メルマガ「西村眞悟の時事通信」より
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■ペリリューの戦い
■パラオについて
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天皇皇后両陛下をペリリュー島でお迎えして 平成27年4月13日(月)
天皇皇后両陛下は、四月八日、九日、パラオ国に行幸啓され、九日、同国ペリリュー島において同島の戦いで戦死した日米の将兵を慰霊された。
私は、同志七名と共に、ペリリュー島にて、天皇皇后両陛下をお迎えした。
そのご報告をさせて戴く。
八日朝、
単身、コロール島からボートでペリリュー島に渡った私は、先着の七名と合流し、まず、ペリリュー島の南に浮かぶ宇都宮歩兵第五十九聯隊に所属する千二百名の兵士が二万二千のアメリカ軍を迎えて戦った激戦地のアンガウル島に渡って、同島の戦没者に手を合わせ密林のなかに埋もれつつあるアンガウル神社に参った。
人気のない錆びた戦車が波に洗われている戦前からの埠頭から上陸してしばらく歩いていると、現地の人がいるので手を挙げて挨拶を交わした。
その人から水を売る家があると教えられた方向に歩いていると、ドアのないタイヤがつるつるの車に乗っている人と出会った。
彼は、私たちが日本人であることを察して、三十分後に戻ってくるので島内を案内してやると言った。
戻ってきた彼に、ジャングルのなかの凹凸の激しい道を案内されて、樹木に覆われたアンガウル神社や避難壕、そして海岸に立つ「砲兵隊慰霊碑」や「しもつけ地蔵像」を訪れることができた。
アンガウル島も玉砕の島であり、ペリリューからボートで南下して真っ青な海上から島に近づくと北端にぽつりとアメリカ人が立てた白いマリア像が建っている。
そのマリア像を左手に見てさらに南下して上陸した。
島内のアンガウル神社は、密林のなかに蔓で覆われた鳥居が建っていて左右に石の狛犬が残っているのを見つけた。拝殿はなく、そこに掲げられていた「アンガウル神社」と書いた額が草に覆われた地面に立てかけられていた。
昼食は「現地調達」でアンガウルに渡ったのだが、現地に食料はなく、幸い水のある家に見たこともない銘柄のビールも有ったので、それを昼食代わりにした。
蛇特にまむしを見れば、食おうとヨダレを流して捕まえようとする奴が学生時代の山岳部にいた(実は私)のを思い出して、蛇を探したがいなかった。
その後、ペリリューに戻り、古いトタン屋根のガレージのような「食堂」で夕食を食べながら、翌日九日に、両陛下を何処でお迎えするか、話し合った。
人口二万人余のパラオ共和国の警察は、ペリリュー島内にかなり厳しい規制線を引いていると教えられたからである。
我々は、まず両陛下の乗られたヘリが着陸する地点の近くと慰霊地の近くの二地点でお迎えし、離陸される地点近くに戻ってお見送りすることにした。
ペリリュー行幸啓の前日のこの日、一日中雨が断続的に降った。
斜め前方が晴れた真っ青な空でも、いつの間にか真上に雨雲がきていて全身に雨に打たれる。
九日、
本日は快晴で青い空がペリリューの上に限りなく広がっていた。
従って、戸外に出た瞬間、顔の皮膚がフライパンのように太陽に焼かれるのが分かった。 八時四十五分、黒い背広に黒いネクタイをし、額に「七生(日の丸)報国」と書いた鉢巻きを締めて外に出た。
その「七生報国」とまっ赤な日の丸を見て額に巻いたとき、文永の昔に、八十四騎で微笑みながら蒙古の大軍に突撃して玉砕した対馬の宗助國や、その六十年後に湊川で「七生報国」を誓ってからからと笑って自決した楠木正成ら、さらに微笑んで死んでいった大東亜戦争の無量の将兵ら、祖国日本の永遠を信じて国に殉じた多くの人々が、総て!
この陛下の来られるペリリューに集まってきているように思えた。
それ故、西に三十メートルほど歩いて木の枝をくぐって砂浜に出た。
そして、海に向かって低く「海ゆかば」を歌った。
魂や髣髴として来たれ、と。
島の南の密林を出ると、ぱっと幅百メートルほどの今は使われていない古い滑走路跡が現れる。
ここが陛下のヘリが離着陸される所だ。
雑草の上に俄にアスファルトを敷いたヘリポートが二カ所造られていた。
その側に行こうとすると、海上保安庁の作業服を着た若者が離れてくれと要請してきた。
そこで我々は密林の道に出てパラオの警察官が一人立っている十字路に出て、そこで両陛下をお迎えすることにした。ヘリポートから三百メートルほど離れた地点である。
約一時間、炎天下で待機した。お迎えする者、我ら八名以外になし。
轟音が聞こえてきて密林のなかから両陛下の乗られたヘリが現れ、午前九時五十四分、密林のなかに降りていった。
しばらくすると、密林に囲まれた道に、陛下の車列が現れ、超低速で走行してきた。
両陛下は、車列の中程の中型バスに乗られていた。
そのお車の右側に整列した我ら八人、頭を下げてお迎えした。
お車は、我らの前でほとんど停車され、そして通り過ぎていかれた。
その車列に、しばらく頭を下げたままお見送りした。
そのとき、一人の声がした。
「皇后陛下と目が合った。すると急に、涙があふれたんや、不思議やなあ」
それから我らは、島の南端の慰霊地に入り、そこから三百メートルほど離れたパラオ警官が一人立っているT字路で、慰霊地に入られる両陛下をお待ちした。
十一時頃、陛下が通られた。
皇后陛下は、バスのなかでほとんど立ち上がられて私たちに手を振られた。
それから、約一時間、待機した。
その時我らは慰霊地から出られる陛下に万歳三唱をしてお見送りしようと申し合わせた。
何故なら、そこにも我ら八人以外誰もいなかったからだ。
そして、両陛下のバスが近づいたとき、元陸上自衛隊大佐殿が音頭をとり、我々は万歳三唱をした。
もちろん、額には「七生報国」の鉢巻きをして。
頭を下げたまま万歳三唱はできないので、私は初めて顔を上げて両陛下を直視させて戴いた。
陛下の何ともにこやかなお顔を拝してお元気そうなのに安心し、バスのなかで、ほぼ立ち上がってご会釈をされる皇后陛下のお姿に言いしれぬ感動を受けた。
皇后陛下は、弟橘姫の生まれ変わりのようなお方だ。
思えば、衆議院の委員会委員長として国会の開会日に登院される陛下を、礼服を着て国会正面階段で度々お迎えしたが、五十センチほど前を通られる陛下に対して、こちらは頭を下げているのでお足やお手を拝しても、直に玉顔を拝したことはなかった。
両陛下は、それからアメリカ軍戦没者慰霊碑に参られた。
その間に、我々は離陸地点近くの、先ほどの十字路に戻った。
するとそこには、ペリリュー島に住む人々が集まってきていた。
島の若い娘さんが、白地に赤い日の丸の日本国旗と青地に月の丸のパラオ国旗を配っていて、我々にもくれた。
子供も大勢集まってきてはしゃいで遊んでいた。
島から離れられる両陛下のお見送りはペリリューの人々がする。
従って我らは「七生報国」の鉢巻きを外した。
午後一時過ぎ頃、両陛下は、二百人ほどのペリリュー島のほぼすべての住民の見送りを丁寧に受けられて、ペリリュー島における総ての日程を終えられて、密林の向こうのヘリポートに向かっていかれた。
その陛下の車列を数十人の島の子供達が走ってついて行く。
懐かしい私の子供の時の風景そのものだった。
陛下のお車は、その子供達の足より少し速いだけだ。
十字路に一人立っているパラオの警官は、子供達が何処までもお車に付いて行くのを眺めて止めもしない。
とうとう、子供達は、陛下の車列と共に、ヘリポートの方に消えていった。
そして、しばらくすると、ヘリの翼が回転する音が聞こえだし、その回転音がひときわ大きくなってだんだん遠のいて行く。
このようにして、両陛下は島を離れ、帰国のチャーター機が待つコロールに帰っていかれた。
翌日、コロールに戻って先に帰国する同志を見送って独りになった私は、パラオに二十年以上住む四十歳代の青年から次のことを聞いた。
パラオは二十年前までアメリカ領だったので、天皇陛下の車は、セキュリティーの為に、アメリカ流に空港から晩餐会場まで、百二十キロの高速で突っ走るつもりだった。
しかし、陛下は、それではいけない、沿道のパラオの人々と接しながら行きたい、と言われた。
それで、陛下のお車は、最徐行で進まれることになった。
これを聞いたとき、昨日の誰もいないペリリューのジャングルのなかの道を、最徐行で進まれる陛下の車列を思い出し、おもはず涙がにじんできた。
両陛下は、たとえ誰もいなくとも、かつて一万一千の日本軍将兵が立て籠もったペリリュー島のジャングルを、あたかも、そこに将兵がいるかのように眺められてお通りになっていたのだ。
そして、誰もいないジャングルのなかの灼熱の道に立って、我々は両陛下をお迎えできた。
さて、天皇陛下の警備の問題やお召し艦の問題などは、他日触れることにして、本日は、次の一点を述べる。
天皇陛下の、パラオペリリュー行幸啓による戦没者慰霊を、単に、今上陛下御一代、御一人の、「慰霊がしたい」という思いから発したものとして軽く扱ってはならない。
戦後は、政治家やマスコミ人も、「開戦の詔書」を読まないから、ここが分からないのだ。
天皇は、国家と国民の為に「祈る御存在」である。
よって、陛下は、戦前戦後の揺るぎない連続性のなかで、万世一系の皇祚(くわうそ)を践(ふ)める国家の天皇、としての「務め」を果たされる為にペリリューに赴かれたのだ。
即ち、次の命令を天皇が発し、その命令の下に、将兵はペリリュー・アンガウルで戦い玉砕した。
従って、天皇は、この度、ペリリューにおいて慰霊されたのだ。
ペリリューに押し寄せたアメリカ軍の第一海兵師団は、損耗六十%超に達して、「全滅」という異常な判定を受ける事態となり、アメリカは頑強な日本軍の抗戦に驚愕した。
そして、その日本軍の精強の根源は、兵士の天皇への忠誠の故だと思い至り、ペリリュー島を「天皇の島」と呼ぶようになった。
このアメリカの判断は、正しい。
ペリリューは、「天皇の島」であった。
それ故、天皇は慰霊に赴かれたのだ。
これは、国家に対する最深の公務である。
そして、これほど尊い公務を成せる元首は、世界に天皇しか存在しない。
この意味で、我が国は万邦無比である。
では、ペリリューが「天皇の島」となった所以は何か。
それは、次の命令による(米国および英国に対する宣戦の詔書、昭和十六年十二月八日)。
天皇は、この命令を発し、将兵は、この命令によって、よく交戦してペリリューを「天皇の島」にした。
よって、天皇は、「天皇の島」で将兵を慰霊するために行幸されたのだ。
天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、
昭(あきらかに)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国および英国に対して戦いを宣す。
朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、
朕が百僚有司は、精励職務を奉公し、
朕が衆庶は、各々其の本文を尽くし、
億兆一心、国家の総力を挙げて、
征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
天皇皇后両陛下は、四月八日、九日、パラオ国に行幸啓され、九日、同国ペリリュー島において同島の戦いで戦死した日米の将兵を慰霊された。
私は、同志七名と共に、ペリリュー島にて、天皇皇后両陛下をお迎えした。
そのご報告をさせて戴く。
八日朝、
単身、コロール島からボートでペリリュー島に渡った私は、先着の七名と合流し、まず、ペリリュー島の南に浮かぶ宇都宮歩兵第五十九聯隊に所属する千二百名の兵士が二万二千のアメリカ軍を迎えて戦った激戦地のアンガウル島に渡って、同島の戦没者に手を合わせ密林のなかに埋もれつつあるアンガウル神社に参った。
人気のない錆びた戦車が波に洗われている戦前からの埠頭から上陸してしばらく歩いていると、現地の人がいるので手を挙げて挨拶を交わした。
その人から水を売る家があると教えられた方向に歩いていると、ドアのないタイヤがつるつるの車に乗っている人と出会った。
彼は、私たちが日本人であることを察して、三十分後に戻ってくるので島内を案内してやると言った。
戻ってきた彼に、ジャングルのなかの凹凸の激しい道を案内されて、樹木に覆われたアンガウル神社や避難壕、そして海岸に立つ「砲兵隊慰霊碑」や「しもつけ地蔵像」を訪れることができた。
アンガウル島も玉砕の島であり、ペリリューからボートで南下して真っ青な海上から島に近づくと北端にぽつりとアメリカ人が立てた白いマリア像が建っている。
そのマリア像を左手に見てさらに南下して上陸した。
島内のアンガウル神社は、密林のなかに蔓で覆われた鳥居が建っていて左右に石の狛犬が残っているのを見つけた。拝殿はなく、そこに掲げられていた「アンガウル神社」と書いた額が草に覆われた地面に立てかけられていた。
昼食は「現地調達」でアンガウルに渡ったのだが、現地に食料はなく、幸い水のある家に見たこともない銘柄のビールも有ったので、それを昼食代わりにした。
蛇特にまむしを見れば、食おうとヨダレを流して捕まえようとする奴が学生時代の山岳部にいた(実は私)のを思い出して、蛇を探したがいなかった。
その後、ペリリューに戻り、古いトタン屋根のガレージのような「食堂」で夕食を食べながら、翌日九日に、両陛下を何処でお迎えするか、話し合った。
人口二万人余のパラオ共和国の警察は、ペリリュー島内にかなり厳しい規制線を引いていると教えられたからである。
我々は、まず両陛下の乗られたヘリが着陸する地点の近くと慰霊地の近くの二地点でお迎えし、離陸される地点近くに戻ってお見送りすることにした。
ペリリュー行幸啓の前日のこの日、一日中雨が断続的に降った。
斜め前方が晴れた真っ青な空でも、いつの間にか真上に雨雲がきていて全身に雨に打たれる。
九日、
本日は快晴で青い空がペリリューの上に限りなく広がっていた。
従って、戸外に出た瞬間、顔の皮膚がフライパンのように太陽に焼かれるのが分かった。 八時四十五分、黒い背広に黒いネクタイをし、額に「七生(日の丸)報国」と書いた鉢巻きを締めて外に出た。
その「七生報国」とまっ赤な日の丸を見て額に巻いたとき、文永の昔に、八十四騎で微笑みながら蒙古の大軍に突撃して玉砕した対馬の宗助國や、その六十年後に湊川で「七生報国」を誓ってからからと笑って自決した楠木正成ら、さらに微笑んで死んでいった大東亜戦争の無量の将兵ら、祖国日本の永遠を信じて国に殉じた多くの人々が、総て!
この陛下の来られるペリリューに集まってきているように思えた。
それ故、西に三十メートルほど歩いて木の枝をくぐって砂浜に出た。
そして、海に向かって低く「海ゆかば」を歌った。
魂や髣髴として来たれ、と。
島の南の密林を出ると、ぱっと幅百メートルほどの今は使われていない古い滑走路跡が現れる。
ここが陛下のヘリが離着陸される所だ。
雑草の上に俄にアスファルトを敷いたヘリポートが二カ所造られていた。
その側に行こうとすると、海上保安庁の作業服を着た若者が離れてくれと要請してきた。
そこで我々は密林の道に出てパラオの警察官が一人立っている十字路に出て、そこで両陛下をお迎えすることにした。ヘリポートから三百メートルほど離れた地点である。
約一時間、炎天下で待機した。お迎えする者、我ら八名以外になし。
轟音が聞こえてきて密林のなかから両陛下の乗られたヘリが現れ、午前九時五十四分、密林のなかに降りていった。
しばらくすると、密林に囲まれた道に、陛下の車列が現れ、超低速で走行してきた。
両陛下は、車列の中程の中型バスに乗られていた。
そのお車の右側に整列した我ら八人、頭を下げてお迎えした。
お車は、我らの前でほとんど停車され、そして通り過ぎていかれた。
その車列に、しばらく頭を下げたままお見送りした。
そのとき、一人の声がした。
「皇后陛下と目が合った。すると急に、涙があふれたんや、不思議やなあ」
それから我らは、島の南端の慰霊地に入り、そこから三百メートルほど離れたパラオ警官が一人立っているT字路で、慰霊地に入られる両陛下をお待ちした。
十一時頃、陛下が通られた。
皇后陛下は、バスのなかでほとんど立ち上がられて私たちに手を振られた。
それから、約一時間、待機した。
その時我らは慰霊地から出られる陛下に万歳三唱をしてお見送りしようと申し合わせた。
何故なら、そこにも我ら八人以外誰もいなかったからだ。
そして、両陛下のバスが近づいたとき、元陸上自衛隊大佐殿が音頭をとり、我々は万歳三唱をした。
もちろん、額には「七生報国」の鉢巻きをして。
頭を下げたまま万歳三唱はできないので、私は初めて顔を上げて両陛下を直視させて戴いた。
陛下の何ともにこやかなお顔を拝してお元気そうなのに安心し、バスのなかで、ほぼ立ち上がってご会釈をされる皇后陛下のお姿に言いしれぬ感動を受けた。
皇后陛下は、弟橘姫の生まれ変わりのようなお方だ。
思えば、衆議院の委員会委員長として国会の開会日に登院される陛下を、礼服を着て国会正面階段で度々お迎えしたが、五十センチほど前を通られる陛下に対して、こちらは頭を下げているのでお足やお手を拝しても、直に玉顔を拝したことはなかった。
両陛下は、それからアメリカ軍戦没者慰霊碑に参られた。
その間に、我々は離陸地点近くの、先ほどの十字路に戻った。
するとそこには、ペリリュー島に住む人々が集まってきていた。
島の若い娘さんが、白地に赤い日の丸の日本国旗と青地に月の丸のパラオ国旗を配っていて、我々にもくれた。
子供も大勢集まってきてはしゃいで遊んでいた。
島から離れられる両陛下のお見送りはペリリューの人々がする。
従って我らは「七生報国」の鉢巻きを外した。
午後一時過ぎ頃、両陛下は、二百人ほどのペリリュー島のほぼすべての住民の見送りを丁寧に受けられて、ペリリュー島における総ての日程を終えられて、密林の向こうのヘリポートに向かっていかれた。
その陛下の車列を数十人の島の子供達が走ってついて行く。
懐かしい私の子供の時の風景そのものだった。
陛下のお車は、その子供達の足より少し速いだけだ。
十字路に一人立っているパラオの警官は、子供達が何処までもお車に付いて行くのを眺めて止めもしない。
とうとう、子供達は、陛下の車列と共に、ヘリポートの方に消えていった。
そして、しばらくすると、ヘリの翼が回転する音が聞こえだし、その回転音がひときわ大きくなってだんだん遠のいて行く。
このようにして、両陛下は島を離れ、帰国のチャーター機が待つコロールに帰っていかれた。
翌日、コロールに戻って先に帰国する同志を見送って独りになった私は、パラオに二十年以上住む四十歳代の青年から次のことを聞いた。
パラオは二十年前までアメリカ領だったので、天皇陛下の車は、セキュリティーの為に、アメリカ流に空港から晩餐会場まで、百二十キロの高速で突っ走るつもりだった。
しかし、陛下は、それではいけない、沿道のパラオの人々と接しながら行きたい、と言われた。
それで、陛下のお車は、最徐行で進まれることになった。
これを聞いたとき、昨日の誰もいないペリリューのジャングルのなかの道を、最徐行で進まれる陛下の車列を思い出し、おもはず涙がにじんできた。
両陛下は、たとえ誰もいなくとも、かつて一万一千の日本軍将兵が立て籠もったペリリュー島のジャングルを、あたかも、そこに将兵がいるかのように眺められてお通りになっていたのだ。
そして、誰もいないジャングルのなかの灼熱の道に立って、我々は両陛下をお迎えできた。
さて、天皇陛下の警備の問題やお召し艦の問題などは、他日触れることにして、本日は、次の一点を述べる。
天皇陛下の、パラオペリリュー行幸啓による戦没者慰霊を、単に、今上陛下御一代、御一人の、「慰霊がしたい」という思いから発したものとして軽く扱ってはならない。
戦後は、政治家やマスコミ人も、「開戦の詔書」を読まないから、ここが分からないのだ。
天皇は、国家と国民の為に「祈る御存在」である。
よって、陛下は、戦前戦後の揺るぎない連続性のなかで、万世一系の皇祚(くわうそ)を践(ふ)める国家の天皇、としての「務め」を果たされる為にペリリューに赴かれたのだ。
即ち、次の命令を天皇が発し、その命令の下に、将兵はペリリュー・アンガウルで戦い玉砕した。
従って、天皇は、この度、ペリリューにおいて慰霊されたのだ。
ペリリューに押し寄せたアメリカ軍の第一海兵師団は、損耗六十%超に達して、「全滅」という異常な判定を受ける事態となり、アメリカは頑強な日本軍の抗戦に驚愕した。
そして、その日本軍の精強の根源は、兵士の天皇への忠誠の故だと思い至り、ペリリュー島を「天皇の島」と呼ぶようになった。
このアメリカの判断は、正しい。
ペリリューは、「天皇の島」であった。
それ故、天皇は慰霊に赴かれたのだ。
これは、国家に対する最深の公務である。
そして、これほど尊い公務を成せる元首は、世界に天皇しか存在しない。
この意味で、我が国は万邦無比である。
では、ペリリューが「天皇の島」となった所以は何か。
それは、次の命令による(米国および英国に対する宣戦の詔書、昭和十六年十二月八日)。
天皇は、この命令を発し、将兵は、この命令によって、よく交戦してペリリューを「天皇の島」にした。
よって、天皇は、「天皇の島」で将兵を慰霊するために行幸されたのだ。
天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、
昭(あきらかに)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国および英国に対して戦いを宣す。
朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、
朕が百僚有司は、精励職務を奉公し、
朕が衆庶は、各々其の本文を尽くし、
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征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
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