
さる6月4日最高裁は「「日本人たる父」の子」に関して現行の国籍法が定める婚姻要件を違憲と判断し、法務省はこの最高判決を受けて国籍法の改正を進めています(下記URL参照)。このイシューに関して、結論から言えば私は、
(1)判決は法律論としては(残念ながら)妥当であり、婚姻要件の除外が惹起するであろう偽装認知等の横行に対しては他の手段で対処すべきである。
(2)法務省-国会が国籍法の当該条項(3条1項+偽装認知に対する罰則の導入)の手当てのみで最高裁判決に対応することは拙速と言うべきであり、帰化を含む国籍付与制度全体の見直しが必要だ(よって、その国籍付与制度全体の再構築が終るまでの間は本件の如きケースは個別に訴訟で解決すべきであった)。
(3)この問題の淵泉は、グローバル化の進行にともない日本社会において国民の概念と国民の実相とのギャップが社会秩序を維持する上での「許容値」を超えつつあることかもしれない、と考えています。以下、敷衍します。
・最高裁国籍法違憲判決(2008年6月4日)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=36416&hanreiKbn=01
・国籍法から婚姻要件を除外…改正案骨子固まる(読売新聞:2008年8月17日)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080817-OYT1T00080.htm?from=rss&ref=newsrss
■最高裁判決に対する危惧
この最高裁判決には、「父の認知だけで日本国籍が付与されるのならば日本国籍目当ての偽装認知が続出する。これは、日本の<人的国境線>を無防備にするものだ。よって、この判決に従い国籍法を改正するのなら、偽装認知に対する罰則の導入と父子のDNA鑑定を必須の要件にすべきだ」等々の批判が出されています。
他方、(人身売買を疑われ入国管理当局の審査が逆に慎重になることもままある(笑)「国際養子縁組→簡易帰化」(国籍法8条2項)とは異なり)、「「日本人たる父」の子」の簡易帰化の手続きは一般の帰化に比べ数段敷居が低いのだから(国籍法8条1項)、国籍法3条1項の「準正」制度(婚姻関係にない父と母から生まれた子に嫡出子の身分を付与すること)を維持したとしても、当該の子の日本国籍取得の道が全く閉ざされるわけではない。これらを鑑みるに、(イ)婚姻関係を国籍付与の要件にすることに合理的な理由が存在し、(ロ)その合理的な理由が法の下の平等の制限に比して優先されるものならば、国籍法が定める「準正」制度を維持することも現行憲法からも許されるかもしれません。以下、関連条項の引用。
国籍法2条1号
子は、次の場合には、日本国民とする。
一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。
国籍法3条1項
父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未満のもの(日本国民であつた者を除く。)は、認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であつた場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。
■認知と国籍-親子関係と国籍の付与
親子関係の基盤は生殖の事実であり、他方、国籍の付与に関して所謂属人主義を原則とする我が国やドイツにおいて国籍は親子関係や婚姻関係と密接に関連しています。けれども、極論すれば、親子関係や国籍は法的な関係(=法規範によって意味づけられた個人間-個人と国家間の関係)であってそれは生物学的な関係とは位相を異にするものです。
例えば、養育費や遺産を巡る親子関係不存在確認訴訟においてはDNA鑑定等の科学的な事実の究明がなされる場合もあるものの、基本的に父子関係は父母の婚姻もしくは父親の認知という法的に意味のある事実に基づき確定される。つまり、子の出生の後に父親が認知した、かつ、婚姻関係にない非日本人の母と日本人の父の間に授かった子に日本国籍を付与するかどうかに関してDNA鑑定を、原則、裁判所も法務大臣も要求できず、あるいは、子と父母の側がDNA鑑定結果を任意に提出したとしても当該の国籍付与の是非に基本的には影響しないのは(DNA鑑定の技術的な信頼性やコストの問題ではなく)、子や父母のプライバシーの保護に加えて親子関係が法的な関係であることから導かれると思います(尚、判例は「母子の関係は分娩という事実により明らかだから、母子関係の確定のために母親の認知は不要である」としていますが、これも分娩という生物学的な事実に身分関係という法的な意味が付与されているものと解するべきでしょう)。
煎じ詰めれば、「「日本人たる父」の子」に日本国籍を付与することの是非は、当該の子に日本国籍を付与する要件を「婚姻+認知」とするか、あるいは、「認知」だけで足りるとするのかに収束する。また、当然ながら当該の子は現在の国籍の如何にかかわらず(当該の父と母は婚姻関係にないのだからその子は非嫡出子ではあるものの)父の認知により「「日本国民」の子」である。つまり、父の認知により父子間には相続関係と扶養関係、子の不法行為に関する管理責任を負う損害賠償責任が生じている。畢竟、認知もそれなりに重たい行為なのです。
而して、(本来、法的な親子関係の形成のための制度である)認知に国籍取得に関しても法的効果を発生させるべきとする最高裁判決の論理は、(契約自由の原則-私的自治の原則と通底する)「法律関係の変動と確定は原則的には個人の意思にのみ起因する」という近代法のパラダイムとも親和性が高く(よって、それは「父の認知に虚偽はないはずだ」とする世間知らずの裁判官が唱えた一種の性善説ではなくて、ある意味、近代法を貫く自己責任の原則のより厳格な適用とさえ言えるかもしれません。)、かつ、「婚姻+認知」を要件とした場合には現行の国籍法2条1号との整合性も疑わしい上に、父と母の権利義務に性差だけでは説明のつかない不均衡をもたらすがゆえに法律論としては否定しづらいものなのです。
加えて、現行の国籍法においても「偽装婚姻+偽装認知」を行うのであれば日本国籍を詐取することは可能である。実際、違法な国籍取得を仲介するその筋の国際的ブローカーから幾ばくかの「戸籍汚し賃」を得て偽装結婚に手を染めた日本人は現在でも稀ではありません。要は、当該の最高裁判決によって「偽装認知」が続出するとしても、それは現行法の不備を劇的に悪化させるものとまでは言えない。
これらを鑑みるとき、私は日本人たる父とその子にのみ不利益を背負わせる国籍法の規定は男女平等の価値に道を譲らせるほどの合理性はない、而して、偽装認知等の弊害に対処するためには偽装認知の罰則導入等々の他の手段で対応可能であり、属人主義的な国籍付与の原則規定(国籍法2条及び3条)が現在そのような罰則規定とセットになっていないからといって法の不備と欠缺を理由に原告(上告人)の救済を拒否することは許されない。畢竟、婚姻と親子関係、まして、婚姻と国籍付与に1対1の論理必然の法的な関係を見出すことは難しく、他方、平等の価値と日本の<人的国境>の保持の価値を巡る比較考量からも当該の最高裁判決は法律論としては妥当であろう。私はそう思います。
■国民と国籍-国際化と八紘一宇
最高裁判決は法律論としては妥当であり、偽装認知に対しては国籍付与の原則的な規定ではなく、取締規定の導入等(当然、取締規定が適用される際にはDNA鑑定等の科学的事実も訴訟の場で取り上げられることになるでしょうが、そのような事後的な取締の規定)で対処すべきでしょう。他方、私は、グローバル化の進行著しい現在のこの社会における国籍付与を巡る問題については、国籍法3条1項の改正と偽装認知の処罰規定導入等の言わば「小手先の改革」では不十分とも考えています。
6月4日の最高裁判決によって日本国籍を手にすることになり、「これで夢だった警察官になれる」と笑顔で語った当該の「「日本人たる父」の子」である女の子の素敵な表情。これをTVニュースで見て、日本国籍にプライドを感じる彼女に感動した保守改革派の方は少なくないと思います。けれども、国粋馬鹿右翼ならずとも、その同じTVニュースを見て一抹の不安をも多くの保守改革派は感じられたのではないか。
蓋し、その不安の淵泉は、非日本人と日本人の間の子を称する(本当は父親が不明な)日本国籍保有者が際限なく増えることに対する危惧でしょう。畢竟、その不安の正体は、日本社会に自生的な(美意識、人と人との関係のあり方を規律する常識やマナーを含む)価値観や世界観が社会の中心から追いやられ変容していく不愉快な予感ではないでしょうか。けれども、経済のグローバル化は最早不可避。人的移動をその不可分の内容とする国際化の進行は不可逆であり、かつ、それが価値観や世界観を共有していない人々との共生に起因する不愉快さと表裏一体のものである限り、我々日本人は国際化を拒否することではなく、日本の自生的-伝統的な価値観や世界観を国際化に拮抗し得るものに再構築していくしか道はないと思います。
而して、グローバル化の時代に拮抗すべく日本は、(海外生活の長い日本人の帰国子女を含めた)多様な価値観と世界観を背負う人々を社会統合可能なイデオロギー(=政治的神話)を再構築しなければならない。蓋し、それは多様な文化を背負った人々を<帰化人>として受け入れてきた日本の伝統的な異文化対応のストラテジーの強化復活に他ならず、畢竟、再構築されるべき政治的神話の核心は、この社会の個々のメンバーがその多様なエスニシティーにかかわらず、皇室を敬愛する同胞として平等にこの国のために貢献できる国家ということ、すなわち、<八紘一宇>のイデオロギーであろうと私は考えています。
日本社会統合のための政治的神話としての八紘一宇の再生。すなわち、国民概念の再構築が現下の日本で求められているという私の認識からは今回の国籍法違憲判決が提起したものは国籍法3条1項の不備や偽装認知に対する罰則規定の欠缺などで収まるものではない。畢竟、「準正」「認知」「帰化」という国籍付与の制度だけではなく(否、日本人の両親から生まれた子に対しても)、日本国籍を保有している者、その保有を希望する者に対して、日本の文化と伝統、歴史と言語、法秩序と日本社会統合のための政治的神話を尊重することの大切さを<教育>すること、「準正」「認知」「帰化」を通した国籍取得に際してはそれを<強制>する制度の必要性がこの判決を通して明確になったのではないか。蓋し、近代法パラダイムの脱構築の提起です。
もちろん、思想良心の自由は尊重されるべきであり、誰も愛国心を持つことを強制されるべきではないし、そのような強制は土台不可能でしょう。けれども、「国を愛することがこの社会のスタンダードな態度であること」を教えることは憲法に違反することではなく、かつ、物理的にも可能である。畢竟、日本を愛する態度を持つことがこの社会のスタンダードであるという認識を受容した人間が「日本人」なのであって、実は、DNAやエスニシティーと日本人であることは、『記紀』の描く古来別の位相のものだったのではないか。ならば、グローバル化の時代はある意味、天照大神-神武天皇以来、この社会を統合してきた八紘一宇のイデオロギーの再生が求められている時代、言葉の正確な意味での「保守の時代」なのかもしれない。私はそう考えています。