朝日新聞2014年2月19日に面白い記事が掲載されていました。
前口上抜きに要約転載。←手抜きではありません。
「反知性主義」への警鐘
「反知性主義」という言葉を使った評論が論壇で目につく。
・・・政治的な問題発言が続出する現状を分析・批判しようとする意図が見える。
「嫌中」「嫌韓」「反日」--首相の靖国神社参拝や慰安婦問題をめぐり日・中・韓でナショナリステックな感情が噴き上がる現状を、週刊現代は問題視して特集した(1月25日&2月1日合併号)。元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は対談で、領土問題や歴史問題をめぐる国内政治家の近年の言動に警鐘を鳴らした。その中で使った分析用語の一つが「反知性主義」だ。・・・
どう定義しているのか。「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じこもる姿勢だ。とりわけ問題になるのは、その物語を使う者がときに「他者へ何らかの行動を強要する」からだという。・・・
フランス現代思想研究者の内田樹氏も昨年12月、
反知性主義が「日本社会を覆い尽くしている」とツイッターに書いた。・・・
同じ月、米国の歴史学者ホーフスタッターの著書『アメリカの反知性主義』の書評をネットの「書評空間」に寄稿したのが、社会学者の竹内洋氏(関西大学東京センター長)だった。ホーフスタッターが同書を発表したのは半世紀前。邦訳されたのも10年前だ。なぜいま光を当てたのか。「反知性主義的な空気が台頭していると伝えたかった」と竹内氏は語る。反知性主義の特徴は「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとにたいする憤りと疑惑」であると同書は規定する。・・・
同じ「反知性主義」に警鐘を鳴らしても、佐藤・内田・竹内氏の主張は力点が違う。
だが佐藤氏は、3人には共有されている価値があると語る。「自由です」
反知性主義に対抗する連帯の最後の足場になる価値だろうとも言う。「誰かが自分に都合の良い物語を抱くこと自体は認めるが、それを他者に強要しようする行為には反対する。つまり、リベラリズムです」
(以上、引用終了)
私の感想は次の二点。
・「反知性主義=保守派」とどうして言えるの?
・「戦後民主主義」、就中、「脱原発論」こそ間違いなく「反知性主義」ではないかい?
いつから、そして、どんな根拠に基づいて、ナショナリズム批判的な立場なりリベラル派の主張が「知性的」で、ナショナリズムを称揚する立場や保守主義の立場が「反知性主義」になったのでしょうかね。もちろん、佐藤・内田・竹内氏はそうとまでは言っていないけれど、朝日新聞の記者の手を潜ると自動的「反知性主義=保守派」という構図になるように感じるのは私の気のせいでしょうか。いずれにせよ、このようなレッテル貼りはあまり生産的ではないように思います。
而して、「自分に都合の良い物語を抱き、それを他者に強要しようする行為」というのは、首相の靖国神社参拝にせよ、歴史認識の見直しにせよ、憲法改正にせよ、朝日新聞に代表される戦後民主主義を信奉するリベラル派の行動パターンそのものでしょう(★)。
就中、科学的根拠の乏しい無意味な「低線量積年平準放射線被曝の上限基準」を死守して、いまだに多くの福島の原発事故避難者を悩ませ、毎月毎月30人前後の「原発関連死者」を増やし、あろうことか、いまだに風評被害を引き起こしている脱原発論の論者は--単なるレッテル貼りではなく--間違いなく「反知性主義」の徒であろう。と、そう私は考えます。
あれから3年。3月11日のこの日。
最後の「脱原発論=反知性主義」規定は、
冗談抜きにかなりの覚悟をもって記しておきます。
東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。
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それらの3人については内田教授についてはどちらかと言うと賛成しますが、佐藤氏については全く認めません。今1人については知りません(貴方も3人は力点が違うと指摘なさっています。)。
いつ自由主義派(リベラリスト)が知性主義やとなったのかとの問いは明治時代より常に日本はそうであり、今更に驚くには中らないのでやや白けますが、朝日新聞を除く全ての全国紙はそのような言わば勘違いをし続けている自由主義のメディアであり、その点は騙されないようにするべきでしょう。朝日新聞にも「自分に都合の良い物語を抱き、それを他者に強要しようする行為」の如き記事は時にありますが概ね何でもある基本的に保守主義の新聞であり、「朝日新聞に代表される戦後民主主義を信奉するリベラル派」と言うのは一面的な見方です。
そもそも、自分に都合の良い物語を抱くことは否定されるべきものである筈なのに、佐藤氏などは「自分に都合の良い物語を抱き、それを他者に強要しようする行為」と言い、後半だけを否定するのは全く訳が分かりません。
知性主義と言うものを価値のあるものと思うから朝日新聞の社説などにも侮辱されているかのように思うのではないでしょうか?
そんなことはない、我々が知性主義なのだと批判することに意味があるとは思えません。
脱原発とは単に電気の製造の方法が一つなくなるだけのことなのでそのためには「なくせ」の一言だけを以て済みます。そこに知性が要ると言うのが全く理解できません。
自由主義派は脱原発が頓挫すると読み(私は五分五分であると思うし客観的に見てもそうでありましょうが)、原発論争の負け組を相手に一儲けをする準備を始めるためにそのように知性主義や反知性主義がどうのなどとの論議をしているとしか見えません。
脱原発のためには電気の製造の方法が一つなくなるだけなので頭数さえ多数になれば良い訳であり、科学的根拠やら思想談議やらは全く要らないことです。結論が同じであるからとばかりにそのような下らない論議に付き合う積りは全くありません。
尚、私のブログやウェブサイトも宜しければ閲覧頂けると幸いです。