シナは人類四大文明発祥の地、四千年の歴史を持つ国と習った。
あの偉人孔子様の国。シナ人は何人も孔子様の教訓を学んでいるというイメージがある。
が、それは清の時代まで。共産党がこの国を支配してから国柄は変わってしまった。
「地獄の沙汰もカネ次第」現代のシナ人は現世もあの世も徹底しているらしい。
あの偉人孔子様の国。シナ人は何人も孔子様の教訓を学んでいるというイメージがある。
が、それは清の時代まで。共産党がこの国を支配してから国柄は変わってしまった。
「地獄の沙汰もカネ次第」現代のシナ人は現世もあの世も徹底しているらしい。
~誰よりも中国を知る男が、日本人のために伝える中国人考~
メルマガ:石平(せきへい)のチャイナウォッチ 2015年4月17日 20:54:39JST
http://www.seki-hei.com
金、外車、豪邸、愛人…先祖への供物に映る中国人の価値観 「腐敗は永遠に不滅…」
今月5日は中国の清明節である。
古くからの祭日で先祖の墓参りをする日だ。
「文革」の時代、それは「封建的迷信」として禁じられていたが、 今や「民族の伝統」として復活し盛んになっている。
日本の場合、お盆などで先祖の墓参りをするときは 花を持っていくのが普通だが、中国では事情が違う。
銅銭をかたどった紙の「冥銭(めいせん)」を 先祖の墓に持ってゆき、燃やすという昔からの習わしがある。
先祖があの世でお金に困らないための供えだ。
今は冥銭もかなり進化して、 額面の高い「人民元」や「米ドル」の市販品が主流となっている。
今年の清明節、「人民元百億元」の冥銭があちこちで「発行」され、 「9800億元」のモノまで出回っている。
日本円にして約19兆円の額面だが、 それを「額面通り」に受け取れれば、 ご先祖様(さま)は一気に冥府一の大金持ちとなろう。
こうした巨額の冥銭に負けないように、 「冥府専用のクレジットカード」を作って販売する業者もある。
利用金額無制限のゴールデンカードで、 先祖はそれを手に入れれば、
冥府での「大富豪生活」を永遠に楽しめるわけだ。
冥府での「良い生活」に必要な「贅沢(ぜいたく)品」を 供え物として持っていく人も多い。もちろん全ては紙の作り物であるが、 最新鋭のiPhoneから運転手付きの外車(模型)まで何でもある。
美女の紙人形の背中に「愛人」と書いて先祖に供える人もいる。
その際、先祖への心遣いから精力剤の「引換券」を添えるのは普通である。
高級別荘の紙模型も供え物として大人気である。
大抵はプール付きの豪邸で、中には男女の使用人や 愛人の「第2号、第3号」の紙人形がきちんと備えられている。
先祖は別荘の中で「酒池肉林」の生活を楽しめる。
このように墓参りをする今の中国人たちは、 花の一束で先祖への気持ちを伝えればよいとは考えていない。
ご先祖様を喜ばせるためには、お金はもちろんのこと、 高級外車も豪邸の別荘も美女の愛人も必要だと彼らが思っている。
もちろんそれは、墓参りをする人々自身の欲望の反映であり、 現世における彼ら自身の価値観の投影でもある。
生きている人たちはお金や高級外車、美女の愛人、 豪邸の別荘を何よりも欲しがっているからこそ、 それらのモノに最高の価値があると思っているからこそ、 先祖への感謝の気持ちを込めてこのような供えをしているのであろう。
赤裸々な欲望を満足させるモノに最高の価値がある。
これは今の中国人の「普遍的な価値観」なのである。
人々は先祖に前述のような供え物を捧(ささ)げるのに もう一つの思惑がある。先祖に「大富豪の生活」を提供する見返りとして、 今度は自分たちも先祖からのご加護でこ のような生活ができるようになるのを願っているのである。
その際、人々と先祖との関係は、お金と高価な贅沢品を介した 一種の「賄賂の収受」と化している。この世で大富豪となるためには、 まず党と政府の幹部に賄賂を贈って 彼らから金もうけのチャンスを与えてもらうのと同じように、 ご先祖様にお金と別荘と美女をちゃんと供えれば、 それらのモノはいずれか自分たちの手に入ってくるのではないか、 という期待が人々の心にあるのである。
そういう意味では、「腐敗」というのは そもそも現代中国人の価値観の一部であり、 中国流の即物的な実利主義精神に深く根ざしているものである。
党と政府の幹部における腐敗の蔓延(まんえん)は、 このような文化的背景があってのことであろう。
従って習近平政権が腐敗の撲滅にいくら力を入れても、 腐敗は撲滅されることはまずない。
中国人の精神と文化を変えない限り、腐敗は「永遠不滅」なのである。
( 石 平 )
メルマガ:石平(せきへい)のチャイナウォッチ 2015年4月17日 20:54:39JST
http://www.seki-hei.com
金、外車、豪邸、愛人…先祖への供物に映る中国人の価値観 「腐敗は永遠に不滅…」
今月5日は中国の清明節である。
古くからの祭日で先祖の墓参りをする日だ。
「文革」の時代、それは「封建的迷信」として禁じられていたが、 今や「民族の伝統」として復活し盛んになっている。
日本の場合、お盆などで先祖の墓参りをするときは 花を持っていくのが普通だが、中国では事情が違う。
銅銭をかたどった紙の「冥銭(めいせん)」を 先祖の墓に持ってゆき、燃やすという昔からの習わしがある。
先祖があの世でお金に困らないための供えだ。
今は冥銭もかなり進化して、 額面の高い「人民元」や「米ドル」の市販品が主流となっている。
今年の清明節、「人民元百億元」の冥銭があちこちで「発行」され、 「9800億元」のモノまで出回っている。
日本円にして約19兆円の額面だが、 それを「額面通り」に受け取れれば、 ご先祖様(さま)は一気に冥府一の大金持ちとなろう。
こうした巨額の冥銭に負けないように、 「冥府専用のクレジットカード」を作って販売する業者もある。
利用金額無制限のゴールデンカードで、 先祖はそれを手に入れれば、
冥府での「大富豪生活」を永遠に楽しめるわけだ。
冥府での「良い生活」に必要な「贅沢(ぜいたく)品」を 供え物として持っていく人も多い。もちろん全ては紙の作り物であるが、 最新鋭のiPhoneから運転手付きの外車(模型)まで何でもある。
美女の紙人形の背中に「愛人」と書いて先祖に供える人もいる。
その際、先祖への心遣いから精力剤の「引換券」を添えるのは普通である。
高級別荘の紙模型も供え物として大人気である。
大抵はプール付きの豪邸で、中には男女の使用人や 愛人の「第2号、第3号」の紙人形がきちんと備えられている。
先祖は別荘の中で「酒池肉林」の生活を楽しめる。
このように墓参りをする今の中国人たちは、 花の一束で先祖への気持ちを伝えればよいとは考えていない。
ご先祖様を喜ばせるためには、お金はもちろんのこと、 高級外車も豪邸の別荘も美女の愛人も必要だと彼らが思っている。
もちろんそれは、墓参りをする人々自身の欲望の反映であり、 現世における彼ら自身の価値観の投影でもある。
生きている人たちはお金や高級外車、美女の愛人、 豪邸の別荘を何よりも欲しがっているからこそ、 それらのモノに最高の価値があると思っているからこそ、 先祖への感謝の気持ちを込めてこのような供えをしているのであろう。
赤裸々な欲望を満足させるモノに最高の価値がある。
これは今の中国人の「普遍的な価値観」なのである。
人々は先祖に前述のような供え物を捧(ささ)げるのに もう一つの思惑がある。先祖に「大富豪の生活」を提供する見返りとして、 今度は自分たちも先祖からのご加護でこ のような生活ができるようになるのを願っているのである。
その際、人々と先祖との関係は、お金と高価な贅沢品を介した 一種の「賄賂の収受」と化している。この世で大富豪となるためには、 まず党と政府の幹部に賄賂を贈って 彼らから金もうけのチャンスを与えてもらうのと同じように、 ご先祖様にお金と別荘と美女をちゃんと供えれば、 それらのモノはいずれか自分たちの手に入ってくるのではないか、 という期待が人々の心にあるのである。
そういう意味では、「腐敗」というのは そもそも現代中国人の価値観の一部であり、 中国流の即物的な実利主義精神に深く根ざしているものである。
党と政府の幹部における腐敗の蔓延(まんえん)は、 このような文化的背景があってのことであろう。
従って習近平政権が腐敗の撲滅にいくら力を入れても、 腐敗は撲滅されることはまずない。
中国人の精神と文化を変えない限り、腐敗は「永遠不滅」なのである。
( 石 平 )
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成27年(2015)4月21日(火曜日)通算第4521号
http://melma.com/backnumber_45206/
◆書評 ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
中国のもっとも重要な伝統は科挙を産んだ宗族制度だった
宗廟も廃墟となる懼れ、人々は本気で宗教心をすてた。ならば行き着く先は?
石平『中国人はなぜ「お金」しか信じないのか』(KKベストセラーズ)
いきなり文化的本質論の議論となる。
石平氏は本書のなかで、まずこう言う。
「王朝の交代、血で血をあらう動乱を何度も繰り返してきた中国には、真の意味での『国家』は存在しなかった。そんな中国において数千年間、人々の思考、行動原理を支えてきたのが、『家族中心主義』であり、『宗族社会』だった」
典型は中国版「平家物語」で落ち武者たちは福建省と広東省の境にある山奧へ流れ着き、地付きの人からは「客家」とよばれた。
楕円形の巨大な土楼を築き、中庭に田畑を耕し、山羊や豚を飼った。家族は宗族を単位にまとまって自給自足の暮らしを続けた。
評者(宮崎)は、福州から夜汽車にのって龍岩というへんぴなところへ行き、タクシーを雇って土楼群を見に行ったことがあるが、いまやすっかり観光地(世界遺産)、入場料金が3000円ほど徴収される。
客家ほどではなくとも、一族が集団で暮らし、墓地を同じ場所とする。これが「宗廟」である。
宗族制度とは、一族の中に優秀な子どもがいれば、皆で金を出し合って学校へ送り出し、科挙の試験をうけさせ、一族の名誉とした。科挙選抜の原動力となり、科挙を引退すると「郷神」とよばれ、その土地の統治者でもあった。
こうした中国古来の伝統が崩れた。
破壊したのは毛沢東の共産主義で「革命」と称して、農村へ行くと地主と郷神を人民裁判にかけて処刑した。これで農村に知識人は不在となった。
家族主義を壊したのは密告制度だった。
改革開放以後は「お金」が宗教となる。ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれ、ペルシア、アゼルバイジャン、インドの奥地にいまも残る。イランにはヤスドという街に、まだ火の消えない神殿がある。この土着的な宗教の上に、イスラム教が流れ込んで、イランはシーア派となり、インドも世俗イスラムとはやや趣がことなるイスラム、それは日本にしても土着の自然信仰の伝統が築かれたあとに仏教が入ってきた。オリジナルの仏教と日本のそれは大きく異なり、原理原点的な仏教は大英博物館にある。
仏教発祥の地はインドだが、いまのインドには影も形も残っていない。
釈迦のうまれたルンビニはネパールに残るが、イスラム教徒のメッカ巡礼のような、仏教徒が必ず訪れる場所とはなっていない。
▼道教はどこへ行ったのか?
共産革命前まで、中国の伝統的な宗教は儒教ではなく道教である。道教が尊んだ価値は家族第一主義、よそ者は信じないが血縁で結ばれた、血の絆は固く、だからこそ宗族による宗族だけの宗家信仰が蔓延していた。この伝統が墓地の設計思想に受けつがれ、宗族がまとめて祀られる宗廟があちこちに出来る。
広州市のど真ん中にある「陳家書院」は有名な観光地だが、あれは陳一族の宗廟である。この宗廟が常識とされ、華南ではどこにでもあった。
広州の南、番寓にはいまも「留耕堂」という有名な宗廟があるが、タクシーを雇って行ってみると、建物だけのこり、清の時代の戦争の英雄だった韓氏(のちに何氏と改名)の宗廟としての機能は失われていた。ちょっと評者はショックを受け、そのことで石さんと話し合ったことがある。
雲南省の山奥、ミャンマーとの国境付近の集落にも十数もの宗廟があった。
数年前、広州市郊外の開平市から江門市にかけての郊外(市内からバスで一時間)、赤土欠(チーカン)村を訪ねたことがある(「土」と「欠」で一文字、カンと発音)。
西洋の御殿のような白亜のお屋敷がごろごろと建った場所で異様な光景を観た。結婚式が洋装で、缶がガラガラ鳴らずリムジンで街を行進する。
この村には苦力貿易で米国へ渡り、成功した故郷に錦をかざった在米華僑が金にあかせて洋館をたてあい、それが文化遺産となって世界の観光客が絶えない所だが、ここでも宗廟をまつる習慣が失われていた。
『宗族』は家族主義、親戚尊重という血のコネクションが希釈化し、『宗廟』への信仰心が薄れた、最大の理由が共産革命による伝導破壊、家族制度は密告のよって破壊され、つぎに宗廟への価値喪失は海外華僑の三世、四世、五世がアメリカ的価値観を身につけ、中国語をまったく喋ろうともせず、中国を汚いと観ていることにより宗族の絆が完全に壊されたからなのである。
そして宗族信仰がこわれ、何も文化的歴史的伝統が残らない中国で新しい宗教とは、他人も家族も信じない、強いて信仰の対象があるとすれば、カネになった。
銅銭の巨大なオブジェが中国の津々浦々の地方都市へ行くと歩行者天国に飾られ、シンガポールのチャイナタウンへ行くと世界最古の石銭が飾られている。世界どこでも、中国人の信仰の対象が何であるかをしることができる。
拝金主義の中国は人間がさもしくなり、その精神は枯れ、寂寥たる曠野となって、この行き着く先は世界の破壊であろうか。
ともかく石平さんの新刊を読んで副次的に連想したのは、こうした拝金主義の中国がAIIBを設立するなどと言っても、銀行の基盤は「信用」であり、その見えない価値観をいかにして、かれらは作りだし、その信用のネットワークを構築し、銀行業務を拡大できるのだろうかという疑問に包まれた。
いろいろと考えさせられる本である。
http://melma.com/backnumber_45206/
◆書評 ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
中国のもっとも重要な伝統は科挙を産んだ宗族制度だった
宗廟も廃墟となる懼れ、人々は本気で宗教心をすてた。ならば行き着く先は?
石平『中国人はなぜ「お金」しか信じないのか』(KKベストセラーズ)
いきなり文化的本質論の議論となる。
石平氏は本書のなかで、まずこう言う。
「王朝の交代、血で血をあらう動乱を何度も繰り返してきた中国には、真の意味での『国家』は存在しなかった。そんな中国において数千年間、人々の思考、行動原理を支えてきたのが、『家族中心主義』であり、『宗族社会』だった」
典型は中国版「平家物語」で落ち武者たちは福建省と広東省の境にある山奧へ流れ着き、地付きの人からは「客家」とよばれた。
楕円形の巨大な土楼を築き、中庭に田畑を耕し、山羊や豚を飼った。家族は宗族を単位にまとまって自給自足の暮らしを続けた。
評者(宮崎)は、福州から夜汽車にのって龍岩というへんぴなところへ行き、タクシーを雇って土楼群を見に行ったことがあるが、いまやすっかり観光地(世界遺産)、入場料金が3000円ほど徴収される。
客家ほどではなくとも、一族が集団で暮らし、墓地を同じ場所とする。これが「宗廟」である。
宗族制度とは、一族の中に優秀な子どもがいれば、皆で金を出し合って学校へ送り出し、科挙の試験をうけさせ、一族の名誉とした。科挙選抜の原動力となり、科挙を引退すると「郷神」とよばれ、その土地の統治者でもあった。
こうした中国古来の伝統が崩れた。
破壊したのは毛沢東の共産主義で「革命」と称して、農村へ行くと地主と郷神を人民裁判にかけて処刑した。これで農村に知識人は不在となった。
家族主義を壊したのは密告制度だった。
改革開放以後は「お金」が宗教となる。ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれ、ペルシア、アゼルバイジャン、インドの奥地にいまも残る。イランにはヤスドという街に、まだ火の消えない神殿がある。この土着的な宗教の上に、イスラム教が流れ込んで、イランはシーア派となり、インドも世俗イスラムとはやや趣がことなるイスラム、それは日本にしても土着の自然信仰の伝統が築かれたあとに仏教が入ってきた。オリジナルの仏教と日本のそれは大きく異なり、原理原点的な仏教は大英博物館にある。
仏教発祥の地はインドだが、いまのインドには影も形も残っていない。
釈迦のうまれたルンビニはネパールに残るが、イスラム教徒のメッカ巡礼のような、仏教徒が必ず訪れる場所とはなっていない。
▼道教はどこへ行ったのか?
共産革命前まで、中国の伝統的な宗教は儒教ではなく道教である。道教が尊んだ価値は家族第一主義、よそ者は信じないが血縁で結ばれた、血の絆は固く、だからこそ宗族による宗族だけの宗家信仰が蔓延していた。この伝統が墓地の設計思想に受けつがれ、宗族がまとめて祀られる宗廟があちこちに出来る。
広州市のど真ん中にある「陳家書院」は有名な観光地だが、あれは陳一族の宗廟である。この宗廟が常識とされ、華南ではどこにでもあった。
広州の南、番寓にはいまも「留耕堂」という有名な宗廟があるが、タクシーを雇って行ってみると、建物だけのこり、清の時代の戦争の英雄だった韓氏(のちに何氏と改名)の宗廟としての機能は失われていた。ちょっと評者はショックを受け、そのことで石さんと話し合ったことがある。
雲南省の山奥、ミャンマーとの国境付近の集落にも十数もの宗廟があった。
数年前、広州市郊外の開平市から江門市にかけての郊外(市内からバスで一時間)、赤土欠(チーカン)村を訪ねたことがある(「土」と「欠」で一文字、カンと発音)。
西洋の御殿のような白亜のお屋敷がごろごろと建った場所で異様な光景を観た。結婚式が洋装で、缶がガラガラ鳴らずリムジンで街を行進する。
この村には苦力貿易で米国へ渡り、成功した故郷に錦をかざった在米華僑が金にあかせて洋館をたてあい、それが文化遺産となって世界の観光客が絶えない所だが、ここでも宗廟をまつる習慣が失われていた。
『宗族』は家族主義、親戚尊重という血のコネクションが希釈化し、『宗廟』への信仰心が薄れた、最大の理由が共産革命による伝導破壊、家族制度は密告のよって破壊され、つぎに宗廟への価値喪失は海外華僑の三世、四世、五世がアメリカ的価値観を身につけ、中国語をまったく喋ろうともせず、中国を汚いと観ていることにより宗族の絆が完全に壊されたからなのである。
そして宗族信仰がこわれ、何も文化的歴史的伝統が残らない中国で新しい宗教とは、他人も家族も信じない、強いて信仰の対象があるとすれば、カネになった。
銅銭の巨大なオブジェが中国の津々浦々の地方都市へ行くと歩行者天国に飾られ、シンガポールのチャイナタウンへ行くと世界最古の石銭が飾られている。世界どこでも、中国人の信仰の対象が何であるかをしることができる。
拝金主義の中国は人間がさもしくなり、その精神は枯れ、寂寥たる曠野となって、この行き着く先は世界の破壊であろうか。
ともかく石平さんの新刊を読んで副次的に連想したのは、こうした拝金主義の中国がAIIBを設立するなどと言っても、銀行の基盤は「信用」であり、その見えない価値観をいかにして、かれらは作りだし、その信用のネットワークを構築し、銀行業務を拡大できるのだろうかという疑問に包まれた。
いろいろと考えさせられる本である。