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民主党「国家論」の姑息と愚劣☆日本は誰のものか?

2009年08月30日 17時37分44秒 | 日々感じたこととか

 


民主党の鳩山由紀夫代表(当時幹事長)の「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」発言(「ニコニコ生討論会」2009年4月17日)もあり、また、外国人選挙権ともからめて、「日本は誰のものか」が旬のイシューになる予感を覚えます。本稿ではこの問題を少し考えてみました。尚、外国人の選挙権、および、昨年の国籍法改正を巡る私の理解については下記拙稿を参照いただければと思います。

・国籍法改正を巡る海外報道紹介と反対論の論点整理
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/436b94c2786c33039314239a894ad36e 

・政党政治における国民主権原理と外国人の政治活動の自由の交錯
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142603794.html

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142944811.html
 



■民主党「国家論」の妥当性と危険性
民主党の『「憲法提言中間報告」のポイント』にこう書かれています。

目先の利害や政治的駆け引きにとらわれることなく、50年、100年先を見通した、骨太の憲法論議が必要である。

第1は、グローバル社会の到来に対応する「国家」のあり方についてである。
そもそも、近代憲法は、国民国家創設の時代の、国家独立と国民形成のシンボルとして生まれたものである。それらに共通するものは、国家主権の絶対性であり、国家による戦争の正当化であった。これに対して、21世紀の新しいタイプの憲法は、この主権の縮減、主権の抑制と共有化という、まさに「主権の相対化」の歴史の流れをさらに確実なものとし、これに向けて邁進する国家の基本法として構想されるべきである。それは例えば、ヨーロッパ連合の壮大な実験のように、「国家主権の移譲」あるいは「主権の共有」という新しい姿を提起している。(以上、引用終了)


・民主党「憲法提言中間報告」のポイント
 http://www.dpj.or.jp/news/?num=602

ここに語られている「主権国家」や(対外的な)「国家主権」成立過程の歴史的理解は正しいと思います。そして、EU加盟国のみならず現在の国際法において、各主権国家が大なり小なりその主権行使に関する制約を甘受しているということも正しい。このことは、例えば、国連憲章による「侵略戦争」の禁止、あるいは、WTO体制下の関税制限、難民条約に基づくノン・ルフマン原則(難民条約の適用を受ける難民(=「条約難民」)を迫害の待っている国に追放してはならないという原則)や稀少生物の取引に関するワシントン条約の効力を想起すればこのことは明らかではないでしょうか。

ならば、『憲法提言中間報告』『「憲法提言中間報告」のポイント』等々を根拠に民主党は「日本の主権を支那に譲り渡そうとしている」「民主党はマルクス・レーニン主義の国家死滅論の教義を信奉する左翼過激派である」と批判するのは間違いだ。と、一応、そう言えると思います。

蓋し、民主党の言う主権の抑制や共有化は、少なくともマルクス・レーニン主義の国家死滅論とは(旧社会党系議員の思いは別にして)あまり関係がない。而して、主権の委譲や制約には、(繰り返しますが、国際行政分野での対外主権の制限というテクニカルなマターだけではなく)例えば、アメリカ合衆国等の連邦制、オーストリア&ハンガリー二重帝国、スウェーデン&ノルウェー同君連合等々数多の実例もあり、なおさら、そう荒唐無稽な主張ではないのです。

KABUは、民主党の国家論を擁護しているのか。

もちろん、「否」です(笑)。蓋し、腕っこきの詐欺師は「嘘をついていないと自己暗示をかけている」「99%の真実に1%の嘘を紛れ込ませる」のと同様、民主党の国家主権委譲論の危険性と狂信性は99%の妥当性に込められた1%の荒唐無稽を彼等が確信していることにある。

要は、民主党の国家主権委譲論のトンデモなさは、対外的な国家主権を制限するロジックにではなく、①対外的な国家主権には委譲も抑制も共有もできない国家のアイデンティティと国民の生存にダイレクトに関わる内容が含まれていること、そして、②(北朝鮮の核不拡散条約体制からの脱退を想起すれば明らかなように)国際法上の主権の制約も一度その主権国家が当該の国際法を破棄した場合には反古になる事態を看過していることにある。

畢竟、(現行憲法の成立過程がそうであったように)新憲法を制定するのでもない限り主権はその本質的な部分を恒久的に委譲することはできない。日本の主権は日本のものなのです。すなわち、十羽一絡げに主権の抑制・共有化を俎上に載せている点で民主党の主張は詐欺師の主張に他ならない。と、そう私は考えています。尚、マルクス主義および保守主義の社会思想に関しては下記拙稿を参照ください。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
  -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html 

・保守主義-保守主義の憲法観
  http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html 

・保守主義の再定義(上)~(下)
  http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html 

・戦後民主主義的国家論の打破
  ☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
  http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344522.html

・人権と民主主義は国境を越えるか(上)(下)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-393.html



■日本は誰のものか
前節の主権論を前哨にして「日本は誰のものか」につき考察します。而して、「日本は誰のものか」の問いの意味は「日本」と「誰かのものであること」という二つの概念に規定されていること。そして、「日本」は、領土・主権・国民という所謂「国家の三要素」とそれを基盤とした日本の文化・伝統・歴史、そして、自然環境と文化的環境をも含む重層的な概念であることも一般の了解を得られるのではないかと思います。

他方、「誰かのものであること」とはどのような事柄を内包しているのか。蓋し、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」という命題に含まれる「所有物であること」が「日本は誰のものか」の命題に含まれる「誰かのものであること」とは些か位相を異にしていることも自明でしょう。「日本は誰のものか」の問いの意味を考えるに際して、法律用語としての「所有権」、すなわち、「誰憚ることなく使用・収益・処分ができる権利」の対象たる「所有物」として日本列島をイメージすることは私法関係で公法関係を理解し、社会学的事象を法律的な事象と混同する二重の誤謬を犯しているのです。

歌舞伎座や富士山が、松竹という企業や国有地であったとしても、「歌舞伎」や「赤富士の風情」が松竹や日本政府のものであろうはずはない。他方。「勧進帳」や「逆さ富士の趣」を愛するドイツ人やアメリカ人がいたとしても、彼等を「歌舞伎愛好家」や「日本通」とは呼んでも、歌舞伎や富士山が彼等のものと考える人は稀だと思います。整理します。

畢竟、「日本は誰のものか」は、()領土・主権・国民に重層的に規定される「日本」に自生する文化・伝統・歴史・環境のあり方、および、「日本」に付随する公法と私法(財産権)のあり方を、()最終的に決める憲法的・政治的な権限が誰にあるかを問うている、と。

このように「日本は誰のものか」の意味を措定した場合、その答えは明白でしょう。すなわち、日本は日本人のものである、と。ここで日本人を日本国籍を持つ人間とパラフレーズした場合、「日本は誰のものか」は、私法的な権利主体ではなく公法的な権利主体としての「日本人」を確定する作業の裏面でもあります。而して、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」とのたまった鳩山民主党代表は、「日本は誰のものか」の問いの意味が理解できない愚か者であるか、あるいは、売国奴的愚劣と言わざるをえないでしょう。蓋し、

日本は誰のものか?

日本は日本人のものである!



日本は日本人のもの。注意すべきは、このことから外国に日本の領土や権益を譲り渡すことや外国人に選挙権を認めることが、一概に否定されるわけではないことです。日本のあり方を最終的に決める権限があるのは日本国籍を持つ日本人であるにしても、その日本人が領土の割譲や外国人選挙権を決めるのならば、それは毫も論理的には矛盾ではないからです。而して、「日本は今生きている日本国民だけのものではなく、過去に生きていた日本人とこれから生まれてくる日本人すべてのものだ」などのメルヘンチックな言説は、論者の単なる願望にすぎない。実際、大東亜戦争の結果、日本が多くの領土を割譲せざるを得なかったことを想起すればこの不愉快な理路を否定はできないと思います。

加えて、「日本は日本人のものだ」という命題には謂わば「有効射程距離」がある。例えば、支那人に対して「A級戦犯の意味も知らないで靖国の英霊を批判するな」と述べても論理的には意味はないのです。もちろん、「靖国の事で他の国にガタガタ言われたくはない」と保守改革派の日本人なら誰しもが思うこと。しかし、支那や支那人が「靖国の事でガタガタ言う」ことは彼等の自由であり、それを制約する権限も権利も我々は持っていない。あくまでも「日本は日本人のもの」ということは「日本のことは日本人が最終的に決めることができる」ということであり、その日本人の決定は外国人の認識や主張を拘束できるはずもないからです。

更に、支那には<歴史学>の観念自体が根づいていない節さえある。例えば、『春秋左氏伝』の斉の物語。すなわち、宰相・崔杼が斉王を殺したことを「崔杼、その君を弑す」と史官に書かれたことに激怒した崔杼がその史官を殺し、その弟を史官に立てたところ、弟も「崔杼 その君を弑す」と書く。それ殺し末の弟を立てても、「崔杼 その君を弑す」と書く。而して、ついに崔杼も歴史の改編を諦めた故事は有名。しかし、注意すべきは、これもまた「中華主義=大義名分論」の政治的パラダイム内部の出来事ということです。

蓋し、支那人が考える「歴史」とは「中華たる支那の正当性を顕揚する政治的な物語」であって、「過去の事実をより正確に復元し、より統一的かつ合理的に説明する知の体系」としての<歴史学>とは共約不可能なのではないでしょうか。ならば、「A級戦犯が合祀されているから靖国に参拝するなと言う」支那人が「A級戦犯」の意味も知らないトンデモな事態は、彼等の歴史認識と「歴史」自体の観念からすれば(反日歴史認識と中華主義の歴史観念からは)枝葉抹消のことなのでしょう。要は、そのような支那人と言説を通して合意することは「靖国」に関しては不可能であり、それは政治の問題に収斂するのみ。と、そう私は考えています。

蓋し、異文化コミュニケーションとはこのような不愉快な事態と対峙することに他ならず、「靖国」以外にも外国人選挙権であれ捕鯨であれ、多くの<靖国>が諸外国との間には横たわっている。よって、我々保守改革派は、論理と法の領域のみならず政治の領域においても、外国に対しては日本の主張と意志を行動を通して休む間もなく繰り出し、そして、日本を外国のものにしようとする日本人とは厳しく対峙しなければならない。


而して、ならばこそ、
畢竟、「打倒、民主党」の5文字あるのみ。

共に闘わん!






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