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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

権力構造

2017-07-19 22:08:39 | 日本語脳
>「日本/権力構造の謎」(カレル・ヴァン・ウォフレン著、早川書房)を読んでます。(略) >「何故に日本人は権力に対して、トコトン従順なのか?」と言う疑問に応えてくれています。(略) >私が今一番感じている言葉は、「儒教をベースにした”服従の哲学”」が日本人の意識の底にあること。

そうでしょうね。

>そして、中国のように”革命につながる天命思想”が欠如していること。どちらかと言うと、朝鮮・韓国のコテコテの儒教思想の”二番煎じ”が日本人の生活哲学にあること。

日本語・韓国語には言葉遣い(階称) があります。上とみるか、下とみるかの判断は、強迫観念の域にまで達しています。中国語には階称がありません。中国人は、親に向かって名前を呼び捨てにします。

>韓流(王朝物)で、必ず、問題が発生したときに、臣下が一番に発する言葉が”私を殺して下さい”である。「親に孝、君に忠」が色濃く出ている、”服従哲学”である。

上下社会においては、‘これしかない’ といった感じですね。

>私も長年サラリーマン生活をして来たが、結局はインフォーマルな”人間関係”で事を解決することが多かった。>それも理屈抜きの”主従的な関係”を活用することも多かった。それが嫌で仕方なかったが、やむを得なかった。

日本のような《高文脈文化》の特徴としましては、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。 曖昧な言語を使用します。一般的な共通認識に基づくことを述べます。 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更されることがあります。感情的に恣意決定されます。沈黙は不快ではありません。等があります。

>「日本/権力構造の謎」は、本当に日本人の意識の底にある、行動原理、生活哲学を的確にえぐり出している。

>今、福島原発事故で、とてつもない災厄に見舞われている”日本人”、海外(本当は日本のマスメデイア)から”冷静で秩序を乱さない行動”と褒められている。>一方、無能無策で、公然と犯罪的行為を繰り返す菅政権、これにも”冷静?”な日本人。

日本人の冷静さは、どちらも同根でしょうね。意思のあるところに方法がある。(Where there’s a will, there’s a way.) 意思の無いところには、解決方法は無い。意思は未来時制の文章内容でありますが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人は意思が無い。それで、日本人には解決方法がない。無為無策でいる。座して死を待つことになる。

>これらは、私たちの意識の根底に、”服従の哲学”が染みついているからなのだ。決して是認できることではない。

我々は、言語を使って考えますからね。階称を上手に使うためには、序列判断に熟達しなくてはなりません。だから、服従の哲学は体に染みつきます。


>また、同署では、”服従の哲学”が繰り返し染みつくように、日本社会の仕組み”システム”が作られている、と言う。

日本人の社会は、序列社会ですからね。日本国の体制と日本語には、服従の哲学が織り込まれています。

>それは、国民に真実を知らさないこと、異を唱える人間を仲間外れに(或いは抹殺)すること。

日本語は曖昧な言語ですからね。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。民は知らしむべからず、よらしむべし。教育機関は、ご唱和の練習にいとまがありません。

>そして、権力者と国民の関係は、”権力者の慈悲で、国民が恩恵を享ける”関係である。決して、権利・義務の関係ではない。ルール遵守の法治主義でもなく”恣意的な超法規主義”。>法律無視で、傲慢な、菅政権や官僚たち、行政の振舞を見れば納得がいく。

日本人の人間関係は上下関係であって、対等な関係ではありませんからね。

>現在、”服従の哲学”を有効ならしめているのが、権力による”情報独占”と”超法規的な生殺与奪権”である。本質的には”システム”(官僚等)独裁である。>直接的な”服従の哲学”の推進者は、官僚支配のもと、マスメデイアと検察(裁判所はオプション?)だろう。>”服従の哲学”から抜け出す第一歩は、”真実を知る””公然と意義を唱える””行動する”だろう、と思う。(略)

そうでしょうね。曖昧な言語を使うのは好ましくない。意議を唱えるのには自己の世界観が必要です。行動するのには意思が必要ですね。

>我々も”静かな日本人”のまやかしに乗ることなく、”意義を唱え””繋がり””行動”を広げていきましょう!

我々は自己の世界観を持ち、お互いに世界観比べをして、未来社会の合意点に達して、その建設に大同団結して行きましょう。そうすれば、夢も希望も出てきます。それには、日本語脳は適切ではない。日本語・英語の二刀流で行きましょう。



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言語が曖昧

2017-07-19 16:27:56 | 日本語脳

>現代の社会は、ユダヤ教やキリスト教といった一神教の基盤としたヨーロッパ文明が生み出した近代文明によって影響を受け、それに席巻されているように見える。その一方で、一神教同士の対立や一神教と他宗教との対立を背景にした様々な問題も生み出している。

そうですね。これは、宗教戦争の再来ですかね。

>その中で日本文化の独自性が注目されるとすれば、それはどうしてなのか。

我が国の文化はホール (Edward Twitchell Hall, Jr. 1914-2009) によれば高文脈文化 (high-context cultures) ということになりますね。日本のような《高文脈文化》の特徴は、次のようなものです。:  言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に恣意決定される/沈黙は不快ではない /

>日本は、非ヨーロッパ文明の中ではもっとも早く、近代文明の吸収と発展に成功した国である。

そうですね。我が国は、物質文明だけを受け入れましたね。

>であるにも関わらずキリスト教徒は圧倒的に少ない。

精神文明は受け入れませんでしたね。日本語は曖昧な言語です。日本人は、意思の内容の表現には反発を示したのでしょう。

>「一神教が浸透しなかった最大の国」なのである。

そうでしょうね。最大の国かどうかは知りませんが、非ヨーロッパ文明の大きな国であることは確かですね。

>科学技術や政治・経済システムの面では近代文明を大幅に取り入れ成功を遂げながら、その文化の深層の部分では一神教を頑なに拒んでいる。

物質文明と精神文明は違いますからね。前者の内容は、頭の外にある。だから、見ることが出来る。だのに、後者の内容は、頭の中にある。見ることが出来ない。日本人には、頭の中の内容は受け入れることが出来ないのでしょうね。言語が曖昧ですからね。

>そこに日本文化のユニークさと不思議さがある。

そうですね。無心のユニークさですね。無哲学・能天気というのかもしれない。

>おそらくそれは、農業文明以前の縄文的な心性が、現代の日本人にまで脈々と受け継がれていることから来るユニークさである。

そうですね。それは、日本語のせいでしょう。意思は未来時制の文章内容です。しかし、日本語文法には時制が無いので、日本人には意思の表現ができません。

>世界の大半はすでにそれを失っているがゆえに、一神教を拒みながら近代化に成功した国である日本が、ますます注目されるようになるのだと思う。

日本人には意思がありません。自然を見てもそれが神の意思と考えることはありません。だから、自然はごく自然に見えます。我が国においては、人間もアニマルも、ひとえに自然の中に溶け込んでいます。
日本人には、意思が無い。だから、自己の意思を主張することもなく、相手に意思の内容を求めることもありません。他力本願・神頼みといえども、神仏にその意思の内容を求めているものではありません。
意思のあるところに、方法がある。(Where there’s a will, there’s a way.) 意思のない我が国人には、解決方法がない。だから、自然に任せている。とかくこの世は、無責任。
意思があれば、個人は責任を持つことが出来ます。意思が無ければ、国がひっくり返っても責任者は出ないでしょう。これはごく自然なことです。


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構造的背景

2017-07-17 04:52:39 | 日本語脳
>にわかにアスベストによる健康被害の問題がホットになってきている。一般の人達はマスコミ報道に敏感に反応、(自分たちは)大丈夫?との反応だし、企業の関係者は(他の人に)どう説明したら良いの?という行動パターンが散見される。

遅かりし由良之助。

>旧くは,ポリ塩化ビフェノール(PCB)のよる健康被害の問題、地球温暖化の要因との判断によるハロンやフロンガスの製造中止問題が思い起こされる。水銀中毒、鉛中毒なども同様で問題が大きくなり報道され、初めて世間の注目が集まる構造になっているようだ。

今の原発問題のようなものですね。先見の明は存在しない。

>一方専門家と言われる人達はどうだったのでしょうか?。厚生省の血液製剤問題でも同じだったように思いますが、問題を知っていたという構造がクローズアップされ、そして問題を知っていたのに適切な対処をしなかったという視点で糾弾されるパターンに、本当の構造問題が潜んでいるように思えます。

そうですね。頭の構造問題かもしれません。意思が無いので、適切な対処をしなかった。

>恣意的無作為。この問題はどんな柵(シガラミ)を抱えており、どうしてそうならざる得ないのか構造的背景を明らかにしておくことが重要だとの意見に賛成です。そうしなくては今後共同じ繰り返しになりそうです。

同感です。日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制が無い。(英語にはある。) だから、日本人には意思が無い。意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way.) 意思のない人には解決方法が無い。だから、無為無策でいるしかない。これが恣意的無作為であります。そうならざるをえない文法的構造は明らかではないでしょうか。

>しかし、こういった(認識の)構造問題はもっと根底になっている人々の意識はどうなっているのか?といったところまで掘り下げる必要を感じています。そして現在のマスコミや評論家の人たちがそこまで踏み込んで議論することを回避しているのも頷けます。

現在のマスコミや評論家の人たちは浅薄ですね。考えに奥が無い。洞察力が無い。

>根底の潮流を掘り下げることが出来るのは、柵(シガラミ)を持たない私たち素人の認識をとことん掘り下げてゆくことと同意語なのです。このるいネットのような探求こそ問題の根底を開くことになるのでしょう。

教養のある人が必要ですね。無哲学・能天気の人であっては、対処できない。今のところは、人手不足はあっても、頭脳不足は無いようです。



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事実と真実

2017-07-16 16:56:00 | 政治
>「『事実』と『真実』は違う」-ハンガリーの映像作家の言葉である。これは「映像」に関して言われた言葉であるが、19世紀末以降、写真・映像は実際にそこにあるものを「そのまま写した」ものとーすなわち、事実をそのまま示すものとして扱われた。

写真・映像に注釈が無ければ、事実のままですね。信頼できます。

>とりわけプロパガンダフィルムにおいて、そう捉えられた映像の危険性を筆者は述べている。

プロパガンダは危険ですね。事実ではないからです。

>無残に血を流す子供の屍の映像ー子供が死んでいるということは「事実」である。
>しかし、それに「アメリカ軍兵士によって射殺された子供の一人」というタイトルがつけば、強力な反米意識の宣布になろうし、逆に「イラクの反政府テロリストによって」となれば、「反テロ」を標榜する側支持の意識になろう。
>実際には、パリの下町で自動車に撥ねられた子供の屍であろうともである。
>あるいは、写真の一部のみを切り取ることで「事実」を捏造することができる。

捏造は恣意 (私意・我がまま・身勝手) ですね。

>最近のコンピュータを用いた画像処理技術の発達によって、映像の「事実」性への懐疑は深まっているというが、それも写真の「事実」性を前提にしている。

事実を示す写真は重要ですね。捏造はどこにでも入り込みますね。

>つまり、機器によって写されたものは人間の思念に左右されない「客観性」を持つという思い込みが未だ拭い難く存在しているのである。

考え (非現実) は、個人によって左右されますね。

>同様のことが「科学」にも言えよう。
>「科学とは、自然についての客観的な事実と法則の集積物であり、揺らぐことのない確固としたものだ、という誤解はひろく見られるものである。こういう誤解をしている人たちは、例えばなにかについての研究論文が一本でもあるとそれはもう全宇宙的な絶対的真実であると思い込んでしまう。」(R.レウォンテイン『遺伝子という神話』訳者あとがきより)

事実 (現実) は一つですが、その解釈 (非現実) は人の数ほどありますからね。矛盾のない考えは、すべて正しい。これは、現実肯定主義者の日本人には、理解しがたいことですがね。

>「科学」-というより「科学者」が示すゆえに、それがすべてに適応できる「客観的事実」として受容されることはすくなくない。
>人間を含め、生物体は現実に存在する事実である。
>それを恣意的に変えることは出来ないー生物体の「事実」はこうなのだ、だから、人間の社会はこうなのだ と言われて、どう反論できるだろう。

考えは、人人によって違いますからね。事実を認めないのではなくて、その解釈に異論の存在する余地はいくらでもあるでしょう。

>反証を行うには膨大な手間と時間、場合により装置を必要とする。

反証も仮説程度にとどめておけば手間が省けますね。

>いわゆる「生物社会学」は、C.ダーウィンをその始祖と捉えてもよかろう。
>彼は19世紀中葉、産業革命の結果としての諸社会問題をきっかけとしてその研究を進めた。
>同じ状況に対し、同じ時期にマルクス、エンゲルスの活動(「科学的社会主義」)がある。

そうですね。偉大な方々ですね。

>即ち、「科学」もまた時代・社会の産物である。

科学者も、時代・社会の申し子ですからね。

>どの社会的現象から、どの「事実」からその研究なり追究なりが求められたのかの検証が重要であろう。
>だれも逆らえない「客観的事実」による というものによって、世界・社会が解釈されるのは、自然におこる現象ではない。

そうですね。自然に起こる現象ではありませんね。解釈 (非現実) は、個人の脳裏で起こるものですからね。

>必ず特定の意図があるはずである。(旧ソ連のルイセンコがその最適の例だろう。ナチスの人種理論もしかりである)

考えは、人それぞれに違いますね。政治家に都合の良い学説は、政治に利用されますね。


>現在「分子生物学」「遺伝子学」が盛んであり、論議・論争も盛んである。

科学の進歩ですね。

>通俗映画の登場人物さえ、「うちの遺伝子がこうなってんねん。」と怒鳴るのである。

生物学の学術用語が広まりましたね。

>「遺伝子」の存在は「客観的事実」である。

そうですね。

>しかし、その「真実」はどうなのかは未だに解明過程である。

真実は、個人自身でつかむものでしょう。個人個人に自己の哲学が必要ですね。

>どういうことのためにその「真実」を追究してゆくかが重要であろう。

それも、個人個人で違うことでしょう。
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隷従への道

2017-07-15 11:50:41 | 政治
(前略)

>自由主義社会における法律や道徳の基盤は、どのような高尚な目的のためでも、「やってはいけない事はやってはいけない」と手段の善悪を問う所にある。貧乏人に小判を配ろうと金持ちの家に泥棒に入るネズミ小僧は、法治社会では犯罪者である。
>「目的は手段を正当化する」という考え方は、個人の倫理観、道徳感情を麻痺させる。その結果、ナチスがユダヤ人を抹殺しようとしたり、ソ連で収容所列島が作られたり、中国で知識階級を追放したり、という人権無視の暴走政策が取られるようになる。

だから、ソ連でも、中国でも、ノーベル賞作家が出てくるのでしょう。

>その一方で、国民一人一人が持つ宗教心や道徳心は政府の批判につながりかねないので、徹底的に弾圧する。ソ連ではキリスト教が、中国では儒教が弾圧された。

こうした国々には、移民・難民は押しかけないでしょうね。

>「何が正しいか」を決めるのは政府であって、各個人はそれに従うだけである。逆に言えば、政府がすることはすべて正しいことになる。だから全体主義国家は必然的に腐敗する。

唯我独尊ですね。我とは、この場合支配者グルーブの人たちのことですね。自分たちは、現代の法王であると自認しているようですね。

>こうした腐敗により、平等を目指していたはずの全体主義国家では、かえって貧富の差が激しくなる。ソ連においても、「上位人口の11~12%が、国民全体の所得の約50%を得ている」という推定があった。これは当時の米国の上位10%が国民所得の約35%を得ていた状況よりもひどい。

権力者は、富の我が方への偏在を追求していますね。

>中国における貧富格差も同様にすさまじい。1998年の時点で上位10%の人口が総収入の38.4%を占めていた(何清漣『中国現代化の落とし穴』草思社)という。
>10億円クラスの超高級住宅に住み、1億円以上もする超高級車を乗り回す大富豪がいるかと思うと、年収百ドル以下の農民が9千万人もいる。
>我々は皆が貧乏であれば我慢できるが、自分が貧しいのに豊かな人がいると、妬みの情を抱く。まして共産党幹部が特権を使って金持ちになったのであれば、なおさらである。
>「政府への不満を誘発しかねないことは、すべて、国民の目から遠ざけられるだろう」とハイエクは言ったが、これを渡部昇一氏は次のように解説している。>全体主義というのは、思想やイデオロギーの闘争だけでなく、事実そのものをねじ曲げなければならない体制だということです。

民は知らしむべからず、よらしむべし。という方針か。これは報道管制ですね。

>したがって、知識を伝える学校教育、新聞や映画などのメディアは、人々が統制する側を信頼するように仕向けるためにだけ使われるようになり、疑いや躊躇を生む可能性のある情報は発表されないようにコントロールされるとハイエクはいいます。

‘見ざる、言わざる、聞かざる’ ですね。人の心を惑わすメディアは不要ということか。

>学校教育やマスコミ報道を通じて、全体主義政府は「国有思想」を国民に吹き込む。それは理想追求、あるいは敵への憎しみ、という熱烈な感情を国民に植え付け、それによって国民の不満をそらしながら、特定の方向に動員するのである。

国有思想は為政者の恣意ですね。上意下達でやるしかない。

>理想追求としては、ナチスの「アーリア人種による世界支配」、ソ連の「国際共産化」、中国の「大中華民族の再興」がある。

どれもこれも単純な ‘掛け声’ ですね。念仏のお題目の様なものか。

>敵への憎しみを煽るという面では、ナチスのユダヤ人排斥、ソ連の西側資本主義との対決、そして昨今の中国では「反日」を利用している。

全体主義政府は、人民の注意を外側に向けて、’考える人’ になる事を妨げているのですね。

>こうして全体主義国家では、善悪も真実も理想も、そして憎しみさえもが政府にコントロールされる。国民はそれに盲目的に従うロボットになるしかない。まさに「隷従への道」である。

全体主義国家は、生身のロボット生産国ですね。

>自由主義国家においては、国民一人一人が何を善悪と考えるかという「良心の自由」、何が真実かを追究する「学問の自由」「報道の自由」を持ち、自分の頭で考え、法の枠内で自分の良心と欲求に従って行動する。

‘Independent!’ (自主・独立) は、アメリカ人の褒め言葉ですね。

>そういう生き方を理想とするのが自由主義であり、国民をロボットとして隷従させる全体主義とは、この点で本質的に対立する。

個人の自由意思を尊重するのが、自由主義ですね。個人の意思を無視するのが全体主義ですね。

>現代の中国は、ナチスやソ連に比べても、人口規模、軍事力、経済力、政治外交力、メディア・コントロール技術の各面においてはるかに強力である、と言える。

中国は、一部の人たちの利益のみを追求していますね。今だけ、金だけ、自分だけの処世術ですね。

>この史上最大・最強の全体主義政府が、国内の農民階級を抑圧し、チベットやウィグルなどの異民族を武力支配し、そして台湾をミサイルで脅かしている。そして、そのような国がわが国に隣接しているのである。

我々は、全体主義には、注意を払わないといけませんね。

>~後略~



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