聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ1章18~25節「私たちとともにおられる神」

2016-12-12 15:59:53 | クリスマス

2016/12/11 マタイ1章18~25節「私たちとともにおられる神」

 今週もクリスマスの聖書記事の、何度も何度も聴いているエピソードをもう一度開きました。特に今朝は、イエス・キリストの父親役を果たしたヨセフに目を向けましょう。

1.正しい人であったヨセフ

 ヨセフは父親役だと言いましたが、今日の18節にもあるように、ヨセフとマリヤが一緒になる前に、マリヤはイエスを聖霊によって身籠もりました。ヨセフとイエスとは血は繋がっていないのです。生物学的には父親ではなく、最初はマリヤとの婚約を解消しようとしたのです。

19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 マリヤの妊娠を知った時、ヨセフは彼女を去らせよう、離縁をしようと決めました。一つには、もう妻と決まっていた、厳粛な婚約関係にありながら夫ならぬ者の子どもを宿すことは姦淫の罪に相当し、姦淫罪は石打の刑という厳罰に処するのが律法だったことが考えられます。ヨセフはマリヤを晒し者にして、公然と彼女を極刑に引き渡すことも出来ました。しかし、ヨセフはそうすることを望まず、内密に去らせようとした、というのです。

 もう一つの読み方は、ヨセフはマリヤの胎内の子が自分の子ではないけれども、誰か他の男性の子でもなく、マリヤが姦通を働いたのでもなく、聖霊によって身重になったと分かった、という考えです。ヨセフはマリヤの妊娠が、聖霊による奇蹟以外にないと信じました。でも、だからこそヨセフは、マリヤを去らせよう、婚約を解消しよう、しかし、さらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた、という読み方です。20節でも、夢で主の使いはヨセフに言います。

20…「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。…」

 御使いが言うには、ヨセフがマリヤを妻に迎えなかった理由は

「恐れ」

です。裁きや怒り、正義感や潔癖意識ではなく、恐れでした。正しい人ヨセフは正しさ故に恐れました。聖書が示す

「正しさ」

は、四角四面の真面目さや冷たい几帳面さ、間違いを許せない杓子定規な

「正しさ」

ではありません。それは、真の正義の神との関係が正しくある、という意味での「正しさ」です。ヨセフも罪がなかったのではなく、神との関係を大事にしていたから正しい人と言われるのです。そして逆説的ですが、彼が自分の罪を十分に自覚していたことであるでしょう。

 今日の箇所に先立つマタイ一章の前半には、系図がずっと書かれています。ここで躓いてしまうような、読む気がそがれる一ページ目ですが、これは言わば旧約聖書のダイジェストなのですね。この系図に、新約聖書に至る、創世記からの歴史が凝縮されているのです。それは、アブラハムから始まる神の民の歴史です。約束を与えられて来た歴史であるとともに、神に背き続けてきた罪の歴史です。ダビデの王位から転落して、バビロン捕囚の裁きに遭い、その末裔に当たるのがヨセフです。ヨセフはそのことを正しく受け止めていました。だからこそ、婚約者が聖霊によって身重になった時、恐れて、秘かに離縁しようとしたのです。

2.恐れないで迎えなさい

 神の民の罪を、身にしみて理解していたヨセフは、神の奇蹟に選ばれたマリヤから身を引こうとしました。しかし、御使いは夢でヨセフに妻としてマリヤを迎えるように言います。ヨセフは生まれる子に名前を付ける責任が、つまり父親となってマリヤとその子を養う使命が与えられます。その名は「イエス」です。御使いがこう言います。

21…この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

 「イエス」には「主は救い」という意味が込められています。旧約聖書に「ヨシュア記」がありますが、ヨシュアとイエスとは同じ名前をヘブル語とギリシャ語で言い換えただけです[1]。ヨシュアはイスラエルの指揮官であり、軍事的な役割を果たしましたが、御使いは、生まれる子イエス(ヨシュア)がご自分の民を、その罪から救って下さる、というのです。ヨセフはその正しさ故に、自分が聖霊によって身籠もったマリヤを娶ることを恐れました。自分の罪を自覚していたからです。自分には罪があるから、聖霊によって身籠もったマリヤの夫には相応しくないとヨセフは考えたのに、御使いの告げたのは、その罪から救ってくださる方が生まれようとしているのだ、という知らせでした。御使いはヨセフに、相応しくないからこそ、マリヤを妻に娶り、生まれて来る子を救って下さる方として呼び、その救いを受け入れるよう命じたのです。自分をその方が救ってくださる民の筆頭に考えて、聞いたのではないでしょうか。自分の心にあった恐れを汲み取り、その恐れの根っこにある罪から救ってくださる方が来られると告げられたのです。それは、ヨセフにとって、どれほど慰めに満ちた言葉だったでしょうか。これはただの命令ではなく、ヨセフにとって思いもしなかった希望でした。力強く、素晴らしく厳かな知らせでした。そしてこれこそ、私たちにも告げられているクリスマスの言葉です。

3.神は私たちとともにおられる

22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)。

 イエスの誕生は神が私たちとともにおられる、という事の体現でした。神は私たちとともにおられます。イエスはやがて十字架に死なれ、復活して後、天に昇られましたが、そのメッセージは今も変わりません。神は私たちとともにおられます。でも、神が私たちとともにおられると聞いても、遠慮したくなり恐れる思いも人間の中には当然出て来ますね。その人が本当の意味で正しく、良い心であればあるほど、恐縮して居心地の悪い思いがするでしょう。クリスマスにイエスのお誕生をお祝いしながら、おつきあいで明るい顔や楽しくしていても、頭の片隅には何か重いもの、暗いものが引っかかって、心から楽しめない思いがしたりします。

 しかし、この御使いの言葉で言えば、そういう暗く重い罪、疎外感を抱えた人間のためにこそ、イエスは来て下さったのです[2]。ヨセフは、イエスの父親となるほど身近に救い主を迎えました。そのヨセフの体験に託して、こういうクリスマスのメッセージが私たちに語られているのです。

 神は私たちとともにおられることが、イエスの誕生を通して、私たちに告げられています。それは本当に驚くべき事です。でも、同時にここでヨセフが体験したことは、驚くような奇蹟のドラマではありませんでした。勿論、マリヤが身籠もったことは衝撃だったでしょうが、それさえ奇蹟の光や聖霊のわざを、映画のワンシーンのように見たわけではありませんね。御使いが現れたのも夢であり、目が覚めた時には儚く思えたかもしれません。その後も、ヨセフの生涯はマリヤとイエスを守るために翻弄され、エジプトまでの逃避行をし、田舎のナザレで生活をしてと苦労続きだったと思います。そして、ヨセフはどうやらイエスが公生涯に出る前に死んだようで、いつの間にか舞台から姿を消します。神がともにおられるからといって、ヨセフの人生は華やかでもドラマチックでもありませんでした。苦労や困難がありました。恐れや迷いや躊躇いがありました[3]。でも、そのような事を通して、人は自分の心の闇を知ります。痛みを通して、私たちは化けの皮や表面的なものがはぎ取られた後に見える、本当のもの、ありのままの世界、正直な自分に気づくのです。そして、そのような上辺がはがされた素の自分と、神はともにおられる。揺れ動くものが全部揺れ動いて、崩れ去った後にも、神だけは揺れ動く事なく、変わる事なく、私たちとともにいてくださることを私たちは知らせて戴くのです。

 ヨセフの人生が深く変えられ、導かれたこの出来事のように、私たちも「恐れるな」と言われ、罪から救い、ともにおられる方との出会いを通して、深く変えられ、導かれています。

「主がご自分の民を罪から救うために自らこの世に来られ、私たちとともにおられることを感謝します。私たち一人一人の生涯を通して、この恵みを明らかにしてください。私たちの願いも、自己中心を重ねる表面的な願いから、私たちの心と人生に主を迎え入れ、主に明け渡す心にしてください。そうして主がともにいる恵みを生涯味わい、喜び、感謝させてください」



[1] 「救う」には宗教的な意味合い以上に、王権、支配、服従の意味がある。禍から救い出すだけでなく、良き支配の中に移す。それは、まさしく王のわざである。まさしく「罪」からであるとすれば、禍や苦しみや自己を基準とした悪理解ではないのだから、正しい支配、生き方への回復であり、神を王としない生き方からの救出に他ならない。

[2] それは、神が私たちとともにおられるお方であることの成就であると言われる。神が私たちとともにおられることが、私たちを罪の支配から救われた生き方へと回復するのである。

[3] 25節の「子どもが生まれるまで妻を知る(夫婦として身体を交わらせる)ことをしなかった」も慎み深さだけでなく、恐れや遠慮のようにも思えるのです。

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ルカ1章26~38節「おめでとう、恵まれた方」

2016-12-04 17:01:25 | クリスマス

2016/12/04 ルカ1章26~38節「おめでとう、恵まれた方」

 アドベントの蝋燭も二本が付き、今日もまた、クリスマスに向けた聖書の言葉に耳を傾けましょう。今日開いたのは、何度も何度も聴いているお言葉、受胎告知の場面です。

1.マリヤへの御告げ

 ルカの福音書にはイエスの誕生までの出来事が丁寧に語られています。今日開きましたのは、母マリヤの所に御使いガブリエルが現れて、イエスを身籠もることを告げた、「受胎告知」の記事です。当時の社会の結婚年齢から、マリヤはまだ12歳や14歳、十代の前半の少女でありました。彼女の所に御使いがやってきて、

「おめでとう、恵まれた方」

と挨拶をして、男の子を産むこと、その子はいと高き方の子、ダビデの王位を継ぐ永遠の王となることを告げるのです。まだ少女に過ぎない彼女はどんなに驚いたか知れません[1]。マリヤは34節で、

…「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

と応じました。マリヤはまだ婚約中、結婚の厳粛な誓約に入ったとは言え、許嫁(いいなずけ)のヨセフと共に住むには日があったのです。そこで、まだ男の人を知らない処女の身の自分が身籠もって男の子を産むなどということがどうして出来るのか、と至極真っ当な疑問を呈するのです。

 これは「処女降誕」としても知られている教理であり、同時にキリスト教信仰の躓きの一つでもあります。「奇蹟なんて信じられない、イエスが処女から生まれただなんて馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てる人は、昔から多くおりました[2]。しかし、これに対する御使いの答はこれでした。

35御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

 これは「答」になっていませんね。神の力がマリヤを覆うから、男の人を知らないマリヤも妊娠できるのだ、という説明で納得できるのであれば「何でもあり」になってしまいます。何を見ても、「神がそうなさったから出来るのだ」という答で済ませたら、それ以上先に進めません。本を読んでいて疑問があっても、「著者がそう書いているんだからそうなんだ」という説明で片付け、思考停止することは、著者自身が決して望まない読み方のはずです。しかもここで御使いは、

「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」

というもっと信じがたい言葉を告げます。処女降誕でさえ信じ難いのに、人間が聖なる者、神の子を宿すなんて遙かに信じがたいことです。しかしそれこそが、このイエスの誕生に託されたメッセージなのですね。

2.とこしえの支配者なるお方

 マリヤの問いは、直接には、自分がまだ男の人を知らないのにどうしてそんなことが、という疑問です。しかし、31節から御使いが告げたのは、その身籠もりとイエスと名付けること、その子が

「すぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」

という、とてつもないスケールの話でした。先週イザヤ書からお話ししたように、この事自体はイスラエルの民がもう何百年も前から約束されてきた事です。マリヤの回りには、この約束を待ち望む人々が少なからずいたでしょう。神が、王となる方をお遣わしくださって、終わることのない王国を始めてくださる。それは当時の敬虔な人々の待望でした。しかし、その方が自分のお腹に宿り、自分がその方を産む母親となる、となると話は別です。マリヤが抵抗を覚えたのは、処女降誕だけではなく、その事もひっくるめたこの御使いの宣言全体なのでしょう。そして、御使いもまた、処女降誕の可能性や奇蹟の合理的な説明をしようとしたのではなく、聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆うので、聖なる者、神の子と呼ばれるお方が生まれるのだと、32節33節で告げたメッセージを言わば反復します。つまり、マリヤがその方を宿すこと自体が、生まれてくるお方の御支配や、永遠の御国のわざの徴なのです。

 二千年前のナザレの少女が、奇跡的にイエスの母となったと信じられるかどうか、が問題なのではありません。その生まれた方イエスが、今この私をも含めた世界を治めておられ、永久に私たちとこの世界との王となってくださった、その恵みの御支配を信じるか。それが問われているのです。ですから、36節でガブリエルはマリヤに、先の25節までで語られていたエリサベツの事を持ち出します。エリサベツは不妊の女性で、既に高齢の息に達していましたが[3]、神はエリサベツ夫妻に洗礼者ヨハネの親となる奇蹟を下さいました。でもそのこと事態は、何もマリヤの処女降誕の説明や保証にはなりません。高齢者の思いがけない妊娠と処女の身で子どもを宿す事は全く別の次元です。けれども、御使いがそれを言うのは、

37神にとって不可能なことは一つもありません。」

と、神を仰がせるためです。その神とは、どんな奇跡も出来る神、という以上に、私たちを治めてくださる良き神、たとえ奇跡が何一つ起きたようには見えない時にも、なお私たちに最善をなされ、命のないような所に命を宿して、私たちの人生を導かれる神です。[4]

3.神にとって不可能なことは一つもありません

 ルカはこの福音書でもう一度、これと同じような言い方をしています[5]。十八章で、裕福な者が神の国に入ることの難しさを「駱駝が針の穴を通る」と仰った後に、

ルカ十八27…「人にはできないことが、神にはできるのです。」

と言われたのですね。金持ちは自分の財産や生活の居心地の良さが邪魔をして、神の国に行くことが出来ない。捨てられないものが多すぎて、立ち上がって神に従うことが出来ない。でも、金持ちではなくても、私たち誰もが、自分の持っているものを手放して、喜んで神に従うのには抵抗します。神の国の方では広く門を開いているのに、神を王として従う生き方より、自分が好きに振る舞える生き方にしがみついていたいのです。人は自分では救われることが出来ません。救われたいとも願いつつ、神に心を開けない。自分が可愛い。人を遠ざけたいし、自分の非を認めたくない。そうやって、捨てきれないものが多くあるのが人間です。そういう人間が、神に従って生きようという信仰など生み出しようがありません。しかし、人には出来ないことが神には出来る。神は、私たち人間の中に救いを受け入れる心を与えてくださいます。金持ちが、お金や財産や名誉よりももっと尊いものに気づいて、惜しみなく神に従う思いを下さいます[6]。その実例が、ルカが直後の十九章に記す取税人ザアカイです。そこに直接、

「神にはどんなことでも出来るのです」

という言葉はありません。しかし、明らかにザアカイの救いは神の奇蹟です。そうすると、ザアカイだけでなくルカの福音書に出てくる他の人々も、聖書に出てくるエピソードも全て、

「神には不可能なことはありません」

の生き証人なのです。

 今日の記事は、マリヤだけの特別な話ではありません[7]。イエスがこの世界に王として来られ、廃れることのない永久の国を始めて下さる証しが、マリヤの受胎告知でした。そして、イエスは私たちの王でもあられます。私たちを永遠に治め、私たちの心に信仰や愛や希望を宿してくださいます。自分の力では、命を宿すは勿論、素直な心も神や人を愛する思いも持てない、無力で冷え切った心ですが、マリヤの胎に宿られた主は、私たちの心にも宿って下さいます。そして、現に私たちの歩みの中に、命のわざを始め、富や力にすがるのではなく、神に従う生き方を育んでくださいます。その事を信じられないなら、マリヤの処女降誕や聖書の奇蹟を信じたとしても何の意味があるでしょう。しかし、神が私たちの王であり、永久の王となるためにこの世に謙ってこられたと分かっていく時、私たちは自分にも

「おめでとう、恵まれた方」

という祝福が向けられている事に気づけます。そして、私たちもマリヤのように

「私は主のしもべです。おことばどおりこの身になりますように」

と自分を神に差し出していくのです[8]

「主よ。あなたにはどんなことも不可能ではありません。その事を示すために、あなたは自身を卑しくし、この世界に来て下さり、貧しく若いナザレのマリヤの胎に宿ってくださいました。そこに私たちに対する慰めに満ちた約束があり、今ここであなた様の良き御支配があると信じるよう、そして私たちの心が喜びと信頼、謙虚と感謝とで満ちるよう、どうぞお導きください」



[1] ただ、マリヤが御使いを「見た」とかその姿に驚いたとは一言も書かれていません。これは12節のザカリヤが「これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われた」のとは対照的です。マリヤは御使いの姿を見たから驚いたのではなく、御使いの言葉に戸惑い、語られた内容に応えている、というのです。

[2] 他ならぬマリヤ自身が、まだ十代そこそこでも「男の人を知らないのに妊娠するなんてあり得ない」と言うぐらいの知識は持っていたのです。

[3] ルカ一6「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」

[4] 「神にとって」であって、よく言われるような「信じれば、どんなことも出来る」というヒューマニズム(人間賛美)ではありません。むしろ、人間の限界を受け入れ、その限界を越えて、神には不可能はない、という「神賛美」なのです。自分が神になろうとすることを止めること。自分が神になるために神の力さえ利用しようという歪んだ生き方を砕かれていくことでもある。むしろ私たちは、自分がこのクリスマスの恩恵に与る資格などない、小さく、卑しく、罪ある者であることを認めましょう。傲慢を捨て、浮かれて騒ぐクリスマスではなく、イエスがこの私たちを罪から救い、神の支配のうちに入れてくださった恵みに新しくされるクリスマスとしましょう。

[5] 創世記十八14では、不妊の老女であったサラに対して、妊娠と出産の約束に伴って語られます。他にも、ヨブ記四二2を参照。

[6] 人が富や金にすがりたがるのはそこに偽りの「万能感」があるからです。自分にしたいことをさせてくれるような力を手にして、神の救いを求めることは難しいのです。この場合は、人間が金銭や地位、誇りを手放して、神を求め、救いを願えるようにさせてくださることにこそ、神の「不可能はない」を見る。金銭や権力を手にしたまま、救いもいただける、というのではなく、握りしめていたものを神ならぬものとして手放して、神を求めるようにさせてくださることにこそ、神の全能のご支配が現されるのです。

[7] プロテスタントで確認しなければならないのは、マリヤを特別視・聖人視しない、というスタンスです。まだ十代前半の少女を選ばれたのは、神の恵みの力を現すためだったのであり、マリヤが特別に優れた聖女だったからではありません。

[8] 私たちが自分を「主のしもべ・はしため」として差し出すことも、悲壮感や諦めでは断じてありません。それは自分が神であることを止め、真の神の偉大さと限りない慈しみに委ねることからくる希望と広がりです。また、そのようなお方の「しもべ」であるとは、光栄なアイデンティティです。

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イザヤ書八22~九7「ひとりのみどりごが私たちに」 第1アドヴェント

2016-11-27 17:14:13 | クリスマス

2016/11/27 イザヤ書八22~九7「ひとりのみどりごが私たちに」

 今日からクリスマス前までの四回を「待降節(アドヴェント)」として過ごします[1]。この間に私たちはクリスマスを待ちつつ、イエス・キリストがこの世にお生まれ下さった恵みを味わい、思い巡らします。そして、今ここで主イエスが、もう一度私たちの所に来て下さることを待ち望むのです。

1.イザヤの預言した誕生

 イザヤ書九章6-7節はクリスマスには必ず読まれる、イエス・キリストの誕生を、その七百年も前のイザヤの時代に預言していた聖書のお言葉です。

 6ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 イザヤ書にはキリスト預言の大事な言葉が沢山あります。キリストが来られる七世紀も昔から、その御生涯や死が約束されていました。イエスの誕生はずっと待ち望まれていた約束でした。実際キリストがお生まれになった時、それを待ち望んでいた大勢の人がいました[2]。彼らはイザヤ書を読んでいたはずです。けれどもその前にイザヤの時代の読者を考えたいのです。

八22地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。

 これがイザヤの当時の様子でした。イスラエルの国は、北のアッシリヤからの軍事侵略に怯えていました。国の政治家たちは腐敗や不正で堕落していました。民の中にも信仰や誠実さが失われていた時代です[3]。そういう時代を考える時に、七百年も先の話を言われても、どうでしょうか。希望どころか、絶望に突き落とされた気がしたでしょう。今の自分たちは助けてもらえないのかと、もっと暗い思いをしたでしょう。でもイザヤが語ったのは、今の慰めです。

 1しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 2やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 イザヤは過去形で「受けた。見た。照った」ともう出来事が起きたかのように語っています。勿論、まだ神の光は来ていないのです。闇はなくなっていません。でもそれを、「光が照った」と過去の出来事のように言うのです。これは、聖書に出てくる独特の言い方です。神が確かになさることは、まだ起きていなくても、確実なことだから過去形で表現するのです。日本語で「なるだろう」「するだろう」と言うと「ならないかもしれないけど」ですが、聖書の神がなさることは将来でも確実です。ですから、イザヤも六百年先にメシヤが来ますよ、ではなく、この時代、今の闇の中に神が光を与えてくださる、という確かな約束を語るのです。

2.逆説の神

 まだ闇ばかりの時、神は光を語られます。まだ夜中ですが、明けの明星が見えた。それを見て、朝を確信する。朝が確実に来ることを知る者として生きるのです。その確かな徴として、実際この時、アッシリヤの軍隊が奇跡的に打ち負かされ、国際情勢や政治や倫理での改善も、僅かながら与えられるのです。しかし、ここで語られる光は、人間の思い描くような光とは違う、不思議な光です。1節の

「ゼブルンの地とナフタリの地」

はイスラエルでも一番北の田舎でした。

「ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」

と言われるぐらいの辺境でした。しかし、そこに光が見えるというのです。徳島が「VS東京」や「徳島から日本創生」と言うように、神はエルサレムという中心の大都市からではなく、ゼブルンやナフタリ、田舎からの意外な回復を語られます。4節の

「ミデヤンの日になされた」

というのも、ギデオンという臆病者が指導者となったエピソードです。三万二千人いた兵士を、神はわざわざ三百人に減らして、ミデヤンの大軍を破らせたのです[4]。神は、小さな者や田舎や闇の中に働かれるお方です。そしてそれこそ、イエス・キリストのお誕生でした。

「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」。

 「赤ちゃんってカワイイ、会いたい!」と思うのは豊かな現代の感覚です。貧しい近代まで、子どもは劣って、価値がなく、手がかかるもの、「子供」(供えもの、お供)と低く見るのが一般的でした[5]。そういう卑しい形で神がお遣わしになるとは、理解に苦しむ事だったでしょう。

 6…主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 7その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、とこしえまで。…

 これと

「ひとりのみどりご」

とのギャップは測り知れません[6]。神は本当に小さい者を愛されています。暗闇の中にいる者を、その片隅にいる者まで見落とす事なく、愛され、慰められ、生きる喜びを増し加えられます。だからキリストも小さな赤ん坊としてのお生まれも厭われませんでした。クリスマスだけではないのです。今も主は私たちを心に止め、小さな子どもや弱い人、悲しむ人を、だれも見落とさず、愛され、そこに光を届けてくださるのです。それは全て、将来に神が来て、私たちの隅々までを照らし、完全に闇を取り除かれる事の保証です。

3.ひとりのみどりごが

 イザヤの時代、神はその時点での希望を与えられ、現実にも働いてくださいました。でもまだ闇はありました。その先、六百年後に約束のキリストが来られ、光となってくださいました。でもまだ完全ではありません。今も、闇が完全になくなってはいません。しかし神は私たちに希望を与え、今この現実にも働いてくださいます。望みを叶えたり、人生を照らしたり、折々に励ましてくださいます。それは、完全な未来への担保なのです[7]。だからこそ今まだ闇があること、悲しみや痛みがあること、不完全で不条理があることも受け止めます。そして私たちは、今この時にさえ光や慰めを下さる主を待ち望みながら、今ここで光とならせていただくのです。キリストが来られても、世界が平和で完璧になったわけではありません。しかし、キリストをその人生に受け入れた人の生き方は変えられ始め、社会が子どもを大事にするようになり、平和や赦しへと決して少なからず動き始めたのです。光は輝き始めたのです。

 勿論、とてもそう思えない現実も沢山あります。クリスマスは派手に祝っても、ますます貧富の差は広がり、クリスマスなんて祝えない人も大勢いるのも事実です。まだ闇はあるのです。その闇に輝くのがキリストの誕生です。力や輝かしさを捨てて人となられました。それは、測り知れない謙り、自己放棄です。「清水の舞台から飛び降りる」より、暴力や争いに満ちた世界に、無力な赤ん坊になって来ることは遙かに勇気が要ります。キリストは私たちのため、小さくなり、希望の星となってくださいました。私たちは、このキリストを、心にお迎えすることから始めます。世界を照らし、人生に生きて働いておられる幼子イエスの光を仰ぐのです。世界は問題だらけですが、でもその中にあるささやかな喜びや祝福も輝いています。それは、やがて神が世界を光で包み、私たちの社会も心の隅々までも癒やして下さる夜明けを告げる星です。今ここに神が働いて下さることと、でも今に完璧を求めず、将来に完全な恵みの勝利があることとを待ち望むのが私たちです。自分の闇の現実を認めましょう。人がどうだ世界がどうだという現実が変わるにも、まず「私」が神の光を灯して頂く必要があります。無力な赤ん坊となることを選ばれたキリストの愛を頂く必要があります。キリストの愛で、怒りや競争心や傲慢な心を、赦しや愛や喜びに変えて頂きましょう。キリストはそのために来られたのです。

「ともにアドヴェントを迎えた幸いを感謝いたします。イザヤを通して希望を約束された主が、今の私たちにも希望の光を与えてくださいますように。主は本当にひとりの嬰児としておいでくださいました。私たちのためにおいでくださいました。この小さな私たち一人一人を愛することによって、あなたの御業が始まっていきますように。このクリスマスを祝福してください」

ラファエロ 「イザヤ」

[1] 今年は12月25日が日曜日ですので、一番早くアドヴェントを数えることになります。

[2] 特に有名なのは、東の方から訪れた博士たちですが、待ち望んでいた人は大勢いたのです。

[3] イザヤはそういう時代に、神の言葉を預かり伝える預言者とされましたが、殆どの人は話を聞いてくれない生涯でした。

[4] 士師記六-八章、参照。

[5] 実際の歴史では「子供」は蔑称ではなく、複数を表す「供」とされていますが、それを使う人間の意識としては、子どもを軽んじる意識があったと言えます。

[6] そして、実際のイエス・キリストは、更に貧しく、飼葉桶にお生まれになったのです。

[7]「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」(箴言13章12節)

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ハイデルベルク信仰問答35-36「人となられた神」

2015-12-20 20:19:04 | クリスマス

2015/12/20 ハイデルベルク信仰問答35-36「人となられた神」

 

 今日はクリスマス礼拝と祝会をしました。夕拝でも、クリスマスのお話しをしましょう。いつものウェストミンスター小教理問答ではなく、もう一つの「ハイデルベルク信仰問答」を用いて、お話しします。この信仰問答は、礼拝でいつも読んでいる「使徒信条」を辿って解説をします。そこで、こう問います。

問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とはどういう意味ですか。

答 永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神であり、またあり続けるお方が、聖霊のお働きによって、処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた、ということです。それは、ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしては、あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした。

 ここには、三つのことを見て取れます。一つは主イエスが、

「永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり、あり続けるお方」

である、ということです。神ですから、世界を作られた世界よりも偉大なお方であり、大いなるお方です。そのお方は、神であるのを止めることはありません。人間として生まれたら、神を止めてしまうとか、神として三流や身分が下がってしまう、ということもありません。でも、その神なるイエスが、処女マリヤの胎に宿ったのです。

 二つ目は主イエスが、マリヤの肉に宿り、血を受け継いで、

「まことの人間性」

を身にまとわれた-完全な人間となられた、ということです。ダビデの子孫という血筋を受け継いだ、正真正銘、ひとりの人間となられました。罪を別にして、あらゆる点で、兄弟たちと等しくなられました。イエスは神の子だから、生まれて直ぐにお喋りできたとか、歩いたり走ったり出来たとか、そんな尋常でないことはありませんでした。オムツもいらない、自分で下の世話ぐらい出来ます、なんてこともありませんでした。母マリヤはイエスを布でくるんで飼葉桶に寝かせた、とありますが、イエスはそうされるままになっていましたし、そうしてお世話をしてもらう、普通の赤ちゃんとしてお生まれになったのです。完全な神でありながら、完全な人間であられました。これは、私たちの理解を遥かに越えていますが、聖書はそう言っています。

 三つ目はそれが

「聖霊のお働きによった」

ということです。聖霊は、三位一体の神のおひとりですが、その聖霊によって、神であるお方が、処女マリヤの胎に宿りました。私たちの理解を超えていますが、聖霊なる神が、神の偉大な力によって、キリストをマリヤの胎に宿したのです。

 マリヤが処女である事にひっかかって、「まだ結婚も男女の関係もなかった処女が身籠もるだなんて信じられない」という方もいます。でも、面白いことに、ここではそこは強調しません。それよりも、神であるお方が、処女マリヤの胎に宿った、と言う方が遥かに大事ですし、信じがたい奇蹟だからです。処女が妊娠することは、医学が発展すれば再現できるかもしれませんが、神が人となることは絶対に説明も再現も出来ません。この出来事を受け入れるのであれば、処女マリヤがイエスを宿したことなど疑うに足りません。そして、この聖霊のお働きによったことが、イエスがただ人間となられただけでなくて、それが聖なる御霊の聖なる御業であり、キリストが罪なく聖なるお方としておうまれくださったことに繋がるのです。

 「罪を別にして」とあるのを読むと、「人間は罪を犯す者なのだから、罪を犯さないんじゃ、本当の人間ではないんじゃないか」と言う反論もあるでしょう。けれども、本来の人間は、神に造られた時に、罪は犯さないでよかったんです。人間性とは、罪なく、聖い心で神とともに歩み、神の栄光を現すことでした。でも、人間が神に背いた時に罪が入って、本来の人間らしさを損なってしまったのですね。イエスが人間となられた時、その本来の人間のあり方を完全に身にまとわれましたので、罪はなかったのです。イエスに罪がないのは、人間らしさを欠いていることではありません。むしろ、イエスこそ本当の人間らしくあられて、私たちの方が、罪によって、人間らしくない、間違った性質を持ってしまっているのですね。

 マリヤがイエスを宿した時、婚約者であったヨセフは、恐れて、マリヤと別れようとしました。自分など、そんな聖霊のお働きに相応しくないと思ったのでしょう。神に選ばれたマリヤがしようとしていることに、自分なんかは身を引くべきだと思って、秘かに離縁しようとしたのです。しかし、夢に現れた主の御使いは、

マタイ一20…「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 ヨセフはこの夢でマリヤと別れることを止めて、妻を迎え入れ、イエスの父としての務めを果たしました。それは本当に不思議な体験だったでしょう。自分が父親として、世話をし、教え、育てる男の子が、同時に、自分も含めた神の民をその罪から救ってくださるお方だ、とも信じると言うのですから。しかし、まさにそれこそは、ヨセフに現されたイエスのお姿です。

 神の子、救い主キリストが、私たちを救うためにこそ、本当に私たちと同じ人間となられて、この世界に来られました。人間の理解の遠く及ばない事ですが、完全な、人間として、胎に宿り、生まれ、お世話をされながら、歩まれ、最後は死なれました。だからこそ、私たちも、母の胎にあるときから死に至るまで、全ての罪をキリストが覆ってくださり、救ってくださると約束されています。

問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。

答 この方が私たちの仲保者であられ、ご自身の無罪性と完全なきよさとによって、母の胎にいる時からのわたしの罪を、神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。

 100%神で、100%人となられたキリストは、私たちを神と結びつけてくださる仲保者です。私たちが母の胎から死に至るまで、すべての時に、聖なる方、私たちの罪を覆う方として、ともにいてくださいます。私たちに、聖なる救いが届けられるために、イエスは本当に私たちの所まで来て下さったのです。キリストがお生まれになったクリスマスは、この出来事なのです。キリストをお迎えした人生を歩ませていただきましょう。

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マタイ一章18~25節「恐れずに、迎えよ」 クリスマス礼拝

2015-12-20 20:15:34 | クリスマス

2015/12/20 マタイ一章18~25節「恐れずに、迎えよ」

 

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いするお祭りです。聖書には、イエス・キリストの誕生を巡る出来事が、主(おも)にマタイの福音書とルカの福音書に伝えられています。しかし、直接、イエス・キリストの誕生がどのようなものだったのかは、全く記録していません。

「男子の初子を産んだ」[1]

「子どもが生まれるまで」

「お生まれになったとき」[2]

と実にあっさり記しています。むしろ、その周りに集まっていた人の様子、その人たちにとって、キリストの誕生がどのような出来事だったのか、あるいはキリストの誕生にどのような応答をしたのか、ということから、クリスマスの意味を浮かび上がらせます。そして、そこで御使いが告げる言葉として四回繰り返されているのが、今日のマタイ一20にも出て来ました、

「恐れないで」(恐れるな)

という言葉です[3]。マタイは、この言葉をここ以外に八回、合わせて全部で九回繰り返します[4]。クリスマスから復活まで何度も「恐れてはならない」と言われるのです。

 では、一体、どんな恐れを言っているのでしょうか。今日は、このマタイ一章のヨセフの姿に注目してみましょう。ヨセフの恐れとは何だったのでしょうか。

 この時ヨセフは婚約者であったマリヤが、聖霊によって身籠もったために、彼女を離縁することを決心した所でした。当時の文化では、婚約は結婚と同じ重みがありました。もしこの時、女性が他の誰かと関係を持ったなら、それは不貞を働いたと見做されて、石打にされることになっていました。ですがヨセフはそうはせず、秘かに離縁しようとした、とあります[5]

 これは私の理解ですが、18節で

「聖霊によって身重になったことがわかった」

とあるのですから、ヨセフは、マリヤが身重になったのが聖霊によってだと、どうにかこうにか分かったのです。俄(にわか)には信じがたかったでしょうが、ヨセフも認めざるを得ず、受け入れたのです[6]。でも、それを何とか信じられたとして、それでも(というか、それならなおさら)ヨセフはそんな前代未聞の器として神が選ばれたマリヤとその奇跡の子どもの父親になるには自分は相応しくないと思った。だから離縁しようとしたのです。彼女たちを晒し者にしないよう、秘かに去らせる、それが自分の精一杯だと思ったのです。それが、彼としての精一杯の

「正しさ」

でした。そこに主の使いが夢に現れて、「恐れないで、妻を迎えよ」と言いました。御使いが見抜いていたのは、ヨセフの心の奥深くにあった本当の動機が「恐れ」だったことです。

 この後もマタイは、人の恐れを取り上げます。それは嵐の湖で乗っていた船が沈みそうになった時の恐れ[7]、幽霊を見たと思った時の恐れ、人から嘲られたり迫害されたりすることへの恐れ、神に滅ぼされるのではないかという恐れ、様々なことが原因です。でも、その根っこにあるのは、死とか禍とか人からの拒絶によって、自分が孤独になることへの「恐れ」ではないでしょうか。何が起きようとも、それでも自分を支えてくれる誰かがいると思えたら、痛みや反対だって我慢できます。でも、結局最後には、自分を支え、愛し、ともにいてくれる人なんて誰もいないんじゃないか、という孤独が私たちの中には根強くあるのです。

 『舟の右側』という雑誌に日本人牧師が夫婦関係についての連載を書いています。そこで、夫と妻の衝突の根っこにある事は

「関係が壊れていく恐れ」

と言えるのではないか、と書いておられました。これはとても鋭い洞察だと思っています[8]。関係が崩れ、独りになる、という「恐れ」です。旧約聖書に出て来るヨブも、神を恐れる正しい人でした。全財産も子どもたちも災害によって奪われ、自分の身も皮膚病に冒されてボロボロになっても、彼は神を呪うことはありませんでした。しかし、そのまま、神から何の答もないまま時間が過ぎた時、彼は、

三20なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。

と嘆きます。結局、無意味なまま生きていかなければならない、生きる事に喜びや意味などないのかもしれない、そういう予感をヨブは持っていた。それをヨブは、

三25私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

と言うのです。所詮、人生は孤独で無意味だ。自分なんてそんなものだ。そういう恐れがヨブにもあり、夫婦という最も人格的な関係でも暴露される。そして、ヨセフの行動にあったのも、自分などが聖霊によって身籠もったマリヤの夫になどなれない、という恐れでした。

 先週見たように、ヨセフに至る歴史は、神の祝福とは裏腹に、罪や反逆を重ねてきた歴史でした。人間の傲慢、暴力、身勝手さ、醜さ、悲しい限界の歴史でした。そして、ヨセフは自分自身の罪や心の闇にも十分気づいていたでしょうし、私たちも、たじろぐでしょう。神が処女マリヤの胎にイエスを宿すことが出来ると信じてはいても、その同じ神が、私たちのうちにもキリストを宿らせる程、私に良いご計画を持っておられ、私を愛され、私を変えて下さると信じるのはまた別、と思ってしまうのです。ヨセフも、そうたじろいで離縁を決めたのです。でもその判断にさえ、ヨセフは自信がなかったのです[9]。でもそのヨセフに、御使いは言いました。

20…「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 罪があるから相応しくない。それが人間の「正しさ」です。しかし、神の「聖」なる霊が始められたのは、マリヤの胎に産まれるイエスによって、神がご自分の民を罪から救ってくださる、という業でした。22、23節にはこの出来事の意味が、預言者イザヤに与えられた言葉の成就であったと言われています。そこに約束されていたのは、

「神は私たちとともにおられる」

と名乗って下さる方の誕生です。神は私たちとともにおられる。マリヤの胎に宿るほどに、本当に私たちとともにいてくださるのです。この神から離れた人間は、いつも深い孤独を抱えています。その穴を埋めるために、色々な努力をして誤魔化したがります[10]。でもどこかでそれがいつか終わるとも分かっています。孤独から目をそらしているのは、それが怖いからです。でも、神は私たちとともにいる方です。

 御子イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たちとともにおられることのしるしでした。神が、私たちとともにいて、恐れを取り除いてくださるのです。何があっても、神が私たちの手をシッカリ握って離さないのです。何があろうと、永遠の先までも、飽きることなく、私たちと喜んで共におられて、私たちに愛を注いでくださるのです。その愛によって、私たちの心を満たし、深く潤してくださいます。神以外のものにしがみつき自分を満たそうとしたり、嘘やその場限りの虚しい物で自分を慰めたりするような生き方も止めさせてくださるのです。ヨセフにとってのマリヤの懐妊が青天の霹靂であったように、私たちの生活にも、思いがけないこと、計画を水の泡にする出来事、喪失や不幸があるとしても、その事を通して、神は「恐れるな。わたしがあなたとともにいる[11]」と語っておられるのです。このクリスマスにも、もう一度私たちもヨセフとともに主をお迎えしましょう[12]

 

「恐れるなとの御声を、今日ヨセフとともに聞き、あなた様の尊いご計画を心に迎え入れます。あなた様がともにいてくださることを、どうぞ心の奥深くで、魂が震える程の約束として受け入れさせてください。クリスマスのメッセージが、他ならぬ私たち一人一人のためであり、私たちを変え、新しい神の民を作り出すためであることを信じ、その実現を拝させてください」



[1] ルカ二7。

[2] マタイ二1。

[3] 他に、ルカの一13「こわがることはない」、30、二10「恐れることはありません。」

[4] 十26、28「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」、31、十四27「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」、十七7「起きなさい。こわがることはない」、二八5、10。間接的にも、二20、十四30で弟子たちの恐れが取り上げられ、二一26、46、二五25などで敵対者たちの動機が「恐れ」として、描かれています。

[5] 多くの人は、この行動をこう説明します。「ヨセフはマリヤが身重になった事実にたじろいだ。聖霊によって身籠もったとは信じられなかったとしても、彼は正しい人だったので、マリヤを杓子定規に石打にしたり、怒りや不信感、裏切られたという思いでマリヤを責めたりもしなかった。彼は、自分ではない誰かの子を宿したマリヤを、秘かに去らせて、彼女を精一杯守ろうとした。なぜならヨセフは、本当の意味で正しい人だったから」。そういう読み方から教えられることは多くありますが、私は本文のような理解をしています。

[6] これを、20節以下の御使いの夢の啓示によって初めて信じられた、という理論もありますが、マリヤの言葉で信じられなかったのなら、夢で信じられるとは限らないでしょう。

[7] 八26「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」ここでは、デイロスという珍しい語が使われています。

[8] 『舟の右側』2015年11月号、41ページ。自分の親との長い関係での傷や、自分の両親の間にあった問題が、今の妻や夫との間にも重なる。すると、相手のありのままを受け止め合い、安心を与え合う関係が築けずに、力尽くでやろうとか、操作的に相手を変えようとして、却って、関係をますます拗らせてしまう。或いは、今まで理想的な関係で守られてきたとしても、新しい関係でそれが当てはまらない時に、それはそれで、このままではダメになるかも知れない、というネガティブな予想を持つようになります。

[9] ヨセフの精一杯の「正しさ」で、自分の身の程を弁えて、マリヤを去らせる決断をしてもなお、ヨセフの心は迷っていました。しかし、この事に、人間の精一杯の正しさが、猪突猛進の「正義」とは違う、慎みを伴ってこそ健全なものでありうることが見て取れます。マタイ五章~七章の「山上の説教」では、こうした人間的な「義」にまさる、「神の国の義」を持つようにと促されていきます。

[10] 神から離れた人間は、神の愛に代わって自分を支えてくれるものを求めています。名声、社会的な成功、金銭、家庭、健康、若さ、恋人や会社、大きな権力や、実に些細な抵抗で水を差すという満足感、セックスやドラッグやギャンブルでの興奮で、生きる実感を持とうとします。でも、それがいつかは無くなるかも知れないと、どこかで分かってはいます。所詮、いつか自分は独りになる。何もかも失って、後に残った、もう胡麻菓子のきかない自分をそれでもそのまま愛してくれる誰かなどいなくなる時が来る。そのとき人は、自分がしがみついていたモノを取り戻そうとするか、「やっぱり、人生はこんなものだ」と思うか、でしょう。神ご自身に立ち返るのは、ただ神ご自身からの恩寵によらなければできないことです。

[11] イザヤ四一10

[12] マタイだけでなく、ヨセフの言葉はひと言も記録されていません。そこからよく説教されるように、ヨセフの沈黙は、ヨセフの人となり、信仰の美しさ、でもあるかも知れません。しかし、それ以上に、私たちにも、ヨセフとともに、黙って、主の御使いの声そのものに聞くことを促すはずです。ヨセフへの言葉を私たち自身への言葉として聞くのです。聖書の意図は、ヨセフが寡黙だったことのメッセージではなく(男性の寡黙ぶりを美化したり正当化したりするためにヨセフを引き出し、乱用することは完全な勘違いですが)、ヨセフが何をしゃべったか以上に、御使いが何を語ったかであり、それに従ったヨセフにならって、私たちも神のメッセージを受け入れて従うことです。そこで、口を閉ざしているかどうか、は二の次です。

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