今日、僕は44回目の誕生日を迎えた。44歳と言うべきところだが、「数え年45歳」になれた、という想いの方が強い。
厄年というのは確かにある。男性は数え年42歳が本厄で、その前年が前厄と言われているが、思い起こせば4年前の夏、えひめ森林公園のハイキング・コースでクロカン練習をしていたら、石につまづいて左足の甲を痛めてしまった。当日は病院は休みで、コンビニで買った氷で足を冷やしながら、それでも自力でクルマを運転して(僕のクルマは五速マニュアルである。)帰った。
湿布を貼っても足の腫れはなかなかひかず、レントゲンを撮って初めて剥離骨折であると知った。
回復は思ったよりも早く、10日後には練習を再開していた。多少、歩くのに難儀したが仕事を休むほどでもなかった。
しかし、それが厄の始まりだったと思う。無意識に左足をかばう走りをしていたのだろう。秋には右足のかかとを痛め、予定していたハーフマラソンと30kmロードレースを欠場した。
その後、足の痛みはついて回り、練習量も減り、以後、どの種目でも自己記録の更新は無い。2000年の年末にハーフマラソンで1時間22分24秒の自己ベストをマークしたが、
剥離骨折以後は1時間30分を切るのが精一杯である。マラソンも40歳になってからは愛媛マラソン以外は走っていないが、2003年に3時間12分33秒を出した以外は3時間25分も切っていない。10kmで40分も切れなくなった。
こうした記録の低迷の原因を
「ホーム・ページを作ったせいではないか?」
と指摘する走友もいる。そういった面も確かにあるかもしれない。しかし、このページを閉じていたら(実際、何度か閉めようと思った事はある。)マラソンそのものから完全に縁を切っていたと思う。12年前の5月1日から続けている禁煙も止めたかもしれない。僕の家の隣には大きなタバコの自販機がある。愛煙家に戻ろうと思えば、いつでも戻れる。
「ランナー」で有りつづける努力を怠り気味となり、自堕落になっていた。そのツケが昨年になって一気に噴出した。愛媛マラソンで10年連続完走を果たし、新たな目標を見出せないでいたのも影響したかもしれない。
4月に左膝の痛みに見舞われた。クルマのクラッチペダルも踏めないような激痛だった。病院の診断結果はなんと痛風。
7月、急激の坂道のアップ・ダウンのあるレース、四国カルスト高原マラソンの20kmロードに出場した。ラスト5kmの下り坂で左膝を痛めた。以後全く走れなくなってしまった。
9月に主治医の先生からMRI検査を勧められた。9月半ばに検査を受けてみたら、結果は「左膝半月板損傷」だった。手術を受けるほどではないが、放っておいて自然に治癒するものでもない。走りたいのであれば、足に筋肉をつけ、体重を減らし、痛みの出ない程度で続けていくしかないと言われた。
11月から少しずつスポーツ・ジムでのトレーニングを再開。12月に入ってロードでのランニングを再開した矢先に、深夜、自転車での帰宅途中に転倒し、右肩からアスファルトの上にたたきつけられた。右肩脱臼と肋骨骨折である。
2週間の療養後、固定ベルトをしたままジョグを再開。その時点で、2月の丸亀ハーフと愛媛マラソンに出るつもりだったのだ。
2つのレースの結果はひどいものだった。
「あんな体調で出るなんて、マラソンをなめてる。」
とある人からは面と向かって言われた。ハーフは19kmで、フルは23kmで足が止まった。愛媛マラソンの連続完走も10で止まった。
3月になって練習を再開。4月にハーフマラソンを走ることにしていた。ところが3月15日に職場で作業中に運搬機械の操作時の事故で左手首を骨折してしまった。
さすがに落ち込んだ。本厄の時よりもひどい災厄続きだ。数え年で44(死死)歳のせいか?
「足を骨折したわけじゃないし、利き腕じゃないからまだマシだ。」
と自分に言い聞かせ、毎日家でテレビばかり見ていた。おかげでホリエモン騒動と、森進一の離婚問題の事には詳しくなり、「こたえてちょーだい!」の再現ドラマにはまってしまった。
1ヶ月でギブスが取れ、リハリビに通い始めた。片道15kmある病院まで歩いて出かけてみたり、そのついでに松山市内の中心部まで歩いてみて、久しぶりに城山に登ってみた。足がまるで小学校の頃の遠足の日の夜のように痛んだが、これをしておけば早く元に戻れると信じた。
4月の中旬から練習を再開した。ゆっくりペースでも身体が重く、なかなか前に進めない。しかしこれは、心肺機能が衰えたからでも、体重が増えたからでもなく、何よりも脚筋力が衰えたせいだと言う。
左腕の包帯も取れ、腕もスムーズに振れるようになり、ジョグのペースも上がってきた。どうやら骨折前のレベルには戻ってきたようだ。
誕生日を迎えた今日、年の数だけ走ろうと44km走に挑んだが、時期尚早だった。半分の距離も走れずにダウン。しかし、この一週間で、走行距離は最盛期に近いレベルをこなすことができた。
数え年44(死死)歳の、「第2の厄年」が明けた。これ以上悪くなることはない、と思いたい。
月刊「ランナーズ」誌が6月号でマラソンの「一歳刻みランキング」を発表した。昨年4月から今年3月までの国内の陸連公認コースで行われたフルマラソンの全完走者の記録を集計し、男女別1歳刻みのランキングを作成し、100位以内のランナーに表彰状を与えるという企画である。
満43歳男子1位の記録は2時間27分46秒。100位の記録は2時間59分20秒。
満44歳男子1位の記録は2時間32分38秒。100位の記録は3時間0分56秒。
これを目指して、などとはとても言えない。だが、頭の隅には入れておく。
復帰レースは7月の四国カルスト高原マラソン20kmの部の予定である。
厄年というのは確かにある。男性は数え年42歳が本厄で、その前年が前厄と言われているが、思い起こせば4年前の夏、えひめ森林公園のハイキング・コースでクロカン練習をしていたら、石につまづいて左足の甲を痛めてしまった。当日は病院は休みで、コンビニで買った氷で足を冷やしながら、それでも自力でクルマを運転して(僕のクルマは五速マニュアルである。)帰った。
湿布を貼っても足の腫れはなかなかひかず、レントゲンを撮って初めて剥離骨折であると知った。
回復は思ったよりも早く、10日後には練習を再開していた。多少、歩くのに難儀したが仕事を休むほどでもなかった。
しかし、それが厄の始まりだったと思う。無意識に左足をかばう走りをしていたのだろう。秋には右足のかかとを痛め、予定していたハーフマラソンと30kmロードレースを欠場した。
その後、足の痛みはついて回り、練習量も減り、以後、どの種目でも自己記録の更新は無い。2000年の年末にハーフマラソンで1時間22分24秒の自己ベストをマークしたが、
剥離骨折以後は1時間30分を切るのが精一杯である。マラソンも40歳になってからは愛媛マラソン以外は走っていないが、2003年に3時間12分33秒を出した以外は3時間25分も切っていない。10kmで40分も切れなくなった。
こうした記録の低迷の原因を
「ホーム・ページを作ったせいではないか?」
と指摘する走友もいる。そういった面も確かにあるかもしれない。しかし、このページを閉じていたら(実際、何度か閉めようと思った事はある。)マラソンそのものから完全に縁を切っていたと思う。12年前の5月1日から続けている禁煙も止めたかもしれない。僕の家の隣には大きなタバコの自販機がある。愛煙家に戻ろうと思えば、いつでも戻れる。
「ランナー」で有りつづける努力を怠り気味となり、自堕落になっていた。そのツケが昨年になって一気に噴出した。愛媛マラソンで10年連続完走を果たし、新たな目標を見出せないでいたのも影響したかもしれない。
4月に左膝の痛みに見舞われた。クルマのクラッチペダルも踏めないような激痛だった。病院の診断結果はなんと痛風。
7月、急激の坂道のアップ・ダウンのあるレース、四国カルスト高原マラソンの20kmロードに出場した。ラスト5kmの下り坂で左膝を痛めた。以後全く走れなくなってしまった。
9月に主治医の先生からMRI検査を勧められた。9月半ばに検査を受けてみたら、結果は「左膝半月板損傷」だった。手術を受けるほどではないが、放っておいて自然に治癒するものでもない。走りたいのであれば、足に筋肉をつけ、体重を減らし、痛みの出ない程度で続けていくしかないと言われた。
11月から少しずつスポーツ・ジムでのトレーニングを再開。12月に入ってロードでのランニングを再開した矢先に、深夜、自転車での帰宅途中に転倒し、右肩からアスファルトの上にたたきつけられた。右肩脱臼と肋骨骨折である。
2週間の療養後、固定ベルトをしたままジョグを再開。その時点で、2月の丸亀ハーフと愛媛マラソンに出るつもりだったのだ。
2つのレースの結果はひどいものだった。
「あんな体調で出るなんて、マラソンをなめてる。」
とある人からは面と向かって言われた。ハーフは19kmで、フルは23kmで足が止まった。愛媛マラソンの連続完走も10で止まった。
3月になって練習を再開。4月にハーフマラソンを走ることにしていた。ところが3月15日に職場で作業中に運搬機械の操作時の事故で左手首を骨折してしまった。
さすがに落ち込んだ。本厄の時よりもひどい災厄続きだ。数え年で44(死死)歳のせいか?
「足を骨折したわけじゃないし、利き腕じゃないからまだマシだ。」
と自分に言い聞かせ、毎日家でテレビばかり見ていた。おかげでホリエモン騒動と、森進一の離婚問題の事には詳しくなり、「こたえてちょーだい!」の再現ドラマにはまってしまった。
1ヶ月でギブスが取れ、リハリビに通い始めた。片道15kmある病院まで歩いて出かけてみたり、そのついでに松山市内の中心部まで歩いてみて、久しぶりに城山に登ってみた。足がまるで小学校の頃の遠足の日の夜のように痛んだが、これをしておけば早く元に戻れると信じた。
4月の中旬から練習を再開した。ゆっくりペースでも身体が重く、なかなか前に進めない。しかしこれは、心肺機能が衰えたからでも、体重が増えたからでもなく、何よりも脚筋力が衰えたせいだと言う。
左腕の包帯も取れ、腕もスムーズに振れるようになり、ジョグのペースも上がってきた。どうやら骨折前のレベルには戻ってきたようだ。
誕生日を迎えた今日、年の数だけ走ろうと44km走に挑んだが、時期尚早だった。半分の距離も走れずにダウン。しかし、この一週間で、走行距離は最盛期に近いレベルをこなすことができた。
数え年44(死死)歳の、「第2の厄年」が明けた。これ以上悪くなることはない、と思いたい。
月刊「ランナーズ」誌が6月号でマラソンの「一歳刻みランキング」を発表した。昨年4月から今年3月までの国内の陸連公認コースで行われたフルマラソンの全完走者の記録を集計し、男女別1歳刻みのランキングを作成し、100位以内のランナーに表彰状を与えるという企画である。
満43歳男子1位の記録は2時間27分46秒。100位の記録は2時間59分20秒。
満44歳男子1位の記録は2時間32分38秒。100位の記録は3時間0分56秒。
これを目指して、などとはとても言えない。だが、頭の隅には入れておく。
復帰レースは7月の四国カルスト高原マラソン20kmの部の予定である。
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