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ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:岡上地区-完全包囲編(七)

2009年10月04日 11時37分45秒 | 徒然日記


脇道散策の後段に向かいます。我々が「現在」いるところは町田市三輪町、麻生通りに接する新三輪橋と鶴川女子短期大学とのほぼ中間点。あの「TBS緑山スタジオまであと2キロ」の私設道路標識のある地点です。岡上神社からここに至った身体の向きを基準にして、今度は「右」の方に進む。目指すは、旧都筑郡中里村の里山です。

岡上村と中里村は隣接していたわけではありませんが、岡上村のお隣というか近世期には「奈良岡上」として、ある意味、一体のコミュニティーと意識されていた節もある奈良村(田奈村)と中里村は地続きであり、昭和14年(1939年)の横浜市編入に際しては、柿生村・岡上村を除く都筑郡の他の8ヵ村とともに田奈村(奈良村)と中里村は行動を共にしたのです。

ならば、岡上地区と旧中里村エリアの風景に旧両村が「川崎市併合 Vs 横浜市併合」に際して去就を異にした原因が発見できる、鴨。これが「脇道散策A」の獲得目標です。





【地図画像】
・岡上地区包囲Map

 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap13a.jpg









脇道散策の分岐点近く、妙福寺の山門。夏の陽射しを避ける格好の休憩所です。下は、妙福寺山門から徒歩数分の所にある分かれ道。ここを左に進みます。ちなみに右に進めば「柿の実学園 ゆめのもりようちえん」があります。里山の中の幼稚園、素敵ですよ。















分かれ道から35秒足らずで、時空はいきなり里山モードに変わります。時空の境界では彼岸花が咲き競っていました。更に数分。谷戸田を挟んだ里山に「柿の実 夢の森」の標識を発見。二枚目の画像は、その谷戸の風情です。





経路は幾つかの谷戸と尾根道を越えて次の谷戸と次の尾根道に続いて行く。而して、これこそ高度成長期・バブル期に開発される前の多摩丘陵の原風景なの、鴨。実際、我々の「現在地」はまだ町田市三輪町。つまり、岡上地区の東隣、町田市有数の「新興高級住宅街=三輪緑山地区」も25年~30年前まではこのような生態環境だったのでしょうから。








ところで、この記事の中でもすでに何度か「谷戸:yato」「里山:satoyama」という用語を使ってきましたが、皆さんはそれらの意味をご存知でしょうか。念のため確認しておきましょう。


■谷戸(やと)
谷戸とは、台地や丘陵地が湧水等の浸食によって複雑に刻み込まれた地形をいいます。丘陵地の谷あいの低地のこと。三方を高さ数十メートルの丘陵に囲まれた小川の源流域で、幅は高々数百メートル程度、奥行きはせいぜい数キロです。

本来の鶴見川本川や支川の源流域は谷戸が発達していて、雑木林からわき出た遊水と清流が特徴です。この清流を集めて古くから谷戸の水田(谷戸田)が行われてきました。このような雑木林、清流、水田のある谷戸の環境は、多様な生物が生息する地域です。地域によっては「谷津」「棚田」とも呼ばれています。

【出典:みんなで作る土木用語辞典web版】
   




■里山(さとやま)
人里近くの林をさす事が多く「山」といっても地形の高低差のないところも含まれる。又、多くは隣接して、畑や田んぼ、谷戸田、湿地等多様な環境がひとまとめになっている所が多い。

里山の林は、多くは雑木林とも呼ばれている。雑木林とは、クヌギ、コナラ、ヤマザクラ、イヌシデ erc の落葉樹が構成する林である。40~50年前までは、多くの里山の恵みが人々の生活を潤してくれる場でもあった。

【出典:自然観察指導員・高橋英「今、里山を考える」】
    


里山の説明は「H21里地・里山カフェ塾-多摩丘陵 麻生の自然学」 (主催:里山フォーラム in 麻生)からいただいたレジュメによるものですが、著者の高橋先生は「里山」の歴史と将来についても簡潔に整理されています。それも紹介しておきましょう。


■雑木林はどのようにして出来たか
大昔の関東平野-スダジイ、シラカシを中心とした原生林で常緑照葉樹林で覆われていた
   ↓
人口の増加-食糧を求めて畑作・稲作、開墾の奨励 
   ↓
常緑照葉樹林の伐採
   ↓
陽樹林の誕生-各地に雑木林が誕生

■雑木林の利用
・木材は薪や炭
・下草は牛馬の餌、堆肥
・落葉は堆肥
・山野恵み、アケビ・ワラビ・ウド etc
    
■里山の保存と保全
・保存した場合
 雑木林は遷移する。極相林へ
 暗い林へ-アカラシ、シラカシ、スダジイ

・保全した場合
 人間による管理が必要となる
 
 保全方法
 ①15~20年に一度、樹木の伐採→萌芽更新
 ②3~5年毎に下草狩りをする
 ③落葉かきをする
   


誰かの文章と違い大変わかりやすいのですが、(もともと、口頭での補足説明を前提としたセミナー用のレジュメということもあり)幾つか「専門用語」も混在している。蛇足になるかもしれませんが私なりに敷衍しておきます。蓋し、

日本の生態環境において山林は、ほっておけば、落葉することがなく1年中葉を茂らせる「常緑照葉樹林」のみが生い茂る森林になる。これを「常緑照葉樹の極相林」と言います。而して、「常緑照葉樹の極相林」は森林の中に日光があまり届かない「暗い林」(逆に、木々の下には灌木や草は生育できず、人間がそこを移動することも比較的容易と言えば容易な「クールな林」)。これに対して、「雑木林」「里山」は、人間が意識的に「常緑照葉樹」をある程度伐採して、替わりに冬には落葉するクヌギ、コナラ、ヤマザクラ、イヌシデ等々の木々を植えることでできた、日光が射し込む「陽樹林=明るい林」なのです。

ポイントは、(a)人間のこの意識的な「里山≒雑木林」形成活動は、最初に1回行なえば済むというものではなく、短中長期に亘って様々なケアをして始めて達成・維持できるということ。そして、(b)実は、一度開発によって更地・荒地になった森林は(というか、最早、木々は残っていないので、単なる「丘」でしょうか。)、ほっておいても森林に戻るということはなく、よって、「常緑照葉樹の極相林」でも「荒れた丘」でもない「陽樹林=雑木林の里山」が日本全国、就中、多摩丘陵の谷戸に広がっていたということは、その地域で意識的な人間の活動が継続されてきたということ。

また、(c)そのような意識的活動を人間が行なうについては「利得=里山の恵み」が現実に存在しただろうこと(木材・下草・落葉・山菜の利用だけではなく、水害や山崩れを防ぐ「緑の貯水タンク」として、また、水の浄化・ミネラル補給の装置等々としての利得が存在しただろうこと)。而して、(d)これらのことは、日本全国、就中、多摩丘陵に「里山=雑木林」が広がるのはそう大昔のことではなく、実は、(そうあの「暴れん坊将軍の治世」下の)享保年間から大きくは遡らないことを想起すれば、歴史的にも確認される認識ではないか。と、そう私は考えています。予備知識充填完了。







予備知識を充填している内に町田市三輪町と青葉区寺家町との境に着きました。青葉区「ふるさとの森」地区。その森の裾には日本体育大学の健志台キャンパス(鴨志田町)が隣接しており、また、ここは日本中の良い子の憧れ「こどもの国」の裏山に位置しています。ただ、あの脇道経路の分岐点からここまで直線距離は700メートル足らずなんですよ。

・寺家ふるさとの森
 http://www.city.yokohama.jp/me/kankyou/green/shiminnomori/shimin_jike.html

・日本体育大学
 http://www.nittai.ac.jp/



而して、

その、三輪町と寺家町の境界、町田市と青葉区の境界、
すなわち、かっての鶴川村と中里村の境界で我々が目にしたものは!

はい。

これまた、谷戸と里山でした。しかも、多摩丘陵でも最大級の谷戸と里山を残す麻生区黒川地区に匹敵する規模の谷戸と里山。Top画像がその全景。上の彼岸花はその谷戸田に彩りを添えていたものです。可憐。






早い田圃ではもう稲刈りが終っていましたが、あるいは享保年間(1716年~1735年)からそう変ることなく続いているかもしれないその田園風景を見ながら、この光景が現在の岡上地区から三輪町・寺家町、そして、なにより旧柿生村の領域たる現在の新百合ヶ丘エリア一体にかって広がっていた事態に思いを馳せました。

そして、「飛び地=岡上地区」の成立はその地形的・地勢的な条件とはあまり関係がないようだ。と、このことも確かめられた気がしました。




というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。


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