オールドヨットマンの残日録・ZANJITSUROKU

相模湾に育てられて60余年、ヨットレースや仲間との思い出を大切に、これからの日々を健康で明るく楽しく、絵日記に綴ろう。

月光の並木さんを偲ぶ会 2

2014-02-19 17:55:52 | 日記
 並木さんを偲ぶ会には全国から多くのヨットマンが集まった。懐かしい顔・顔・顔、その中に20数年ぶりにK原さんの顔があった。 彼は並木さんの月光Ⅵ世の設計者で、その艇は1979年のアドミラルカップにコテルテル、トーゴとともに参加した。 シリーズ最終のファストネットレースは大荒れに荒れて死者30人以上という史上最悪のレースとなった年として記憶に残っている。日本艇は3艇ともリタイアして無事であったのは不幸中の幸いであった。

 私が初めて彼を知ったのは20代半ば、油壷のワントン「旭Ⅱ世」に乗っていた頃、彼はアメリカのS&S設計事務所にいた。
 旭の先輩で小網代の「八丈」のK藤オーナーから彼を経由してHoodのセールを発注したことから始まり、やがて彼は日本に帰って設計事務所と造船所を立ち上げた。「なかよし造船」である。

 私は彼の試作品の25ftのQtonに乗る機会を得て「モモエ75」と名づけてレースに参戦した。直後、関西の山口オーナーが改良艇「コテルテル」を発注、シーボニアを拠点にQton世界選手権に向けてレース漬けとなり、まずまずの成績を収めたと思っている。

 その後、彼のプロダクション艇「シンドバッドⅡ」で沖縄レースに2回、同Ⅲ世でも1回参加した。 アドミに行った「コテルテル」42ftも彼の設計によるもので神子元島レースなどに乗せていただいただ。
 佐島で行われたQtonワールドでT叶さん、Rバートが活躍した「カミカゼエクスプレス」も彼の設計だ。
 

 今、彼はヨットの仕事を離れて別の業界で仕事をしているが、世界のヨットデザイナーとはコンタクトがあるようだ。 現在、沖縄のサンシンを習っているそうで、次に会うときは持ってきて聞かせてくれるらしい。 また、70歳になったら趣味でヨットに乗る、とも。

 4ケ月後の6月に再会することを約束して分かれた。

月光の並木さんを偲ぶ会 1

2014-02-19 15:37:53 | 日記
 月光チームの並木さん、というより「日本のヨット界の並木さん」と呼ぶべきだろう。いや、日本のリーダーとしてだけではなかった、世界に名を馳せたヨットマンがより正しい呼び方かも知れない。 亡くなられて4ケ月がすぎた。 
 2月18日(火)並木さんを偲ぶ会には全国から大勢のヨットマンが東京に集結した。
 会場は帝国ホテル光の間、9年前、私が勤めていた会社「公共DWサービス」の創業者・N波社長のお別れ会もここだった。

 国旗の前の遺影に献花し、お世話になったお礼とご冥福をお祈りしたあと、会は始まった。
 1分間の黙祷のあと、友人を代表して元都知事のIS原さん、ゴルフ解説のIW田さん、JSAFの名誉会長、会長から次々にあいさつと並木さんを惜しむ言葉、武勇伝などが紹介されたが、並木さんの海への思い、仲間や後輩たちを思う人柄が伝わってくるものばかりであった。
 これだけの巾広いヨットマンが集まることは過去になかっただろう、当然のように国内・海外レースの思い出話で人の輪があちらこちらにでき、旧交を温める様子も多く見受けられた。

 私は、といえば関東での外洋レースはもちろん、ジャパンカップ、ビッグボートシリーズ、沖縄~東京レースでも月光チームと競って帆走ったり、ある時は月光チームのクルーとして乗せていただいたりして、油壷の月光ハウスには何度も伺いご馳走になり泊めてもいただいたものだった。
 私があまりにもアチコチのレース艇に乗るもので、ある時、私に「おい、渡り職人!」と言われた。また、あるパーティで周りの人にむかって私のことを「コイツには気をつけろ」とも言われた。 江の島・油壺のヨットコジキから始まった私のような者が由緒正しい正統派のヨットマンに認められたような嬉しい気持ちになったことを覚えている。