聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/6/7 Ⅱ列王記5章1~8節「私は神ではないけれど 一書説教 Ⅱ列王記」

2020-06-06 14:04:19 | 一書説教
2020/6/7 Ⅱ列王記5章1~8節「私は神ではないけれど 一書説教 Ⅱ列王記」[1]

 6月の「一書説教」は、前回の続き。「聖書通読表」で24日から読む列王記第二です。主イエスが来られる前、紀元前九世紀の半ばから六世紀初めまでの三百年弱の歴史です[2]。列王記第一でイスラエルは南北に分裂し、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれました。第二では、17章で北イスラエル王国が遂にアッシリヤ帝国に攻め落とされて、イスラエルの民はアッシリヤや遠方の諸国に連れて行かれます[3]。南ユダ王国も浮き沈みをしながら、最後の24、25章では首都エルサレムが陥落し「バビロン捕囚」に至る。坂道を転がり落ちる悲劇の歴史書です。

 その間に鏤められるのは、前半には、預言者エリヤとその後継者の預言者エリシャの活躍。後半は、信仰的なヒゼキヤ王と預言者イザヤ、その息子の極悪非道のマナセ王、その孫のヨシヤ王の大胆な「宗教改革」といった顛末が書かれます。どれもイスラエルを最終的な陥落から救うことは出来ませんでしたが、それでも、少なからぬ意味はあったと聖書は言うようです[4]。
 今日の5章は「ナアマンの癒やし」を伝えます。アラムの将軍ナアマンは病気で、掠(さら)ったイスラエルの若い娘から、故郷の預言者の名を聞き、会いに行く。その時、イスラエルの王は、
7…私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。…
とやけっぱちになります。「私は神ではない」と。これを聞いたエリシャが、王に言うのです。
8…「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
 エリシャは神ではありませんが、その神から言葉を預かり、その神、主を証しする預言者でした。王も私も神ではないけれど、神がおられ、働かれている。そう語るエリシャとの出会いから、ナアマンはこの後、ツァラアトを癒やされ、主を信じるようになるのです。
 このナアマンの癒やしを、主イエスご自身が引用している箇所があります。ルカの四章です。
23預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」[5]
 確かにそうなのです。エリシャは数々の奇蹟をしましたが、奇蹟の力を盾に、サマリアで多くの人を神に導いたり、王や指導者に悔い改めを迫ったり、社会を変えようとはしません。先のエリヤが天から火を下したようなことは何もしません[6]。新約で、イエスの先に登場した洗礼者ヨハネがエリヤの再来だったなら、エリシャはイエスの予型とも言えます[7]。でもそのエリシャは、目立った派手派手しい働きや、力尽くで権力者に迫り悪と闘うことを手放している。むしろ、同僚の家族を養ったり、出会った夫婦に子どもが授かるよう祈り、その子どもが死んだ時、自分の命を重ねてよみがえりを戴いたり、小さな業を大切にすることに徹しています。Ⅱ列王記は、王の悪政や、諸外国との戦争や駆け引きの時代です。災害、飢饉や干ばつも多々起こり[8]、貧困問題もあり、預言者達も借金で汲々としていました。暴力的な政権転覆(クーデター)も度々起きますが、そうした血腥(ちなまぐさ)い革命は必ずまた、同じ悪の路線を踏襲して、最後は暴力的にその座も命も奪われています[9]。でも、その大きな破局への悲劇の中、エリシャ達が、小さな関係を喜び、小さな繰り返しを大事にしている。神の静かな慰めが小さく輝いているのです。
 そうです。Ⅱ列王記には、罪を責める以上の眼差しがある。それは
「やがて本当の王が来てくださる。その来たるべき王にこそ、救いも望みもある」
という聖書全体の主題です。神から離れた人間は思い上がり、失敗し、無理に改善しようとして悲劇を招いてしまう。でも、その人間を、神は憐れみ、導いて、心に神への信頼と、お互いへの愛や恵み、慰めや励ましを育てる神がおられます。神がいて治めておられる、という希望があるのです。
 そして、やがて王イエスが来られました。イエスに、神の力や奇蹟で社会を変えることを期待した人たちもいましたが、イエスが彼らに思い出させたのが、このナアマンの出来事です。
 真の王なる神は、敵のアラム人を癒やす神です。
 イスラエルから連れ去られた少女の優しさを用いる神です。彼女の小さな運命や赦しや勇気が、神の御業を産み出したのです。人には思いも寄らないことをなさる神[10]。神を忘れた人に、自分も神ではないけれど、本当の神がおられる。私たちも「私は神様じゃないんだから」と言いますが、神はおられる。その神はどんな神かが、このナアマンの癒やしにも、物語られています。それはイエスに通じる、待ち望む信仰、小さな愛を祝福される神です[11]。
 Ⅱ列王記の結びは、バビロンに囚われたエホヤキン王が温情を受けた。牢から出され、優しい言葉をかけられた記事です。
「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十七日、バビロンの王エビル・メロダクは、王となったその年のうちにユダの王エホヤキンを牢獄から呼び戻し、28優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。29彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。30彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。」[12]
 悪い王が最後優しく扱われる。これは、エレミヤ書の結びで、ほぼそのまま書き写されています[13]。涙の預言者エレミヤが捕囚の散々な時代を歩んだ悲しみの記録の結びに使う希望のエピソードは、列王記が結びとしていた出来事です。列王記は、どん底にあって、なお主がおられる、希望はあると語っています[14]。私たちは神ではなく、生ける神がおられる。今ここでもどんな王にも勝る主イエスを仰ぎながら、歩めるのです。[15]

「王なる主よ。列王記を有難うございます。私たちは神ではありませんが、神であるあなたがいてくださり、あなたにしか出来ないことをしてくださいます。人を戒めるだけでなく、あなたがどこにでも御業を為し、世界を癒やし、恵みを注がれます。どうか今も、私たちをあなたを疑って、待てなくなる愚かさから救い出してください。世界に働いておられる良き御支配を待ち望み、小さな良き業を喜ばせてください。世界も私たちの心をも癒やして用いてください」

脚注

[1] 以前から紹介している「Bible Project」が、日本語版の「列王記」を追加してくれました。こちらからぜひ鑑賞して下さい。(もちろん、全部鵜呑みにする必要はありません)https://youtu.be/j0n4ifWAoTY
[2] 前853年アハブの戦死から、586年のユダの陥落まで。
[3] これが、紀元前七二二年の「アッシリヤ捕囚」です。
[4] ですから、道徳的だけにこの書を読んでしまい、「絶望的で反面教師でしかない」というのも違うでしょう。
[5] ルカ4:23~27「そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」24そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。25まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、26そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。27また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」
[6] むしろ、エリシャの働き。エリヤの活躍に比して、地味。だが、「派手な活躍が、回心を引き起こすわけではない」ことこそ、エリヤ、Ⅰ列王が至った結論だったのです。
[7] 名前も、エリシャ(神は救い)とイエス(ヨシュア、主は救い)と似ています。
[8] Ⅱ列王記4:38「エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こった。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたので、彼は若者に命じた。「大きな釜を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい。」、6:25「サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。」、8:1」エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと一緒にここを去り、とどまりたいところに、しばらく寄留していなさい。主が飢饉を起こされたので、この国は七年間、飢えに見舞われるから。」
[9] 政権転覆は、エフー、アタルヤ、ヨアシュ、ペカ。みな、自分も、クーデターで倒されている。暴力的なクーデターは暴力的に倒され、非暴力のクーデターは長生きする。これは、現代には定説化されています。非暴力革命のすすめ ジーン・シャープの提言も参考に。
[10] 今日の所でも、ナアマンにエレミヤを紹介したのは、囚われていた一人の若い娘でした。掠(さら)われて異国で奴隷になる。当時は少なくなかったのだとしても、その彼女が恨んだり憎んだりいい気味だと思ったりせず、ナアマンの癒やしを願った。そういう小さな働きによって、神の業は確かに前進していったのです。
[11] 今、アメリカの黒人差別への抗議のデモが、暴動や鎮圧する軍隊の出動以上に、非暴力で抵抗しよう、憎しみや暴徒化するより平和的に抗議しよう、といううねりになろうとしています。イエスは悪を責めて追い出すより、罪の赦しと癒やしによって治める王でした。この主を見上げて、待ち望みながら、私たちが自分を差し出していく歩みは、神の希望のご計画に確かに用いられます。そうできるのも、主イエスの御業なのです。
[12] Ⅱ列王記25:27~30
[13] Ⅱ列王記24章18~25章30節、は、エレミヤ書の結び(52章)とほぼダブる。エレミヤは、39:1~10でもこれを強調している。
[14] 同じく、エレミヤに先立つ大預言者イザヤの真ん中、36章から38章も、このⅡ列王記をほぼそのまま書き写しています。
[15] 13:23「主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで、御顔を背けて彼らを捨てることはなさらなかった。」
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2020/5/3 Ⅰ列王記19章1~7節「旅はまだ長い 一書説教 列王記第一」

2020-05-02 09:50:54 | 一書説教
2020/5/3 Ⅰ列王記19章1~7節「旅はまだ長い 一書説教 列王記第一」

 月に一度の「一書説教」を、「列王記第一」からお届けします。列王記は第一が22章、第二が25章になりますが、元々は一つでした。その前のサムエル記上下とも合わせて、四巻物の大きな歴史絵巻[1]。列王記第一だけでも120年の歴史の記録ですし、第二まで含めると400年にも及ぶ時代を眺めます[2]。日本で今から四百年前と言えば、江戸時代が始まって鎖国や「島原の乱」などの大昔。徳川幕府から今のIT時代まで、と思えば、この列王記の中身の濃さも実感できるかもしれません。実際、列王記はダビデ即位の頃とは似ても似つかない、イスラエルが南北に分裂して、周囲の国と闘ったり同盟を結んだりする波乱の歴史が描かれます。
 そんな列王記第一には、沢山の印象的なエピソードが鏤められています。ソロモンが知恵を求めた祈りや[3]、神殿奉献の祈り[4]、シェバの女王の来訪[5]、そして、南北に分裂した時のドラマの数々。そして、北王国最悪の王アハブと妻イゼベル、そして預言者エリヤが対決する17章以降[6]。18章では、天から火が降って、主こそ神であることが力強く立証されるのです。
 しかし、その続きの19章はどうでしょう。それほどの奇蹟があったのだから、形成が一気にひっくり返った…とはなりませんでした。アハブ王の妻イゼベルの脅しに、エリヤは逃げ去るのです。天から火が降る奇蹟を目にして民衆も大興奮したのに、そんな盛り上がりはアッという間に冷めてしまう[7]。エリヤは果敢に立ち向かうどころか、打ち拉がれて逃げていく。
19:4…彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」
 こんな崩れ落ちた姿です。
 私たちも大きな出来事があれば「これで善くなるだろう」と思ってしまう。期待しては裏切られてガッカリ、どっと疲れが出る。生きるのも嫌になる。でも、大きな出来事や上辺の立派さは何も保証しない、という事こそ列王記のテーマかもしれません。印象的な出来事もありますが、ダビデが死ぬ前にソロモンに命じた粛正とか、預言者同士のやりとりとか、これは良いことなのか犯罪じゃないのか、と理解に苦しむ出来事もある[8]。ソロモンの若き日の繁栄や贅沢や神殿建設も、手放しで評価されてはいません[9]。先のサムエル記でも、
「人はうわべを見るが、主は心を見る」
とありました[10]。それに続く列王記は、イスラエル社会がもっと大きく複雑な組織になって、人は上辺の出来事しか見えませんが、主はこの世界をもっと違う目で見ておられるのだと思わされます[11]。むしろ私たちに、上辺を見て「これは素晴らしい」「ダメだ」と、安易に白黒をつけなさんなよ、見た目の行動を無理矢理変えようとしても解決にならないんだよ、と弁えさせるのが、列王記かもしれません[12]。天から火が下るような奇蹟があるとか、金の立派な神殿を建てて、人は変わったように見えるかもしれない。しかしそれは上辺だけで、人の心は変わらない。エリヤも期待を大きく裏切られて疲れて、逃げ出し、あまり居心地も良さそうでないエニシダの木の下で惨めに横になっていました。
19:5彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。



 御使いは、エリヤの不信仰を責めたり悔い改めを迫って説教したりせず、パン菓子と水を下さり、また眠らせてくださる。そして、もう一度戻ってきて、こう言います。
7…彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。
 この旅の道のりはまだ長い。神は脅して無理に変えようとはなさらない。むしろ、神は、人の心を深く取り扱っていく長い道のりを惜しまれないのです。聖書協会共同訳はこう訳します。
「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。」
 神は、長い道を厭われません。分裂王国では、北は離反者で、善い王は皆無で、エルサレムのある南がダビデ王の直系で、正統で、最終的には百年長続きします。でも列王記で神は、より罪の重い北イスラエル王国との遠回りの道を厭われません。罪を繰り返して責めつつも[13]、預言者を送り、働きかけ、愛し続け、語りかけてくださる。主ご自身が長い道のりを、堪え難い思いをしながら、でも堪え続けてくださる。それを、エリヤにも知らせているのです。
 色々な出来事が起こり、中々物事がうまく進まず、イライラし疲れ、他人を変えようとして、罰則や暴言で封じ込めようとして、ますますギスギスしています。神様ならもっと手っ取り早く、近道を作ればいいのに、と思いたくなりますが、神にはそういう考えはなく、長い遠回りをなさり、人に関わってくださる。型にはめたり罰で脅したりしても、人は変わりません。そうした解決を焦るやり方を手放して、まず自分の心が何に動かされるか、何を求めているかに気づきましょう。主は、私たちを責めも脅しもせず、安請け合いも語らずに、食べ物や眠りを与え、道は長い、と淡々と励ましてくださいます。それがイエスが示した道です。その長い道を通して、主は私たちを導き、心に触れてくださると信じて、旅を続けていくのです[14]。

「王なるイエスよ。旅の道のりはまだまだ長いとしても、あなたがともに歩み、ともに堪えてくださいます。温かい食べ物を与え、眠りなさい、と仰って、今日を迎えています。本当にありがとうございます。その愛によって、私たちを心から変えてください。あなたご自身が、私たちの上辺ではなく、心を憐れみ、慈しみ、慰め、成長させてくださいます。この困難な中でこそ、私たちがお互いを思いやり、主の言葉に支えられて、ともに旅路を進んでいけますように」


[1] サムエル記とのつながり。エリへの予言の成就(2:27)や、12:16の分裂の歌が、Ⅱサムエル20:1の反復であること、など。
[2] 南ユダ(BC1000-587。400年)、17人の王と3人の傀儡。北イスラエル(BC922-722。200年)、19人、8王朝。Ⅰ列王では70年。同じ時期に、北は9人、南は5人の王。
[3] Ⅰ列王記3章。
[4] 8章。
[5] 9章。
[6] そんな中にある有名な御言葉をいくつか挙げると、Ⅰ列王記3章9節「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」、8章27節「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」、46~51節「罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、47捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、48捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、49あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、50あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。51彼らはあなたの民であり、あなたがエジプトから、鉄の炉の中から導き出された、ご自分のゆずりの民だからです。」、17章14節「イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」、18章21節「エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。」などを挙げます。
[7] バアルの預言者らとの戦いは、ひとつのクライマックスだが、それで局面は変わりはしなかった。イエスも、天から火を下しましょうか、といきり立った弟子たちを窘める(ルカ9:54-55)。また、黙示録でも13:13では偽預言者側で、天から火を下す威力が演じられる。ここでも「火の中に主はおられなかった」(19:12)と言明されるのだ。主は「火の後に、かすかな細い声」がある。それが、主の声。私たちは、自分のいきり立つ声や、力尽くの奇跡に頼ることを戒められている。罪人を裁き、上から断罪する時、私たちも罪人に似ていく。
[8] 最初から、これはどうか?が多い。ダビデの暴力性、ソロモンの粛正、大神殿の建設(階段で作ることは禁じられていたのに)とその倍近い年数かけての宮殿建設、などは、正当化する必要はありません。13章の奇妙なエピソードも、南からヤロブアムを責めるために北上してきた預言者が、ヤロブアムを一方的に断罪することは出来ない、南ユダ王国の住民の霊的な事実を物語っていると言えます。
[9] それが間違っていたことは、レハブアムの登場直後に民から出たのが、ソロモンの統治下のくびきだったことから分かる。
[10] Ⅰサムエル記16章7節「主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
[11] ヤロブアムの幼い子アビヤの死も(14章)悲しい事ではあるが、ヤロブアムへの罰とは言われません。むしろ、その子(だけ)が良かったと言われ、悲しまれて墓に葬られるのはアビヤだけだ、と言われるのです。14:13「全イスラエルがその子のために悼み悲しんで葬るでしょう。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、彼だけです。ヤロブアムの家の中で、彼だけに、イスラエルの神、主のみこころにかなうことがあったからです。」
[12] 「罪にもかかわらず」とか「(前王の良き業にも)かかわらず」とか「父母ほどではなかった」(Ⅱ列王3:2)など、微妙な言葉も多い。単純に、勧善懲悪では測れないことが明らか。
[13] 「ヤロブアムの罪」は列王記で繰り返される特徴語です。10回。16:31、Ⅱ3:3、10:29、13:2、11、14:24、15:9、18、24、28。「ヤロブアムの道」15:34、16:2、19、26、22:52、5回。歴代誌には出て来ない。
[14] 私たちは、表面的なことだけ変えようとして、強いたり責めたり命じたりする。しかし、それでは内面がますます腐り、澱む。人の成長を望むなら、行動を強いたり脅したりするよりも、愛すること、励ますこと、自分も正直に接すること。
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2020/3/29 伝道者の書5章18~20節「日の下の営み 一書説教 伝道者の書」

2020-03-29 14:46:03 | 一書説教
2020/3/29 伝道者の書5章18~20節「日の下の営み 一書説教 伝道者の書」

 「みことばの光」の聖書通読表で、今週末から読むことになっているのが「伝道者の書」[1]。口語訳聖書では「伝道の書」、新共同訳や聖書協会共同訳では「コヘレトの書」という変わった名前が付けられている書です。元々のタイトルが「コヘレト」で、集会を集める人、説教者、ということで「伝道者」と訳されています[2]。聖書の中では、詩篇、箴言に続いて、次には短い雅歌が来て、その後にはイザヤ書や預言書が続いていく位置。そういう意味では余り目立たない書で、聖書の「奇書」とか「最も難解な書」と言われます。でも、有名な言葉もあります。
3:1すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
2生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある[3]。

3:11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない[4]。

11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」

12:1あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

 これらは良く知られている、伝道者の書の言葉です[5]。しかし、このような美しい言葉もちりばめられてはいますが、もっと有名な、そして、私たちを躊躇わせるのは、最初から最後まで繰り返される、「空の空」、「空しい」という言葉です。これが37回繰り返されます[6]。

1:2空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
3日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
4一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
5日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。[7]

 「これが聖書か?」と思うような、虚しさで水を差す言葉が羅列されるのです。「空」は悪とか無価値とは違います。虚無だ、無意味だ、というのではないのです。それは次の繰り返し、
2:14…見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。
 「風を追うようなもの」[8]。煙や風のように保証も確かさもない、予想もコントロールも出来ない。それが「空」です。
 2章以下、知恵を追求しても[9]、快楽をとことん追求しても[10]、結果は空しかった。幸せや富や正義を追い求めても、風のように逃げてしまう、煙を掴むようにどうにも出来ない。人の営みも[11]、王様の大事業も、最後は、手から零れ落ちてしまい、幸せや確かさや価値を与えてはくれない。すべては風を追うようなもので、空だと言い切るのです。
 聖書の他の書では、人生の意味や喜び、神とともに生きる素晴らしさを歌っていますが、伝道者の書は大胆にも「人生は虚しい」と言い切る書です[12]。聖書は一つの真理を語ると言うより、人生の両面性をいつも見ています。神の支配と人間の責任、神が三位かつ一体であること、キリストが神であり人であること、私たちが罪人であり神の子どもであること、人の堕落ぶりと愛すべき美しい存在であること。そして、人生の価値を言う言葉もあれば、「伝道者の書」は「空の空」と人生の虚しさ、ダークサイド、無価値さを一書かけて言い切ります。そして、その人生の虚しさを勘違いせずに見据えた上で、今日読みました言葉のような形で励ますのです。
5:18見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
 これは「労苦して良いものを楽しむだけが神を信じない人のせいぜいの楽しみだ」とは言っていないです。
「これが人の受ける分なのだ」
と積極的で肯定的です。
19実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
20こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。
 他にも神が与えたものとして
「あなたの愛する妻[13]」
や様々な喜び、
「益」[14]
が言われます[15]。つまり《人生は風のように虚しく、思うようにならず、予想は出来ないし、明日どうなるか分からない不確かなものであることは変わらないからこそ、今ここで自分の仕事[16]、労苦[17]、家族、友人、食事をあるがままに喜ぶ》。目の前にある生活を、心から味わい、喜ぶことが神からの賜物だ。何とか人生を虚しくならず有意義にしようとか、人生は空だから見切りを付けて神に従うことで保証のある人生にできるとか、そういう無理な要求は虚しいのです。神は私たちに人生の王道を歩ませ、有意義で予測可能で確実な生涯を送らせたいのではない。風を追うような人生で、神を恐れ、今ここにある生活、責任、人間関係、美味しいものを大事にさせるために、賜物として下さったのです。どうにも出来ないことを何とかしようとし、それが出来ないから「虚しいなぁ」と投げやりに生きず、今ここで満たされて、喜んで生きて欲しい。
 この「喜ぶ」も「見る」という言葉です[18]。楽しいふりをするのでなく、じっくり眺める、味わう、満喫するのです。ですから、悲しみや喪失でも、何が何でも感謝するとか嬉しそうにする、よりも、悲しみを見つめて十分悲しむ、虚しさを目にすれば心底泣く、ということでもあります。そうやって、風のような人生の中で、目の前にあることを存分に味わい、ベストを尽くしながら、神が下さった務めや家族や自分の心の動きを受け止めて、くよくよ思わずに生きる。それが、神を恐れて、神の命令を守り、生きることだ、と言う知恵をくれるのです[19]。
 人生が風のように虚しいと言い切るなんて「伝道説教」はあまりないでしょう。でもこの虚しさ、不確かさをごまかし、人生を操作できるように大言壮語する宗教は、胡散臭いものです。何人もの方が「伝道者の書」こそ現代人が聖書を初めて読むときに真っ先に開いて欲しい書だ。社会で理不尽な思いをし、どうにもならない疲れを抱えている人たちに、上から目線でなく寄りそってくれる。この書の語る虚しさ、侘しさ、不条理さに触れて、安易な答えや解決を聴くよりも遥かに慰められて、心を開ける人は多いだろう」と言います。そして今、世界が予想もしていなかった感染症で先行きの見えない中、「伝道者の書」は大きな道(みち)標(しるべ)に違いありません。こんな書が聖書にあることに驚き、確かさに飛びつこうとする愚かさから守られたいものです。
 実は「伝道者の書」には神は登場しますが、神の名「主」は一度も出て来ません。イスラエルもエルサレムも契約も出て来ません。しかし「神」という名前には珍しく「あの神」という定冠詞付きの呼び方がほとんどなのです[20]。一般的な神、正体の漠然とした「神」ではなく、あの神、私たちに命や労苦や仕事や喜びや命令を下さったあの神を見上げさせます。そして、
12:11知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。
 これは誰の事でしょう。神です。あの神が私たちの羊飼いだ、という[21]。真っ直ぐに「主」「イエス」と言わず、この虚しい人生を羊のようにさ迷ういながら生きる私にもあなたにも、あの神は羊飼いとなって下さる。私たちが心まで虚しくならず、今ここにある賜物を喜んで、くよくよ悩まずに生きさせてくださる。そして、こう仰る羊飼い、イエス・キリストが来て下さいました。この世の虚しさを舐め尽くしてくださいました。そのイエスが、
マタイ28:20見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。
と仰って、本当に今もともにいてくださる。だから、私たちはここで分からない事をくよくよ思わずに委ねて、出来る労苦を喜んでさせていただき、自分やお互いの益を図っていきましょう。伝道者の書をぜひそれぞれに今こそ読んで、この深く力強い言葉に恵まれてください。

「羊飼いなる神様。伝道者の書を下さり、有難うございます。人生の不条理を見据えたこの書に今私たちは格別な指針を戴きます。どうぞ、主よ、私たちをお導きください。あなたを恐れるよりも、自分の予定や安心を握りしめてしまう私たちを憐れんでください。不安と痛みの中にある私たちを助けて、知恵と弁えを与えてください。あなたの備えてくださった、今ここに生かされている幸いを改めて噛みしめ、喜んで最善を果たしてゆかせてください。御名により」


[1] 本書の手短な参考書としては、YouTubeの「バイブルプロジェクト」の「伝道者の書」紹介動画(https://www.youtube.com/watch?v=t9L5YsVF4vE)や、長尾優『信仰の半歩前―オトコ、四十を過ぎれば』(新教出版社、2000年)198頁以下がお勧めです。
[2] 英語ではEcclesiastesエクレーシアステス。教会をギリシャ語でエクレシアと言いますが、コヘレト(集会)と語源は一緒です。
[3] 伝道者の書3章1節「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。2生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。3殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。4泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。5石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。6求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。7裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。8愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」
[4] 3:11の「神は人の心に永遠を与えられた」は、旧約では「永遠を思う思い」。
[5] これ以外にも、「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。(7:21)」「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。10どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。11また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。12一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(4:9-12)」などは忘れがたい箴言です。
[6] 空הֶבֶל  1:14「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、2:1「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。」、11「しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、15「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」、17「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、19「その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」、21「なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」、23「その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」、26「 なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、3:19「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。」、4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、7「私は再び、日の下で空しいことを見た。」、8「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」、16「その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:7「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。」、10「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。」、6:2「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。」、4「その子は空しさの中に生まれて来て、闇の中に去って行き、その名は闇におおわれ、」、9「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、11「多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。12 だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」、7:6「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。」、15「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」、8:10「すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」、14「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」、9:9「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。」、10:20「心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」、11:8「人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。」、10「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」、12:8「空の空。伝道者は言う。すべては空。」これが、37回ですが、旧約全体で72回使われるうちの半分以上を占めています。
[7] ヘミングウェイ『日はまた昇る』のタイトルは、本書1章5節から。小説のエピグラムは、本書の1章1節以下。ゲーテ『ファウスト』も本書から影響。ルナン「ヘブル語による最も魅力ある書」。ルター「慰めの書」。熊谷徹「初めて聖書を読もうとする人は「伝道者の書」から読むと良い」『新聖書講解シリーズ旧約13 箴言・伝道者の書・雅歌』(いのちのことば社、1988年)324頁。
[8] バイブルプロジェクトの動画では、「空」の語源が「煙・蒸気」と言われます。風は本書に20回、「風を追うようなもの」に類する言い方は10回(1:14「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、17「私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。」、2:11、17、26、4:4、6、16、6:9、8:8)、登場します。
[9] 1:12~18、参照。
[10] 2:1~11、参照。
[11] 「営み」עִנְיָן 8回、本書のみの言葉。1:13、2:23、26、3:10、4:8、5:3、14、8:16。
[12] 12章の有名な「あなたの若い日に」も、創造者を覚えれば、「何の楽しみもない」という老後が来ないわけではありません。そのために創造者を覚えるなら、御利益宗教でしかなく、「創造者を覚えた」とさえ言えないのです。
[13] 伝道者の書9章7~10節「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。8いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。9あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。10あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」
[14]  益יִתְרוֹן 9回。伝道者の書にのみ。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」、2:11「しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、3:9「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。」、5:9、16「これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」、6:11「多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。」、7:11「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。12知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」、10:10「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。11もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」
[15] 「人は生きている間、自分のわざを楽しむことにまさる幸いはない」という内容は、2:24-26、3:12-13、22、5:18-20など。
[16] 仕事עִנְיָן 8回。伝道者の書にのみ出て来る名詞です。1:13「私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。」、2:26「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、3:10「私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。」、4:4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:3「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」、12:3「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」
[17] 労苦עָמָל  25回(旧約59回)。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」、2:10「自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。11しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、18「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。19その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。20私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。21なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。22実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。」、24「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」、3:9「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。」、13「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」、4:4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、6「片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」、8「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。9二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」、5:15「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。16これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」、18「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。19実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」、6:7「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」、8:15「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」、17「すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」、9:9「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。」、10:15「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」
[18] ラーアー。伝道者の書では47回出て来て、そのうち四回が「喜ぶ」です。2:1「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。」、24「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」、3:13「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」、5:19「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」 以下の箇所の「喜ぶ」は、原語はラーアーではありません。2:26「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ」、3:12「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」、4:16「その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:4「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。」、20「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」、9:7「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」、11:9「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」、12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」
[19] 「神を愛して陽気に生きよ。この世のことなど気にするな」ジョン・ダン
[20] 40回中、定冠詞なしは3回のみ。
[21] 本書の作者を「ソロモン」とする伝統的な読み方は、現代では保守的な神学者でも否定しています。ソロモンを臭わせ、敬意を払いつつ、その名を直接出すことはしていない、という着眼点は説得力があります。ソロモンを思うとき、知恵者でありながら、最後は逸脱していった人物として、それこそ「虚しい」思いがわき上がります。しかし、それだから「ソロモンは滅びて、救われなかった」などと私たちは言い切れるのでしょうか。聖書に大きく名を残す人を、イエスさえ、繁栄の引き合いに出しただけです。ここでも私たちは「信仰者としての道を失敗した人は救われず、呪われている」などと安易にいえないことを弁えるべきでしょう。
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2020/2/23 Ⅰペテロ1章3-9節「苦難の火をくぐり ペテロの手紙第一」

2020-02-23 16:39:18 | 一書説教
2020/2/23 Ⅰペテロ1章3-9節「苦難の火をくぐり ペテロの手紙第一」
 今月の一書説教はペテロの手紙第一を取り上げます[1]。全部で五章の短い手紙です。パラパラと見ても、交読した2章21~25節のような詩文体が多くあることに気づきます。当時の教会に既にあった、洗礼式での式文・賛美だとも言われます。近年、ペテロの手紙は元々、洗礼の時の説教をまとめたという説もあるようです。初代教会で既にこんな詩が造られ歌われ、洗礼が祝われていたと考えると、初代教会の生き生きした姿を想像して、嬉しくなってきます。
 この手紙を書いたのはペテロ[2]。イエスの第一弟子、ガリラヤの漁師で本名をシモン。十二弟子のリーダーとして、頑固者でおっちょこちょいで、無学な普通の人、あのペテロが、晩年にローマから書き送ったこの手紙。それもまた、本書を読む醍醐味でもあるでしょう。
 洗礼式での説教、と言いましたが、それは洗礼を受けて、キリスト者として生きていく上での困難を予告する説教でもありました。この手紙は
「苦難」
が沢山出て来るのも特徴です[3]。
「信仰の試練」
について何度も言及されています[4]。キリスト者として生きることが、厳しかった現実を踏まえて書き送られた手紙です。イエス・キリストを信じたら、苦しみや悩みに遭わずに済むのではないか、そういう期待は昔も今もあることですが、ペテロの手紙には特に
4:12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
とあって、キリスト者として苦しむことについて繰り返して語っています。その試練を通してこそ、神が下さった祝福がますますハッキリさせられる、と語るのです。ちょうど、火によって金が精錬されて、不純物が取り除かれて、純金となっていくように、苦しみという火は、どんな苦しみによっても朽ちることのない、キリストの祝福を明らかにするのです。今日読んだ、最初の部分でも、この事は力強く語られています。この言葉をよく味わってください。
1:3…神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
 神の御業によって守られ、朽ちない資産を受け継ぎ、必ず救いを頂く。これが、ペテロが手紙で語ることの土台です。私たちの我慢や信仰心によって、苦しみに耐える、試練をも喜ぶ強い信仰心を持て、ということではないのです。その真逆です。それは、ペテロ自身がかつて誤解して、砕かれて、目が開かれた歩みを振り返れば、はっきり分かることです。
 イエスと共にいた時のペテロは、弟子たちの中で一番えらく、一番信仰が強いのは自分だと思いたがっていました。イエスが最後の晩餐で、ご自分の逮捕や弟子たちも散り散りになることを告げた時、ペテロは真っ先に
「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。…たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
と屈しなかった[5]。その数時間後イエスが逮捕された時、ペテロはイエスが予告された通り三度ハッキリと、イエスとの関係を否定してしまいました。この時、イエスもペテロに「試練に耐えよ」とは命じませんでしたし、「たとえ殺されてもあなたを知らないなどとは申しません」と言ったペテロを誉めたり励ましたりはしませんでした。イエスは、ご存じでした。人の力や頑張りなど吹き飛ばすような出来事こそ試練ですし、人の力など当てにならないものです。だからこそ、イエス・キリストの尊い血によって、私たちは新しくされたのです。ペテロはその事を味わい知っています。苦難に頑張って耐えよ、ではなく、どんな試練によっても朽ちないキリストの御業に信頼して、喜びなさいと覚えさせています。
 また、2章21節以下の詩文、洗礼式での讃美歌と思われる言葉では、
22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
と歌われていました。自分がイエスを裏切って呪っても、イエスは私に罵り返さず、見捨てず、試練に耐えろと脅すこともせず、私たちのためにご自分を献げてくださった。それは、ペテロの生き方や価値観を引っ繰り返した経験でした。自分の力を誇り、人といつも張り合っていた価値観がすっかり崩れ去りました。そしてキリストが自分に良くしてくださったように、自分も人に善を行う[6]。そのように変えられる救いを、ペテロは読者に分かち合っているのです。この詩文の前後には、
「しもべたちよ、敬意を込めて主人に仕えなさい」[7]
とあり、
「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。…夫たちよ、妻を理解し、尊敬しなさい」
とあります[8]。キリストの苦しみは私たちの身近な関係一つ一つを新しくする模範です。9節にはこうあります。
「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」[9]
 祝福を受け継ぐために召されたのだから、苦難や侮辱をまともに受け取って傷ついたり腹を立てたりする必要はない。仕返しに人を侮辱する必要もない。私たちは只(ひた)管(すら)祝福を受け継ぎ、侮辱する人にも祝福を差し出す。それがキリストにあって生きる、新しい生き方なのです。
 ペテロはこの手紙で「私は」という言い方を殆どしません[10]。しかし5章1節から「私は」と宛先の教会の長老たちに呼びかけます。これがまた、驚くほどに謙虚な言葉です。
 私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。3割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。[11]
 「イエスの一番弟子」「大使徒」としてではなく
「同じ長老の一人として」
語ります。自発的に、心を込めて。そして、
「支配するのではなくむしろ群れの模範となりなさい」。
 偉そうにするリーダーではなく、自分自身が模範を示す。口で言うほど簡単ではない在り方を、自分自身が示す。人に要求することを、自分自身がしてみせる。それはイエスご自身がペテロや弟子たちに仰っていたことであり、イエスご自身のやり方、神の方法でした[12]。かつて、この言葉で窘められたペテロは、それでもまだ理解できず、自分は違う、自分は頑張って、一番弟子として尊敬されたいと思っていました。そういうプライドは、ここで言われる
「卑しい利得」
の一つかもしれません。そのペテロが大きく変えられて、この手紙を書いています。「私が、私が」と背伸びすることなく、イエスが仕えてくださったことを土台に、謙虚な模範となる生き方を勧めています。ここに至るまでにペテロ自身が、裏切りや挫折や失敗や苦難の火をくぐり抜けてきたことでしょう。苦難の火に精錬されたペテロが、苦難を通してもますます輝くキリストの御業を証しして、ここで苦難の中にある教会に、良い業に励むよう勧めるのです。自分の気合いや頑張りで耐えるのではなく、キリストの苦難を思って、出来る善をし続けたらいい。それを喜べば良い、という口調です。そんな謙虚な証しを牧師や長老もして、それに育てられた人たちが、社会に散らされていき、それぞれの場所で苦難の火を通して、どんな試練でも消えない主の約束を信頼して、善を行う。キリストに与えられた新しい生き方の確かさ、苦難の意味、そして、ペテロという一人の人の円熟した姿をペテロの手紙第一から教えられます。

「主イエスよ、岩と呼ばれた頑固なペテロの晩年の手紙に、あなたの愛と御業を味わい知り、御名をあがめます。岩をも恵みに変え、困難の中でも祝福を分かち合わせてくださる主が、どうぞ今も、世界各地に散らされた教会、また私たち一人一人の歩みを通して、あなたの恵みの御業を現してください。今日の信徒総会を祝福し、この一年の歩みに御栄えを現してください」
[1] 「本書の一番の特徴は、キリスト者が経験する「苦難」の問題が多く扱われているという点にあります(1:6, 2:19, 3:14, 17, 4:1等)。その苦難はローマ帝国による熾烈なキリスト教迫害に拠りますが(4:12, 14, 16, 5:8)、そのような困難な状況の中にある信徒たちを励ます内容に満ちています。ローマ帝国によるキリスト教迫害の時期はネロ帝の時代(紀元62-66年頃)、ドミティアヌス帝の時代(紀元90-96年頃)、トラヤヌス帝の時代(紀元111年頃)の大きく三つに分けられますが、本書の背景となるのはローマ帝政きっての暴君であったネロの治世下であったと考えられています。これらの状況を知ったペテロが、主イエス・キリストの福音によって「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(2:9)とされたキリスト者たちを、熾烈な迫害の中にあっても御言葉に固く立って生きるようにと、自らの信仰の経験を踏まえつつ語っているのが本書の特徴と言えるでしょう。内容としては、信仰と希望と神の言葉による生活の勧め(1章)、聖なる国民として主に従う生き方の勧め(2章)、日々の実践的な教訓(3章)、信仰者の苦難の中での励まし(4章、5章)となっています。」 徳丸町キリスト教会聖書の概説
[2] 5章12節にはペテロ自身が「忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし」と書いています。ペテロの書記をしたシルワノは、使徒15章22節などに登場する「シラス」と同一人物だと考えられています。シラスは、エルサレム教会からアンテオケ教会に派遣された、ギリシャ語に堪能で仲裁力のある弟子であったと想像できます。通訳としても文章を美しくまとめたのでしょう。ペテロの手紙の第二とはかなり文体が違います。それでも、ペテロが書いたという文章を否定するほどの理由はありません。
[3] 「苦難」:1:11「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。」、2:19「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」、3:14「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。」、3:17「神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。18キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」、4:1「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。」、4:13「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」、4:15「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。」、4:19「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」、5:1「私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。」、5:9「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」
[4] 「試練」:Ⅰペテロ1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」、4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」
[5] マタイ26:33-35。
[6] 「善を行う」もこの手紙の特徴です。「善を行う」ことで救われるのではありませんが、キリストの愛は、私たちがキリストからひたすら「善を行」っていただいたように、他の人にもひたすら「善を行う」ように変えていくのです。
[7] Ⅰペテロ2:18「しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。」
[8] Ⅰペテロ3章1~7節「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。2夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。3あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。5かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。
6たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。
 7同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。」
[9] Ⅰペテロ3章8-9節「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。9悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」
[10] Ⅰペテロ2章11節のみ。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」
[11] 続きは、「4そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」です。
[12] マタイ伝20:26~28「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。これは、ヤコブとヨハネの母が、息子たちのためにイエスに、御国の左右の座(権威)を求めたのに対するイエスの答えとして述べられた言葉です。
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2020/1/26 レビ記19章1~4節「聖なるものとされる 一書説教レビ記」

2020-01-26 16:09:44 | 一書説教
2020/1/26 レビ記19章1~4節「聖なるものとされる」
 今日の一書説教は「レビ記」です。旧約聖書でも生贄儀式の事細かな方法を延々と述べる書。1~7章が「全焼のささげ物」「穀物のささげ物」や「交わりのささげ物」「罪のきよめのささげ物」「代償のささげ物」の五つのささげ物の捧げ方を記します。次の8~16章は、祭司の任職、食べて良い動物、体や家に現れる「汚れ」や、「贖いの日」の儀式のこと。続く、17~22章は偶像崇拝や姦淫など道徳的な規定。最後23~27章は「安息」の時、という流れです。
 とはいえ、私たちには三千年も前の、遊牧や農耕の社会で書かれたものです。回りくどいし、グロテスクで難解です。私は以前、「今ここに書かれた儀式から解放されていて、感謝します」という読み方で閉じていました。ある意味ではそうです。「レビ」は、イスラエル12部族の一つ「レビ部族」で、その中から大祭司となるアロンの家が選ばれ、レビ部族は祭司をサポートする大事な働きをしました。幕屋の仕事の管理などを請け負ったのです。ですから、そういう細かなことはレビ部族にお任せして、私たちには関係がないと思いたくなります。ところが、レビ記の中心はレビ人ではなく、民全体です[1]。元々の書名は、1章1節の
「主はモーセを呼び」
とある「そして呼んだ」という言葉。神の「呼びかけ」の書です。ある古代訳では本書タイトルは「本the book」。創世記や出エジプト記に匹敵する、特別重要な書なのです[2]。主イエスがおいでになった後、教会が新約聖書を持つには何十年とかかりました。教会が最初に携えたのは、旧約聖書でした。イエスの福音を知らせるために、旧約聖書を開いたのです。レビ記もその一つでした。レビ記は「イエスが来られたので、もう要らなくなった」書ではなく、レビ記を読めば、イエスが分かる、という内容です。そういう読み方をしたいと願います。
 そもそもレビ記は「出エジプト記」の後にあります。神が、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を、力強く救い出してくださった救出が先にありました。新しく救われた民として、これからどのように歩んで行くのか。ここには事細かな規定がびっしり書かれています。それは、今まで奴隷であって、生活のリズムも文化も習慣も全くない民に与えられた、新しい生活の形でした。その中心は生贄やささげ物の儀式ですが、それも彼らの信仰を形作る儀式でしたし、それ以外のきよめや汚れ、年中行事も実に配慮に満ちた儀式だったのです[3]。私たちは神によって救われただけでなく、神の民となったのです。それは礼拝だけでなく、食事や夫婦生活、冠婚葬祭や病気、貧困への対処、時間の過ごし方など、全生活におよぶ変化をもたらすと、レビ記は教えているのです。今の私たちには理解しがたいとしても、当時の人々にとっては、この生活や儀式、動物を屠ったり儀式をすることは大事な生活の型だったのです。
 その中でも今日読みました、19章は「神聖法典」と呼ばれている、ハッキリした章です。
2イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。3それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
 神が聖なるお方だから、あなたがたも聖なる者となれ。これがレビ記の中心メッセージなのです。そしてその「聖」とは世捨て人のようになるのではありません。自分の親を心から大事に思う。また安息日に休む。そういう、今ここでの生き方なのです。また、9節には、
あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。10また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
という貧しい人への配慮も「聖」の一面です。14節には、
あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは主である。
という配慮も命じられています。この他沢山の行き届いた配慮が命じられます。そして18節、
18あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
 イエスは
「最も大切な戒めは何ですか」
と問われた時に、このレビ記19章18節から
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
を引用したのです[4]。レビ記は、イエスが引用された最も大事な戒めを語っている書です。その他の儀式や戒めも、ここを目指しているのです。
 しかし、このイエスの言葉がルカ10章では
「良きサマリヤ人」
の例えに繋がりました[5]。強盗に襲われて倒れた旅人を、同胞のユダヤ人ではなく、敵対していたサマリヤ人が近寄って助けた、というあの有名なお話しです。あの話で、先に通りかかったのに、反対側を通って知らぬふりをした一人が「レビ人」でした。「レビ記」と聞いて、まずあの「良きサマリヤ人」の話を思い出す方もいるかもしれません。礼拝の儀式に仕えるだけで、心の冷たいいけ好かない人…。レビ人もレビ記もそんな嫌な色で読まれているかもしれません。
 しかしレビ記の本来のメッセージは真逆です。礼拝儀式だけではなく、全生活が神の前に生きる、聖なるもの、憐れみ深いものとなることを求めています。そのためにこそ折々に生贄を捧げました。1章の
「全焼のささげ物」
 動物を丸ごと焼き尽くす生贄は、神の民が自分を完全に神にお献げする「献身」を現しました。私たちは神のもの。神の民。そのことを確認する「全焼のささげ物」が、レビ記の最初です。その後4章に
「罪のきよめのささげ物」
が出て来ます。罪を犯したことに気づいたなら、牛や羊を捧げたのです[6]。動物をささげることで神の怒りを逃れる、のではないのです。神が、人に罪を手放させて、赦しと和解をシッカリと受け取らせるために、「罪のきよめのささげ物」という儀式を与えてくださったのです。人は、この儀式を通して、神の赦しの恵みを全身で受け取り、「あなたの罪は赦された」という祭司の宣言を聞いたのです。
 礼拝の聖餐式を思い出してください。聖餐を通して、私たちはイエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂かれ血を流されたことを覚えます。聖餐を通して、神の愛、罪の赦し、キリストの苦しみ、そして私たちが神の民である事を覚えます。聖餐の儀式で罪が赦されるでも、聖餐をしなければ罪が赦されないでもなく、聖餐を通して、神が私たちに神の側からの犠牲によって、私たちが赦され、新しい歩みへと呼ばれたことを思い出す。
 長老教会が採用した新しい式文も、世界の多くの教会の式文も「罪の告白と赦しの宣言」という部分を礼拝の最初に設けています。静まって自分の罪を告白し、赦しの確証の御言葉を聞くのです。これも「まだ神が、私たちの罪を怒っているから、告白をして赦して頂かなければ」ではないのです。神は既にイエス・キリストによる完全な罪の赦しと、新しく永遠の関係を下さっています。なのに、それを忘れて思い上がったり、「まだ赦されていないんじゃないだろうか、自分はダメなんじゃないだろうか」と重荷を自分で負おうとしてしまったりする私たちです。その私たちが自分の罪の重荷や恵みならざる重荷を手放すために、また互いに責める事を止めるために、罪の告白の祈りをともに祈り、赦しの言葉をもう一度ハッキリと聞くのです。
 レビ記でも、神は儀式や律法を通して、新しい生き方を民に身につけさせようとされました。私たちはそこに秘められていた本当の生贄、神の子キリストの献身を知っています。それだけでなく、時代や文化も全く違う今の私たちが、ここにあることをそのまま真似る必要はありません。それでも、今ここで、私たちが神のものとされた民として生きる。いつも主を礼拝し、全生活を神の前に生きている神の民として生きる。神が備えてくださった赦し、恵みを受け取って生きる。そして、隣人を自分自身のように愛するよう呼ばれていることは同じなのです。
ローマ12:1ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
 ではレビ記の時代と違う今、私たちが、どのように生きることが「聖なる生き方」なのか、具体的には、このローマ書12章3節以下に書かれています。レビ記も、聖書全体も読みながら、神を礼拝する歩みをさせていただきましょう。

「聖なる主よ。あなたは恵みによる人生を人に備え、キリストの命による罪の赦しと新しい歩みを下さいました。どうぞ全生活の中に主の招きを聞かせてください。理解の難しいレビ記を通しても、生々しいほどのあなたの恵みに気づかせてください。そうして、私たちがあなたのものとして、悔い改めと赦し、礼拝と交わりを心からともにする、聖なる集いとしてください」



[1] レビ人に言及するのは、25章32、33節だけなのです。「レビ人の町々、すなわち彼らが所有している町々の家については、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。33レビ人が買い戻すものに関しては、彼の所有地の町で売られた家はヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエルの子らの間にあって彼らが所有するものだからである。」むしろ、「民数記」の方が「レビ人」の働きを規定していて、名前が入れ替わった方がよいぐらいです。
[2] Nobuyoshi Kiuchi, Leviticus, (Apollo’s Old Testament Commentary, IVP, 2007). p.15. 木内伸嘉氏の本書は『レビ記』注解として最も参考にしている書です。オススメです。
[3] そしてそれは、やがて来られる本当の大祭司であり生贄である、イエス・キリストを証しするものでした。
[4] マタイ22章35~40節「そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」、マルコ12章28~34節も。
[5] ルカ10章25~37節「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」27すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「あなたの答は正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」29しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」30イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。34そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。35次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います。』36この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」37彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
[6] それは、神がやがてイエスを私たちの罪をきよめるため、十字架に命をささげてくださることを表していました。

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