英語と書評 de 海馬之玄関

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ローマ法王曰く、表現の自由は「基本的人権」ではない

2015年01月25日 08時45分10秒 | 雑記帳



ローマ法王が、先日、「表現の自由にも限度があり、他者の信仰への侮辱は許されない」と語られたということ。この法王のご発言は至極もっともなことでしょう。けれど、この発言が日本の報道機関の記事に化けると、何かが微妙に変わる。そう、憲法理論の世界の潮流とかけ離れた理解がそこに垣間見える。微妙な言葉使いの違いにその乖離を感じる。

>表現の自由は基本的権利
>表現の自由は基本的人権


あのー、「基本的人権」どころか「人権」(ひゅーまんらぃとぉー)というのは、原則、英米では国際法用語であり国内法の用語ではありません。その事情は、あの、フランスやドイツやイタリアでも基本同じ。だから、ローマ法王も「報道の自由は権利(right)」であるとおっしゃっているのに・・・。

それが、
日本の報道各社の記事なると「権利」に尾ひれがつくつく(笑)
あ、それ、前びれか(笑)

これは、しかし、用語法だけの問題ではない。
くどいですが、それは日本と世界との憲法理論の乖離の問題なの、鴨。

実際、

>基本的権利
>基本的人権

て、どんな意味なんでしょうかね。
というか、どんな意味で日本の報道各社はこの用語を用いている
のでしょうかね。

>国家権力によって侵害されるべきでない自由
>国の立法によっても制約されてはならない自由
>自由の範囲-自由には自ずと制約があるということ

これらはいいでしょう。問題はない。
しかし、問題は、

>自由の普遍性-いつでもどこでも妥当する形式と内容

この普遍的な「権利=人権」の理解が、
日本の報道を読むと漠然とですが感じられる。

権利や自由は形式的にも--つまり、法の効力の点でも--国法に優り、また、その内容は人類社会に普遍的である、と。而して、権利や自由、あるいは、民主主義の制約は諸権利間の権利内在的な制約によって--つまり、<権利の世界>での押しくら饅頭的均衡によって--定まると。そういう理解を漠然と感じるのです。


一体全体、しかし、現実には誰がどんな基準で、
許される自由と許されない自由の範囲の線引きを
すればよいというのでしょうか?

司法審査制のない国では議会または行政権が--例えば、「表現の自由」の意味内容を有権解釈して--行うしかない。そして、この経緯は司法審査制のある国でも--テロリストから国民を守る、あるいは、風評被害から社会秩序の安寧を守るという公益に関しては--同様ですから。而して、この自由が制約される経緯と実相を見てもまだ、それは「国民の諸権利間の内在的な制約の結果なんです」と言うとしたら、最早、その「内在的制約」なるものは論理的には<巨大な空洞>でしかないでしょう。


詳細は下記拙稿をご参照いただきたいのですけれど、
他者の権利との(内在的な)調整においても、
権利が無制約ではないことは当然として、
内容面も含めた意味での普遍的人権など存在しない。

ならば、すなわち、時代が変われば、そして、
国が違えば「表現の自由の内容」は変わるということ。



・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

・憲法96条--改正条項--の改正は
立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5


・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/m/201408

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0364792934f8f8608892e7e75e42bc10


・保守派のための「立憲主義」の要点整理
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3




と、
朝日新聞には嘘が書いてある。

かもしれないので(笑)、
まず他紙で事情の確認。
尚、太字強調はKABUによるもの。


ローマ法王:「表現の自由にも限度」他者の信仰侮辱を戒め
イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した仏週刊紙「シャルリーエブド」が襲撃された事件について、アジア歴訪中のフランシスコ・ローマ法王は15日、テロを厳しく非難する一方、「他者の信仰を侮辱したり、もてあそんだりしてはならない」と述べ、「表現の自由」にも一定の限度があるとの考えを述べた。AP通信などが伝えた。

スリランカからフィリピンへ向かう機中で、同行記者団の取材に応じた法王は、事件について「神の名をかたって行われる悲惨な暴力は断じて正当化できない」と非難。表現の自由は基本的権利であるとした上で、信仰の自由と対立する場合には制限があると主張した。

法王は隣の側近にパンチをする仕草を示しながら、「私の良き友人である彼でも、もし私の母の悪口を言えば、パンチが飛んでくるのは明らかでしょう」とユーモアを交えながら説明。「宗教の悪口を言って喜んでいる人は、(私の母の悪口を言う人と)同じことをしている。それには限度がある」と話し、一方的に信仰心が侵害されることがないよう自制を求めた。

(毎日新聞・2015年01月16日






繰り返します。何が問題かというと、それは、
「表現の自由は基本的権利であるとした上で」の箇所なんです。
原文には「a right」と書いてあるだけだから。

そう、

Freedom of speech is a right and a duty
that must be displayed without offending.

(表現の自由は、法的や道徳的な規範の逸脱がない限り許される権利であり、
そのような諸制約に従わなければならないという意味で義務でもあるのです)

どこにも「基本的権利」などは出てこない。


そして、真打登場。朝日新聞になると流石です。
この箇所、堂々と「基本的人権」という言葉に化けているから。

吃驚!


ローマ法王「信仰の侮辱」戒める 仏新聞社襲撃
ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は15日、仏週刊新聞がイスラム過激派とみられる容疑者に襲撃された事件に関連して、宗教を侮辱するような表現の自由には「限界がある」と述べた。AP通信が伝えた。

法王は訪問先のフィリピンへ向かう機中で語った。表現の自由は基本的人権だとしながらも、もし同行者の一人が自分の母親をののしったら、「パンチがお見舞いされるだろう」と身ぶりをつけて説明。他人の宗教をばかにする人にも同じことが起きるとして、「他の人の信仰を侮辱してはならない」と戒めた。

(朝日新聞・2015年1月16日



ということで、

原文で確認しておきますね。

Pope says 'cannot insult' other people's religion
Pope Francis on Thursday condemned any killing in God's name, but also insisted there were limits to freedom of speech and said other people's religion could not be insulted or mocked. ・・・

"To kill in the name of God is an absurdity," the pope told reporters aboard a plane travelling from Sri Lanka to the Philippines.

But the 78-year-old pontiff also said "each religion has its dignity" and "there are limits"."You cannot provoke, you cannot insult other people's faith, you cannot mock it," the pontiff said.

"Freedom of speech is a right and a duty that must be displayed without offending."・・・

(AFP・15 January 2015

ローマ法王、他者の宗教を「侮辱することは許されない」と発言
法王フランシスコは木曜日【2015年1月15日】、どのような殺人も神の名のもとになされることを厳しく咎められた。そして、同時にローマ法王は、表現の自由には限界があると明言され、而して、他者が帰依している宗教を侮辱したり揶揄嘲笑することもまた許されないと述べられた。・・・

「神の名による殺人は不条理そのもでしょう」と、法王はスリランカからフイリッピンに向かう飛行機の機内でそう語られた。

他方、御年78歳のこの法王は「すべての宗教には尊厳が備わっている」そして「宗教を巡ってはある種の制約が存在する」とも指摘された。「すなわち、他者が帰依している宗教を挑発したり、侮辱したりするべきではなく、また、それを嘲ることも許されないのです」と述べられたのだ。

表現の自由は、法的や道徳的な規範の逸脱がない限り許される権利であり、そのような諸制約に従わなければならないという意味で義務でもあるのです」とも。

(以上、確認終わり)


蛇足で敷衍。

蓋し、ローマ法王がおっしゃる通り表現の自由には各国で法律の制約がついているという意味で、
無制約な「基本的人権」ではないだけでなく、土台、普遍的という意味でも
「基本的人権」ではない。畢竟、「基本的人権」なるもの自体が、最早、
憲法理論的には存在していないのです。

誇張抜きに、そのような普遍的な天賦人権の存在をいまだに
となえているのは世界の憲法学界の中でも
おおよそ日本だけではなかろうか。

ならば、このローマ法王の発言を取り上げた日本の報道記事。
そこに置かれた用語法は、日本の憲法理論の通説を踏まえた
ものだろうし、海外報道と日本の報道の差は、憲法理論の彼我の差の
反映なの、鴨。

そう私は思わないではありません。


で、

ひょっとしたら、
ひょっとしたら、


世界の「権利」や「歴史」を巡るイメージは、
それは、

国や宗教によって多様な--自己に自己の存在意義を供給する--<世界の物語>と<歴史の物語>の同時存在。各国の多様な歴史認識とともにそんな多様な世界観としての宗教を懐く人々が同じ<領土>やグローバル化した世界に暮らしているイメージ。

これは、例えば、あたかも、ある家の建っている敷地に時間を違えて建っていた複数の家々にまつわる複数の<幽霊>が、現在もその同じ敷地にそれぞれ独自に存在している世界、阿刀田高「家」(『恐怖同盟』(新潮文庫), pp.101-128)が描く表象とパラレルなの、鴨。

そして、それらの<物語群>を共存させる受け皿であろう社会思想としては、
保守主義が最も優れているかな(←最近、西野カナさんがお気に入り、鴨)。



・新ローマ法王は初の南米出身にして保守の中の保守派
 --人類史は間違いなく保守主義の時代だ!!
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11490069253.html





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