昨日(7/11)、フェイスブックライブで配信された、建築評論家の田中元子さんとスタディストの岸野雄一さんの対談が非常に面白かったです。
その内容は僕が片手袋や路上観察を通して見ている東京という町、そして地元の一住民として町内会などで担おうとしている役割などに深くかかわる内容でしたので、このブログに備忘録を書いておこうと思います。まとまりもなく非常に長い記事です。すみません。
実は四月に神田の美学校で『公的領域と私的領域の間で』という今回の配信と同じようなテーマで行われた、岸野さんのトークイベントにも伺いました。その時は町内会の成立過程など概略的なお話だったのですが、今回は「コンビニDJ」に代表される岸野さんが関わっておられるイベントの具体例について聞けました。
二時間ほどの対談の中で大きなテーマとして立ち上がってきたのは、主に二つだったように思います。それは「コミュニティ」と「公共性」という事です。田中元子さんによりますと、公共性というのは近年建築界でも(良くも悪くも)多用されるテーマだそうです。そしてその二つのテーマを考える上で、先程の美学校でのトークイベントのタイトルでもあった『公的領域と私的領域の間で』というのが共通のキーワードとして浮かんできたように思います。
そしてそれは、僕が個人的にここ数年ずっと考えてきたテーマでもありますし、僕の地元で様々なゲストをお招きし開いているまちづくり(これも使い方が難しい単語です)勉強会において、不思議なことに全然違う分野の方々が「都市の余白」や「都市の行間」という表現で同じことを述べて下さっているのです。
公的でも私的でもない曖昧な空間。都市の余白や行間。個人的には多くの人が現在の都市生活にある種の息苦しさを抱えているゆえに、そのようなキーワードが出てくるのだと思っていますが、僕の専門である片手袋研究や路上観察、そして町会での活動などを例に具体的に考えてみようと思います。
☆いつの間にか現れてくる曖昧な領域
ヨーロッパの町などは教会前の広場などが公でも私でもない曖昧な空間を担っているように思います(海外渡航経験が非常に乏しいので間違っていたらすみません)。
近年、様々な大学の建築学科の学生が僕の住んでいる町に勉強の一環として関わってくれているのですが、彼らが設計した住宅模型などを見せてもらうと、個人の住宅であってもあらかじめ町に開かれた曖昧な空間が設けられていることが非常に多いのです。というより、そのような空間の必要性を感じているからこそ、僕らの町に入り込んで実際のコミュニティ(この場合は町内会)ではどのようにそのような場を設けているのかリサーチしに来ているようです。
“公”園と言いながらキャッチボールも花火も犬の散歩も出来ない。道路で子供を遊ばせれば「道路族」として煙たがられる。家から一歩出れば常に公人としての振る舞いを求められる東京の現状では、やはりどこかで息苦しさが爆発してしまいます。
そういった問題への対処として、例えば建築の世界では都市計画としてあらかじめ公でも私でもない空間を確保する手段が講じられているのでしょう。しかし、ある建築学科の学生が教えてくれたのですが、「多目的スペースをあらかじめ設けると、そこは結局デッドスペースになってしまう」という問題があるそうで、建築に限らず行政など上からの指導で曖昧な空間を設けるのはなかなか難しいようです。
しかし実は、曖昧な空間というのは計画的に設けられる事もあれば、住民側から自然発生的に設けられる事もあるのではないでしょうか?そして我々はそれを上手に活用してきたのではないでしょうか?
僕は片手袋以外にも色々と撮っていますが、その中の一つに「バス停の椅子」があります。
これはバス停という公的な空間に感じる不便さを、利用者や近隣の住民が自主的に改善したくて生まれるものです。おそらく法的にはアウトなのですが、利便性が勝るためになんとなくそのままになっている。つまり、公でも私でもない曖昧な空間なのです。
しかしこのバス停の椅子も、公と私を厳密に分けようという視線に晒されると、下の記事のようにたちまち問題化してしまうこともあるのです。
バス停ベンチ壊れソファに 横浜市は撤去方針
片手袋の落とし主を慮って通りすがりの人が目立つ場所に移動してあげる「介入型片手袋」にしても、ある意味では公的な場所を占拠している訳で、うるさい人がいればすぐに取り除かれてしまう可能性はあるのです。
公でも私でもない曖昧な空間は、全てにピントを合わせずうすぼんやりと世界を眺めるときに生まれる死角にこそ現れるのでしょうし、そういう風に世界を眺めることで自分達自身が生きやすくなる知恵を元来我々は備えていたのではないでしょうか?
そして片手袋に限らず路上観察の楽しみはまさに、公である筈の場所に素知らぬ顔でいつの間にかニュルリと侵入している私的な表現にこそあると思います。
(路上園芸も恐らく厳密には法的にアウトなのだろう)
(何故か掲示板に張られていたロースハム)
(その楽しみは時に、ただのいたずらスレスレのものだってあるかもしれない)
岸野さんが関わっているレコードコンビニも、過去に様々な問題が立ち上がったのであろう事は、配信を見ていて感じました。しかし、主催者だけでなくお客さん側も曖昧な空間を守るために必要な態度を徐々に身に付けていったのでしょう。岸野さんが公の場ではレコードコンビニの正確な場所を口にされないのも、曖昧な空間を維持する為の工夫であるように思います。
本来は言語化しなくても様々な形で維持されていた曖昧な空間ですが、何事も線をビチッと引きたがる昨今では、やはり何らかの戦略も必要になってくるでしょう。
☆閉じたコミュニティと開いたコミュニティ
岸野さんと田中さんの対話の中で面白い例が挙げられていました。
全面ガラス張りの開放的なカフェの中で、音楽のライブが開かれていてお客さんが手拍子をしているのが外からも見える。一見開かれているように思えるが、物凄く閉じた空間に見えてしまい加わろうとは思わない。
ありますよね、こういう時。
一番最近のまちづくり勉強会で、東大の建築学科の学生が発表してくれました。彼は先述の公でも私でもない空間の研究として、祭礼時の神酒所や直会会場が各町会においてどのように確保されているか?を調べていました。
僕なんかも町会活動をやっていて思うんですけど、閉じていて近寄りがたい組織と思われがちな町内会において、やはり祭礼は重要なんですよね。普段顔を見ないような人でも、祭りの時だけはお神輿を担いだりちょっとした手伝いを負担してくれたりする。
都心であっても少子高齢化は深刻な問題ですし、大震災も経験しましたから、やはりもしもの時のことを考えると、出来るだけ開かれたコミュニティを作っておきたい訳です。
で、先程の学生の発表事例の中に、路上で地べたに座って直会を開いている例があったのです(実はうちの町会もややこれに近い)。これなんかは究極的に開かれている訳ですが、祭りの時だけ顔を出した人からしてみればむしろ入りづらくて閉じているように思えるかもしれない。
別に町会側だって意図的に閉じようとしているわけではないのですが、結果的にそうなってしまう場合もある。ここが難しいのです。
僕が岸野雄一さんの様々な活動を追いかけていて素晴らしいな、と感じるのは、“ここにいる人”と同じくらい“ここにいない人”を意識している所なんです。言い換えれば「連帯が生み出す新たな分断」「参加する自由と参加しない自由を等しく見る」とでもいいますか。
田中さんが、「ほとんどの苦情は“私は声をかけられていない”という疎外感からきている」というような事を仰ってました。
だからやっぱり開かれたコミュニティとは、(全員が満足した状態は無理だとしても)一部の人が強烈に繋がるのではなく、沢山の個が楽しんでいて緩やかに繋がっている状態、なのかな?と。
で、その為に必要なのは「公共」とか「コミュニティ」というマジックワードを用いる前に、一つ一つの企画の面白さ、居心地の良さを追求していく事が大事なのでしょう。
僕達の町会ではその為に、毎年必ず行われる祭礼などとは別に、「ストリートウエディング」や「夏休み子供野外映画会」なんかを仕掛けています。
(この時は岸野さんがプロデューサーを務める海藻姉妹さんに音楽をお願いしました)
(子供向けではありますが、幅広い年代が一堂に会する事を狙っていたりします)
ただ岸野さんも仰ってたけど祭りやイベントが生み出す忘我の感覚は危険と隣り合わせだろうし、「楽しそうだから」という事自体に反発を感じる人もいるので、やはり色々難しいですね。
で、田中さんが最後の方に仰っていた「町会とかが崩壊した後のコミュニティ」という課題。これは僕も、「これだけ少子高齢化が進んでしまうと、町会という単位で様々な問題に取り組むのはいずれ難しくなってくるだろうな」と実感しています。
で、その後に立ち上がってくるコミュニティの可能性を、僕は片手袋に見出している部分があるんです。
そういうちょっとした善意の連鎖が、全然会った事もない者同士の間で当たり前に成立している。「都会は冷たい」なんて簡単に言ってしまいがちですけど、本当にそうなんでしょうか?
大げさでなくちょっとした、顔も名前も知らない他人だからこそ、発揮される善意もあるのだとしたら?
そういったものこそ、住んでいる場所などに捉われない、新たな形のコミュニティの礎になるのかもしれません。
長々と書いてしまいましたが、とにかく僕の戯言とこじつけは置いといて、岸野さんと田中さんの対談自体が物凄く面白いのです。もう途中でディスプレイに飛び込んで議論に混ぜて貰いたいくらいでしたよ!皆様も是非ご覧になってみて下さい!
最後にもう一度リンクを。
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最後にもう一つだけ重要なことを。
以上のように長々と書きましたが、僕が片手袋に惹かれ、片手袋を研究し続けているのは、「〇〇に役立つから」「〇〇を考える上でリンクしてくるから」という理由や目的を設定しているからではありません。
あくまで「なぜか片手袋に惹かれてしまう」という自分でも解読不能な欲求が沸き起こってしまうのが先に立っています。
そうして撮影や研究を続けていくうちに、興味を持っている他の分野とリンクしてくる事が多々あるのです。
むしろ目的や狙いがあって始めたことは、意外に長続きしないものです。