英語と書評 de 海馬之玄関

KABU家のブログです
*コメントレスは当分ブログ友以外
原則免除にさせてください。

ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:岡上地区-完全包囲編(九)

2009年10月04日 11時46分57秒 | 徒然日記


「岡上地区完全包囲」の散策も最終回です。而して、この散策を貫く問題意識、「なぜ、岡上地区は飛び地になったのか」を解明する手掛かりを「今」我々は目にしているのかもしれません。





再度説明します。上の画像は、「壱」で最初に麻生川を越えた「橋=白根橋」から400メートルの所にある「仲村橋:新中野橋」。

だから、これが何か?

はい。

江戸後期、文化・文政・天保年間(1801年~1843年)に津久井道が整備されるのと同時に、柿生・岡上の(当時極めて珍しい天然の甘柿!)「禅寺丸柿」と柿生・岡上の「黒川炭」は江戸庶民のブランドとなり、そのロジスティクスに携わる人口も増えた。逆に言えば、「禅寺丸柿」と「黒川炭」がブランド消費財になり物流の必要性が生じたからこそ津久井道システム、そして、鶴川街道システムが成立したとも言える。なぜならば、システム成立以前から「道」自体は存在したのですから。

而して、江戸後期から明治初年にかけて、「壱」で歩いた、麻生川を越える本線経路と旧津久井道が再合流する地点(麻生病院横、柿生病院あたり)には、「竹の花」という集落があり物資運搬に携わる人々を顧客とした飲食店や旅館が賑わっていた。けれども、「開国→明治維新」に伴い、物資の流れは消費地・江戸ではなく貿易港・横浜に向かうようになる。それにともない津久井道と「竹の花」の集落は寂れ、替わって、横浜に通じる麻生通り沿いの仲村橋あたり(実に、「竹の花」地区から僅か四五百メートルしか離れていません!)「橋場」が活況を呈するようになったとのことなのです。ただ、「驕れる者は久しからず」。明治41年(1808年)現在のJR横浜線の前身「横浜鉄道」の開通、更に、昭和2年(1927年)の小田急線の開通によって、昭和金融恐慌(1927年)の中「橋場」もその歴史的役割を終えたのです。
    





而して、上の画像は黒川炭の問屋跡、柿生駅前の「藤屋ビル」。かって、柿生・岡上の<国際競争力>と津久井道システムの優位性の象徴だった「藤屋」さんの跡地です。尚、()ここに記した<国際競争力>の「国際」の概念が前提とする「他の諸国」には、柿生・岡上の両村を除く都筑郡10ヵ村が含まれていること、また、()津久井道システムは、多摩川の渡し場である登戸宿を始め生田村・高石村といった旧橘樹郡内の地域をそのシステムの一部として抱えていたこと。そして、()津久井道システムは、柿生・岡上の後背地たる黒川エリアや鶴川エリアからの物資の集積を担った鶴川街道システムと連動したネットワークであったことは言うまでもないと思います。





蓋し、「なぜ、岡上地区は飛び地になったのか」の解答は、


「禅寺丸柿」と「黒川炭」のブランド化と津久井道システムと鶴川街道システムの成立によって、明治初期には、旧柿生村エリアとともに岡上地区は、他の都筑郡の10ヵ村とは異なる生産力と生産関係を保有する生態学的社会環境に「遷移」していたからだ。
   


と、そう私は考えています。而して、

もし、明治26年(1893年)の「三多摩地区」の東京編入という事態がなければ、今の町田市、あるいは、旧鶴川村全体とは言わないけれど、旧鶴川村の中で岡上地区、また、現在の新百合エリアと生態学的社会環境が近かったと思われる、能ヶ谷・三輪・真光寺地区は、旧「柿生村+岡上村」連合と歩調を併せて昭和14年(1939年)の「川崎市編入 Vs 横浜市編入」に際しては、共に、川崎市編入という行動を選択したのではないか。仮定法過去完了的の事態ですが、私は、満更そう思わないではないです。

畢竟、「飛び地=岡上」の基底には「禅寺丸柿」があった。





尚、津久井道衰退の理由を(江戸後期の化政・天保年間以降、相武両国の農村で生産される代表的な商品作物たる)「絹」の輸送先が江戸から横浜に変わったことに求める旧説を私は採用しません。

「開国→明治維新」に伴い、生糸の輸送ルートが、「相模・武蔵→八王子→江戸または京都」から「関東・甲信越全域→八王子→横浜」に変わり、所謂、町田街道や浜街道が「絹の道」と呼ばれる活況を呈したことは事実であり、また、幕末維新を挟んで津久井道における多摩川の渡し場であった登戸宿の凋落は事実でしょうが、それらと「竹の花」の衰微を含む津久井道の衰退を結びつけるのは論理と実証の飛躍と考えます。

津久井道の衰退の理由としては、むしろ、江戸幕府の崩壊によって、江戸市中での「黒川炭」や「禅寺丸柿」の需要が減ったからという仮説の方が遥かに中庸を得ているのではないでしょうか。いずれにせよ、この論点に関しては、「江戸~津久井」間を結ぶ「津久井道」なるものの不存在とともに、生糸の輸送ルートとしての津久井道の機能の不存在を見事に検証された、三輪修三氏の「津久井往還私考」『近世神奈川の地域的展開』(1986年)所収。後に「謂ゆる「津久井往還」について」として三輪修三『東海道川崎宿とその周辺』(1995年)に収録)を私は妥当と解しています。蓋し、過去記事「五月台~栗平~平尾~古沢編(下)」の記述を自家転記して敷衍すれば以下の通り、補註も併せて記しておきます。


津久井道は、世田谷の三軒茶屋から登戸を経由して、生田・柿生・鶴川に向かい、鶴川からは(調布-黒川-鶴川-町田を結ぶ「鶴川街道」とは異なり)相模原市の淵野辺、そして、橋本から津久井地方に至りそこから甲州街道に合流するという街道だったということです。

ただ、三輪修三『東海道川崎宿とその周辺』(文献出版・1995年)等を見ても、津久井道は、全体として見た場合、「江戸-津久井」を結ぶ一本の街道というよりも、多摩川の登戸の渡しを中継点とした複数の道のネットワークと考えた方が妥当だ(要は、道はつながっているからこそ「道」であり、つながっていないのなら「広場」や「袋小路」と言う! 而して、津久井道はもちろん、「江戸-津久井」の間つながっているけれど、三軒茶屋やその先の江戸城赤坂御門から津久井地方までを通して頻繁に人が往来したわけでも物資が運ばれたわけでもない)という説が現在では有力です。

そして、昔の麻生区の人々にとって、この街道が大きな意味を持ってきたのは、黒川村の炭と柿生村の柿が「大消費地=江戸」でも抜群の人気を誇るブランド商品になった江戸中期以降であり、しかも、当時の新百合ヶ丘住民(?)にとって津久井道は、あくまでも江戸と新百合を結ぶ「江戸道」や「新百合道」でしかなく「津久井道」なるものではなかった、と。そう私は考えています。
 
   

■【補註】柿生・岡上地区からの物資輸送の実績
『津久井街道-登戸・生田・柿生をたずねて』(川崎市立稲田図書館編・1971年)によれば、資料出典は不明ながら、「明治二十年【1887年】の柿生・岡上村の産物と、それがどこに送られたかをみてください」(p.178)として、以下の数値が挙げられています(同書pp.178-179)

米:1304石-八王子へ
大麦:635石-東京・八王子へ
小麦:328石-東京へ
大豆:170石-東京へ
酒:105石-近くの村へ
柿:2565駄-東京へ
炭:19905貫-東京へ
生糸:175貫-横浜へ、黒川村は八王子へ
まゆ:50石
茶:25貫-横浜へ
栗:30石-東京へ

以上、引用終了。

これを見る限り(価格は不明ながら)ボリュームに関しては、明治20年においても、やはり、柿と炭が群を抜いていることがわかります。

柿の単位「駄」は荷物の個数であり柿の容積も重量も不明ですが、ここで使われている容積と重量の単位、「石」と「貫」は、それぞれ、180.39リットルと3.75キログラムであろうと思います。

つまり、炭は74トン、生糸は0.656トン。もちろん、炭と生糸の価格を重さで比べても無意味ですが、少なくとも、物流にかかる労力は炭が生糸を遥かに上回ることは、この「旧説=東京から横浜への絹の輸送先変更が津久井道衰退の原因説」に立つ著書の記述からも明らかではないかと思います。而して、これに2565駄の柿を加えれば旧説が成り立つことは難しいのではないでしょうか。

尚、注意すべきは、黒川村の生糸は八王子へ運ばれていたという記述。この輸送ルートは鶴川街道そのものか鶴川街道を経由して鶴川から津久井道を利用したとしか考えられないのですが、このことは、「鶴川街道システム」と「津久井道システム」が連動したネットワークであったことの傍証になる。と、そう私は考えています。【補註終了】






畢竟、津久井道システムの成立に象徴される生産力と生産関係の変動、比喩的に言えば<資本論的要因>と、ある意味、シュンペーター的な「禅寺丸柿」および「黒川炭」というブランド開発の契機、すなわち、生態学的社会環境の要因。他方、古代以来の都筑郡と三多摩地区の差異を踏まえた、三多摩地区のみの「神奈川県→東京府」所属変更という「文化的-政治的」な要因。これら、経済・文化・政治の諸要因が相互に作用して「飛び地・岡上」は成立したのではないでしょうか。

人間を作るのは歴史であるが、歴史を作るのは人間である。

而して、「飛び地・岡上」の成立は、例えば、史的唯物論風に歴史法則に従い自動的にそうなったという事態ではなく、岡上地区とそれを包囲する周辺地域に住んでいた人々の、生態学的社会環境に対する目的合理的な<応戦>の帰結でもある。蓋し、『ふるさとは語る』(柿生郷土誌刊行会・1989年)に収録されているある回顧記事を目にしたとき一層その感を強くしました。すなわち、「岡上分教場の思い出」の中で明治40年(1907年)生まれの金子キミさんはこう綴っておられます。


岡上分教場は岡上集落の中央にありました。(中略)五年生になると本校に通いました【柿生駅近隣の柿生小学校です!】。稲荷山の下の丸太橋がよくゆれるのでこわかったことが印象に残っています【我々が最初に麻生川を越えた白根橋です!】。ときどき通学の途中、三輪の子どもと喧嘩をすることがありました。男の子は、石や土を投げ合うのですが、女の子は、遠まわりして逃げるようにしていました。(後略)
    


自己同一性を作るのは組織であるが、組織を作るのは自己同一性である。

これについては、更に、自己同一性を巡る人為と自然に関する次の認識が示唆に富むと思います。

民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は、同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】    









と、一応私なりには今回の散策に終始付き纏ってきた疑問に答えることができました。気持ちもすっきり。意気揚々とゴール地点の小田急柿生駅に到着。柿生駅南口改札傍、柿生が誇る和菓子・大平屋さんの今月の「お薦め品」もいつも通り美味しそう。ならば、これまた柿生散策のお約束、喫茶フクダに寄らねば。




ということで、今回の散策後の昼食は、柿生に来ればほぼこれを頼んでいる喫茶フクダのスパゲッティセット、800円。この昔の小学校の給食のようなナポリタンの風情が堪りません。




と、柿生駅を乗り降りする新百合コミュニティーメンバーを眺めつつ、今回の「岡上地区完全包囲」も終了です。お疲れ様でした。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。