聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/1 エペソ書1章3~10節「一つの奥義」 一書説教 エペソ人への手紙

2020-01-05 07:00:30 | 一書説教
2020/1/1 エペソ書1章3~10節「一つの奥義」
 エペソ書は「パウロの修養会」とも言わる、心躍るような手紙です。何しろ、書いているパウロ自身が喜びに溢れています。今読みました1章3~10節は、元々の言葉は○で区切れることなく、14節まで一気に続く長い文章です。15節から23節も一続きです。流れるように続く美しい告白とも言えますし、止まらなくなってしまって分かりにくいゴチャゴチャした駄文、とも言われます。短い言葉には要約しきれない、語り尽くせない主の恵みを歌う。元々エペソだけに宛てた書簡ではなく、周辺の多くの教会で読まれるように書かれた手紙でした[1]。まさに全教会に対する、「パウロの修養会」という内容、私たちへのメッセージなのです。[2]
 このようなエペソ書。何よりの特徴は
「愛」
です。日本語で24回、原文で17回。パウロの手紙で一番多い、「愛の手紙 エペソ書」です[3]。エペソ書には沢山の金言があります。

2:14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。…

4:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。…

5:8あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。…

5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。…

22妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

 5章後半の妻と夫に対する教え。6章10節~の「神の武具」リストも、よく引用されます。ここには、キリスト者として生きる歩み方が、具体的に、丁寧に、教会で、家庭で、職場での関係に当てはめながら、豊かなイメージで描かれます。そして、もう一つの鍵が「一」です。

1:9…その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 キリストが一切のものを一つに集められる。それがエペソ書の中で、一つの家族とか、一つのからだとか言い換えられます。今風の言い方をすれば、一つの「物語」のかけがえない一人一人になること。エペソ書には「一つ」が13回も出て来ます。決して全体主義や画一化のような意味ではなく、皆が個性あるまま、キリストにあって一つに結ばれる。そういう壮大な御心をパウロは溢れるように語るのです。余りに壮大すぎるようですが、パウロは私たちの選び、私たちが神の子どもとされたこと、私たちの罪の赦し、という私たちの事を、「御心の奥義」という大きな枠組の中で語るのです。特に「一つ」という奥義が現れるのは教会です。今、ここで私たちが一つの元旦礼拝をともにしている。私たちが一つの鳴門キリスト教会で、各地の日本長老教会が一つの教会で、世界の教会が一つの教会だという告白を与えられている。誰も、バラバラではなく、キリストにあって一つの民とされた。それが神の御心なのだと体験しているのです。そしてここから、私たちが互いに愛し合う、と「愛」「愛」が強調されるのです。
4:1…あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
 これは4章1節、つまりエペソ書の丁度(ちょうど)真ん中のつなぎ言葉です。ここでは「一致せよ」とは言われていませんね。「一致しなさい」ではなく
「御霊による一致を熱心に保ちなさい」
なのです。「一致」は神の御霊によって、既にあるのです。私たちはその一致を、熱心に保つ。決して違いを裁いて、一体感や表面的な一致を造り上げるのではなく、既にある一致を保つ、なのです[4]。エペソ書には「一つ」の延長で、「ともに」が8回[5]、「互いに…し合い」が5回も出て来ます[6]。ともに生き、互いに受け入れ合う。違う同士、異なる私たちが、違うまま、キリストにあって一つとされ、互いを自分と同じように大事にする。主の愛を知り、自分の罪の赦しを戴くこと。そして今ここでの生活、人間関係、家庭生活、職場での在り方へ向き合う。人との関係で葛藤しつつ改善を努めること。そうした私たちの、極々個人的なことを通して、神の「一つ」という奥義が実現するのです。ヘンリ・ナウエンの言葉を紹介します。
「「神の子であって、イエスの兄弟姉妹である私たちのこの世での務めは何でしょうか。私たちの務めは和解をもたらすことです。家族、コミュニティー、町、国、大陸のどこにでも、人々の間には分裂があります。これらの分裂はすべて、私たちが神から離れてしまっていることの悲しい反映です。人はみな神の一つの家族であるという真理を目にすることはほとんど出来ません。私たちに神から与えられた務めは、日々の生活の現実の中でその真理を示すことです。/それがなぜ私たちの務めなのでしょうか。なぜなら、私たちを神と和解させ、人々が互いに和解するよう力を合わせるという務めを与えるために、神はイエスを遣わされたからです。イエスによって神と和解した私たちには、和解の使命が与えられています(2コリント5・18参照)。したがって、私たちが何をするにしても中心となるのは、「これは人々の和解につながるだろうか」という問いかけです。」[7]

 私たちが、「あけましておめでとうございます」「クリスマスおめでとうございます」と声を掛けること、教会で一緒に礼拝をすること、それはキリストの一致を保つお祝いです。夫が妻にありがとうを言う、上司が部下を尊重する。気になっている人のために祈る、時には正直に「嫌です」や「ノー」や「出来ません」を言う。そうした地味でささやかな事、なかなか難しい一つ一つが、小さくない。神の「一つ」という奥義が私たちの中でじっくり実現していくプロセスだ。そんな驚くことをエペソ書は語るのです。これを書いたパウロ自身がそうでした[8]。かつては異邦人には目もくれなかったパウロが、異邦人のための伝道者となり、教会の中の差別とも戦ってきたのです。エペソ書執筆はパウロの晩年。それも投獄され、囚人としての鎖に繋がれていた時です[9]。不自由な中、じっくりと福音を思い巡らし、円熟味のある思想をエペソ書に書いたのか。あるいは、他の書簡からも、囚人となったパウロを訪問してくれ、献金を送って助けてくれる異邦人たちもいたようです[10]。パウロは困難も多い中で、本当に神はキリストによって私たちを一つとされたのだ、と実感しながらこの手紙を書いたのです[11]。

 私が最初に覚えたエペソ書の言葉は2章の「信仰による救い」を明言する言葉です。
2:4…あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。…8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
 私たちは、自分の行いによらず、ただ神の賜物として信仰も戴き、恵みの救いもプレゼントされました。それは、ただ私たちが「救われる」だけでなく、私たちがバラバラな存在でなく、神の「御心の奥義」、一つとされた召しに与って、それを実らせる「善い業」も一人一人に備えられている。そういうエペソ書のメッセージに、私も段々と気づかされています。神が願っているのは、本当に深く、真実な、時間を掛けた回復です。どうしようもないほどの敵対や断絶を、イエス・キリストが命をかけて和解させてくださる御業です。それを、私たちは一歩一歩受け止めます。理想主義になって、焦ったり諦めたりしなくてよい。本当の一つを用意されている神への信頼から、本心からの和解を、心込めて受け取っていこう。私を献げていこう。そう気づかせてくれるのもエペソ書です。エペソ書3章16~21節の祈りで終わります。[12]

[1] 1章1節の欄外に「異本に「エペソの」を欠くものもある」、そちらの方が有力です。

[2] 1章の17~19節には祈りが出て来ます。3章の最後14節以下も祈りで、結びの6章23、24節も祝福の言葉。書きながら祈ってしまう、パウロの熱い説教です。今回も、大竹護牧師の説教を大いに参考にしました。エペソ人への手紙2章10節「一書説教 エペソ書~召された者として~」

[3] 英語では14回loveが出て来ます。他のパウロ書簡では、ローマ書26回(英語12、ギリシャ語14)1コリント21回(14、13)、Ⅱコリント18回(11、12)、ガラテヤ5回(4、5)、ピリピ10回(5、4)、コロサイ13回(5、7)、Ⅰテサロニケ11回(6、7)、Ⅱテサロニケ5回(3、7)、Ⅰテモテ8回(6、5)、Ⅱテモテ9回(5、6)、テトス6回(3、1)、ピレモン6回(2、3)。

[4] エペソ書には、日本語では「一つ」が11回。ギリシャ語本文では、ヘイス(一、それぞれ)が11回(2:14~16、18、4:4~7、16、5:31、33)、ヘノーテス(一致)が2回(4:3、13)、アナケファライオー(一つに集める、こことローマ13:9だけの言葉)です。

[5] 2:5「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」、22「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」3:6「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」、18「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、」、6:24「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。」。4:31(「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」)にも「ともに」が出て来ますが、ここでいう意味とは違うので除外しました。

[6] 4:2「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、」、25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」、32「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」、5:19「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」、21「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」

[7] ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』421頁。

[8] 2章11節「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」パウロ自身が、かつてパリサイ人というガチガチの民族主義者で、ユダヤ人以外の「異邦人」とは一緒に食事もしない人でした。しかし、パウロはキリストに出会って、異邦人とも近くされました。その個人的な独白も、三章に吐露されています。

[9] 6章20節「私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

[10] ピリピ書4章など。

[11] 神に背を向けて、罪の故にも、人間関係が壊れて、人の心の奥にも深い傷があります。神は表面的な一致や一体感や仲良しではなく、本当に深い癒やしと心からの和解と、本物の回復を与えたいと願っていらっしゃる。それをパウロ自身体験してきたのです。

[12] 3章16~21節「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。20どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」

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イザヤ書40章1~11節「新しい希望 一書説教イザヤ書」

2019-08-31 21:44:22 | 一書説教

2019/8/25 イザヤ書40章1~11節「新しい希望 一書説教イザヤ書」[1]

 聖書通読表では9月から休み休み12月までかけてイザヤ書を読む予定です。なにしろイザヤ書は66章。詩篇に続く章数です。エレミヤ書が52章でも量は多いのですが、イザヤ書の章数六六は聖書の数と同じ。しかも旧約三九巻、新約二七巻(三九(サンク)、二七(ニジュウシチ))で六六巻になるように、イザヤ書も三九章までと四〇章からの27章で大きく分けられます。四〇章は、

「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──

エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」

 こう力強く語り出していくのです。確かにこの四〇章以降は、力強い言葉やイメージがたくさん連ねられて、私たちを慰めてくれます[2]。勿論、一章から三九章にも、イエスのクリスマスの預言や、回復を力強く語る言葉は沢山あります。新約聖書にはイザヤ書からの引用が一番多く、イザヤ書が「イザヤによる福音書」と言われるほどの福音的なメッセージが満ちているのです。有名な言葉は上げていくと切りがありませんが、いくつか見てみましょう。

30:15…「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

42:3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく…。

43:4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。[3]

 こうした言葉がちりばめられていることだけでも、イザヤ書全体が慰めに満ちて、力強い希望を語っていることは一目瞭然です。旧約の時点で、神は十分すぎる程の恵みを現しています。

 しかしイザヤの語ったその言葉は、当時の人々に歓迎されたわけではありません。一章一節には

「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」

とありますが、これが紀元前七三九年から六八六年までです。この頃はちょうど国際的にアッシリア帝国が台頭して、北から勢力を広げていた時期でした。ウジヤとヒゼキヤは比較的信仰的な王ですが、その国際情勢の舵取りでは妥協的でした。アハズ王は主なる神に背を向けた悪王です。しかしどの時代も、礼拝儀式は形通り行われていても、王や貴族、富裕層が自分たちの安全や繁栄を第一として、貧困層、寡婦や孤児、在留外国人たち弱者への公正な扱いは後回しにされたのです。イザヤが語ったのは、ただ「主に立ち帰って、神を第一とせよ」という宗教的な回心ではありません。既に大きな神殿はあり、祭司たちは、神もその礼拝に

「飽きた」

と言われる程の生贄を捧げていたのです[4]。礼拝の方法が形式的だったというよりも、彼らが求めていたのが自分たちだけの幸せ、自分たちだけの繁栄、自分たちだけの安定で、周囲の弱者、他人の嘆きは放置され、家族や隣人に対する虐待、ネグレクトで、神が求めるような社会を造ろうとしていない事をイザヤは責めます[5]。アッシリアを過剰に恐れて外交的に立ち回るより、

「主を信頼して正義を行え」

と語ります。急に台頭してきたアッシリアはまもなく頼りにならなくなり、アッシリアとともにユダヤも滅ぼされることになる、と警告します。時には3年間、腰帯をせずに裸を晒しながら歩き回って「このままいけばこのように外国に裸で連れて行かれることになる」と警告するのです。

 一方イザヤのメッセージは、罪を責める以上に希望です。天地の主が信頼に足るお方であり、平和、将来の回復がある、という希望です。人々が社会の荒廃や外国の脅威に怯えて絶望する中、「これは自分たちが主に背いた天罰だ、報いだ」と自暴自棄になる中、希望を語ります。

1:18たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

35:10主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

 こう希望を語り続けるのです。人々が抱く「自分さえ良ければ」という歪んだ救い、社会の不正を放置した自分勝手な幻は、容赦なく責めます。しかし、それを責めるだけではありません。神が抱いている夢は、あなたがたの夢よりも遥かに豊かだ。そこにあなたがたも、あなたがたが目に掛けない外国人や貧困層も含まれて、ともに主の慰めを十分に戴き、喜び歌い踊る日が来る。天地を造られた大いなる神は、この世界に新しい天と新しい地をお造りになる。そうイザヤは語り続けています。この、神が天地を造り今も治めておられる大いなる神である、という信仰と、それに根差した神への信頼、神が語る希望の確かさと神が求める正しい生き方への信頼とが言葉を換えて繰り返されるのもイザヤ書の特徴です。

 もう一つ、イザヤ書には「主のしもべ」が四回登場します[6]。主のしもべと言われる存在が立てられて、世界を新しくするのだ、というのです。これをイエスはルカの四章で朗読し、

21…「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

と宣言しましたし、使徒の働き八章ではエチオピアの宦官が、イザヤ書五三章の「主の苦難のしもべ」の箇所を朗読して、そこからピリポがイエスの福音を彼に伝えたのです。「主のしもべ」が現れるということでもイザヤ書は、イエスの訪れを予告している書です。

 またこの書には今まで「聖書の物語の全体像」というテーマでお話しして来た契約が踏まえられています。天地創造、その回復のためのノアの天地の保持の契約[7]、アブラハムの選びの契約[8]、モーセの新しい生き方の契約[9]、そしてダビデの末から王が出る[10]という契約すべてが踏まえられて、それを果たす「主のしもべ」が来て贖いの契約を完成し、やがて新しい天と地が創造される、という大きな物語をイザヤは語ったのです。そして、今も私たちはイザヤを通して、主の慰めを聞きます。主が求める正しい生き方、更には主が思い描いている大きな夢、すべての人が集められて、主の慰めに与って喜び賛美する世界を知らされます。でも、それを拒む人もいるし、受け入れるまでにも長い時間はかかるのだという現実も、思い出すのです。

 イザヤは預言書の第一人者であり、イザヤ書は「福音書」とも言われますが、決して当時の人々から歓迎されて成功した人気の説教者ではありませんでした。むしろ最初から、主はイザヤの言葉は悟られず、聞かれないと覚悟を求めていました[11]。彼は希望を語りましたが、それは絶望や諦めが蔓延している社会の中ででした。イザヤは「主のしもべ」が来て苦難を受け、自分を捧げると語りましたが、イザヤ自身が仕えるしもべとなって生きていました。伝説では、イザヤはヒゼキヤの子マナセ王の時代に鋸で斬り殺されて殉教したとされていますが真偽の程は定かではありません。ハッキリしているのはイザヤには妻がいて、こどもが二人はいた事です。子どもたちの名前でもイザヤは主の預言を語ります。一人は

「シェアル・ヤシュブ」(残りの者が帰ってくる)

で、今時の「キラキラネーム」も真っ青なメッセージネームでした[12]。イザヤの妻は「女預言者」と言われますが[13]、妻も預言者であった、というよりも、妻は預言者である夫を支え、子どもたちの存在を通して、厳しい現実と確かな希望とを語った、その事自体から「女預言者」と言われるのでしょう。人を教えたり導いたり、大きなことが出来たかどうかでなく、その生き方、夫と子どもたちとともに、主の回復の希望に聴きながら生きた女性。

 現代も、皆さん一人一人が主のメッセージです。イエスに愛されて、希望を約束されている者として、神の物語の大きな夢を与えられている者として、私たちはここに生かされています。イザヤの語った将来の幻、すべての国民が集められて、すべての不正が終わり、この世界の特権や贅沢が終わって、すべての罪が心から悔い改められて、すべての関係が心から和解して、本当に回復する世界が始まる。そのために、神の子イエスが来られて、苦難のしもべとなってくださった。だから私たちもここで、本気でその神の夢を信じて生きるのです。

「聖なる神よ。イザヤ書に証しされた、世界への主の真剣な嘆きと朽ちない慰めを感謝します。その約束の通り主イエスが来て、贖いを果たし、すべての民に福音が宣べられています。どうぞその幻に照らしてこの社会を導いてください。私たちを贅沢からも絶望からも救い出し、ともに主を礼拝する交わりを、すべての教会やあなたの愛する民を通して、始めていてください」



[1] 1963年8月28日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は「私には夢がある I have a dream」(1963年)という有名な演説をしました。そのクライマックスには、イザヤ書4章4節が引用されました。

[2] この語調の変化に、イザヤ書は一人が書いたのではなく、四〇章からは後の時代の別人が書いた、と言われるようになりました。この「第二イザヤ」、更には「第三イザヤ」という説は、主流なイザヤ書論とさえなっています。私はそのような結論を出す必要はないと思っています。四〇章だけで二分したら良いわけではない、もう少し細かな展開があるのは、週報にも書いた通りです。「三九二七」はあくまでも覚えやすさです。イザヤ書全体で一つの書と見ない理由はありません。しかし、紀元前7世紀と、捕囚期の6世紀、そして捕囚帰還後の5世紀それぞれに、イザヤ書は違うリアリティをもって聞かれたことは十分に想像できますし、胸が熱くなる思いをします。

[3] 他にも、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。(11:6-9)」「しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。(32:15)」「主は言われた。「まことに、彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。(63:8-9)」「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに」(55:6-11)、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(56:7)、「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。」(57:15)、「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、」(61:1)、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。」(63:9)、「狼と小羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。」(11:6-9、65:25)などなどなど。

[4] イザヤ書一章11~12節「「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。──主は言われる──わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。」

[5] イザヤ書五八章5~8節「わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる」。他。

[6] 「主のしもべ」は、イザヤ書四二章1~4節、四九章1~6節、五〇章4~9節、五二章13~五三章12節の四箇所に登場します。

[7] イザヤ書五四章8~10節「怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。」

[8] イザヤ書二九章22~24節「それゆえ、アブラハムを贖い出された主は、ヤコブの家についてこう言われる。「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることはない。彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。心迷う者は理解を得、不平を言う者も教訓を得る。」」、四一章8~10節「8 だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」、三三章25~26節「主はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」

[9] イザヤ書六三章11~15節「そのとき、主の民はいにしえのモーセの日を思い出した。彼らを、ご自分の群れの牧者たちとともに海から導き上った方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置いた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。荒野の中を行く馬のように、彼らはつまずくことはなかった。谷に下る家畜のように、主の御霊が彼らを憩わせた。このようにして、あなたはご自分の民を導き、ご自分のために輝かしい名を成されました。どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。」

[10] イザヤ書九章7節「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」、一六章5節「一つの王座が恵みによって堅く立てられる。ダビデの天幕で真実をもってそこに座すのは、さばきをし、公正を求め、速やかに義を行う者。」、三七章35節「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」、五五章3節「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」など。

[11] イザヤ書六章9~10節「すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

[12] イザヤ書七章3節。もう一人の子は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕り物はすばやく、獲物はさっと(持ち去られる)の意)でした。八章1~4節。

[13] イザヤ書8章3節。

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Ⅱサムエル記18章24-33節「ダビデという人 Ⅱサムエル記」

2019-06-30 20:26:54 | 一書説教

2019/6/30 Ⅱサムエル記18章24-33節「ダビデという人 Ⅱサムエル記」

 今月の一書説教は、サムエル記第二です。第一の途中で登場した少年ダビデが、正式に王として即位し、統治していきます。そのダビデの四十年にわたる統治の出来事を二四章まで伝えていく内容となっています。ダビデほど詳しくその生涯が伝えられている聖書の人物は、イエス以外にいません[1]。詩篇の祈りの多くもダビデに結びつけられて、信仰や賛美、怒りや叫び、人間らしい正直な言葉に、私たちは慰めや励ましをもらうのです。Ⅱサムエルも実に人間らしいドラマです。ダビデは幼子のような温かさも見せ、随所で失敗も犯します。そしてダビデの息子たちの過ち、とりわけ今日の18章のアブサロムの謀反が、読む者の心を打つ書です。

 ダビデは一国の王である以前に一人の人、一人の父親でした。クーデターを起こして父王を葬ろうとするアブサロムに対しても、王として憎しみや政治的な判断よりも、父としての息子への愛が勝るのです。18章でダビデ軍はアブサロム軍と衝突しますが、そこでもダビデは息子の命が気がかりで、最初から

「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ」

と懇願して戦場から伝令が走ってくるのを待っていました。戦闘でダビデ軍が勝利し、アブサロムは打たれて死にます。それを伝える伝令が駆けてきた時、最初一人が見えると、

25ただ一人なら、吉報だろう」

と言い、もう一人が見えても

「それも吉報を持って来ているのだろう」

と言い、最初の伝令がアヒマアツみたいだと言うと

27あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう」

と。何の根拠もないのに、「縁起を担ぐ」ダビデの親心です。戦いの勝利よりも、ダビデに気になるのは

「若者アブサロムは無事か」

です[2]。アブサロムの死が伝えられて、

33「わが子アブサロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム…」

 この悲痛な叫びが、第二サムエル記でも最も耳に焼き付いて離れない嘆きとなるのです。

 この言葉は私たちの心に響きます。特に大事な人を失った方には刺さります。この台詞(せりふ)にも、ダビデがアブサロムにもっと早く思いを伝えていたら、という後悔があります。ここまで、ダビデはアブサロムとの関係をギクシャクさせてきました。父として向き合わなかった後悔がここに迸(ほとばし)っています。王として反乱を鎮める義務は当然でも、それでも人として悲しい、叫びたい、自分が代わってやりたい、そういう心をサムエル記は汲み取っているのです。「聖書に書いてあるのだから、ダビデのしたことだから、間違いはないはずだ、バテ・シェバへの過ち以外はダビデは正しかったのだ」と思うことはありません。

 私たちの生活でも、何かあると自分か誰かの責任だろうとか、正しく生きていればひどい事は起きないはずだとか考えたがりますが、でも現実はもっと思いがけず、不条理です。サムエル記はそういう複雑な現実の鏡です。

 Ⅱサムエル記の最初、逃亡生活から戻った時、ダビデの部下は六百人[3]。それが、最後24章での人口登録では百三十万の兵士を数えるまでに大国化していました[4]。サムエル記を通じて、徐々にダビデが権力を得て、民族が王国となり、身分の格差を生じさせる激動が垣間見えます。それでもその頂点にいるダビデが満たされることはありませんでした。経済的に豊かになり政治が安定し、妻を多く娶っても、ダビデの心が向いていたのは、家族や人のぬくもりでした。失敗し、臆病になり、慰められ、教えられる。そういう率直な姿をサムエル記は描くのです[5]

 7章には、主がダビデに

「永遠の家を建てる」

と約束されます。「ダビデ契約」です。でもその後ダビデや息子たちの問題が続々起きます。特に11章の姦淫と殺人は有名です。部下の妻バテ・シェバを寝取って、隠蔽を図り、最終的にはその部下と他の兵士も巻き添えに戦死させるのです。主は預言者を通してダビデの罪を責めます。ダビデは自分の罪を認めますが、主はダビデの犯した罪の結果は引き受けさせるのです。最初の子は死ぬのです。でも、その罪だけを余りに道徳的に捉えないでください。「ダビデがバテ・シェバと罪を犯したために、その子どもたちが強姦や殺害、そして、アブサロムのクーデターまで引き起こした」とすべての原因をダビデの姦淫に見るのは極端でしょう。「子どもの罪は親のせいだ」とか、「あの最初の罪さえなければその後はもっと順調で幸せだったのだ」などと単純に結論できはしないのです。

 確かにダビデの罪は厳しく責められました。最初の子は死にました。でも次に生まれたソロモンは、主が

「エディデヤ(主に愛された者)」

と名付けるのです。そして、やがてダビデの王位を継承するのは、他の、曰(いわ)くの少ない子ではなく、ソロモンなのです。「ダビデ契約」は、ダビデの罪によっても反故にされることはありません。むしろ、ダビデも最初から様々な過ちを犯していたし、子どもたちも他の人たちも様々に悪をしでかし、禍を招いてしまう。そういう中に主がなおいてくださる。恵みが注がれ、悔い改めへと導かれる。ハッキリ「主が」と語られなくても、いつもダビデは助けられてきました。それも、思いがけない人物や一回しか登場しない人を通して、主は隠れて働いておられるのです[6]。「罪を犯せば罰せられる」とか「人の信仰に応じて神が祝福する」といった道徳的枠組には収まらない人間と、その中で悔い改めさせ、赦し、回復、慰めてくださる主の恵みが、サムエル記には聞こえてくるのです。

 交読しました22章は、ダビデが読んだ詩です。長い詩で、主を誉め称えています。この賛美がサムエル記の最後に置かれています。ダビデの大きな罪も十分知った上で、そのもたらした混乱や悲しみも十分見据えた上で、ダビデは自分を責めるよりも、主を誉め称えます。

28苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。

29主よ、まことにあなたは私のともしび。主は私の闇を照らされます。

 この言葉一つ一つが、ダビデの口から発せられたと思うと、不思議な美しさを持って来ます。バテ・シェバの事だけでなく沢山の罪を犯してきたダビデ。一国の王である前に、一人の人間であって、夫としても父親としても不完全で、罪のもたらす取り返しのつかない後悔も数えきれない程引きずっている。そのダビデは、「主が自分の神として私に良くしてくださった。主が私を導いてくださった」と言い切ることが出来ました。それでも、最後24章で、ダビデは不必要な人口調査をして民に禍を招いてしまう。晩節を汚してしまうのですが、そこで主の憐れみを求めて祭壇を築いて、生贄を捧げたことでサムエル記は結ばれます。その祭壇の場所が、後のエルサレム神殿の場所となるのです。私たちの礼拝は、ダビデの偉人伝や生活の聖さの上に成り立つのではありません。うわべの奥にある闇や恐れ、あるがままの危ういダビデをも愛し、ダビデに向き合い、憐れみ、支えてくださったことに、聖書の礼拝はあるのです[7]

 ダビデは傲慢なわが子アブサロムをも愛して、

「私が代わって死ねばよかったのに。」

と嘆きました。同じように、神は私たちを愛しておられます。やがて、ダビデ契約を果たすため、イエス・キリストが来られました。ダビデを責め、人の罪や愚かさを恥じるどころか、新約聖書の一ページ目の系図で、「ダビデの子」と呼ばれることも厭わず、人の中に来られました[8]。イエスは、私たちのうわべの行いや悪を見るのでなく、心の迷いや恐れ、罪や悲しみ、呻きを知る王です。そして、私たちを「わが子」として愛して、私たちに代わって死んでくださいました。ご自分の威厳を保つよりも、私たちを失う方が耐えられないのだと、命を捨てて、私たちを神の子どもとなさいました。その深い愛に基づいて、私たちはここに集まって礼拝をしています。そして、その無条件の愛に基づいて、私たちは真っ直ぐに生き始めることが出来ます。道徳やうわべの奥に欲望や身勝手を隠した一触即発の生き方でなく、心を見ておられる主の前に、自分の罪や悲しみや恐れに正直になって、御言葉に従って生きたいと願えるのです。[9]

 Ⅱサムエル記は、複雑な人の社会の中で生きる現実を描きつつ、どこにも主が確かに働いておられることを語ります。主は、決して私たちを恥じたりせず深く憐れんで立ち上がらせてくださる。私たちがいつも主を見上げて、自分に正直に生きることを励ましてくれるのです。

「ダビデの子なる主よ。Ⅱサムエル記を感謝します。時代が変わり、家族が翻弄され、自分の変化にも戸惑っている私たちが重なります。ダビデを愛し、ソロモンを愛し、私たちを愛される恵みに感謝します。その深い赦しと憐れみを歌わせてください。自分のあるがままも、あなたの恵みも正直に告白させ、あなたの慰めを伝える一人として私たちの人生も用いてください」



[1] Eugene H. Peterson, The Book of Samuel 1 and 2, Westminster Bible Commentary.

[2] 最初の伝令アヒマアツは、アブサロムを殺したヨアブのそばにいたので、アブサロムの死を知っていました(十八9~23)。ヨアブの行動に反感を抱き、ダビデを慕うからこそ、既に伝令が駆けだした後なのに、自分もと走ってきたのですが、ダビデを思いやるからこそアブサロムの死を伝えることが出来ません。

[3] Ⅰサムエル記25:13、30:9など。

[4] Ⅱサムエル記24:9「イスラエルには剣を使う兵士が八十万人おり、ユダの兵士は五十万人であった。」

[5] ダビデの参考文献として推薦する本を三つあげます。マックス・ルケード『ダビデのように』(佐藤知津子訳、いのちのことば社)、村田美奈子『冷たく燃える火』(フォレストブックス)、ジーン・エドワーズ『砕かれた心の輝き 三人の王の物語』(油井芙美子訳、あめんどう)。

[6] 「癒やしの能力にではなく、癒やされる必要の中に現存」している。ジャン・バニエ『梯子を降りて』

[7] ダビデの最晩年と死去は、次のⅠ列王記一章二章に跨がります。区切りとしては、ダビデの生涯の最後で締めくくった方がまとまりは良さそうですが、ダビデの生涯ではなく、人口調査と悔い改めの生贄の出来事で締めくくる所に、ダビデの英雄視よりも、ダビデ(とイスラエルの民)の罪に対する主の憐れみを主題としたい、サムエル記のメッセージの視点があると言えましょう。

[8] マタイ伝1:1はじめ、9:27、12:23、他多数。

[9]「正しくあることが間違いであるときもある:キリスト教倫理とは、自分の立場を明確にすること以上に、美しいものを体現することであるのはなぜか。」中村佐知訳「クリスチャンにとっての道徳とは、神の美しさを受けとめ、その美しさを他者に差し出すような生き方と切り離すことはできません。しかし私の専門であるキリスト教倫理では(そしていわゆるプログレッシブか保守かにかからわらず、あまりにも多くの教会において)、道徳的生活とは善や感嘆や美しさから切り離されてきました。なぜなら、私たちは道徳性を神のいのちに参画することとして考えてこなかったからです。学術界においても、教会の会衆のあいだにおいても、道徳は神や罪について正しい考えを持つこと、あれやこれやの「問題」に正しい立場を持つこと、自分たちにとって疑わしい道徳観を持つ人たちを黙らせるための武器として「愛」や「従順」や「正義」、「解放」といった原則を行使することになっていました。…そのため「倫理を行う」とは、公的な場やソーシャルメディアなどで抗議を表明することで自分の立場を明確にし、自分自身の正しさを主張することを意味するようになりました。.....  西洋では、倫理の探求とは、善や真実を考慮することから、権利や意見がぶつかりあうときにどうすべきなのかを議論することに移行してしまったのです。…あなたによく考えてもらいたいことはこれです。私たちの社会や、いくつかの教会は、道徳的正しさにみせかけた病にかかっているのです。それは、CSルイスの『天国と地獄の離婚』に登場する地獄のようです。「あの」考えを持っている人や、無神経で無知な物言いをする人は耐えられないからと、他者とのつながりを切り捨てるのです。(もちろん、何が無神経で無知だとみなされるかは、各人のもつイデオロギーや道徳観によって異なります。私は、地獄は保守派もリベラルもどんな立場の人に対しても、同じように開かれているのではないと思うのですが、どうでしょうか。)私たちは自分の言葉で自らの首を絞めています。さらに困ったことに、他者の首も絞めています。ほかのクリスチャンたちだけではありません。ノンクリスチャンのこともです。さまざまな公的議論や消費主義の泥沼の只中で、今日の分断された社会という穴の中から自分たちを引きずりあげてくれるような良い知らせや、とても不思議で素晴らしいものといった、そういうものを求めているノンクリスチャンのことでさえもです。見せかけの態度だけの倫理は私たちを醜くします。人間としての私たちを奇形にします。しかしキリストはこのウィルスに対する解毒剤を差し出しておられます。キリストは、美しい行為の中で自分を失うように、と招いておられるのです。その美しい行為とは、私たちの体をキリストご自身の体と一体にするがゆえに「道徳的」である行為、不公正や死のグロテスクさにやがて必ず勝利することになる美しさに投資するために行う行為や努力です。…イエスは言った。「そのままにしておきなさい。 なぜこの人を困らせるのですか。彼女は私のために美しいことをしてくれたのです。(マルコ14:6 NIVからの和訳)…私もここ[マルコ14章]での弟子たちと同じでした。どうすれば自分のいのちをここでのイエスに結びつけることができるだろうかと、問うことをせずにきました。むしろ私は、「権力者にいつでも真実を語る」といった原則を握りしめていたのです。「自分自身の正しさではなく、イエスの御支配と正しさから来る力に信頼するような形でそれをするには、どのようにしたらいいだろうか?」「倫理とはイスラエルの神に関することであると、他の人たちに指し示すことのできる形でそれをするにはどうしたらいいだろうか?」「神の善の不思議さを指し示すことで人々の心を惹きつけるには、どうしたらいいだろうか?」「自分自身の勇敢さを宣言したり、自分自身の賢明さをひけらかすための機会にするという誘惑に抵抗するにはどうしたらいいだろうか?」と問うことはしなかったのです。私は、真実を語るときに周囲から受ける敵意を、自分のプライドの紋章のようにすることさえありました。ときには、周囲から批判や非難を受けるのは、私の言葉が預言的であることの証拠だとさえ思うのです。しかしそれは、自らにも周囲にも、苦味と高慢をもたらすだけの愚かしいことです。…これら弟子たちの嘲りにもかかわらずこの女性[マルコ14章]を動かしていたのは、自分の正しさを証明したいという願いではありませんでした。彼女にとって、これは自分に関することとは無関係でした。彼女の情熱的な願いは、十字架に向かうイエスの危険な行動に自ら連なり、そこに自分の財産を投資することだったのです。彼女は、しようと思えばいくらでも(貧しい人に施すための)効果的な行いをすることができましたが、それでも彼女はあえて、官能的で無駄とも思えることをしたのです。イエスに連なりたいという願いに動かされ、彼女はこの高価な贈り物をこのように用いたのです。貧しい人に施すときの確固たる原則に動かされたわけではありません。イエスの死についての言葉を理解した唯一の人物としての、不動の地位を得ようと思ったわけでもありません。私はと言えば、自分と同じような考えを持つ人たちからの賞賛や、私を嘲る人たちからの叱責の言葉を自分の正しさの証拠として受け取ってきました。ただイエスにだけ見つめ、イエスの生き方の美しさに自分のいのちを連ならせ、自分の持つすべてを投資するために今この瞬間に何をすべきか、と考えることをしてこなかったのです。」 MEMO on キリスト教倫理

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マタイ伝9章9-13節「神はともにいる王 マタイ伝」

2019-05-26 20:55:29 | 一書説教

2019/5/26 マタイ伝9章9-13節「神はともにいる王 マタイ伝」

 今月の一書説教として、マタイの福音書をお話しします。新約聖書の第一巻、最初に開かれる書。しかしご存じのように、その最初がアブラハムからダビデ、バビロン捕囚と名前が延々と綴られる系図です。聖書を読む気が失せて閉じてしまう人もいるでしょう。ぜひ、それで躓くより、そこは飛ばしていいので、読み続けていただきたい。そして、新約を読み終わったら、今度は旧約の最初から読み始めたらよいでしょう。そこでも読み慣れない所は飛ばしてでも何とか最後まで読んで、もう一度、新約を開いてください。そうしたら、読んできた旧約の人物がマタイ一章の系図に出て来て、旧約と新約が繋がっていることを実感するのです。

 マタイの福音書が、新約聖書の最初に置かれているのは、旧約と新約との繋がりが最もハッキリしているからでしょう。旧約の歴史がアブラハムからモーセ、ダビデと続いてきて、長い間掛けて神の契約が現されてきました。同時に、旧約聖書が示すのは、人間の醜さや裏切り、暴力や悲しみの現実です。そうした出来事を思い出させるのが、マタイの最初の系図です[1]。そして、そのような歴史の末にイエス・キリストがおいでになったことが語られます。マタイの福音書そのものが、旧約の民の子孫、ユダヤ人を読者として想定して書かれています。本文にも旧約聖書の言葉が沢山、他の三つの福音書より多数引用されていますし、旧約の預言がイエスの御生涯によって「成就した」という言葉も沢山出て来るのが特徴です。

 イエスは、今から二千年前の時代に突然現れた聖人・偉人ではありません。旧約の二千年以上の歴史を通じて、ずっと待ち望まれてきたメシア、神が遣わしてくださる本当の王。その事が、旧約聖書との繋がりを強調するマタイの福音書を通して伝わってくるのです。それは、偉大すぎて近寄りがたいメシアではありません。この福音書の中で、繰り返し語られるのは、

1:23「その名はインマヌエルと呼ばれる。」…「神が私たちとともにおられる」

18:20二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいる…。

28:20「…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 一章でも最後の二八章でも、

「ともにいます」

という言葉が出て来ます。神は私たちとともにおられる。イエスはそれを体現された神の御子であり、そう約束なさったのです。それも、旧約の歴史が、神の民とされたイスラエル人がどんどん転がり落ちてしまって、見る影もない所に、イエスは王としておいでになりました。人間の罪が明らかになっている所に、イエスは

「ご自分の民をその罪からお救いになる」

お方として来られたのです[2]。それは、他ならぬこの福音書の記者、マタイ自身の体験したイエスとの出会いだったに違いありません。今日の、

9:9イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

 収税所とは、当時のユダヤを治めていたローマ帝国が置いた事務所です。マタイは、同胞のユダヤ人から憎い敵のローマ帝国のために重税を搾り取る片棒を担いでいました。ローマ兵の威圧感を後ろ盾に、ユダヤ人から金を取り、その中から自分の取り分も集めて、裕福な暮らしもしていたかもしれません。ですが、孤独でした。ユダヤ社会では「取税人と罪人」と並ぶような扱いをされる、売国奴、呪われた人生を送っている奴と見なされていました。しかし、イエスは収税所に座って仕事をしていたマタイを見て「わたしについて来なさい」と言います。マタイの生き方を責めたり、通り過ぎたりせず、「わたしに着いてきなさい」と言われた。それはマタイがどれほど驚いた呼びかけだったでしょう。そしてマタイは取税人の仕事を捨てて、イエスに従う人生を選んだのです。それぐらいイエスの呼びかけは衝撃的でした。

 この出来事の前にはずっとイエスの奇蹟が伝えられています。8章では重い病気の癒やしや、船に乗っては嵐に襲われてもイエスが風と湖を叱りつけて鎮めたり、悪霊に憑かれた人から大勢の悪霊を追い出したりした出来事が綴られます。イエスの力は凄いなぁと思うのですが、その華々しい出来事の流れに、取税人マタイとの出会いがあるのです。これは、マタイが参考にしたマルコの福音書の流れに沿ったものではありますが[3]、そこにマタイが(恐らくは)自分の名前を明記して「マタイという人が」と書いたのだとすると、それはイエスが自分に声をかけてくださったことが奇蹟中の奇蹟だと言いたいのではないでしょうか。イエスが自分を呼んで下さった。新しい人生を下さった。イエスは、私にも声をかけてくださったお方。私に一緒にいることを求め、世の終わりまでともにいると約束してくださった方。そのイエスが神の子であって、神ご自身が私とともにいる神なのだと、イエスを通して、マタイは知って、人生が変えられる奇蹟が起きたのです。それは、当時のユダヤでは冒涜とも見なされました。10節でイエスがマタイたちと一緒に食事をしています。取税人や罪人と呼ばれた社会の除け者たちが大勢来ていました。それ自体あり得ないことでした。だから11節で、禁欲的に真面目に神の掟を厳格に生きようとしていたパリサイ人たちは、「なぜあなたがたの先生は」と非難をするのです。あんな奴らと一緒に食事をするなんて、と言うのです。

12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

13『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです[4]

 イエスにはマタイも取税人も「罪人」も、無価値でダメな存在ではなく、大切な存在でした。神は正しい人を喜ぶのではなく、すべての人を真実に愛することを喜ばれます。罪人のためにこそ、神から犠牲を惜しまず、近づいて癒やしてくださるのです。私も高校の時この言葉で人生が変わりました。パリサイ人やユダヤ社会、現代の私たちや教会も「神が求めるのは正しい生き方で、正しくない生き方をする者を神は裁かれる」と考えます。その発想がある限り、真実の愛よりも評価や軽蔑や上下関係が生まれます。「ユダヤ人は敬虔で、異邦人は呪われている。ユダヤ人でも、取税人はダメ、律法に従えない人は罪人」。生まれや行いや何かで、人の価値に上下を付けて安心しようとするのです。そんな考えをイエスは悉(ことごと)く覆(くつがえ)します。説教でも譬え話でも、イエスは当時の理解に挑戦します[5]。マタイが繰り返す言葉の一つは

「最も小さな者のひとり」

です。人の社会の中で「最も小さな者」と蔑んでいるような、その一人に神は目を留めておられる。そしてイエスは最も小さな人の一人になります。病気を癒やし、嵐も鎮め、奇蹟を起こす権威を持ちながら、しかしその力で社会を引っ繰り返すよりも、最も小さな者、貶められて阻害されている人の友となり、小さな一人となって殺される道を選ばれました。それが、イエスという王の示した道でした。「真実の愛」をもって、誰一人として蔑まず、ともにいてくださる王。そして、そのようなイエスのお姿そのものが、マタイを変え、神の御業の始まりになり、ユダヤ人から始まる「神の国」の広がりになっていくのです。マタイは、イエスがまずユダヤ人に語ったことを伝えながら、いつも、周りにはユダヤ人以外の異邦人の存在にも目を向けさせます。ユダヤ人より純粋な礼拝者の東方からの博士たち[6]、イエスも驚く程の信仰を持つ百人隊長[7]、ユダヤ人よりも熱心に求めるツロ・フェニキアの母親[8]、十字架の下で「この方は本当に神の子だった」と告白したローマ兵[9]。そして、最後は28章で、

18イエスは…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…

と全世界へと派遣されるのです。そのイエスの派遣によって、マタイも弟子たちもイエスのあわれみを伝えました。その末に、今私たちもここでイエスの福音を聞いています。私たちもここで、イエスがこの私をも招いてくださって、いつまでもともにいると約束されているのです。

「マタイを召された主よ。王であるあなたは、病人や罪人の私たちを救うため、神の民として生き返らせるため、この世界に来て、最も小さくなってくださいました。この驚きと感謝が込められたマタイの福音書を与えてくださり有難うございます。どうぞ私たちの歩みや私たちの心にも語りかけ、働きかけて、小さい一人を愛するあなたの御国をこの地に拡大してください」



[1] 一章の系図、四人の女性は、男性側の暴力に巻き込まれた面が大きい。しかも全員が、ダビデ以前。理想化されたダビデだが、曰く付きの面をマタイは抑える。しかし、それはダビデを非難するためでなく、そうした問題ある過去を抱えたダビデと、イスラエルの末に、イエスが王として来られたことが福音書に展開される。

[2] マタイ一21~23「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」

[3] マタイとマルコとルカの福音書は、内容に共通するものが多いことから「共観福音書」と呼ばれます。中でもマルコが最初に福音書を書き、それをマタイとルカが参考に、アレンジしつつ書き写したと考えるのが、新約聖書の編纂史についての主流の理解です。これに、マタイとルカとが共通して参考にした「Q資料」というものがある、という学説も根強くありますが、それについては異論もあり、私もこの点は断定しなくてよいと考えます。まして、「Q資料」の復元などは不可能だと考えています。

[4] この「真実の愛」とは直訳すると「あわれみ」という言葉ですが、元々の引用されたホセア書の言葉が「真実の愛」でした。この事に関しては、「受難週「棕櫚の主日」礼拝 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」」でお話ししました。ご参考に。

[5] マタイの特徴の一つは、「説教集」でもあることです。いずれも「イエスがこれらの言葉を語り終えると」で結ばれる五つの説教集は、5~7章「山上の説教」、10~11:1「派遣の説教」、13章「天の御国の譬え」、18:1-19:1「弟子たちの交わりの問題」、24-25章「終末について」(パリサイ人の偽善の23章は前置き)です。マタイ全体が、小さい者への光とともに、当局の「権力者」への批判で貫かれており、それ自体が、イエスがどのような王であるかを示している。5つの説教集もそこに向けています。特に、第五説教集の導入と言える23章はその面が強烈です。

[6] マタイ2章。

[7] マタイ8章5節以下。

[8] マタイ15章21節以下。

[9] マタイ27章54節「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」

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ガラテヤ書3章26-29節「キリストにあって一つ ガラテヤ書」

2019-02-24 15:58:18 | 一書説教

2019/2/24 ガラテヤ書3章26-29節「キリストにあって一つ ガラテヤ書」

 今月の一書説教は、ガラテヤ書です。使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てた、六章にわたる手紙です。強い語調の論争的な手紙であり、美しい聖句も多く出て来ます[1]。パウロがこの教会を開拓して離れた後、律法主義的な教師がやってきました。パウロを否定して「イエスを信じるだけでは不十分だ」と教えて、ガラテヤ諸教会はそちらに流れていくところでした。キリスト教会が「キリストを信じるだけでは不十分だ」と教えられて簡単にグラグラ揺れてしまった。そういう知らせを聞いて、パウロが熱い言葉で語っているのが、このガラテヤ書です。教会が間違った教えに流されることを憂慮し、キリストの福音に気づかせようとしています。

 ガラテヤがどこを指すかは難問です。古く「ガラテヤ王国」のは北の地方ですし、ローマの行政上の「ガラテヤ州」だともっと南部も含みます。今でも「アジア」とか「中国」、「関西」もややこしい名称ですね。パウロは第二回旅行で北部の「フリュギア・ガラテヤの地方」を訪れていますが[2]、第一回伝道旅行で訪れた南部の「リステラ、イコニオン」[3]はガラテヤ州なのです。この二つの伝道旅行の間に、使徒の働き一五章で「エルサレム会議」が開かれました。その時「異邦人がイエス・キリストを信じるなら、ユダヤ人に一旦ならなくてもいい」という大きな決定をしました[4]。ユダヤ人が大事にして来た旧約聖書の習慣を、異邦人に強制しないと決定しました。ガラテヤ書が書かれたのがその会議の前なのか、それとも「エルサレム会議」の決定の後で、またガラテヤで問題が再燃したのか、意味合いが大きく違ってしまいます[5]

※ ガラテヤと呼ばれる地名は二通りあります。

 これは未だに両者の意見がある難しい問題です。どちらにせよ、エルサレム会議以降も、ユダヤ人にはこの決断は大きな抵抗がありました。「割礼や旧約儀式を守る必要があるのか」という声は新約の随所で再燃しています。その度に、確認された大事な福音は変わりません。それはイエス・キリストを信じるだけで、他に何も付け加える条件はない。キリストへの信仰の他に、何かの儀式や習慣や行為を付け加えなければ足りないということは一切ないのです。人は自分の行いや努力によっては救われません。ただ、神が私たちを神の子どもとするために、ひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。その恵みを私たちは受け取るだけです。

 パウロはガラテヤ書の最初で、自分がキリストと出会う前のことから語っています。かつて、イエスと出会うまでのパウロはガチガチのユダヤ主義者でした。十字架で犯罪者として殺されたイエスをキリストとして崇めるなんてけしからんと、

「激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました」

 それがかつてのパウロでした。そのパウロに神が御子を知らせてくださって、キリスト者となり、伝道者になった。

「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」

と噂になって、人々が御名を崇めるようになったのです。

 ガラテヤの諸教会に宛ててパウロはこの熱い手紙を書いています。キリストの福音の確かさ、律法の位置づけ、ガラテヤに自分が行ったときの最初の様子、など、色々な角度から「福音だけでは不十分だ」という考えを論駁します。4章11~18節では、自分の途方に暮れた思いまで打ち明けています。しかしこうしたパウロの情熱そのものが、かつてのパウロには考えられなかった情熱です。異邦人や割礼を受けない連中との交わりなんてあり得ませんでしたし、間違った教えに対しては迫害や暴力さえ厭わなかったのです。そのパウロがキリストに出会って、主はユダヤ人のためにも異邦人のためにもいのちを捨てて下さったと知りました。自分のためにも主が命を捨てて、神との和解を下さったことを知りました。ガチガチの民族主義者、教会の迫害者から、異邦人に福音を伝える伝道者に、一八〇度変わったのです。そのパウロが、ガラテヤの信徒達が違う福音に走った時、強い語調でではありますが、心を砕いて手紙を書き送ります。かつてとは大違いで、異邦人のために真剣に語り、自分の弱さも見せて手紙を書き送ります。それはパウロがガラテヤの異邦人キリスト者を本当に想っているからですね。この変えられたパウロの姿自体が、ガラテヤ書のメッセージであることを見落としたくないのです[6]

 パウロは再三、キリストだけでは不十分で、割礼も受ける、という考えに警告します。キリストが私たちを自由にしてくださったと言います。その末に5章6節で言うのは、

五6キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

 「割礼がなくても救われるからヨカッタ」でなく、キリストの愛が私たちのうちに働いて信仰を持たせる。それが大事、それが救いなのです。愛によって働く信仰は、キリストへの信仰だけでなく、周囲の人も新しい目で見させてくれます[7]。パウロはキリストに出会って、神との関係が変わりました。その時、彼の生き方が律法主義から恵みによる生き方に変わりました。異邦人を見る目も、敵を見る目も変わりました。自分が救われるため律法を守り善いことをする生き方が根本から覆されて、自分も他者も、キリストのうちに見るよう変えられたのです[8]

 2章の後半でパウロは一つのエピソードを取り上げます。アンティオキアの異邦人の教会にエルサレム教会の牧師ペテロが来た時、彼は異邦人キリスト者とも一緒に食事をしていました。ところが、あるユダヤ人キリスト者がやって来たら、ペテロは彼らに遠慮して、異邦人と一緒に食事をしなくなった。そこでパウロは皆の面前であのペテロを叱りました。ペテロの行為は事実上、割礼を受けていない異邦人に、イエスを信じる信仰だけでは不十分で、割礼や律法の遵守を要求することでした。しかしもっと言えば、キリストの福音を受け取っているかは、他の人と一緒に食事をするか、人間関係で差別がないか、で試されます。「信じるだけで救われる」と言いながら、人を選り好みしたり何かと要求を押しつけたり、奉仕や立派な生き方や伝道を強いてしまうならどうでしょう。「割礼は要らない」と考えても、自分の教派の背景や信仰の経験や文化を人に押しつけたり、人目に遠慮して差別に荷担したり、世間の雰囲気を教会に持ち込んでしまう。それは自分にとっては大切だったり当たり前かも知れません。でも他の人にはプレッシャーや壁になるかも知れません。キリストの恵みで救われる、とは教理の問題以上に、私たちの実際の人間関係、教会の中での在り方が試金石となる、現実的な問題です[9]

 キリストの福音は、私たちの普段の考え、人の見方、自分の尺度に合わない人との関わり方を新しくします。キリストを信じるだけで神の子どもとされる。だから私たちは、違う者同士でも教会に集まり、一緒に主の聖晩餐に与る。「キリストが神の家族に入れてくださるという救い」に私たちは与りました。他の人を見ていた自分の尺度が引っ繰り返され続けます。まだまだ途中で、ガラテヤの教会も流されかけペテロも揺れました。教会も二千年かけて、まだ差別や競争を止められず、敷居を高く造っては壊し、造っては壊しです。それでもパウロは、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。…ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 (ガラテヤ書3:26~29)

と言っています。最終的には

「大事なのは割礼ではなく新しい創造です」(6:11)

とまで言います。神のゴールは「新しい創造」、人種や性別や文化の違いを超えた新しい世界の創造。途方もないスケールで捉えられています。そしてそれが今、教会で一緒に食事をし助け合い、御霊の実が結ばれるという、本当に小さな日常的なことから始まります。私たちの普段の生き方、見方を、キリストの恵みは一新します。ギスギスした社会で疲れた心を慰める教会、本当に無条件に受け入れ、愛し、互いに喜び合う交わりでありたい。信徒総会に先立って、キリストを信じ、告白し現す教会として、一人一人が養われ、ともに歩む願いを、ガラテヤ書から教えられます[10]

「私たちの父よ。あなたを親しくそう呼ぶ幸いを下さったキリストの、大きな幻を感謝します。圧倒的な恵みを注がれながら、そこに余計なものを持ち込んだり、人を排除したりしかねない私たちを、どうぞ助けてください。ただキリストの福音に立ち、神の家として歩ませてください。主イエスの十字架をますます知ることによって、恵みならぬものから救い出してください」



[1] たとえば、「二20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」「五13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」「五22-23御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

[2] 使徒の働き16章6節。

[3] 使徒の働き14章。

[4] それまでの教会の中心はユダヤ人でした。旧約聖書を受け継いできたユダヤ人は「契約のしるし」として男子が「割礼」という男性性器の皮を切る手術をしていたのです。それは大事な意味がありましたが、これから旧約聖書を知らない異邦人をも教会に受け入れるに割礼を施さなくていいのか、食べてはならないものとか、お祭りとか儀式とか、聖書に書いてあって慣れ親しんできた事を強制しなくていいのか、という決断は私たちの想像を絶する決断だったのです。

[5] 緒論の「宛先」「執筆年代」については、以下の「徳丸町キリスト教会 聖書の概説 ガラテヤ書」を引用して紹介します。「本書の宛先は「ガラテヤの諸教会へ」(1:2)とあるように、ガラテヤ地方にある複数の教会で、そこで回覧状のように読まれることを期待して書かれたものです。本書の執筆年代は、この「ガラテヤ地方」が具体的にどの地を指すかによって変わってくるため、古くから「ガラテヤ地方」を巡っては「北ガラテヤ説」と「南ガラテヤ説」が唱えられてきました。「北ガラテヤ説」は、ガラテヤを小アジアの中心部に位置する地域に限定します。パウロは第二次伝道旅行の際に「フルギヤ・ガラテヤ地方」を通り(使徒16:6)、第三次伝道旅行の際にも再訪しています(同18:23)。「北ガラテヤ説」の場合は本書が執筆されたのは第三次伝道旅行の後、エペソにて紀元54年から57年と考えられます。これに対し「南ガラテヤ説」は、上記の限定されたガラテヤ地方だけでなく、フルギヤ、ピシデア、ルカオニア地方からさらに南は地中海に面したパンフリア地方に至る広大な地域で、紀元25年にローマの属州となった広い地域を指すとします。この場合、パウロは第一次伝道旅行でこれらの町々に教会を建設しています(同13~14)。このローマ属州としてのガラテヤ、政治的区域としてのガラテヤを宛先とする場合、本書が執筆されたのは第一次伝道旅行の後アンテオケにて紀元49年頃と考えられ、パウロ書簡の中でも最初期に書かれたものの一つとされます。 いずれに説にもそれぞれの妥当性がありますが、ポイントは本書と使徒の働きの記述との対応、特に2章と使徒15章との対応をどう理解するかと言う点にあります。『新聖書辞典』(いのちのことば社)によれば、「パウロが南ガラテヤを離れて間もなく、パレスチナから来たユダヤ人教師たちの影響を受け、パウロの教えた信仰義認の教理を否定し、またパウロの使徒職をも否定した。パウロはその事態を知って、ただちにこの手紙を書き送って、彼らの信仰を指導したと思われる。そしてこの事態はエルサレム会議(使15章)以前に生じた問題と見る」とされており、南ガラテヤ説が有力とされます。

[6] ガラテヤ書のテーマは「信仰義認」だと言います。イエスを信じるだけで義とされる。他の割礼や善行や努力や資格は不要で、ただキリストの恵みによって罪を赦される。しかし「私と神」の関係だけを考えていくと、後半の行いはどうしても辻褄合わせとしか聞こえません。「五1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」、五14「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」

[7] 「恵みとは」恵みは、私たちに耳を傾け、私たちを導き、動かし、変わらせる。人の中にすべてを働かせ、感じさせ、経験させるものである。」吉田隆『五つのソラ』(いのちのことば社、2017年)より、マルチン・ルターの引用、82頁

[8]五13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」の「愛をもって」は6節の「愛によって」と同じ言葉です。大事なのはキリストの愛によって働く信仰で、その愛は私たちを互いに仕え合う関係へと私たちを押し出す。救われるために、神に怒られないため・ガッカリさせないため、割礼を受けたり礼拝に出席し聖書を読み、善行を行ったりするのではなく、愛されている喜びから信じて、人をも新しい目で見ずにはおれなくなる。それこそが大事な事です。

[9] パウロは「四19あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と語ったり、「御霊の実」を描き出したりしてくれます。特に後半は、互いに競争したり妬み合ったりせずに、仕え合いなさい、過ちがあれば柔和な心で正してあげなさい、失望せずに善を行いなさい と語ります(五15、26、六1、9など)。パウロが語る「信仰義認」や「福音」はそうしたゴールを視野に入れている世界です。ただ自分が信仰だけで救われる、以上に、私たちがお互いにキリストが愛してくださった愛の中で見るようになる。その事をパウロはガラテヤ書の最初から語っています。

[10] 実際には、教会は何度もこの福音を間違えてきました。宗教改革の時、ルターが好んでガラテヤ書を語りましたが、それは中世の教会が、福音に免罪符や苦行や出家といった違う混ぜ物をするようになっていたからです。その後のプロテスタント教会でも、神学の違いで争ってきた歴史があります。今の私たちの中にも、いつも「恵みだけでいい。キリストを信じるだけでいい」と言いながら、つい教会に来にくい、入りづらい躓きを持ち込んでしまうことは絶えずあります。だからこそ、いつもガラテヤ書に戻りながら、主の恵みだけで十分、ということを教えられたいと思います。主が私たちを愛して、神の家族に受け入れて下さったのだ。

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