村上春樹氏の著書「走ることについて語るときに僕の語ること」(このタイトル、長いので今後は「村上春樹のマラソン本」と呼ぶ事にします。)の前書きの中で、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙に掲載されていた一つの記事が紹介されている。
「マラソン・ランナーはレースの途中で、自らを叱咤激励するためにどんなマントラ(真言・呪文の意)を唱えているか?」
その中で村上氏自身が「マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡単に要約している」と評した言葉が
「Pain is inevitable. Suffering is optional.」
だった。彼の訳では
「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」
となる。
さて、僕自身はこのような質問をされたら、何と答えようか?
「あんな風に走っている時、何を考えているのですか?」
マラソンを走らない人、走ろうとしない人がマラソンを走る人に対して抱く素朴な疑問で最も多いのがこの事だろう。増田明美さんのマラソン解説が人気を集めたのも、彼女がそういう「素朴な疑問」について明確に答えていたからだろう。
しかし、それは実際のところ、なかなか答えにくい質問だ。かつて、マラソン好きで知られたタレントの上岡龍太郎氏も、同様の質問をされて、
「そんなもん、いちいち覚えてられまへんわ。」
と答えていたのをテレビで見た記憶がある。
「車を運転している間、何考えてるか、覚えてないでしょう?」
実は僕も上岡氏の答えに共感してしまった。僕もなかなかうまく答えられない。それはまるで、夕べ見た夢について話すようなものだ。目を醒ましたとたんに夢は消え失せるように、走っている間に頭の中で描いている風景は、足が止まれば消え失せる。
しかし、時々、思いがけない時に記憶の底から蘇る事がある。
僕もかつて、走る間に唱えていたマントラがあったのだ。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
この言葉は、ノーベル賞作家の大江健三郎氏の「新しい人よ眼ざめよ」という小説に出てくる。大江氏自身と、その家族をモデルにしたこの作品の中で、中心となっているのは、脳に生涯を持って生まれた長男だ。イーヨーというあだ名の長男が、痛風に苦しむ父親の足を撫でながら「穏やかな声で低く、確かめるように」つぶやく言葉だった。
走り始めて最初に痛めたのは左足だった。もともと僕の左足はいつも痛んでいた。10代の頃、成長期に骨と筋肉の発育がアンバランスになると起こるというオスグット病になっていて、膝の骨が突き出ているのである。高校になってから弓道を始めたが、板の間に長時間正座することがたまらなく苦痛だった。
今も左右の足で曲がる角度が違う。左足の方が曲がりにくくなっている。学生時代の仲間の中には、弓道を再開する人もいるが、僕には無理だ。もはや正座も出来なくなっている。
足に痛みを抱えたまま、レースを走ることがこれまでにもあった。そんな時、頭の中でイーヨーの言葉を唱えていたことがあった事を思い出したのだ。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
愛媛マラソンまで、あと5日に迫った。愛媛マラソンだけは、どんなにひどいコンディションでもスタートラインに立っていた。今年の愛媛マラソン、僕はこのマントラを唱え続けるつもりである。
大江氏と言えば、氏がしめくくりの小説のつもりで書いた「燃え上がる緑の木」のラストを大江氏は「Rejoyce!(喜べ!)」という言葉で締めくくっている。僕が初めてフルマラソンを完走した年である1994年にNHKで放映された大江氏と息子の生活に密着したドキュメンタリーの中で、大江氏は
「もし、自分が死ぬ時は、最後の一呼吸で『REjoyce!』と言って死にたい。」
と語っていた。
あれか15年、大江氏は最近も新作を発表しているが、果たして大江氏は自らの望みを叶える事が出来るのだろうか?
この言葉、マラソンのゴールにふさわしい言葉ではないかとある時期から思うようになった。マラソンのゴールラインを跨ぎ、足が地面に着いた瞬間に「Rejoyce!」
と言えるようなレースをしたいと思った。はたして、これまでゴールラインを跨いだ時に
「Rejoyce!」
と口にすることが出来ただろうか?
残念ながら記憶にない。たぶんスタートラインに立ち、走り始めたらゴールした時に口にする言葉の事など忘れてしまったのだろう。それくらい、走り続けている時はいろんな言葉が頭の中を駆け巡っているのだ。そうやって、走る苦しみを忘れようとしているのだ。
マラソンはしばしば人生に喩えられるが谷口浩美氏は
「マラソンは途中で止めてもやり直しがきくが、人生はそう何回も挫折できない。」
と語っている。人生の終わりに、「Rejoyce!」
と口にするチャンスは1度しかないがマラソンランナーをやっていれば、何度も
「Rejoyce!」
を口に出来る。
今度の愛媛マラソン、目標はタイムではない。何がなんでも、
「Rejoyce!」
と口に出来るレースをしてみせることが目標だ。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
と唱えながら。
「大丈夫」
は土佐礼子の座右の銘じゃないか。僕の部屋の壁に飾った彼女のサイン入り色紙にも書いている。
「マラソン・ランナーはレースの途中で、自らを叱咤激励するためにどんなマントラ(真言・呪文の意)を唱えているか?」
その中で村上氏自身が「マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡単に要約している」と評した言葉が
「Pain is inevitable. Suffering is optional.」
だった。彼の訳では
「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」
となる。
さて、僕自身はこのような質問をされたら、何と答えようか?
「あんな風に走っている時、何を考えているのですか?」
マラソンを走らない人、走ろうとしない人がマラソンを走る人に対して抱く素朴な疑問で最も多いのがこの事だろう。増田明美さんのマラソン解説が人気を集めたのも、彼女がそういう「素朴な疑問」について明確に答えていたからだろう。
しかし、それは実際のところ、なかなか答えにくい質問だ。かつて、マラソン好きで知られたタレントの上岡龍太郎氏も、同様の質問をされて、
「そんなもん、いちいち覚えてられまへんわ。」
と答えていたのをテレビで見た記憶がある。
「車を運転している間、何考えてるか、覚えてないでしょう?」
実は僕も上岡氏の答えに共感してしまった。僕もなかなかうまく答えられない。それはまるで、夕べ見た夢について話すようなものだ。目を醒ましたとたんに夢は消え失せるように、走っている間に頭の中で描いている風景は、足が止まれば消え失せる。
しかし、時々、思いがけない時に記憶の底から蘇る事がある。
僕もかつて、走る間に唱えていたマントラがあったのだ。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
この言葉は、ノーベル賞作家の大江健三郎氏の「新しい人よ眼ざめよ」という小説に出てくる。大江氏自身と、その家族をモデルにしたこの作品の中で、中心となっているのは、脳に生涯を持って生まれた長男だ。イーヨーというあだ名の長男が、痛風に苦しむ父親の足を撫でながら「穏やかな声で低く、確かめるように」つぶやく言葉だった。
走り始めて最初に痛めたのは左足だった。もともと僕の左足はいつも痛んでいた。10代の頃、成長期に骨と筋肉の発育がアンバランスになると起こるというオスグット病になっていて、膝の骨が突き出ているのである。高校になってから弓道を始めたが、板の間に長時間正座することがたまらなく苦痛だった。
今も左右の足で曲がる角度が違う。左足の方が曲がりにくくなっている。学生時代の仲間の中には、弓道を再開する人もいるが、僕には無理だ。もはや正座も出来なくなっている。
足に痛みを抱えたまま、レースを走ることがこれまでにもあった。そんな時、頭の中でイーヨーの言葉を唱えていたことがあった事を思い出したのだ。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
愛媛マラソンまで、あと5日に迫った。愛媛マラソンだけは、どんなにひどいコンディションでもスタートラインに立っていた。今年の愛媛マラソン、僕はこのマントラを唱え続けるつもりである。
大江氏と言えば、氏がしめくくりの小説のつもりで書いた「燃え上がる緑の木」のラストを大江氏は「Rejoyce!(喜べ!)」という言葉で締めくくっている。僕が初めてフルマラソンを完走した年である1994年にNHKで放映された大江氏と息子の生活に密着したドキュメンタリーの中で、大江氏は
「もし、自分が死ぬ時は、最後の一呼吸で『REjoyce!』と言って死にたい。」
と語っていた。
あれか15年、大江氏は最近も新作を発表しているが、果たして大江氏は自らの望みを叶える事が出来るのだろうか?
この言葉、マラソンのゴールにふさわしい言葉ではないかとある時期から思うようになった。マラソンのゴールラインを跨ぎ、足が地面に着いた瞬間に「Rejoyce!」
と言えるようなレースをしたいと思った。はたして、これまでゴールラインを跨いだ時に
「Rejoyce!」
と口にすることが出来ただろうか?
残念ながら記憶にない。たぶんスタートラインに立ち、走り始めたらゴールした時に口にする言葉の事など忘れてしまったのだろう。それくらい、走り続けている時はいろんな言葉が頭の中を駆け巡っているのだ。そうやって、走る苦しみを忘れようとしているのだ。
マラソンはしばしば人生に喩えられるが谷口浩美氏は
「マラソンは途中で止めてもやり直しがきくが、人生はそう何回も挫折できない。」
と語っている。人生の終わりに、「Rejoyce!」
と口にするチャンスは1度しかないがマラソンランナーをやっていれば、何度も
「Rejoyce!」
を口に出来る。
今度の愛媛マラソン、目標はタイムではない。何がなんでも、
「Rejoyce!」
と口に出来るレースをしてみせることが目標だ。
「善い足、善い足、大丈夫か?」
と唱えながら。
「大丈夫」
は土佐礼子の座右の銘じゃないか。僕の部屋の壁に飾った彼女のサイン入り色紙にも書いている。
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