'79年に世界初の国際陸連公認の「女性だけマラソン大会」として始まった東京国際女子マラソンが、30回を迎える今年で一つの歴史を終える。
思えば、30年前は、女性がフルマラソンを走るという事自体が、一つの「事件」だった。
「女がマラで損するなんて。」
という今ではセクハラとして問題になりそうなギャグも、オヤジ向け週刊誌等では飛び交っていたと記憶している。
今ほど、マラソンを熱心に見ていたわけではないが、僕は初めての女子マラソンに対して、違和感を覚えた記憶がある。
当時は福岡国際マラソンもNHKで中継していた。子供の頃から、マラソンというのはNHKで中継するものだとばかり思っていて、民放がマラソンを中継するということが随分珍しく思えたのだ。
マラソン中継の途中にCMが入るなんて想像できなかった。大相撲の本場所を民放が中継するのを想像できないように。
そういう意味では、女子マラソンというのは、民放テレビが育てたスポーツとも言えそうだ。
第一回の東京女子マラソンから、わずか12年足らずで、この種目で日本人が五輪でメダルを獲得して、一躍人気競技となったが、20年ぶりに日本人が入賞さえ叶わなかった北京五輪の年、初の日本人金メダリストとなった高橋尚子が引退を表明した直後に、「最後の東京国際女子マラソン」が開催されるとは、なんという偶然だろう。
北京五輪の結果を受けて、一部で「復活待望論」も起こった高橋も当初の予定ではこのレースのスタートラインに立つはずだった。今も僕は、
「どうして?」
という疑念を拭いきれないのだが、彼女の引退で日本の女子マラソンも「冬の時代」を迎えることは避けられない。
この数年、一般メディア等では
「日本のマラソン、女子は強いけど男子はダメ。」
と言われ続けてきた。その度に、
「高岡や藤田や油谷を知らんのか。」
と僕はぼやいていたのだが、今後は女子マラソンも同様の批判にさらされ続けるかもしれない。男子のトップランナーたちが、宗兄弟に瀬古利彦、中山竹通や谷口浩美らと比較され続けてきたように。
高岡寿成にしても、藤田敦史にしても、記録で言えば、前述の「マラソンにっぽん黄金期のスターたち」を凌いでいるのに、何故、彼らほどの一般的な知名度に欠けるのだろうか。
村上春樹のシドニー五輪観戦記「Sydney!」の中で、金メダル獲得の翌日の高橋尚子の記者会見に立ち会った筆者が、そこで交わされる質問がまるで「芸能ネタ」みたいなのにあきれる一説がある。それについて、担当編集者が
「既に高橋尚子はスポーツ面ではなく、社会面の記事になっている」からだと説明されて、納得していた。
もはや、今の男子のマラソンランナーに、「スポーツ面」をはみ出すランナーはいない。高橋は国民栄誉賞を手にすることで、社会面どころかあらゆるメディアの記事になってしまった。(現在、政治面にまで進出するかという噂まである。)
その代償として、高橋が失ったものを野口みずきは守り続けたことで、彼女は2大会連続五輪代表の座を得た、というようなことを昨年のこのレースでの彼女の優勝を見た際に、この欄で書いたのだが、野口も土佐礼子も、「スポーツ面」にとどまり続けていたと言えよう。もちろん、だから彼女たちはダメだと言う事を言いたいわけではない。
新たな「スター」を求められる今の日本の女子マラソン界だが、今後の女子ランナーたちは常に高橋との比較に晒され続ける宿命にあるといえよう。記録を樹立し、メジャー大会に優勝し、五輪で金メダルを獲得したとしても、「高橋越え」はかなり困難だ。常にONと比較され続けていた原辰徳のごとき苦労を味わいそうである。(団塊世代の野球好きの物書きには、原に対して冷淡な人が多かったように思う。)
最後の東京国際女子である。長年主催してきたテレビ局には、その歴史を尊重するような中継をして欲しい。レース展開そっちのけで中継車に乗った高橋にどうでもいい質問ばかりするようなことはして欲しくない。5年前の25周年記念大会にて、せっかくポーラ・ラドクリフをゲストに招きながら、第一回優勝者のジョイス・スミスの映像を彼女に見せ、
「この大会の歴史は、貴方と同じ英国の女性から始まったんですよ。」
という質問さえしなかったくらいだから、多くは望めまいが。
レースの優勝予想は次回にしよう。
(文中敬称略)
思えば、30年前は、女性がフルマラソンを走るという事自体が、一つの「事件」だった。
「女がマラで損するなんて。」
という今ではセクハラとして問題になりそうなギャグも、オヤジ向け週刊誌等では飛び交っていたと記憶している。
今ほど、マラソンを熱心に見ていたわけではないが、僕は初めての女子マラソンに対して、違和感を覚えた記憶がある。
当時は福岡国際マラソンもNHKで中継していた。子供の頃から、マラソンというのはNHKで中継するものだとばかり思っていて、民放がマラソンを中継するということが随分珍しく思えたのだ。
マラソン中継の途中にCMが入るなんて想像できなかった。大相撲の本場所を民放が中継するのを想像できないように。
そういう意味では、女子マラソンというのは、民放テレビが育てたスポーツとも言えそうだ。
第一回の東京女子マラソンから、わずか12年足らずで、この種目で日本人が五輪でメダルを獲得して、一躍人気競技となったが、20年ぶりに日本人が入賞さえ叶わなかった北京五輪の年、初の日本人金メダリストとなった高橋尚子が引退を表明した直後に、「最後の東京国際女子マラソン」が開催されるとは、なんという偶然だろう。
北京五輪の結果を受けて、一部で「復活待望論」も起こった高橋も当初の予定ではこのレースのスタートラインに立つはずだった。今も僕は、
「どうして?」
という疑念を拭いきれないのだが、彼女の引退で日本の女子マラソンも「冬の時代」を迎えることは避けられない。
この数年、一般メディア等では
「日本のマラソン、女子は強いけど男子はダメ。」
と言われ続けてきた。その度に、
「高岡や藤田や油谷を知らんのか。」
と僕はぼやいていたのだが、今後は女子マラソンも同様の批判にさらされ続けるかもしれない。男子のトップランナーたちが、宗兄弟に瀬古利彦、中山竹通や谷口浩美らと比較され続けてきたように。
高岡寿成にしても、藤田敦史にしても、記録で言えば、前述の「マラソンにっぽん黄金期のスターたち」を凌いでいるのに、何故、彼らほどの一般的な知名度に欠けるのだろうか。
村上春樹のシドニー五輪観戦記「Sydney!」の中で、金メダル獲得の翌日の高橋尚子の記者会見に立ち会った筆者が、そこで交わされる質問がまるで「芸能ネタ」みたいなのにあきれる一説がある。それについて、担当編集者が
「既に高橋尚子はスポーツ面ではなく、社会面の記事になっている」からだと説明されて、納得していた。
もはや、今の男子のマラソンランナーに、「スポーツ面」をはみ出すランナーはいない。高橋は国民栄誉賞を手にすることで、社会面どころかあらゆるメディアの記事になってしまった。(現在、政治面にまで進出するかという噂まである。)
その代償として、高橋が失ったものを野口みずきは守り続けたことで、彼女は2大会連続五輪代表の座を得た、というようなことを昨年のこのレースでの彼女の優勝を見た際に、この欄で書いたのだが、野口も土佐礼子も、「スポーツ面」にとどまり続けていたと言えよう。もちろん、だから彼女たちはダメだと言う事を言いたいわけではない。
新たな「スター」を求められる今の日本の女子マラソン界だが、今後の女子ランナーたちは常に高橋との比較に晒され続ける宿命にあるといえよう。記録を樹立し、メジャー大会に優勝し、五輪で金メダルを獲得したとしても、「高橋越え」はかなり困難だ。常にONと比較され続けていた原辰徳のごとき苦労を味わいそうである。(団塊世代の野球好きの物書きには、原に対して冷淡な人が多かったように思う。)
最後の東京国際女子である。長年主催してきたテレビ局には、その歴史を尊重するような中継をして欲しい。レース展開そっちのけで中継車に乗った高橋にどうでもいい質問ばかりするようなことはして欲しくない。5年前の25周年記念大会にて、せっかくポーラ・ラドクリフをゲストに招きながら、第一回優勝者のジョイス・スミスの映像を彼女に見せ、
「この大会の歴史は、貴方と同じ英国の女性から始まったんですよ。」
という質問さえしなかったくらいだから、多くは望めまいが。
レースの優勝予想は次回にしよう。
(文中敬称略)
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