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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記十九章(1~7節)「のがれのまちがある」

2016-04-03 17:33:14 | 申命記

2016/04/03 申命記十九章(1~7節)「のがれのまちがある」

 

 この申命記は、今から三千年以上前、エジプトの奴隷生活から救い出されたイスラエルの民が、本当の意味での自由な民、神の子どもとして歩むための指針を書いたものです。今日の一九章には、

「三つの街」

を取り分けることを述べています[1]。その目的は、殺人事件が起きた場合、その加害者が、危害を加えようとわざと殺したのでなく、また、以前からその人を憎んでいたわけでもなかった場合、その加害者がその街に逃れて暮らすため、です[2]。他の箇所ではこの街は「逃れの街」[3]と呼ばれます。そのシステムが立てられる目的は、

10あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。

という事に尽きます。無実の罪の人が、冤罪で処刑されてはならない。その原則はよく分かります。勿論、何千年もの時代と文化の隔たりもあって、現代の感覚では理解できない点もあります。今の時代に、5節で

「たとえば」

と言われるような、斧を振り回してその頭が柄から抜けて隣人に当たって死ぬ、というのは滅多にお目にかかりません。斧より身近なのはたとえば自動車です。運転中、ウッカリ人を跳ねてしまった。しかしウッカリであって、引いた相手を前から憎むも何も、知り合いでさえない場合が多いでしょう。しかし、運転手は「罪がない」とは言えず、当然、過失運転致死罪となるのです[4]。ここでも

「罪のない者の血が流されることがない」

とは言いますが、わざとでなければ「無罪放免」とされて堂々と今までの通り暮らせるのではありません。6節に

「血の復讐をする者」

とありますが、死んだ者の一番の近親者には、亡くなった者の権利を代弁する責任がありました。「仇討ちをする権利」ではありません。律法では、決して個人的な復讐や私刑(リンチ)は許されません。裁きを行うのは長老や「さばきつかさ」など、公の制度です。しかし、亡くなった方の近親者がその公の対処では腑に落ちず、どこかでバッタリその加害者に出くわしたら、憤りに燃えて、私的に復讐する悲劇も起こり得ます。そのために、加害者の住む逃れの街が創られ、彼はそこで全く新しい生活を始めなければなりません。そして、時の大祭司が死ぬまでは、その街で新しく暮らすのです[5]。あなたが誤って人を死に至らせたとして、それが殺意からでないとは分かってもらえたとします。でも「ワザとじゃなかったんだからお帰りなさい」ではありません[6]。「ワザとでなくても、あなたの過失で人が亡くなった以上、あなたは今までの生活を打ち切って、大祭司が死ぬまで、逃れの街で過ごしなさい」と言われるのです。これは、いのちに対する大変厳かな態度です。

 律法では神の民の生活に、殺傷事件なんてあり得ないとは言いません。そんな事件さえ想定したインフラ整備が命じられるのです。自分に殺意がなくても、人を殺めることがあり得るという現実を示します。そしてその場合、相手の身内が復讐したい思いに駆られる感情も認めています。意図的な殺人ではなくても、やり場のない感情を抱く現実をもそのまま受け止めています。加害者は、不慮ではあっても、そうした事態を引き起こした責任を引き受けて、逃れの街で再出発をするよう、命じられているのです[7]

 勿論これは形式上の規則でもあります。ワザと殺したのに「手が滑っただけだ」と言い逃れるかもしれません。4節の

「以前からその人を憎んでいなかった場合」

という条件は、結局普段から人の悪口や憎しみを抱かないことを求めているはずです。しかし、殺意を抱いている人はそれを口に出さずにこの条件をクリアしようとすることも出来ます。人はいくらでも偽証をし、責任逃れをしようとします。実際、イスラエルは律法を空文化していきます。15節以下には「偽証による冤罪を避けるため、二人か三人の証言がなければならない」と規定されていますが、後の時代には賄賂を何人にも掴ませて偽証をさせて、人を無実の罪で殺す出来事さえ起きました[8]。そしてそれは、他ならない主イエスの裁判でも起きたことでした[9]

 主イエスの十字架は、まさに罪のない方の血が流されたことでした。ここで強く窘(たしな)められていることが正に主イエスにおいて起きたのです。それも、父なる神は、イエスが血を流すために、この世にお送り下さったのです。イエスのために「逃れの街」を用意して守ろうとはなさらず、殺す者たちの手に引き渡されたのです。どうしてでしょうか。

 逆説的ですが、この申命記の規定が与えられたのと同じ理由です。私たちの中に、憎しみや殺意や憤りがあることを神が受け止めて下さったのです。罪のない者の血が数え切れないほど流されて、世界が血を吸い込んできた叫びを、神が御自身の悲しみとなさっていると知るためです。いくら法律を作り、教育をしても、人間の心が変わろうとしなければ、憎んだり、殺したり、嘘を吐いたり、復讐心に駆られて生きたりしてしまうものです。イエスは、その私たちの心を新しくするために、御自身の心、いのちである血を流してくださったのです。主は、疲れた者、重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさいとおっしゃいました。主イエスご自身が、人生の現実で疲れ、背負いきれない重荷をどうすることも出来なくて潰れそうになっている者を招いてくださるのです。主は、昔も今も、逃れの街を用意して、そこに招いて再出発をさせてくださるお方です。

 私の友人が「逃れの街ミニストリー」という働きをしています。特に、若者の性や中絶の問題に取り組みつつ「悩みをかかえて苦しむ、行き場のない人々のための逃れの場所として、共に痛みを共有し、聖書から真実を求め、主にある喜びをもって生きるために働いていきたいと願っています」というのが彼の願いです[10]。主が「逃れの街」を備えられた事は、今の私たちへの福音でもあり、教会の働きです。イエスは、失敗に苦しみ、行き場のない方のために、逃れの場所を与えてくださいます。そして「逃れの街」には、同じように逃れた人たちとの出会いがありました。分かち合える仲間との出会いも備えられていました。教会も、立派なクリスチャンではなく、失敗や挫折や恥を持つ者たちの集まりです。でも、イエスは私たちを招いてくださいました。そして、ここでもう一度、よい再出発をさせてくださるのです。

…神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるようにと、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。[11]

 「脱出の道」と「逃れの街」は響きが似ていますが、それが元に戻れる道のことではないし、責任逃れの道ではないことも共通しています。むしろ、過去の変えられない現実を受け入れ、人の気持ちも尊重し、壊れてしまった現実から、次へと進むよう導かれた場所へと進んで行くのです。イエスと共に軛を負って、学びつつ、自分の責任を果たしていく生き方です。そういう新しい道へとキリストは導かれるのです。

「神よ。私に与えてください。
変えられないものを受け入れる静けさを。
変えられるものを変える勇気を。
その二つを見分ける洞察を」[12]

 憎しみや恨みや責め立てる声から逃れて、でも、責任ある生き方、自分のなすべき分を果たし、神がそこにも新しい歩みを下さることを期待する生き方を始めさせてくださるのです。主イエスはそういう歩みを下さる。私たちは、そういう再出発に預かった仲間たちであります。

 

「主よ。逃れの街は、私たちの赦しと再出発の象徴です。罪なきあなたの死のゆえに、すべての者が主のもとに来て、新しく歩み始める恵みが与えられました。裁かれ、傷つき、断絶した関係から逃れて、あなたの元で安らぐ場をここにお造りください。あなたが私たちを、責めるよりも育てて下さり、何度でも再出発させたもう恵みを、私たちに分かち合わせてください」



[1] 既に四41-43では、ヨルダンの東側に三つの街が取り分けられていました。ここでは、ヨルダンの西側の三つの街です。しかし、8節では、時代の変化、繁栄と共に、さらに三つの街が追加されることも示されます。ここには、社会の発展とともに、(いわば限りなく)逃れの街が増やされ、その機能を展開していくことも暗示されているでしょう。

[2] 出エジプト記二一12-14、民数記三五章10-15、22-28節。また、ヨシュア二〇章。出エジプトでは、二〇章の「十戒」に続く二一章という早さです。この規定の大きさが分かります。

[3] 「逃れの街」という言い方は民数記で11回、ヨシュア記で7回、1歴代誌で二回。申命記ではゼロ。

[4] 殺人への対処としても、現在の刑法との違いはいくつもあるでしょう。一瞥するだけでも、故殺は即死刑ですし(11-13節)、傷害致死は、逃れの街に住むのです(1-7節)。無罪放免とはならないし、あるいは、罰金や禁固刑という刑罰は想定されていません。また、21節の原則は、過失も同害報復で一律に強いるのではない、ということも分かります。不慮の殺人であれば、「いのちにはいのち」ではなりません。ただし、偽証によって死刑に至らせようとした場合は、実行はしていなくても、「いのちにはいのち」となります。故意か、不慮か、が大きな分かれ道になる。

[5] 民数記三五25、28によると、彼はその時の大祭司が死ぬまでその逃れの街に留まっていなければならず、「大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる」(同28節)とされています。

[6] かばって責任を問わないのは神の愛ではないし、私たちにとっても愛の行動とはいえません。愛するからこそ、相手を責任ある行動へと導き、他者の感情にも配慮しつつ、自分の生き方を引き受け、善きものとするよう励ます。それが、真の愛なのです。

[7] 人は過失であっても、なしたことには責任を負わなければならないこと。事故や殺意の死は起こりうること。人の復讐感情は強力であること。新しい地での再出発があること。これは、私たちの生活での大原則です。そしてこれらは、言い換えれば、「種蒔きと刈り入れの法則」、「見極めの法則」、「尊重の法則」という『境界線』の問題そのものです。

[8] Ⅰ列王記二一章、参照。

[9] マルコ一四56、参照。

[10] Webサイトは、http://www.nogarenomachi.com/ その表紙にある言葉は次の通りです。「小さないのちの大切さを伝えたい。自分一人で自分を責めるのが人生じゃない。ぼくらは神様によって創られた。みんなかけがえのない存在。弱くても、苦しくても、神様はぼくらはを愛してくれる。聖書の御言葉が導いてくれる。神様の愛によって変えられる人生へ。責められる場所から逃れてきて欲しい。この逃れの街へ。そして共に苦しみや痛みに涙をしながら、本当の聖書が教える新しい人生へとこの逃れの街から共に歩き出そう。」

[11] Ⅰコリント十13。

[12] ニーバーの「静謐の祈り」。

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申命記十八章14~22節「聞き従うに値するみことば」

2016-03-13 17:50:09 | 申命記

2016/03/13 申命記十八章14~22節「聞き従うに値するみことば」

 

 お笑いのネタにされる、典型的なクリスチャンのイメージと言えば、何かと「神様が、イエス様が」と連発する、あるグループの姿があるでしょう。実際、「神様の御心」だと沢山言った方が安心できるという心理はあるのです。しかし聖書では「主の御名をみだりに唱えてはならない」と言っています。直ぐに神の名を持ち出すことは、むしろ戒められているのです。

 今日の申命記一八章後半では、預言者について教えられています。申命記は、エジプトの奴隷生活から救い出されたイスラエルの民が、四十年の放浪生活の末に、遂に約束の地に入ろうとしている時に語られたものです。これを語るモーセは、この説教が自分の最後の務めだと知っていました。文字通り遺言説教として、モーセはイスラエルの民に、新しく始まる生活のために大切なことを教えています。ここで彼が語るのは、主が立てられる、自分のような預言者が与えられるから、彼に聞き従いなさい、ということです。けれども、

20ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」

と厳しい言葉もあります。こういう言葉を読むと、聖書は人間社会というものを分かっているなぁ、現実的だなぁと感じます。モーセは申命記という説教を語っています。新しい生活の基本となる大事な原則が十分丁寧に語られます。ならば、それを教えておけば大丈夫、とは考えないのです。前回の一七章からこの一八章には、「さばきつかさ」「王」「祭司」、そして「預言者」が出て来ます。指導者が立てられるのです。それも一人ではなく、王、祭司、預言者の「三権分立」です。更に、立てられた王が暴君にならないよう、御言葉を学び続けなさい。祭司も、私腹を肥やしてはなりません。そして預言者もまた、神の名を騙(かた)り、偽りを預言するかも知れないと、間違う可能性が予告されているのですね。人の弱さを徹底して見据えています。

 今日の箇所に先立つのは、占い師やまじないに聞き従うことへの禁止です。占いや呪いは、将来のことを知ろうとか、不幸を避けたり幸せを手に入れたりする特別な方法を求めることですね。普通に生きるだけでは得られない、近道や秘訣への憧れです。物足りなさや不安の裏返しです。でも、主は私たちに十分に恵みを与え、将来にも良い備えをしておられるのです。人として出来ることを教えてくださっています。主は本来、16節で言われるように、ホレブの山で力強く現された通り、大きな火にも勝るお方です。その御臨在に真面(まとも)に触れたら死んでしまうような、恐ろしい御声をお持ちです。人間がそれに耐えられないから、神は預言者を間に立ててくださるのです。神は大いなる、恐るべきお方です。「それでは足りない、不安だ」と占いや呪いを持ち込むのは、拒まなければならない冒涜です[1]。けれども実際には、この後イスラエルの歴史には、偽預言者が沢山現れます。調子よいことを言って民を惹き付けたり、無責任な将来の希望を語ったりする偽預言者の方に、人気が集まる[2]。それが旧約の歴史です。

 そうした末に、神の独り子、イエス・キリストが「預言者」として来てくださいました。ペテロは「使徒の働き」三章で、今日の申命記十八18を引用し、イエス・キリストこそ「ひとりの預言者」だと言っています[3]。主イエスは、私たちを思い煩い(不安、心配)から救い出して、私たちに神の子どもとして生きるべき道を教えてくださいました。でも、そのイエスも、偽預言者への警告を強く仰いました[4]。彼らは力ある奇蹟を行ったり、病気を癒やしたり、悪霊を追い出す。でもその「実」、即ち、教えが父の御心と違っていないかを見分けなさいと仰ったのです[5]。今日の21節以下で、見分ける基準がこう言われています。

21あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、

22預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られた言葉ではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

 「そのことが起こらず」は「そのことがそうではなく」、つまり、「主の名によって語っても、主の名によってではない」つまり他の主の教えと矛盾している(例えば、偶像を拝むとか、占いもしていいとか、貧者や弱者を虐げても良いとか、悪者は殺して良いとか)教えである場合です。もう一つの「実現しないならば」は、そのまま、将来のことを予告したのに、それが実現しない場合です。その二つの基準から、その預言者が偽者かどうか分かるのです。この原則は、一見当たり前のようですが、非常に深く心に留めて、大切にするべき基準です。

 教会の歴史を見ても、異端や過激な牧師が現れたこともありますし、教会そのものが道を外して、狂信的になることもありました。最近でも、二千年が来る前には「世の終わりが近い」と煽り立てるグループがありましたし、私も「キリストの再臨まで恐らく二〇年ないでしょう」という説教を聴いたことがあります。エイズや震災は「神の裁きだ」と断言した人もいました。間違いが明らかになっても、屁理屈をつけて正当化したり、知らんぷりをして豹変したりするのです。占い師もカルト宗教も、予言が外れた場合の言い訳は考えているものです。ですから、その言葉に矛盾や不誠実があったら、それは神からではない、という基準は大事なのです。

 でも、私たち自身を振り返っても思い当たらないでしょうか。主の恵みは限りなく、同時に、私たちを罪や苦しみから救い出してくださる恵みです。それなのに「そんな罪は赦されない」とか、逆に「悔い改めなくても赦してくれる」とか「こんな悪が起きたのは、何か神を怒らせることをしたからに違いない」。そんな事を言ったり言われたりした経験がありませんか。主の御名を傘に着て、自分の意見を押し通したり、恐怖や罪悪感で人を操作しようとしたりすることに覚えがないでしょうか。そういう御名の乱用は、神を心から信頼させ、良い意味で恐れさせるどころか、かえって、神を誤解させ、嫌悪させ、侮らせます。そして、私たちの互いの関係も、遠ざけてしまいます。これは、インチキ占い師と変わらない、本当に不遜な誘惑です。

 イエスにはそんなごまかしもペテンもありません。イエスは私たちに、間違いなく実現する言葉、信じるに値する言葉を語られます。もう私たちは占いやハッタリに縋らなくてもよいのです。勿論、分からないことは沢山あります。でも、神は私を決して見捨てず、私たちを慰め、育ててくださいます。私たちを完全に知り、かつ愛すればこそ、困難を通して成長させ、逞しくかつ謙虚に歩む者、真実な神ご自身に似た者へと変えてくださるのです。その事を弁える時、私たちは神の名を無闇に振り回さなくてもよくなっていきます。自分の立場を守ろう、正当化しよう、間違いを認めないで優位を保とうとする不遜さや虚仮(こけ)威(おど)しからも解放されるのです。教会の間違いも正直に認めるし、自分の過ちも素直に謝るようになる。イエスの言葉は、私たちを深く慰めることで真実である事を証しします。なぜならイエスは真の預言者なのですから。

 

「真実な預言者である主よ。言葉の重みや信頼が失われているこの時代を憐れんでください。主イエスは、本当の預言者としてこの世に来てくださり、信じるに足る言葉となってくださいました。どうぞその愛と真実を現すよう、私たちの心と言葉を聖めてください。あなたの愛がもたらした赦しと希望を、喜びの将来を、お互いの尊さを、語り、現し、創らせてください」



[1] これが、「13あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない」ということの意味です。「全きもの(別訳:傷のないもの)」とは、人間として欠けのない完璧な信者となれ、ということではありません。私たちは間違いやすく王や祭司や預言者であっても誘惑に負けやすい、不完全な者です。しかし、主は完全であり、信頼すべきお方です。その完全さを疑って、貶めることは、禁じられているのです。

[2] Ⅰ列王二二章、エレミヤ書二七章、二八章など。

[3] ヨハネ五46「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」、使徒三22「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。23その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」

[4] しかし、皮肉なことに、真実を語った真の預言者たちが殺された。真実を語ったのに、偽預言など語らなかったのに、偽預言者として憎まれて殺されたのです。それは、真の預言者であるイエスも、弟子たちも同じでした。

[5] マタイ七15-23。ここでの「実」は、その働きの成功、ではありません。それは、彼らの思惑通り、完全に上手くいっているのですから。しかし、その教えと姿勢が、神から離れています。それが彼らを識別する「実」です。

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申命記十七章14~20節「学び手であること」

2016-03-06 20:05:26 | 申命記

2016/03/06 申命記十七章14~20節「学び手であること」

 

 アメリカでは大統領選挙のニュースが真っ盛りです。日本でも、国会や選挙の駆け引きが報道されて、政治家たちは有権者にアピールをして、自分たちへの支持を失わないようにしようと躍起になっています。今日の申命記十七章後半では、王を立てたいと思う場合のことが書かれています[1]。どんな人を選ぶべきで、その王にどんな義務が求められるのか、を端的に書いていますね。ここで言う「王」とは絶対君主とか、神に成り代わって好き勝手に振る舞う存在ではありません。しかし周辺の国では、王は神のように振る舞っていました[2]。そこで、

14あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、

15あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。…

と言われて、以下に、いくつかの大切な決まり事が書かれているわけです。主が選ぶ者であること、同胞イスラエル人から選ばなければならないこと。そして、16節では、多くの馬を増やしてはならないこと、17節では、多くの妻を持ってはならないこと、金銀を非常に増やしてはならないこと、が言われています。

「馬」

を増やすのは、財産だけでなく、軍馬の増強、即ち兵力そのものです。ですから、馬を増やすとは、軍事力の増強です。馬や兵力が禁じられるのではありません。しかし、軍隊を持つとそれに過剰に信頼して、誇って、脅威となろうとするのは権力者の常です。神を信頼して謙るよりも、力を持ち、人を威圧しようとするのです。その時、神の民が、本来あるべき、平和と自由の国ではなくなっていくのですね。

16王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだと言って民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない」と主はあなたがたに言われた。

 今までの申命記を思い出してください。繰り返して、エジプトでの奴隷生活から救い出されたことを忘れずに、これから始まる新しい生活で、隣人や弱者を虐げたり、財産の奴隷になったりしないように注意しなさい、と言われていました。ここでの「エジプトに帰る」も[3]、馬を増やそう、軍備を強大にしようとするなら、必ず民をまた虐げる。王のプライドや願望のために、民に税金や労働を強いることになる。エジプトの奴隷生活から救い出されたはずなのに、新しい生活がまた実質的に元の木阿弥になってしまう、と注意するのです。場所は変わり、王を立てるほど国家として成熟した時の話です。一見全く違うようで、しかし結局見ていることは、神でも人でもなく富や名声。エジプトと同じ。その事を強く警告しているのです。

 そう考えると、現代にもどれほどこれは当てはまるでしょうか。馬を増やそうとは思わないでしょう。また、多くの妻を持とうとも思わないかも知れません。金銀という経済感覚もありません。けれども、国の指導者たちは最新鋭の軍事技術を誇りたがるし、GNPを競おうとします。私たちも、TVや広告に煽られて、これがあれば安心できる、という生き方に流されやすいし、通帳の預金額を必要以上に気にするものです。教会さえ、立派な建物や最新の設備や沢山の献金があればいいなぁと思いやすい。でもそれは「エジプトに戻る道」なのです[4]

 18節以下では、王が、一生、主の御教えを書き写し、読み続けなければならない、と言われます。王は神の律法の下にある、という「立憲君主制」ですね。[5]

19…それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。

20それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

 心が民の上に高ぶらないために、神の命令から逸れないために、そしてそれが最終的には長い統治に繋がるために、主の掟を守り行うことを学び続けるのです。主の教えを守ることを学び続けないと、高ぶって、自分だけは特別だ、自分には自由にする権利がある。そういう風に考えやすいのが私たちですね[6]。高ぶりはいけない、富や力に頼ったら滅びる、というのは基本中の基本です。でもそれを「もう知っているから大丈夫、自分は高ぶりません、神様だけに頼ります、自分はもう学ばなくても大丈夫」などと言える人はひとりもいません。だから学び続けること、学び手であることが、私たちを守るのです。神の掟を守ることを私たちが学び続ける時、律法が私たちを守り、祝福を与えるのです。[7]

 けれどもこの後の歴史は、何を教えているでしょうか。イスラエルにやがて王が起こされていった時、彼らはみな馬を増やし、多くの妻を娶り、金銀を増やしてしまいました。主の掟を学ぶことを疎かにして、高ぶって、最後にはダビデ王朝も絶やされたのです。そればかりではありません。その反省の上に立って、イスラエル民族は律法を熱心に学び、暗記するようになりました。しかし、主イエスが来られた時、神の掟の専門家であり実践者を自他共に認める、律法学者やパリサイ人たちこそは、心をそらせ、イエスに抵抗したのですね。律法を学んでさえいれば大丈夫、ではない。それぐらい人間の心は深く病んでいることが分かったのです。

 ではどこに私たちの望みがあるのでしょうか。それは、この掟を完全に成就された王、イエスご自身です。イエスはユダヤの同胞から建てられた王であり、馬や力を増やそうとせず、心をそらせることなく、貧しい生涯を歩まれた王でした。イエスはこう仰いました。

マルコ十42…「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

43しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。…

45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 このイエスのお姿を、絶えず学ぶのです。イエスは、私たちのために身を低くし、私たちに仕えてくださった王であられます。それは二千年前だけの話ではありません。今も私たちに仕えておられます。今日も日ごとの糧もいのちも与え、私たちの足も心をも洗い、私たちの心を探り、涙を拭い、ともに歩んでいてくださるのです。私たちを奴隷のように見做さず、本当に私たちを愛し、尊び、喜んでくださっています。そして、私たちの立場だけでなく生き方をも回復するために、ご自分のいのちさえも惜しまれない王なのです。このイエスが私たちの王であられます。馬も多くの妻も金銀も、他の何も私たちを救えません。イエスだけが私たちを生かし、滅びからも、傲慢からも救い出してくださるのだと、生涯、学び続けていきましょう。

 

「力に憧れ、自分だけは特別でいたいと思い上がって滅びて行く人間の中に、あなたは御言葉をもって語り掛け、行くべき道を示してくださいます。主ご自身の模範と十字架の死は、私たちが傲慢や奴隷化の道から救われる保証です。世界を支配しているのは、強者でも富でもなく、恵みと真実の主、永遠の王であるあなたに他ならないことを私たちを通して証ししてください」



[1] 王を立てること自体が罪だったわけではありません。創世記十七6で「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」と既に言われていたのです。ここでも、王を立てることに伴う注意をしつつ、王を立てること自体を否定してはいません。申命記の文脈では、それが大罪であれば断固として非難されていたはずです。しかし、そこに伴う問題として、主の選びよりも自分たちの好みで選び、異国人(異教徒)から好もしい人材を連れて来たり、その所有欲に負け、妻を多く娶ったりする危険が注意される。

[2] 私たちにとって、本当の王は、主なる神であります。(出十五18、申命三三5。)神こそが本当の王であります。しかし、神は決して、暴君でも恐ろしい絶対君主でもありません。恵み深く、また、人間の自由と意志を尊重され、世界を育んで成長させ、完成に至らせるお方なのですね。神は善き王です。神の支配とは、政治家や権力者たちが得ようとするものとは違うのです。ところがそのような生ける本当の神とは違い、多くの宗教の神は生きていません。ですから、神を崇めてはいても、実際は、祭司や神官が絶対君主となったり、王が神のように振る舞ったりしてしまうのですね。神に説明責任を持つわけではないからです。

[3] このエジプトに帰るとは、馬を買うためにエジプトに行くとか、エジプトに民を連れて行って奴隷として売りさばくとか、そういう意味だと考える人もいます。

[4] 後のソロモンはこの律法を破ります。しかし、よく言われるように多くの妻を娶った(Ⅰ列王十一4-8)だけではありませんでした。彼は、馬を増やし(Ⅰ列王四26)、最高の財産を誇った(Ⅰ列王十14-22)ことも見逃してはなりません。この後半は、是認していないでしょうか。憧れていないでしょうか。教会が、道徳的なスキャンダルを犯すことは嫌悪しても、立派な会堂を持ち、豊かな財政を持つことに憧れがないでしょうか。そこに既に、落とし穴があるのです。

[5] 王やお殿様は、自分自身が法律になって、人に命じる立場になりやすいのですが、ここでは逆です。王こそは、誰よりも神の教えを心に刻むべきです。

[6] 自分も民の一人である、という自覚は非常に大事です。孤独感や特別意識は、非常に危険なのです。自分もみんなと同じ一人、と思うことが人を守る面もあるのです。

[7] 「学び」とは何か難しい事や新しい知識の学びではありません。聖書を学ぶのは、高度な知識を身に着けることではありません。知るべき事はもう知っているけど、それに加えて聖書についての知識を増やしていく、ということではないのです。学ばなくてもいい、というのは謙遜のようですが、実は高ぶりへの確実な道です。「自分は知るべき事を知っている、自分の判断は正しく、大きな間違いはしない」という自信でもあるのですから。「学び」とは、新しく高度なことを学ぶのではなく、基本的なこと、当然の態度を学び続けることです。なぜなら、私たちの中にある堕落の影響は、根本的な所で根を下ろし、生き方を歪めていくのですから。偶像を拝み、人を支配しようとするのですから。自分の欲を求めたり高ぶったりしては神の御心に添わないと教えられながら、それを生きることの出来る人など一人もいないのですから。

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申命記十六章1~12節「ともに喜びなさい」

2016-02-07 16:43:20 | 申命記

2016/02/07 申命記十六章1~12節「ともに喜びなさい」

 

 今年も正月が過ぎて、二月になりました。正月の次は、春の花見やイースター、新学期、そして、ゴールデンウィーク、夏休み、阿波踊り、キャンプ…。そんな年間行事を、どこかで意識しながら私たちは生活しています。教会行事も来週の総会で諮りますが、特に目新しいことをするよりも、毎年大まかなことを繰り返していくのです。「そろそろマンネリになってきたからクリスマスを七月にしましょう」とか「イースターは止めましょう」などとは言いません。そんなことをすると却って私たちの生活は支えを失っていくのではないでしょうか。

 イスラエルの民が新しい地に入って行くにも、三つの大きなお祭りを命じられました。一年の最初の「アビブの月」に、過越の生け贄を捧げることから始まる「種を入れないパンの祭り」をします。その七週間後に、「初穂の祭り」とも言われる「七週の祭り」をして、これがギリシャ語では「ペンテコステ」です。そして、秋の収穫のお祝いには、「仮庵の祭り」をするのです。この三つのお祭りが、イスラエルの民の生活の大枠となったのでした。そして、そのお祭りにおいて、主の祝福を覚え、民が共に喜ぶことが命じられたのです。

 これはただの宗教行事や礼拝行為であっただけではありません。この前に見てきた一四章ではイスラエルの食生活が、一五章では借金の免除のことが布告されていました。そういう流れを考えても、この祭りは生活から切り離されたものではなく、むしろ食べたり働いたり、苦労や収穫を繰り返す民の生活そのものを支え、方向付け、活気づけるための祭りに違いありません。特に一五章で気づかされたように、この時、遂に約束の地に入ろうとしていたわけですが、その新しい生活でも、労働はしなければなりません。借金をするような事も、その借金を返せないで奴隷になるとか、貸したお金を返してもらえない事だって起きると想定されていたのですね。約束の地だからって、理想郷のような暮らしだったわけではなく、仕事もあれば、人間関係や育児や両親の世話もあったし、災害に見舞われることもあったのです。それこそ、喜びよりもため息ばかりが出て来るようなことだってあったでしょう。しかし、だからこそ、そこで定期的な祭りをして、生け贄を屠ってその肉を食べたり、七日間、種を入れない固いパンを食べたり、収穫を持ち寄って貧富の差なく、あらゆる人たちとともに喜ぶよう、命じられたのですね。言わば、民の生活が、主の恵みへの感謝と喜びによって、いつも方向付けられ、軌道修正し続けるために、本当に生き生きとした生活になるために、三つの祭りがあるのです。[1]

 最初の祭りは「種なしパンの祭り」です。これは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から救い出されたことを記念します[2]。それは次の七週の祭りでも言われていることです。

十六12あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行いなさい。

 その事を思い出して、今あるここでの生活に、苦労や悲しみや難しさはあっても、そもそもいまここにある生活そのものが、もはや奴隷としての歩みではなくて、神の民としての歩みであることを思い返し、喜びを取り戻して、感謝と分かち合いをするのです。[3]

 さて、この申命記から千五百年ほど後、イエス・キリストが来られて、この過越の小羊を屠る日に十字架に掛かられました。それ以来、教会は、主イエスの下さった救いを感謝して、日曜には礼拝を捧げ、イースターやペンテコステやクリスマスといった年間の教会暦を通して、主の恵みを思い返しているわけです。申命記で命じられていることは、イエスの民の歩みを指し示していたと言えますし、私たちもここから教えられることがあるわけです。

 特に私がハッとさせられたことがあります。ここでの「種を入れないパンの祭り」がエジプトでの奴隷生活を思い出し、そこから救われたことを思い出しなさい、と言われていますね。その救い出される時には、小羊を屠り、その血を家の門に塗りつける儀式をしました。そうしなかったエジプトの全ての家には、主が初子のいのちを取られるという、決定的な裁きが下りました。それによって、エジプトの王ファラオはようやく敗北を認めて、イスラエルの民を出て行かせたのです。それは恐るべき裁きでした。確かに、イスラエルの民は、自分たちが小羊を屠ることで初子を奪われずに済んだ、守られた、という感謝はあったのでしょう。けれども、それが一番大事なことではありませんでした。ここで強調されているのは、奴隷であったことです。そこから救い出された出来事は、過越の小羊の生け贄や、初子の死を免れたことですが、それを感謝する以上に、そもそもの奴隷生活から救われて、今は神の民として歩んでいる、ということにこそ、祭りで思い出し、喜びや分かち合いへ繋がっていく記憶があるのです。

 教会でもそうではないでしょうか。私たちは、主イエス・キリストが私たちを救うために、十字架に掛かり、本当の過越の羊となってくださった事を感謝します。しかし、そのおかげで神の怒りや地獄への滅びを免れた、と言うならば一面的過ぎるのでしょう。神の怒りから救われたという以前に、神から離れ、自分が神のようになり、人間が人間を酷使したり、道具としたりするような奴隷社会があったのです。自由だけでなく、権利や尊厳を奪われます。希望が持てず、強いストレスが溜まります。殺伐とした言葉で傷つけ合います。自分がされたように同胞や家庭でも横暴に振る舞います。子どもに安心や希望や自己肯定感を持たせられず、関係は破綻しやすくなります。そういう「間化」が奴隷ですね。
 今の日本でも、ブラック企業や過労死を典型として、学歴や競争社会やあらゆる所に、人間が尊厳を奪われて、優劣を付けられる「奴隷化」があります。そして、奴隷は最後には役に立たなくて捨てられます。捨てられることに怯えながら生きるのです。そうした生き方を神は激しく悲しまれ、奴隷の価値観から、本来の、神に造られ、神に愛されている者としての生き方へと回復させてくださいます。そのためのイエス・キリストの十字架と復活でした。それ程までの犠牲を惜しまずに、神は、私たちを、奴隷ではなく愛されている神の子として、喜びをもって、共に分かち合う民として、決して人を捨てたり捨てられたりしない歩みへと召し出してくださいました。それが、奴隷であったことを覚えて、今ここで、共に喜び祝いなさい、と言われているメッセージです。[4]

 18節以下には、

「さばきつかさ」

と呼ばれるリーダーが任命されることが述べられています。賄賂を取らず、ひたすら正義を追い求めなさい、と言われています(20節)。そして、21~22節以下には、偶像崇拝を禁じる命令が出て来ます。裁判を必要とする問題も予想されていますし、賄賂や偶像の誘惑に負けそうになる事だって起こりうるのです。私たちの歩みそのものです。悩みや問題があり、お金や力の強いものが幅を利かせやすい、そういう社会です。その中にあって、私たちは、毎週の礼拝や折々の行事と交わりとを通して、主の救いの御業を覚えて、喜びを取り戻すのです。ともに喜ぶことによって守られるのです。貧乏や病気や、豊作や不作や、裁判沙汰や外国人や、あれこれと抱えた生活が、もはや奴隷ではない(人の奴隷でも、欲望や恐れや社会の奴隷でもなく)神の民としてある。自分だけでなく、他の人も神の民として生かされている。その大きな祝福に立ち帰って、ともに喜びなさい、と言われています。[5]

 

「私たちが生活のただ中で、奴隷ではなく、神の民として、人間として、愛され、尊ばれ、希望を約束された者として歩むことを、あなたが強く願ってくださる恵みに感謝します。喜びを失った形式的な歩みを、喜びを支える生活へ、どうぞ御霊が整えてください。喜びを、感謝を、互いに支え合わせてください。今から主の聖晩餐に与り、恵みを共に味わわせてください」



[1] もちろん、この三つの祭りだけだったわけではありません。普段も、週ごとの安息日があり、毎月の新月の祝いがありました。それに加えて、更に、だったのです。これは、教会においても、毎週の礼拝を基本としつつ、それだけではなく、教会暦を通して、年間で神のドラマに触れていく必要にも通じるでしょう。

[2] 七日間、種なしパンを食べ続けるのは、種を入れてパンを膨らませる暇もないほど、大急ぎで脱出した歴史を覚えることや、豊かさや質が変わってしまうことへの警戒などがあるわけですが、いずれにしても、原点のエジプトでの救いを覚えるのです。

[3] 三大祭を記すのは、出二三14~18、三四18~26、レビ二三章。その比較をすると分かりますが、この申命記十六章は、三つの祭りの日付・日程よりも、その回顧と遵守精神とが強調されていることにその特徴があります。

[4] この事は、特に新約では、ガラテヤ書とローマ書に強調して展開されています。「ガラテヤ五1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」「13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」など。

[5] 16節の「主の前には、何も持たずに出てはならない」とあるのを拡大解釈して、どんな時も献金や献げ物をするのが、あるべき信仰だとする立場もあります。しかし、喜びをもって礼拝するとは、私たちの心、魂、人格を主にささげることに他なりません。正義を追い求め、神以外のものを礼拝せず、神礼拝を最優先して生きることそのものが、神の前にある礼拝の民としての生き方なのです。それが、具体的な形をとって、ささげものとなるのです。献げ物を「最低限の礼儀」などとしてしまうなら、それは形式主義となります。むしろ、喜びや感謝もないまま、献げ物をしてしまうことにもなります。神が求めておられるのは、献げ物ではなく、喜び(つまり、心からの)をもっての私たち自身をささげる生活です。

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申命記十五章1~11節「手を開いて生きる」

2016-01-03 15:18:37 | 申命記

2016/01/03 申命記十五章1~11節「手を開いて生きる」

 

 申命記は、イスラエルの民が、エジプトの奴隷生活から救い出されて、今ようやく約束の地に入ろうとするにあたって、モーセがイスラエルの民に対して、これから始まる新しい生活について説教をした、遺言の書です。新年に当たって相応しい、とも言いたいのですが、申命記を話し続けて、毎月取り上げてやっと十五章ですから、そんなこじつけはしないことにします。ですが、この十五章を今朝ご一緒に聴くことが出来ることを心から幸いだと思います。

 読まれましたように、申命記十五章の1節から6節には、七年ごとの

「負債の免除」

のことが書かれていました。7節から11節には、貧しい同胞に対して、必要なものを貸し与えることが命じられています。免除の年が近づいたから、「貸しても返してもらえないかもしれない」と思って惜しんではならない、必要なものは物惜しみせずに貸し与えなさい、と言われるのです。これが、モーセを通して、イスラエルの民に命じられた新しい生活の青写真でした[1]

 では何でも気前よく求められるままに何でもジャンジャカ与えて、返って来なくても気にしないのが聖書の考えなのか、というとそれは誤解です。ここで言われているのも、貧しい者に必要なものを貸すことです。誰にでも求められたら惜しみなく与えることではありません。親や人の脛(すね)齧(かじ)りが奨励されるわけでも、集(たか)りや詐欺も七年目には赦されるわけではありません。嘘で騙(だま)すことは、厳罰に処せられたのです。一人一人が、誠実に働き、自分の出来る仕事をすることが大前提です。「返します」と言って借りた物は、七年目の免除の年が来る前に努力して返すことが当然求められたのです。
 去年、研修で訪ねた教会では、酷い貧困地域に入り込んで活動をしていました。それはただ施して、気前よくするのではない活動でした。働いても大した収入はないので、生活保護をもらって何にもせずに暮らすのが当たり前になっている地域に入り、働くことの意味、自分自身の価値、人と共に働き助け合う人生の素晴らしさをじっくり教えていく、実際的な働きでした。その反対に、ただ施し、甘やかし、気前よくすることは、決して人を助けることにはならないし、聖書が言っている意味での愛でもありません。

 しかし、そうやってシッカリ生きていこうとしていても、それでも、色々な事情で貧しくなったり、借金が返せなくなったりすることは現実にあるのです。11節の言葉はリアルですね。

11貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

 貧しい者が国のうちから絶えることはない。神が約束された新しい地に入るのです。祝福を信じて入るのです。けれども、人間が為す営みである以上、貧しくなる場合もある。必要に事欠く生活になる場合もある。人から借りなければならない。貸さなければならない。そしてそれを返せると思って、騙すつもりはなくて借りたのに、返せないまま七年目を迎えることだってあり得るのだ。その場合には、免除してやりなさい、と言われているのです。

 これは今から三千五百年ほど昔に、イスラエルの民に語られた言葉です。時代も文化も違います。杓子定規には今に当てはまりません。しかし、根本的な呼びかけは変わりません。私たちは今日も「主の祈り」を祈りました。「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と祈りました。今日の申命記十五章と同じ言葉です[2]。「私たちに負い目(負債、借金)のある人たちを赦し(免除し)ました」というのです。神からの罪の赦し(免除)を戴き、私たちも人の借金を免除して生きる。それが聖書の民に与えられている心なのです[3]

 重ねて言いますが、それは何でも大目に見るとか、悪事を不問に伏す、人の甘えを赦し、好きなようにさせて気にしない、ということでは全くありません。しかし、正しく生きようとしても生きられない、人に返せないほどの負債を抱えてしまうことがあるのが人間社会です。神を信じて、自分の人生をお任せして、キリスト者として生きていても、様々な不運や失業、病気などを避けることは出来ません。そういう私たちに対して、今日の所で言われています。

 2…主が免除を布告しておられる。

15あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

 主が私たちの負債を免除してくださいました。神の側で、犠牲を払って、私たちを奴隷生活から救い出し、ご自身のものとしてくださいました。そういう赦しを戴いた私たちだから、私たちもまた、人を免除し、困窮している人の身になって、惜しみない生き方をするようにと求められているのです。ただ神が過去に私たちを赦して下さっただけではありません。今も、私たちは神に対して、日々赦してもらいながら受け入れて戴いています。これからもずっと、神が私たちに免除を布告してくださって、永遠に神の愛を戴いて歩ませて戴けると約束を戴いています。だから私たちもそれに応えて、今ここで、人を赦し、返せない負債を免除し、健全な意味で気前のよい生き方を求められています。これは道徳ではなく、恵みによる解放です[4]

 「キリスト教は再出発の宗教です」

と言った人がいます。イエス・キリストの福音は、すべての人に、罪赦されて、神の子として歩み出す、再出発を与えてくれます。どんな過去を背負っていても再出発できない人はいないというのが、キリストの福音です。過去の責任は負わなければなりませんし、過去の問題を改め、手放さなければ再出発とはなりません。無責任な生き方をやめて、神から自分に与えられた人生をシッカリ生きる「再出発」なのです。しかしそこでも、どんな失敗や挫折があっても、神が再び立ち上がらせてくださるのです。ゴールに向けて歩めるよう、希望と力を下さるのです。私たち自身が立ち上がれなくなっても、キリストが私たちの所に来て、負(お)ぶってでもゴールさせてくださるのです。だから私たちもお互いにそのような歩みを励まし、具体的に少しでも実践するのです。

 そのような生き方を示す表現が、

「あなたの手を開く」(8節、11節)

です。心の未練が手を閉ざさせる、と言われていますが[5]、人は心を閉ざすと、手も人に見せなくなります[6]。掌(てのひら)を隠し、拳(こぶし)を握りしめている力んだ心を、神はその恵みによって開いてくださいます[7]。神はエジプトからイスラエルの民を救ったように、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にかけてくださいました。キリストは、その手を私たちに差し出して、その手を十字架に釘付けにされるために差し出すほどに私たちを愛して、完全で永遠の赦しを与えてくださいました。その手が、痛みを知る手が、立ち上がれない私たちを立ち上がらせてくれます。人を赦し、過去に囚われないなんて難しいことです。しかしその痛みも知るキリストが私たちに、完全な赦しを既に宣言されたのです。私たちはこれからも必ず何度も躓きますが、その度に主が立ち上がらせてくださいます。だから、私たちはこの具体的な愛に励まされて立ち上がり、互いに赦し合い、助け合う、そういう歩みを、この年も大切に戴いていきましょう。

 

「新年最初の礼拝に、もう一度あなたの免除と再出発の宣言を聞かせてくださり、ありがとうございます。そして、私たちもその赦しに導かれて、今ここで憐れみに満ちた生き方へと心も手も向けさせて下さい。貧困や憎しみ、自分自身の後悔、様々な柵(しがらみ)がある人生だからこそ、あなたが何度でも新しく踏み出させて下さる憐れみに励まされ、手を開いて歩ませてください」



[1] 古代中近東では、社会的権力者(貴族、祭司、土地所有者、軍幹部)らに特権・優位が与えられていました。これを考えると、貧者・社会的弱者を重視し、その必要を優先する聖書の法典は、特殊であると言えます。

[2] シェミッターは、申命記で4回(十五1、2、9、三一10)出て来るだけのヘブル語です。ギリシャ語訳旧約聖書(LXX)ではアフェシスが訳語に当てられます。これは、罪の赦し、負い目の赦しを指し、新約で多用される用語です。新改訳の「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」でも、同じ言葉が使われています。

[3] 他にも、新約においてはⅠヨハネ三17、Ⅱコリント九7(6~8)、マタイ五43-48、ルカ十四12-14。旧約では、イザヤ五八6、アモス二6、ミカ二8-9、三1-4、イザヤ五8、箴言二二22。

[4] なんと恵みに満ちた言葉か。これを「律法」と見るよりも、「恵み」「あわれみ」と読まなければ、おかしいではないか。旧約の律法は、激しい恵みに貫かれているのだ。

[5] 10節。また、7節「心を閉じてはならない」の「閉じる」はエメツ(頑なにする)で「手を閉じてはならない」の「閉じる」はカファツ(閉じる)で、原語では別の動詞です。

[6] 心理学でも、手を閉じる、間に物を置く行為は、嘘や心的距離感の無意識の防衛行動です。

[7] 主が「御手を開かれる」という表現は、旧約に2回出て来ます。詩篇一〇四28「あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。」、一四五16「あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます」。

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