秋山寛行さんより標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
研究では、中山道の江戸から数え10番目の宿である本庄宿(現埼玉県本庄市)の本陣で書き残された休泊関連史料を素材にしています。江戸時代の後期から幕末期にかけた参勤交代一団に対する休泊利用獲得のありようを検討しました。簡潔にいえば本陣では、過去の大名家の休泊記録をまとめた「休泊由緒」を作成し、それを大名家との交渉に用いるなどして利用を勝ち取ろうとしたようです。
さて、論文をひととおり読み気になった主な点は次の2つです。
1つは、江戸時代ではまだ前半期にあたる元禄期の「宿割」の存在です。論文抜刷3頁に掲げている【史料三】では、元禄11年(1698)7月付の記録として、
……先年拙者御宿仕候御宿帳等持参仕、御宿割求馬様へ御目掛候処、尤ニ候へ共……
とあるのに対し、直後の論述では
……以前の宿泊記録である「御手帳」・「古帳」などを持参し、大名家への直接交渉を行っており……
と、史料中の「御宿割」が大名家(藩)のなかでいかなる役割を担う役人なのかを省略した説明文になっています。宿割をめぐっては先行研究に論及があるので、参考のうえ、ほかの史料でも検索を試みるのが望ましいと考えます。
2つめは、対象とした近世後期のなかで生じた変化との相関性です。参勤交代を含む公用通行をめぐっては、必ずしも「近世後期」でひと括りにできるものでなく、このなかで変化が生じたことがすでにわかっています。すなわち、江戸への参勤交代で本来ならば東海道を通行する西日本大名のあいだで中山道を選ぶ場合が増えてきたものの、それを問題視した幕府が東海道通行を促す通達を発しています。また、三大飢饉の1つで有名な18世紀後半の天明年間には、自然災害により、通行者が東海道から中山道へ迂回したり逆に回避したりの変化も生じています。このように、中山道の通行をめぐっては、近世後期のなかでも増加と低迷の時期区分が成り立つと思われます。では、本庄宿をはじめとする中山道の本陣の場合、増加期と低迷期それぞれでいかなる利用獲得の活動をしていたのか、今後の課題点として興味深いところです。