落葉松亭日記

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北朝鮮核実験場「豊渓里(ブンゲリ)」

2017年12月19日 | 世相
webスプートニクに拠れば、北朝鮮の核実験場の建設者が粛清されたという。
豊渓里核実験(2017/09/03)場の不具合、遅延などの責任をとらされた模様。
北朝鮮で核実験場建設担当者らが粛清か 2017年12月19日 17:30(アップデート 2017年12月19日 18:09) © REUTERS/ KCNA スプートニク日本
https://jp.sputniknews.com/asia/201712194398152/

脱北者の証言によると、朝鮮民主主義人民共和国の核実験施設の建設に携わる担当部局の責任者が粛清された模様。また別の関係筋からは、北朝鮮軍総政治局局長の解任や第1副局長の更迭も伝えられている。朝日新聞が報じた。

粛清の対象となったのは、労働党131指導局の朴イニョン局長。同局は咸鏡北道豊渓里の核実験場の坑道や、平安北道東倉里のミサイル発射基地施設など、重要な軍事施設の建設を担当している。
朴局長の粛清理由は不明だが、「軍事機密の流出」を理由に職を解かれたとする見方や、春に実施する予定だった核実験が、坑道建設の遅れで9月まで遅延した責任を取らされたとする関係者情報、また実験による坑道崩落の責任を追及された可能性もある。

韓国紙の朝鮮日報によると、豊渓里では9月3日、7回の小規模な揺れが確かに記録された。これらの揺れは、坑道の崩落によって発生したものと考えられている。
ただし、北朝鮮情報を収集する韓国統一省の特別ポータルサイトには、朴イニョン氏のことには触れられていない。韓国メディアでも同様に、本件に関する報道は見られない。一方、核実験施設の建設を担当する131指導局の存在については、脱北者らの証言によって2000年代から明らかになっていた。

なお別の関係筋からは、北朝鮮軍総政治局の金元弘第1副局長が「不敬な態度」を理由に更迭されたこと、連帯責任として黄炳瑞局長も解任され、次帥から上佐まで6階級の降格処分を受けたという情報ももたらされている。

核実験場のひとつ「豊渓里」


脱北女性が見た北朝鮮核実験場「豊渓里」死の光景。(週刊新潮2017/12/14)
今回の核実験は、1945年に広島に投下された原爆(15kton)の4倍超の威力といわれる。
被曝による症状は、広島長崎やビキニ環礁で被曝した方々のそれである。
脱北女性が見た北朝鮮核実験場「豊渓里」死の光景(上)
 研究員だった夫は歯がすべて抜け落ち…
 週刊新潮 2017年12月14日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/12180800/?all=1

写真:自著を手にする金氏

 風雲急を告げる半島で、史上最大規模の米韓合同演習が始まった。これに北朝鮮は「核戦争の前奏曲だ」と強く反発。次なる一手で、7度目の核実験を強行する可能性もあるという。その現場ではいったい何が起こっているのか。“唯一の脱北者”が見た死の光景――。
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「大きな爆発音が聞こえたのは、早朝のことでした。午前5時か6時頃だったでしょうか。地震のように家全体が大きく揺れ、ドスン、ドスンと窓に何か物が当る音が響きました。その直後、息子が大きな声で、
『ママ、ママ! 鳥が落ちて死んでいるよッ』
 と起こしに来たんです。確かに、外に出るとスズメやカササギなどの鳥たちが、空から落下してたくさん死んでいた。川を見れば、無数の魚たちが白い腹を出して浮かんでいて――」

――そう語る金平岡(キムピョンガン)氏は50代の脱北女性。今年の春、亡命先の韓国で小説『豊渓里(プンゲリ)』を上梓した。書名になった地名に聞き覚えのある方もいるだろう。かの地は、北朝鮮による6回すべての地下核実験が行われた、朝鮮半島北東部に位置する山村である。夫が核開発に携わるエリート技官だった彼女は、そこで暮らした経験を持つ“唯一の脱北者”なのだ。自らの体験を織り交ぜ記された著作は、未だ日本語訳はされていない。そこで本誌(「週刊新潮」)は、本に記されなかった内容を含め、謎に包まれた核実験場の実態を改めて紹介して貰った。冒頭の場面は、2006年に北朝鮮が初めて核実験に成功した際の様子だが、彼女はそこで起きた“異変”が、鳥や魚のみならずヒトにも及んでいたと振り返る。

鱗のような皮膚が剥がれ…
「核実験が行われる前から、私は40℃以上の高熱によるめまいに悩まされ、床に臥していることが多かったのです。息子も度々高熱で苦しむようになり、そのような症状は村全体に広がっていきました。高熱のあまり昏睡状態になる人、血便が止まらない人、リウマチ関節炎に苦しんだり、脳卒中で倒れる人もいた。診療所はありましたが多くの人たちは貧しかったですからね。キキョウやセリなど薬草とされる植物を煎じて飲んだり、身体に塗り込むなどしていた。多くの人が満足な治療も受けられず、次々と死に至ったのです。

 核実験後、坑道の中で調査に携わった軍人や研究員たちの方が、被曝による影響は大きかったと思います。

 実際、研究員だった私の夫は、10年ほど前に亡くなりました。医師からは肝臓がんと告げられましたが、放射線による影響は明らかでした。背が高く、笑う時に見せる白い歯が魅力的な美男子が、40歳の手前で歯がすべて抜け落ちたのです。それだけではありません。肌も黄色く変色し表面には幾重にも膿がたまっていました。服を脱ぐと鱗のようになった皮膚がバラバラと剥がれ、お尻の骨が見えるほど身体が腐っていった。人目を気にした夫は、自らピンセットで腐った肉を摘みとっていました。息が止まるほどの痛みに耐え、苦しみながら亡くなったのです……」

――金氏の夫は、平城市の科学大学を卒業後、国防科学院の技官となり、数々の研究成果が評価され賞金を授与されたこともあるエリートだった。

「核実験場では、常時50名ほどの研究員がおり、ロシア人や在日朝鮮人の科学者が混じっていたと聞いています。日本から来たある研究者は、その才能を買われ北に住むことを強いられていました」

「地上の楽園」だった頃
――そんな科学者の中には、スパイ容疑で処刑されたり、被曝の影響で錯乱状態となって亡くなった人もいたという。まさに死と隣り合わせの日常が展開されていた実験場は、平壌から直線距離で約400キロ。列車を乗り継げば長くて3日もかかる山間の僻地にある。だが、彼女が初めて訪れた時は、“豊”かな“渓”谷の“里”を示す名の通り、まさに「地上の楽園」だったという。

「私が14歳の時、父は人民軍出版社の記者として各地を取材していました。それに同伴して訪れたのが豊渓里でした。今でも人生でこれほど美しい場所は訪れたことがありません。谷間には万塔山(マンタプサン)(標高2205メートル)を源とする豊渓川(プンゲチョン)と南渓川(ナムゲチョン)が流れていました。川の水はとても澄み、手ですくって口に含めばこれまで飲んだことのない味がした。

 人民から『革命の聖地』として崇められている白頭山の天池でも似た体験をしましたが、こんなに美味しい水はなかった。川の両側には蒼々たる森が広がって、仄かに松茸の香りが漂っていました。素足で歩けば優しい肌触りが感じられるほどたくさん自生しており、父はそれを石の上で焼き食べさせてくれました。その時の香ばしい匂いもまた格別でした」


脱北女性が見た北朝鮮核実験場「豊渓里」死の光景(下)
 汚染を知らない住民たちは死んだ川魚を…
 12/19(火) 8:00配信デイリー新潮
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171219-00534245-shincho-kr

 亡命先の韓国で小説『豊渓里(プンゲリ)』を上梓した金平岡(キムピョンガン)氏は、50代の脱北女性である。書名になった同地は、北朝鮮による地下核実験が行われた朝鮮半島北東部の山村。核開発に携わる技官だった彼女の夫は、10年ほど前に放射線による影響が明らかな形で亡くなっている。

 かつては「地上の楽園」であったという豊渓里――その現場ではいったい何が起こっているのか。
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「再びこの地を訪れたのは1990年頃のこと。奇しくも、夫が軍の命令で赴任していたのです。
 最寄り駅から山道を車で1時間ほど登ると、高射砲が集まった軍施設がありました。北は密かに70年代から実験場の建設を始め、住民には“ミサイル基地”と説明していたようですが、実は山裾に幾つもの坑道を掘っていた。避難訓練で入ったことがありますが、中は広く奥まで長く続いていました。ガス灯が3つほどしかついておらず、暗闇ばかりで強い恐怖感に襲われたことを覚えています。

 そもそも、この辺りは日帝時代(※日本統治下)に陶磁器の原料を採掘する鉱山が開かれ、そこに至る鉄道を敷いたのも日本でした。それらを利用して実験場を作ったというわけです。一方で、豊渓里は松茸の産地としても知られ、とりわけ軍の施設がある山奥に良質なモノが植わっていた。秋になれば村人は競って松茸狩りに精を出すのですが、そこに行くまで軍の検問所が幾つもあり、一般人は立ち入ることができません。けれど、入るなと言う一方で稼げ稼げというのもまた国の命令。北では人民に『忠誠の外貨稼ぎ』と呼ばれるノルマが課せられ、達成できなければ罰を受ける。そのため、侵入する住民が後を絶たなかった」

金ファミリーへの献上品
「手っ取り早く外貨を得るには日本人が好む松茸やイカを売るのが一番で、『日本人が山と言えば山へ、海と言うなら海に向かえ』なんて言葉が広まっていたのです。豊渓里の駅から数えて4つ目に吉州(キルジュ)というターミナルがあります。
 そこに行けば、身なりのいい日本人たちがいて、砂糖などの食料品や自動車を運んで来ていた。皆、彼らを相手に松茸を売っていました。

 豊渓里では清流に棲む川魚もご馳走でした。ニジマスは金日成(キムイルソン)主席の時代から献上品とされ口にすることはありませんでしたが、ヤマメもよく獲れた。村人は串に刺して焼いたり煮たりしていました。私が息子を宿した時は、お祝いにヤマメ鍋を作ってくれたこともありました。そんな住民たちは、核実験後、川魚たちが白い腹を露に群れとなって死んでも構わず拾って調理していました。加えて、水道はおろか井戸もない山奥とあって、村人らは飲料水をその川に求めた。結果、腹痛や血便が止まらなくなる病気が広まったのです。
 金ファミリーへの献上品から、豊渓里の特産である松茸やニジマスが密かに外されていたと知るのは、亡命後のことでした」

放射能被害を確信
――大食漢で丸々太った“ロケットマン”でさえ口にしないことからも、放射能汚染の深刻さが窺える。北はセシウムなどの核物質が飛散したことはないと発表し続けているが、実験場が地下にあるのだから、土壌や水脈が汚染されている可能性は否定できないだろう。思い起こせば、02年の小泉訪朝で大量の松茸が土産で贈られたのではないかと話題になった。核実験を受けた経済制裁で、日本は北朝鮮からの輸入を禁止しているが、「中国産」と偽った松茸が日本へ流入しているとの報道は後を絶たない。北が放射性物質にまみれた松茸を輸出していても、決して不思議ではないのだ。

「恨めしいのは、飢えと貧しさに苦しむ住民たちに、当地で核実験が行われているのが一切知らされていなかったことです。たとえ爆発が起こっても、坑道を掘るための発破作業はしょっちゅうで、地鳴りや爆音に慣れてしまっていたのも災いしました。核開発に係り、被曝死した夫を持つ私でさえ、韓国に亡命してから知った事実と当時の状況を照らし合わせ、ようやく放射能の被害だと確信するに至ったのですから。

 秘密主義の北は、90年代半ばまで欧米のみならず自国民に対しても、核開発の事実を曖昧にしてきました。豊渓里のような貧しい地方と平壌との格差は酷く、国中が困窮して研究も思うように進んでいなかったのです。94年に金日成主席が亡くなった後、都市部でさえ配給が止まる飢饉が国全体を襲います。『苦難の行軍』と呼ばれる時代で、餓死者が100万人を超えたという話も飛び交いました」

北朝鮮を救ってしまった
「実験場の軍人も、支給された靴や制服を豆と替えたり、住民の鶏を盗んだりして飢えを凌いだ。冬になれば食べ物も凍ってしまう土地なのに、家の窓にガラスはなくて、薄いビニールを二重に貼って寒さを凌ぐのがあたり前。家のみならず車や列車の窓もみんなそうでした。国境を越える脱走兵も多く出て士気が下っていましたが、98年頃に突然、頼もしい支援が入ってきたのです」

――韓国では、親北の金大中(キムデジュン)政権が発足。「太陽政策」の下で、北への食糧や生活物資を含む経済支援が活発化したのである。
「今までビニール貼りだった窓にガラスが張られ、00年代になると食糧事情も良くなりました。研究者や軍人の家族は最上級の配給を受けることができ、米や卵、豚肉などが豊富に与えられました。結果として、中断していた坑道工事も盛んになっていったのです。

 多くの国民は政権崩壊を望んでいたのに、金大中大統領が、金正日(キムジョンイル)総書記の手を握り北朝鮮を救ってしまった。そのまま放っておけば、核実験の成功はおろか、間違いなく独裁体制は崩れていたでしょう。韓国では再び左派政権が親北の姿勢を打ち出しました。今こそ、過去に引き起こされた失敗を省みなければならない。同じ過ちが繰り返されてはなりません」
「週刊新潮」2017年12月14日号 掲載