“片手袋を研究してきた中で見えてきた、気付いた世界とは?”
僕の性格上、そのようなテーマを正面切って真面目に語る事は得意ではないし、神戸ビエンナーレに出品する作品でその事は表現しようと思っている。
しかし、今回はとある一つの概念を取り上げる事で、片手袋を考えるヒントのようなものを提示してみようと思う。
“落語とは人間の業の肯定である”
これは故・立川談志が残したあまりに有名な落語哲学である。この言葉がどういう意味を持つのかは、ファン一人一人に考えがあるだろう。それに談志の落語哲学自体、二十代で定義したこの概念から微妙に変化していくので、この言葉が全てではないのだが、僕は大体以下のように把握している。
“人間というのは、食いたきゃ食っちゃう、寝たきゃ寝ちゃう。面倒臭けりゃ働きたくないし、親孝行なんて面倒臭い。そういう人間のどうしようもない業を、否定するんじゃなく肯定してあげるのが落語なんだ”
“例えば赤穂浪士。討ち入りをした勇ましい四十七士を描くのが歌舞伎や講談で、テーマは業の克服。恐いからと逃げてしまったその他の藩士を描く落語のテーマは、業の肯定”
二十代でこのように完成された落語観を提示した談志家元の天才性にあらためて驚愕すると共に、僕も落語を好きになっていく過程でこの考え方は非常に大きな支えになった。
この考えと呼応するような面白い存在は、落語だけでなくまちにもある。
これは超大型スーパーでよく見掛ける、“勢いで買い物かごに入れちゃったものの、よく考えたらいらない事に気付いたor似たような他の商品が欲しくなってしまったものの、元の場所に返しに行くのは面倒臭くて適当な棚に戻されちゃった商品”の画像である。左はカバン売り場のマヨネーズ、右は別の種類の棚で気まずそうな白ワイン、の画像である。
このような行為は決して褒められたものではないが、「面倒臭くなっちゃったんだな~」という共感と妙な可笑し味がある点において談志落語的である、と言える。
しかし、昔から一つの疑問が。それは、何と言うか、「果たして人間の業とはそっちの方向だけしかないのだろうか?」という事。
確かに、面倒臭かったり誰も見たなかったりすると、すぐ利己的な行動に流されていってしまうのが人間だ。しかし、面倒臭いのに、誰も見てないのに利他的な行動をとってしまうのもまた人間ではないだろうか?
そうでなければ、線路に落下した人を危険も顧みず助けにいったり、襲われる子供達を助ける為に立ちはだかったりする事があるだろうか?
僕は綺麗事が書きたい訳ではなく、そういった利他的行動も“業”と捉えられないだろうか?という事が書きたいのである。
しかし流石は我らが談志家元。どの著作かは失念したが、その事にちゃんと触れており、そちらも人間の業であると認めていた。では何故自分の表現に取り入れないかというと、確か「そっちの業はつまらねーんだ」の一言であったと思う。
確かにキラキラした目で「人間はね、元来美しい心を持っているのだよ、キミ!」などと大上段から説教されても、笑いには程遠い空気を作り出してしまうだろう。
し・か・し!僕は“利他的な人間の業”を堅苦しくなく、笑いを交えて、しかし確実に感じる事の出来る表現を見付けてしまったのである!
それが何かはこれ以上書きませんが、まあこんなブログをやってるくらいですからね。それに、この事こそが神戸ビエンナーレの僕の作品のテーマである、と小さい文字で書いてみたり。
以上が、僕が片手袋の研究を続けてきて得た、一つの大きな柱となる考えである。
勿論、釣りをしてたら何故か針に引っ掛かってきたりする、“人間の利他性”とか全く関係ない、下らな過ぎる存在としての片手袋の魅力も超大事ですけどね!