軌道であることを発見、そして、ニュートンとライプニッツはそれが楕円軌道である理由を/楕円軌道でなけれならない理由を証明したのと同様に、駐車場空いてるかどうかは運次第だから専ら山手線内の移動は電車と地下鉄だのみになるからーー山手線が円形ではなくて楕円であることを知らない/そんなこと考えたこともない東京都民は希ではないと思いますから。
実際に皇居を一巡りした後、皇居前広場でサブウェイの🥪サンドウィッチ🥪いただいているときに「ここ東京駅前から🗼東京タワー🗼まで歩きましょう♥️」と訪日したばかりのイギリス人やアメリカ人に言われて困らない都民は寧ろ極めて少数だとわたしの仲介実体験から断言できます。
要は、[東西]午前9時に秋葉原のTullys でモーニング(a breakfast special)をいただいた後、徒歩で新宿まで移動してーー途中の神田神保町で古書店に幾つか立ち寄り、四谷では知り合いの上智大学の先生とお茶してもーー正午少し前に南新宿の馴染みのダイナーでランチをAKB48グループファン仲間の早稲田大学の大学院生のみんなと一緒にするなどはごく普通にできること。
他方、[南北]午前9時に立教大学の先生と池袋のミスタードーナツでモーニングをいただいた直後、ーー正午には熊本から上京する同郷の知り合いを品川駅改札で迎えて彼女の慶應大学生の娘さんと品川駅ビルのレストランでランチをともにすべくーー池袋から徒歩で品川駅に移動するのは(立ち寄りたかった神田神保町の古書店をパスしたにせよ)ほぼ不可能ということです。この事実はあたりまえのこと。あたりまえですが、実際にこれわかっていない江戸っ子(↖️祖父母の代からの東京市民👧)幾らでもいらっしゃいます。
もっともこの(1)歩くことそのもの(as such)のたのしさの提供は本書の専売特許ではない。蓋し、「重ね地図」のご利益は、それは「平安京」や「藤原京」「平城京」についても、あるいは、「a town ≒賑やかな街」にして「a city ≒大聖堂があるか王室認定の由緒正しい街」でもある「ロンドン」とそれと隣接する隣街「ウェストミンスター」についても言えること。ゆえに、この点に関する本書「カラー版 重ね地図で読み解く大名屋敷の謎」のーー少なくともわが家にとってのーー秀逸さは、隅田川両岸の下町エリアを超えて江戸の全体像を各自がその脳裏に描くことを可能にしたことにある。と、そうわたしは考えます。
<改訂版>憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/17985ab5a79e9e0e027b764c54620caf
而して、本書が提示した「江戸の全体像」を元にするとして、さて、(2)歴史が幾重にも覆っているある国の首都を歩くたのしさ、および、(3)自分がそこに各々数年滞在したことのある東京とロンドンの違いを足で比べ/想像するたのしさとはなにか? はい、その意味はある箴言に収斂しているの、鴨。すなわち、
>隅田川の水はテムズ川の水に通ずる(伝林子平曰く)
江戸時代が終わって東京はどうなった? 特に、もとの武家地はどうなったのか? 例えば、明治・大正の時代に元勲と仰がれた薩長出身の高官の住まいはなぜ東京のあのエリアだったのか? なぜ、後に「文豪」と呼ばれるあの作家達は東京のあのエリアに庵を結んだのか? そして、それらの事実と変遷が示唆するこの都市の日本全体や世界の同時代における役割の変化はどういうものだろう? これらの問いを有意味にすることを本書は可能にしている。例えば、門井慶喜「東京、はじまる」(文藝春秋, 2020年)が描いてる問いを。
繰り返しになりますけれど、これらの問いを考えることは、すなわち、①江戸の元武家地の土地と家屋の処分や転用をゲームのピースにして、②この都市とこの日本という国の役割イメージを描く、③ジグソーパズル遊戯に他ならない。と、わたしはそう考えるのです。
竹内正浩「「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」
https://www.j-n.co.jp/books/978-4-408-45639-3/
実際、明治4年(1871年)に、日本最初の女子留学生として太平洋を越えた津田梅子先生の父君、津田仙翁は、明治9年(1876年)、元武家地だった東京麻布で、ホテルや洋食食堂を得意先に当て込み西洋野菜の栽培・販売を始め大儲けしたのですが、その事業は、早くも明治30年(1897年)に事業を次男に譲った際には開店休業状態に陥っていたとか。
>ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
出典:石川啄木「一握りの砂」明治43年(1910年)
それから幾星霜。前の東京オリンピック前後の都市開発。バブル期前後の地上げと都市再開発。他方、六本木ヒルズやスカイツリーがその風景に普通におさまる東京の今と、加之、日進月歩のIT技術とAI技術の進歩によってひょっとしたら<メディア>としては「都市」も「大学」も「国会議事堂」も不要になるかもしれない数年後の<東京>のイメージを160年前の<江戸>と同様に現在の東京と重ね合わせ想像すること。または、<江戸>のイメージを過去の/現在の他国の首都と現在の東京と重ね合わせ比較することを、それらを本書は可能にしたのかもしれません。
東京の戦前 昔恋しい散歩地図
https://soshisha.com/book_search/detail/1_1280.html
本稿の冒頭近くで述べたようにロンドンはーー土台、「ロンドン」は正確には二三百年前という歴史的にはごく最近まで厳密には英国≒連合王国どころか(イングランドの平安京とも言うべきウィンチェスターや鎌倉・六波羅・室町&鹿苑寺に比すべきウエストミンスターとは違って)イングランドの「首都」とさえも言いきれないのですがーーブリテン島の経済の要衝ではあっても政治の中心ではなかった。非対称性、その点で江戸とロンドンとははなからジャンル違いの異質な都市でした。
畢竟、ロンドンは大坂と同様にーーおそくとも中世初期からは欧州大陸の物流と文化伝播の主経路たるライン川の河口から、その河口からわずか北海をはさみ150キロメートルほど先のこちらはテムズ川の河口から当時の大型船で遡ることが可能な欧州水運の最西ターミナル。よって、アングル族サクソン族侵入の遥か前から存在していた、ウォトリング街道とアーミン街道という、この欧州辺境の小さな大ブリテン島の二大街道がそこを目指してそこで交差したーー経済の要衝。ロンドンと東京は違う。しかし、この認識も比較する「首都の全体像」という共通の物指しがあってはじめて言えること。違いますか?
他方、イギリスの啄木がその「ふるさとのなつかしい訛り」を聴きに行ったとしたら、そこは多分、英国の<上野駅>とも言うべき King's Cross, St.Pancras, Euston のどれか。それはアガサ・クリスティー先生のミス・マープルご用達 Charing Cross, Paddington, Victoria, Waterloo ではあり得ない。
更に言えば、これまた「another square mile 」の Sohoはナントの勅令(1598年)がルイ14世によって破棄されて以降(1685年)、亡命フランス新教徒富裕層が集住した謂わばフランス人町だったけれど、漸次、無国籍の歓楽街に変わっていったとか。蓋し、ーーMayfair にせよ Chelsea にせよ、Bloomsburyにせよ、まして the City にせよ、江戸とも東京ともくっきりと違ってーーロンドンはその地区その地区ごとにそこに住んだ人々の歴史の変遷や積み重ねがある。畢竟、
隅田川の水はテムズ川の水に通ずるけれど
それは同じではない❗️
このようなことが、他国の首都と東京を比較する想像遊戯がきちんと理詰めでできそうなこと。これは本当にたのしいことだと思います。
お粗末さまでした。
以上
私は、隅田川(大川)のほとり、蔵前で育ちました。
古地図には、実家が乗っていたことが誇りでしたが、今は、消滅。
実家の跡地にはタワーマンションが。
情緒も何も、あったものではない…と、憤慨しております。(笑)