KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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このマラソン本がすごい!vol.4「オリンピック ヒーローたちの眠れない夜」

2008年08月09日 | このマラソン本がすごい!
「オリンピック ヒーローたちの眠れない夜」 佐瀬 稔 世界文化社 1996年

著者の佐瀬稔は、'60年のローマ大会から'72年のミュンヘン大会までは報知新聞の記者として、以後はフリーランスとして五輪の現地取材をしてきた記者である。プロローグでは、ローマ五輪のマラソンでアベベ・ビキラが優勝直後、報道陣出入り禁止の記者テントに忍び込み、単独会見を試みた時のことが描かれている。

そんな「五輪の語り部」である彼が語る、五輪ヒーローたちのエピソード集。

東京五輪、女子バレーの“鬼の”大松監督、ミュンヘン五輪、平泳ぎ100m金メダリストの田口信教、モントリオール五輪の男子体操日本代表。五輪の歴史に残る、日本人の金メダリストたちが、頂点に立つまでの過程は、日本の高度成長の道と重なるというのが、著者の指摘である。

「遅れてやってきて、西欧に追いつけ追い越せと必死に走り続けた日本という国は、いたるところでその種の叩かれ方をしてきた。」

「その種の叩かれ方」とは、日本人が開発したバラフライ泳法や潜水泳法が禁止泳法になっていったことである。日本人が頂点に立った競技で、日本人に不利になるようなルール改正が起こるのは今に始まったことではない。しかし、それでも、

「突出した創意工夫とたゆみない努力で技術革新に取り組む」ことが、日本の伝統だった。

この本を最初に読んだのは、歴史教科書の記述をめぐる論争が盛んな時期だった。僕は短絡的に、こうした五輪代表選手たちの物語をもっと、子供に読ませるべきではないかと思った。ベルリン五輪の前畑秀子や、西田&大江の「友情のメダル」の物語を僕は、小学校の図書館で読んだのだった。

モントリオール五輪以後、日本の男子体操は世界のトップの座を下りる。

「資源を持たぬ国、日本は、自分よりはるかに早くスタートした者に工夫と技術、そして激しい執着心で追いつき、追い越そうと攻撃している間は強いが、ひとたび守勢に立てばひどく弱い。」

マラソン関連では、宗兄弟率いる旭化成陸上部に密着した「快楽追及主義者」、中山竹通の「最高のレース('87福岡)」を描いた「はぐれ狼の孤影」、そしてバルセロナ五輪直後の有森裕子のインタビュー「足を踏み潰した女」が収録されている。あの'87年の福岡を著者は「破壊のレース」と名づけている。記録ではなく、優勝を狙うべきレースで中山は、自殺的なハイペースで独走してみせた。他の優勝候補たちはまさに「破壊」されてしまった、しかし、彼が真に破壊しようとしたものは・・・。

当時を知るマラソン・ファンには言わずもがなだろう。

身分はアマチュアでも、競技に対する意識は「プロ」と言われてきた旭化成の陸上競技部員。

「彼らはいかなる種類のプロなのか?」

バルセロナ五輪の直前当時、宗兄弟の給与は、「同期の高卒社員の中ではダントツだが、同年齢の大学卒社員よりは低い」という水準だったのだという。

それを「安すぎる」と思いつつ、こんな言葉でしめくくる。

「彼ら(旭化成陸上部員)は、それが無償の行為であり、報酬を期待することのない喜びであるからこそ、きわめて自然に、途方もない距離を走っておのれを表現しようと思い立つのだ。」

この本で知った事実の一つが、メキシコ五輪の男子200mで金メダリストのトミー・スミスとともに、黒い靴下で拳を作り、星条旗にそっぽを向いた男、ジョン・カーロスが、ミュンヘン五輪では選手村で、プーマのシューズのキャンペーン・ボーイになっていた、ということだ。

ミュンヘン五輪のテロリスト(当時はアラブ・ゲリラと呼ばれていた)によるイスラエル選手団襲撃事件についても、簡潔な文章で詳しく書かれている。英国の新聞はこの事件をこう伝えたのだという。

「この町で、再びユダヤ人の家のドアがノックされた。」

ミュンヘンはナチス党発祥の地であり、ナチスによるユダヤ人街襲撃事件が起こった街でもあったのだ。

引用したい文章は本当に多い。筆者によると、初めて「商業主義」を導入した'  84年のロス五輪が「近代オリンピックの終わり」であり、「現代オリンピック」の始まりだという。

「カネの切れ目が縁の切れ目、スポンサーが総撤退を開始したとき、現代オリンピックはパタンと倒れる。」

もはや、昔に戻れないのだ。

「オリンピックは四年に一度、国と国、民族と民族がたがいの間に存在する亀裂、憎悪、対立の感情を確認しあう『すばらしい』機会である。」

これが、筆者が40年五輪に通い続けて得た「確信」だという。

「もしいつか、世界中の人々の間に真の友情が生まれる日が来るとすれば、その前にまずこういう苦い手順が必要なのだ。」

今回読み返して、はっとした。今回の北京、聖火リレーをめぐって、チベット等少数民族の弾圧が明るみになり、四川の大地震で国内の貧富の格差も明らかになったが、それもまた、必然的なことだったのだ。

この本を書き上げた後、佐瀬はアトランタ五輪への取材に旅立って行った。そして、2年後の長野五輪が最後の五輪取材となった。その3ヶ月後に大腸がんで死去。享年65歳。

彼にシドニーやアテネを見せてやりたかった。アトランタで「ビューティフル・ルーザー」と彼が名づけた田村亮子が金メダルを撮る瞬間や、高橋尚子の快走や、体操ニッポンの復活を彼はどんな言葉で表現しただろうか。そして、北京五輪をめぐる一連の騒動をどう斬ってみせたか。極めて優れたボクシング記者でもあった彼に、あの三兄弟とその父親もペンでズタズタに切り刻んで欲しかった。

ちなみに、この雑文集のタイトルは、彼の著書、「感情的ボクシング論」が元ネタである。



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