gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

呉善花氏 2/2  

2022-11-16 20:50:18 | 文化

>また同時に、日本語のよさが少しずつ見えてきた。   

>日本でも最近は、「私が、私が…」と自己主張を繰り返す人が増えたが、欧米・中国、他のアジア人に比べ、他人の立場で考えられる人が多い。   

 

他人の立場では日本人の忖度 (推察) の習慣によるものですね。彼らは何処までも押してきますからね。       

 

>日本語の表現自体にそうした国民性を生みだす素地があると考える。    

 

そうですね。素地がおおありでしょうね。日本人は思考停止により無哲学・能天気の状態になっていますからね。つかみどころのない人間になっています。            

 

>日常的に使われている『受け身』(受動態)が日本語の性格、国民性を左右している。   

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。積極性がなくて、消極的である。受け身の発想しかできません。指示待ち人間になっていますね。              

 

>日本語の「受け身」は、助動詞「れる」「られる」で表現する。   

>世界的には「受け身」がない言語が多い。   

>現代文法の「受身」は、『あるものが他のものに働きかける動作を、受ける側を主役(主語)にして述べること』。   

>つまり、「叱る」「押す」「蹴る」「打つ」など、他のものに働きかける動作を示す言葉に、受け身という位置がある。   

>ところが日本語は、自動詞でも受け身で用いることがしばしばある。    

>日本語の不思議な由来である。   

>外国語では受身がつくれない自動詞なのに、日本語では普通に受け身が使われる。   

> 「ああ、先に座られちゃった」 「そこに寝られると通れない」 「そばで煙草を吸われるのは嫌だ」 「あなたに死なれると困る」   

>いずれも間接受身で、「迷惑受身」といわれ、日本語にしかない話法です。

 

そうですね。被害者意識の源のような表現ですね。   

 

>「逃げる」「入る」「座る」「寝る」「吸う」「死ぬ」・・いずれも、他のものに働きかける動作でない。   

>「迷惑受身」は外国語に直訳できない。  

 

残念・無念ですね。   

 

>韓国語には、迷惑受身がない、日常でも受け身を使わない。    

>「泥棒が入った」の能動表現になる。   

>中国語では、動詞を変化させないで、前置詞に『被』を追記して受け身にする。   

>「泥棒がうちに入った」となる。   

>日本語では、「泥棒が入った」と能動表現するが、自分の家だと「泥棒に入られた」と受け身表現になる。   

 

日本人の被害者意識が表れていますね。    

 

> 責任は私にあるという発想   

>中国・韓国で使わない「受け身」を、なぜ日本では多用する?    

>己の心に反省(自責)の気持ちが現れる。   

 

ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。世間をお騒がせしてすみません。ということですね。       

 

>タクシー待ちの場面でも ・・・ 言葉使いから、国民性、文化の違いが現れる。   

>日本人が :「(私が)先に乗られてしまった」    

>別人の存在に気が付かず迂闊だった、自責の念が感じられる。   

>主語()を付したらより明白。

>韓国人なら :「あの人が先に乗って行ってしまった」    

>相手の行為を非難するばかりで、自分が省みる気持ちは全くない。    

 

攻撃は最大の防御なり (孫子)    

日本人と韓国人の言い争いは避けられませんね。   

 

>先の、「泥棒に入られた」の例も同じで、日本人は戸締の管理を反省する気持ちが表現される。   

 

月夜に釜を抜かれるですね。   

 

>韓国人なら受身を使わないから、「泥棒が入った。家の管理が甘かった」と 言葉を追加する。   

>英語の場合は、明快・単純に気持ちを表現している。   

>「財布を盗まれた」 ○: I had my purse stolen. (had+目的語+過去分詞)    > ×: I was run by my wife. ○:My wife left me.  

>日本の男性は、女房守ってやれなくて情けないと、自責の念に駆られる。   

>それを聞くと、頼りない人に思う。   

>逆に能動態にして、「女房が逃げた」だと、 勝手に家を出た悪い女房、可哀相な旦那となる。   

>日本語独特の「迷惑受身」は、受けた側にも責任があることを問題にする発想が潜んでいる。   

 

世の中お互い様ですかね。真の犯人が霞んでしまいますね。       

 

>◆「自発」から「受け身」「尊敬」「可能」の派生    

>日本語の「受け身」表現の基本(特長、興味深い)は、「尊敬」「可能」「自発」の意味を、同じ「れる」「られる」の助動詞で表すことにある。    

>中学校の学校国語で習った筈だが ・・・   

>「受け身」… :先生に叱られる   

>「尊敬」…… :社長が来られる    

>「可能」…… :野菜を食べられる    

>「自発」…… :故郷が思われる    

>「れる」「られる」がどの意味かは、前後の文脈で判断するしかない。   

>日本語を学習する外国人は、混乱難解の極みである。

 

日本語は高文脈文化の言語ですから難しい。    

 

>「受け身」「尊敬」「可能」の意味の起源は、すべて「自発」の意味から派生している。   

>「自発」は無意識にしてしまうこと、言い換えると、自分超えた存在や力によって自然に起きることを表わす。

 

そうですね。日本人の生活はアニマルと共に自然の中に溶け込んでいますからね。全て自発ですね。       

 

>この「自発」を起源に、自分を超えた存在や力に敬意を表わす「尊敬」、自分ができないことを超越的な力によってできるようになる「可能」、超越的なもので自分が動かされる「受け身」の意味が、派生して生まれた。   

>日本語の世界で、超越的な力を及ほすものは、『神さま』に外ならない。   

>日本の八百万の神々は、自然界の神々、実質的には自然そのもの。   

 

神は自発の根源ですね。    

 

>四季に恵まれた日本の風土は、人びとに対する絶対的な畏敬、服従、受け身、の志向を生んだ。

 

自然崇拝ですね。    

 

>「受け身」に限らず、この志向が、今も使う日常的な言葉の隅々に現れている。   

>「なるようになる」 :自分の意思と関係なく、自然に任せた方が上手くいく。    >外人から見たら信仰に近い。   

 

無意思の特徴ですね。   

 

>「他力本願」 :他人任せで自分の意思がない、悪い意味で使われる。   

>本来、浄土宗の教えで、自力では極楽浄土できなくとも、南無阿弥陀仏さえ唱えれば、仏様が救ってくれる、が由来。   

>「おかげさまです」:日本人の「お元気ですか」に対する返事。    

>「お蔭~」は、自然の神仏、ご先祖様の霊を意味する。    

>日本人は、神仏、周囲の人々の助けに感謝の気持ちを自然と共有する。   

 

意思のない世界の特徴ですね。   

 

>◆「君を恋する」と「君に恋する」の違い    

>現代日本人は、「君に~」と「君を~」の両方を使うが、微妙なニュアンスの違いを余り意識していない。   

>日本語を学ぶ外人は、それぞれの心の状態を理解することで、日本語の奥深さを感じる。   

>「君を恋する」 :恋がしたくて、自分から相手に恋する気持ち。   

 

積極的ですね。   

 

>「君に恋する」 :君によって、自分が恋に巻き込まれていく感じを表現している。   

 

消極的な感じですね。  

 

>「君に恋する」に類した表現は、韓国語にはない。   

>また、英語でも「Love」を使って表現するのも難しい。    

>日本の古代、奈良時代まで、「君に恋ふ」と云って、「君を恋ふ」とは云わなかった。   

>古代日本人は、こちらから思う心ではなく、自然に相手に愚かれていく心こそが、「恋ふ」と感じられたのでしょう。   

>しかし、平安時代に、「に」が「を」に変わり、「人を恋ふ」というのが一般化された。   

>こちらから相手を思う心に意味の中心が移って、語法も変化した。    

>しかし、「君に恋ふ」感情が核心にあることに変わりない。   

>『源氏物語』に、社会的に恋愛関係になってはいけない相手に、止めようもなく惹かれる人の心を様々に描がかれている。   

>否定しようにも否定できない、成るようになれと肯定するしかない・・・自然の流れに身を任せる脆い人の心「哀れの美学」を感じる。   

>こうした何事にも対する受け身の姿勢が、現代日本人にも受け継がれている。    

 

日本語と受け身は切り離せませんね。    

 

>キリスト教、儒教文化の人も、どうにもならない恋心の苦しさ、心の葛藤は同じである。   

>しかし、そのどうしようもなさを、人為を超えた自然の働きに重ねる美学は本人(日本語)だけのものである。

>日常の何気ない言葉にも日本文化の本質が表現されている。   

 

日本文化の本質は無意思ですね。   

 

> 所感:   

>美しい日本語の背景にある自然感を知れば、難解な[受け身・尊敬・可能・自発]の使い分けが可能になる!    

>計算機エンジニアの作成文章で陥りやすい易いのが 【丁寧>自発>可能】の多用で、曖昧な表現になり易い。    

>コンピュタ処理に畏怖する言葉を使う必要もない。   

>能動態 (自発>受け身を排除) の明快な表現が良い。   

>要求定義書・製作仕様書は物創りさせる側の立場、取説は使う側の立場、障害報告はベンダーの立場 ・・で相手を考えた、ストレート・明快な肯定文で、曖昧さを排除した文章が望まれる。   

> 気になる言葉:~が表示される ~が更新される ~出力(入力)される ~処理される ~伝達された ・・・ :~書かれた ~云われた ~報告された ~説明された     

>顧客に提出する技術文書で、尊敬・謙遜・丁寧の配慮は、二の次で良かろう・・・明快な文面内容が最優先する。   

 

 

.

 

 

 


呉善花氏 1/2  

2022-11-16 20:33:12 | 文化

>『日本の曖昧力』 融合する文化が世界を動かす    >PHP 新書)   

>著者 善花(おそんふぁ) 1956 年生、韓国済州島生、大東文化大・東京外語大院;北米地域研究   

>著書 「蝦夷の韓国 開国の日本」「日本語の心」「韓国人から見た北朝鮮」 ほか   

>冒頭 日本人は「物事をはっきり云わない」「自主性がない」などと非難されることが多い。   

 

そうですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>韓国出身の比較文化学者の著者は、『むしろ曖昧だからこそ、日本は世界有数の豊かな国になれた』と判断した。   

>これからは世界全体で、調和がとれた人間関係・環境への順応性を生み出す「曖昧力」が必要な時代。   

 

これからは国際的な話し合いが必要な時代です。議論が出来ないといけない。曖昧な態度でいては挫折するでしょうね。   

 

>◆外から見た日本文化   

>国際社会では、自分たちの文化を説いて、認識してもらえることが重要である。   

>日本で通用する感覚・観点をそのまま世界に持出すのは無理がある。   

 

そうですね。   

 

> 世界的な視野で日本文化を大枠で理解する日本人は少ない。   

>日本人は、問題点・悪い面ばかり気にして、恥を感じても、誇らしく感じる機会は極稀である。   

 

そうですね。日本人は極めて窮屈な生活をしていますね。     

 

>責任をはっきりさせない、結論がない、自己主張がない・・・・ これらを欠点と感じている日本人がとても多い。   

 

そうですね。意思がない。責任がない。世界観がない。批判精神がない。自己主張がない。などなど これらは我々日本人の欠点ですね。    

 

>しかし、日本の曖昧さが、今の世界が陥っている限界を切り開き、世界を動かす起動力として期待されている。   

 

それは初耳ですね。  

 

> 食事に誘い「何を食べますか?」:「何でもいい」、商談の場で「この条件でどうですか?」:「考えさせて下さい」と答える。   

 

日本人には意思がない。だから、意思決定の必要な場合には戸惑いをみせる。   

 

>日本人同士だと、直接言葉や態度に出ない相手の心の内を察し、時・場所・状況に照らして相互理解ができる。    

 

それは忖度 (推察) によるものですね。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈によるものですから責任を持つ人がいないですね。       

 

>そのような、曖昧さを察し合う、コミュニケーション文化が日本社会にある。   

 

そうですね。ありますね。   

 

> 日本人に特有な曖昧さが、人と人との親和で平穏な関係を生み出す    

>他の国にはみられない大きな利点で、これからの調和と融合をめざす国際社会では、『曖昧力』の働きが大きな役割を果たす。    

 

そういったこともあるでしょうね。しかし、政治では危険極まりないですね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、以下のように述べています。   

日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、一人のナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。戦後の復興も同じである。戦後の復興はだれが立案し指導したのか。ある罷免された大使が、ドゴール、毛沢東、ネールの名はだれでも知っているが、吉田茂などという名は特別な知日家を除けばだれも知らないと言っているが、これは事実である。(引用終り)  

 

> 曖昧力は環境への適応性も生み出す    

>『西洋的な自己』(アイデンティティを確定した個)でなく、『日本的な自己』:(曖昧な個)は、変化する環境で生き抜くのに最も相応しい姿を目指すものだと考える。   

 

そうですね。自然界のアニマルがその手本ですね。    

 

>グローバル化が浸透する国際社会では、曖昧な日本人の環境への適応力は非常に大切になる。

 

そうですね。日本人は様子見が発達していますからね。だが、国際社会の指導者にはなれませんね。       

 

> 曖昧さは品格の問題に繫がる    

>得意げの自慢、「いかにもそうだ」の見せ方、そのものズバリの表現は、はしたないと嫌われ、なにげない素振り、それとない装い、遠回しの言い方が、品格があって好ましいと感じられる。   

 

そうですね。奥ゆかしいですね。奥が深くて慕わしい。全ては気分・雰囲気の問題ですね。       

 

> 曖昧力は、美意識や美学にも通じる    

>室町中期の茶人:村田珠光(「わび茶」の創始者)は、「月も雲間のなきは嫌にて侯」(『禅鳳雑談』)といった。   

>満月の煌々と輝く月より、雲で見え隠れする月が好き。    

>日本人にしかない「わび・さび」の美意識は、日立った飾りを排し、清楚で簡素な古びた趣を愛す。   

>「幽玄」は、隠され秘した姿・形から深い感動を覚える。   

>「いき」は、派手な柄を嫌い、一見無地とも見える細かい紋様を一面に染めた小紋を好む。   

>日本では目に鮮やかな原色より、微妙な表現を持つ水墨画や、しつとり沈んだ中間色が好まれる。

 

そうですね。霞んでいるのが良いようですね。大気中の水蒸気の量に関係があるのかな。        

 

>「四十八茶百鼠」茶色:80、鼠色:70種類の色。    

>中間色も微細なゆらぎを湛えた色の曖昧な世界が豊かに広がる。   

>姿・形は、完全な均衡や左右対称を嫌い、わずかに壊した動きある状態を好む。   

>正形・正統性に対して軽妙な崩しをする。   

>空間を飾りで埋め尽くさずに、空白・余白を残す。    

>規則的でない、不定で流動的な動き、遊びやゆとりのある動きを好む、曖昧さの美学がここにある。   

>そして対立とは正反対の融和する文化の姿を感じ取ることがでる。   

>自然科学や情報科学の面でも、曖昧さ、ゆらぎ、ファジイ、多義性の探求は、先端テーマである。   

>日本文化はその曖昧さゆえに調和・融和の圧力が働く。   

>日本文化は対立に飽きた世界を根本から変え得るパワーであり、『曖昧力』を豊かに湛えた文化といえる。  

 

馴れ合いの文化ですね。   

 

> 日本語独特の表現 「泥棒に入られた」 (迷惑受身)    

>温泉に行きたいと、『何処どこの温泉はいいらしいね』 と云う。    

>西洋人は、曖昧な表現にイライラする。   

 

高文脈文化と低文脈文化の違いによる禍ですね。    

[高文脈文化と低文脈文化の比較の例]

《高文脈文化》の特徴:  言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない /

《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語  / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 /

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)

 

>相手の日本人は、『なんで私の気持ちを察してくれない……』 と、ストレスがたまってしまう。   

 

忖度 (推察) は他力本願・神頼みの方策ですね。   

天は自ら助くる者を助くゆきたいものですね。   

 

>英語と日本語の成り立ちを比較・研究した。   

>互いの意見をぶつけて議論する「ディベート」を、日本語で行うには無理があることに気づいた。    

 

日本人は思考を停止していますからね。自己の内容をお互いに見せ合って議論することはできませんね。   

 

 

.

 

 


大学ランキング  

2022-11-13 17:14:48 | 文化

>現代ビジネス   >大学生が勉強しないのだから日本経済の基礎体力低下は当然のこと 特に最近10年の凋落は著しい   > 野口 悠紀雄 2022/11/13 06:00  

 ()   

>大学ランキングでもそうだ。   

>10月に発表されたTHETimes Higher Education)による世界大学ランキング2023では、上位100校に入る日本の大学は、前年と同じくわずか2校だ。   

>しかも、東大は、前年の36位から第39位に、京大は61位から68位に、それぞれ順位を落とした。   

>最近では、論文数が減少している。   

>「注目度が高い科学論文の数」で、日本は、前回の調査(1719年平均)では10位だったが、1820年平均では、スペインと韓国に抜かれて、12位になった(「科学技術指標20222022109日)。   

>199799年には、日本は世界第4位だった。200709年でも第5位だった。最近10年間の日本の凋落ぶりは、誠に著しい   

>こうした状況は、日本の大学・大学院のレベルに深刻な問題があることを示している。   

 

そうですね。日本の高等教育機関では大人の教育が成り立たない。   

 

>大学生が勉強しなければ、企業が新しい技術を開発したり、新しいビジネスモデルを作ったりすることはできない。   

>とくに、インターネット時代の激しい変化に追いつくことはできない。   

>日本の経済力が低下するのは、当然だ。   

 

日本の大学では、皆さん合格・卒業ですね。   

 

>こうした状況を挽回しようと、岸田文雄首相は、大学ランキングの上位100位に日本の大学が10校入ることを目指すとした。   

 

見上げた心がけですね。    

 

>しかし、実現できるだろうか?   

 

無理でしょうね。   

 

>10兆円の大学ファンドの設立が決定されたことに見られるように、資金面の手当だけが論じられているのだが、それで問題が解決できるとは、到底思えない。   

 

そうですね。哲学と宗教に弱い日本人の体質ですからね。   

 

>すでに、国立大学には多額の財政資金が投じられており、私立にも助成金が出ている。   

>むしろ、それらが正当化できるのか、という議論が出ても、しようがないだろう。   

 

根本原因を突き止めて正す必要がありますね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>ジョブ型雇用を導入できるか?   >なぜこうした状況になってしまうのか?   

>その基本的な原因は、「勉強しない日本の大学生と、死に物狂いで勉強するアメリカの大学生」で指摘したように、日本企業が、高等教育機関大学や大学院での教育成果を、賃金という形で評価しないことだ。

 

日本人の学生は思考を停止していますからね。日本の高等教育機関でも失敗しますね。英米の教育機関でも授業に付いて行けませんね。だから、英米留学もわが国では流行らない。      

 

>こうした状況では、大学生が勉強せず、バイトや交友に精を出しても、やむを得ない。

 

我が国の外国人研修制度のようなものですね。   

 

>結局のところ、日本企業の給与体制が日本の人材の高度化を妨げ、それが日本の経済体質の弱化を招いていると言うことができる。

 

思考停止による無哲学・能天気が原因でしょうね。給与の低迷はその結果ということになるでしょうね。      

 

>日本の雇用体制は、「先進国という明確な目標に向けて社員が全員一致して協力する」というキャッチアップ過程には適したものだった。   

 

他人・他国の受け売りと後追いに専念していましたね。知識は尊ばれたが、知恵は見過ごされていました。 だから、福一原発のような事故 (メルトダウン) が起こる。         

 

>しかし、新しいビジネスモデルを探り、技術開発を行なうという先進国型のものには進化できていないのだ。

 

日本人には世界観がない。だから、来るべき世界の内容は日本人の想定外になっている。   

 

>岸田首相は、こうした状況を変えるべく、「ジョブ型雇用体制の導入を企業に促す」としている。   

>これは、先進国では、ごく普通の雇用形態だ。   

>だから、これを目指すのは、望ましい方向だと思う。   

>しかし、これを実施するのは企業であって、政府ではない。   

>政府は、企業に強制することはできない。   

 

何事も法律によりますね。   

 

>それをどのように行なうかが、考えられなければならない。   

 

政治は大変ですね。ノンポリ・能天気の国民がついていますからね。国民に対する懇切丁寧な説明が必要でしょうね。        

 

>岸田首相は、また、「リスキリング」の重要性も強調している。   

>これも必要なことだ。しかし、リスキリングは、基礎学力がなければ成功しない。   

>例えば、統計学の基礎に習熟していなければ、データサイエンスやファイナンス理論を学ぶことは難しい。   

>これを実現するには、大学・大学院の抜本的な改革が必要とされる。  

 

危険を犯すことが無謀な企てに成らぬよう国民の監視が必要ですね。    

 

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。  

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

 


テムチルト代表  

2022-11-12 19:56:37 | 文化

>産経新聞   >「中国が文化的ジェノサイド」南モンゴル会議代表 日本の関与訴え   > 2022/11/12 18:17  

()   

>中国・内モンゴル自治区でのモンゴル民族の自決権確立を目指す国際組織「世界南モンゴル会議」のショブチョード・テムチルト代表が亡命先のドイツから来日し、12日までに産経新聞のインタビューに応じた。   

>同自治区は教育現場などでモンゴル語の使用が制限され、抗議する人々が中国当局に拘束された。   

>テムチルト氏は自治区の一部が戦前の満州国だったことなどに言及し、「非人道な中国の政策を止めてほしい」と日本の関与を訴えた。   

 

自由と人権は見逃すことができませんね。    

 

>--2020年秋以降、自治区の小中学校で標準中国語の使用が決定された   

>「モンゴル人は抗議活動を起こしたが、5千人以上が刑務所に入れられた。   

>モンゴル帝国の始祖、チンギスハンの肖像画が教室から撤去され、看板に書かれたモンゴル語が消された。   

>今もモンゴル人社会は心理的圧力を受けているが、家庭で子供にモンゴル語を教えるなど手法を変えて抵抗を続けている」   

>--中国語教育の強化に抵抗する理由は   

>「『文化的ジェノサイド(集団殺害)』だからだ。   

 

文化的な根無し草になるのは奴隷と同じ状態ですね。   

 

>モンゴル語が話せなければ、モンゴル人の心理的な架け橋が無くなる。   

>祖先から伝わった文化の志を子供たちに伝える道が閉ざされる」   

 

そうですね。民俗文化喪失の危機ですね。わが国におけるアイヌ語のようにならないことを願いますね。他国の失敗から自国の危険を学ぶことが重要ですね。         

 

>--1960年代の文化大革命(文革)でもモンゴル語の使用が制限され、中国当局の公式見解で3万人のモンゴル人が殺害された

>「49年の中国の建国に伴い、南モンゴルが自治区として扱われて以降、中国政府は計画的に文化的ジェノサイドを行っている。   

>満州国時代に日本語教育を受けたモンゴル人の価値観を変える狙いだろう。   

>文革で私の祖父も殴り殺された。   

>文革はモンゴル民族を消すための活動だった」   

>--習近平・中国共産党総書記(国家主席)が異例の3期目続投を果たした   

>「習政権に意見をいうのは時間の無駄だ。  

 

そうですね。習近平氏は全土を漢族優位の社会にしようと、その実現にまっしぐらですからね。   

 

>ウイグル人の強制収容のように、もっとひどい政策をモンゴル人に行うのではないか」   

>--日本に求めることは   

>「政治的対話で中国政府による非人道的な行為の拡大を阻止してほしい。   

 

そうですね。義を見てせざるは勇無きなりですね。日本人もノンポリ・政治音痴ではいられませんね。世界の指導者たるものは未来の方向を指し示さなくてはならない。 

自己の意思を示せば当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本は孤高の国になるべきではない。        

 

>日本は戦後、アジアで初めて人権や法の支配、民主主義を確立した国だ。   

>戦前の満州国建国を通じ、モンゴル人と自由と民主の国を作ろうとした歴史もある。   

 

五族協和: ()・韓・満・蒙・漢() の五民族が協調して暮らせる国を作ることですね。満州国の民族政策の標語ですね。      

 

>民主的な国と一緒に中国の脅威に対抗しないと人類が中国に食われてしまう」   

 

そうですね。権威主義国脅威に対抗するには民主主義国の団結が必要ですね。       

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>(聞き手 奥原慎平)   

 

 

.

 

 

 


カリー女史  

2022-11-12 05:04:43 | 文化

>zakzak   >有本香の以読制毒 「日本は世界に取り残されている感」強く…欧州会議「国際ウイグル・フォーラム」参加 自由と人権は最上位の価値、カリー女史の姿勢に感銘   > 2022/11/11 06:30  

()   

>8日から、ベルギーのブリュッセルにいる。   

>私ごとで恐縮だが、9月末に交通事故で骨折した右足には、まだ添え木を着けている状態だが、いくつかの条件付きで医師の許可が出たので、渡欧した。    

>目的は、ケガの前から招かれていた「International Uyghur Forum(国際ウイグル・フォーラム)」への出席だ。   

>開会式と前半のパネルは、ブリュッセルにある欧州議会の中で行われる。    

>観光コースとしてではなく、欧州議会の中を見、体験することは、私が参加を断念しなかった理由の一つだった。   

>主催者は、世界ウイグル会議と、ドイツ・ケルンに本部を置く「ハセネ・インターナショナル」というイスラム系の人道支援団体などである。   

>とはいえ、会場を提供し、複数の議員が開会の辞を述べたことから明らかなように、欧州議会の面々が強力に支援している。   

>会場には、世界中のウイグル人活動家、強制収容所の体験者のほか、欧州議会、カナダ、英国などの議員も出席した。議員以外にも、国際的に知名度の高い人権のエキスパートらが顔をそろえた。   

>私が特に注目したのは、ドナルド・トランプ米政権時に、世界女性問題担当大使・国連女性の地位委員会代表に任命され、ニッキー・ヘイリー国連大使の右腕として活躍したケリー・エッケルズ・カリー女史が参加していたことだ。   

>カリー氏は、ミャンマーの人権問題に精通している人として知られているが、ウイグル問題とも縁が深い。   

>その縁を詳述する前にもう少し彼女の経歴を紹介すると、1990年代に共和党のジョン・ポーター議員の政策アドバイザーを経て、ジョージ・ブッシュ政権(父)では、ポーラ・ドブリアンスキー国務次官の政策アドバイザーも務めた。

>専門はアジア政策だ。   

>自由と人権を最上位の価値とするカリー氏は当然、中国の人権問題も鋭く批判、矛先は自国のバラク・オバマ政権にも向けられた。   

>そんな氏が、世界中のウイグル支援者の注目を集めた「事件」は2018年に起きた。    

>同年3月、ニューヨークの国連本部で開催された「先住民会議」に出席する予定だった世界ウイグル会議のドルクン・エイサ総裁を、中国が「テロリストだ」と主張し、国連本部ビルへの立ち入りを阻もうとしたのだ。   

>そのときカリー氏は自らドルクン氏をビルの入口に連れて行き、ヘイリー大使に連絡、当時のアントニオ・グテーレス事務総長に入館許可を発行するよう求めて認めさせたのだ。   

>「ドルクン氏がテロリストだというなら、米国が彼を入国させて自由に活動させるはずがない」   

>カリー氏は敢然と、そう主張したのだ。   

>政治的には保守派といえるのだろうが、人権派。   

>そして、国際的な人脈と、何より原則を貫き、主張する強さがあること。   

>日本政界には残念ながら見当たらない存在である。

 

日本人はノンポリ・政治音痴ですからね。   

 

>そんなカリー氏が9日の朝一番、集合場所の欧州議会正門に現れ、旧知の間柄である在米、在カナダ、そしてドルクン氏らと親しくあいさつを交わしていた。   

>私もカリー氏に紹介されたので、彼女に、後日改めてインタビューをお願いしたいと頼むと、二つ返事で「いいわよ。   

>ここに滞在している間でも」と気さくに受けてくれた。   

>カリー氏を含む人権派の法律家らは今回のフォーラムで繰り返し、中国のウイグル人ジェノサイドを看過することは「グローバルリスクだ」と強調した。   

>この会場に、日本の政治家や人権派弁護士は一人もいなかった。   

 

日本人は思考を停止していまからね。無哲学・能天気になっている。同じアジア人と言えども国際的な話合いに応ずるわけにはゆきませんね。     

 

>私は、よく左派が言う、「日本は世界に取り残されている」論には常日頃、懐疑的だが、このフォーラムではその感を強くした。

 

政治には未来の先取りが必要ですね。ところが日本人には世界観がない。未来の世界の内容は想定外になっている。だから日本は世界に取り残されている。        

 

>第一次世界大戦後のパリ講和会議で、世界で初めて人種差別の禁止を主張したわが先祖、古の日本人は草葉の陰で泣いているだろう。

 

その後日本人は名誉白人になりましたけれどもね。   

 

>この期に及んでは、政治家に期待するより、一人ひとりの国民の善意を信頼して、さらに自らの発信の声を高めて参りたい。   

 

日本人には哲学が必要ですね。個人があるべき姿の内容を自作する必要がありますね。それには英米流の高等教育が欠かせません。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。     

 

>■有本香(ありもと・かおり) ジャーナリスト。   

>1962年、奈良市生まれ。   

>東京外国語大学卒業。   

>旅行雑誌の編集長や企業広報を経て独立。   

>国際関係や、日本の政治をテーマに取材・執筆活動を行う。   

>著書・共著に『中国の「日本買収」計画』(ワック)、『「小池劇場」の真実』(幻冬舎文庫)、『「日本国紀」の副読本 学校が教えない日本史』『「日本国紀」の天皇論』(ともに産経新聞出版)など多数。   

 

 

.