聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ一章1~17節「大いなる卑しさ」

2015-12-13 21:47:18 | クリスマス

2015/12/13 マタイ一章1~17節「大いなる卑しさ」

 今週から映画「スター・ウォーズ」の第七作が公開されます。第一作の公開は三十年も前で、六回分のお話しを知った方が面白いでしょう。勿論、一番いいのは、エピソードⅠからⅥまで13時間半分を、全部観ることです。でも、もっと簡単に、ダイジェストや一ページにまとめようとするでしょう。或いは登場人物の名前から紹介するという仕方もある。今日のマタイの系図はそのようなものだと言っていいかもしれません。新約を読む前に、旧約を全部読む代わりに、ここに人物の名前で旧約聖書の歴史をまとめている。そう考えてはどうでしょうか。

一1アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

と始まります。アブラハムは聖書の歴史で、神に選ばれて、民族の父として覚えられる偉大な存在です。神である主がアブラハムを選び、祝福の約束を与えられました。アブラハムを祝福し、アブラハムを通して、全人類が祝福されるという約束が告げられました。そして、その末に登場したのがダビデ王です。聖書の中では、最も愛され、神に祝福された信仰者であり、イスラエル王国の基礎を築いた王です。それから約千年も経った新約聖書の時代でも、ダビデ王の時代を懐かしんでいました。実際、イエスは「ダビデの子イエス」と何度も呼ばれます。そこには、イエスにダビデ王の再来を期待する当時の熱烈な思いがあったのです[1]

 しかし、聖書を思い出すならば、ここで振り返る旧約の歴史は決して、祝福や輝かしい栄光一色ではありませんでした。アブラハムやダビデ自身、嘘や不信仰を見せました。怒りや欲望に突き動かされて、大きな罪を犯したこともありました。家庭の夫や父として、全く不適切な行動を取りました。罪は、ただの道徳の問題ではなく、信仰や家庭や社会のあらゆる関係まで破綻させたことを生々しく記します。9節のアハズ、10節のマナセ王などは大変悪い王でした。ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤなどはよい王でしたが、しかし晩年や祝福を受けた後に、油断が出来たか、大失態を演じて、晩節を汚してしまった人々です。その結果が、11節に出て来る

「バビロン移住」

です。イスラエルの民族を、神が遂に裁かれて、バビロン帝国により壊滅させられ、主な住民をバビロンに移住させる、という出来事になります。その後、ゾロバベルの時代に再びパレスチナの地に帰って来るのですが、後、13節以下の人々は聖書には記されていません。すっかり日の目を見ない家系になりました。最後に出て来るヨセフは、貧しい大工でした。ダビデ王の末裔でありながら、無名の田舎者でした。アブラハムの祝福の約束など見る影もなくなっていた。それが、この系図の示している事実でした。そのヨセフの妻マリヤからキリストと呼ばれるイエスがお生まれになった、こう記すのですね。

 3節に、タマルがユダに双子を産んだことが書かれています。タマルとユダは嫁と舅の間柄でした。しかし、ユダの操作的な振る舞いに、タマルは遊女のふりをしてユダを誘い、身籠もったのです。どちらも悪い。他にも、5節で出て来る「ラハブ」は遊女でしたし、「ルツ」は異邦人、6節にある「ウリヤの妻」はその肩書きの通り、ダビデがウリヤの妻を寝取り、ウリヤを殺して自分の妻とした、そういう存在です。本来、女性の名前を家系図に載せる習慣はなかったそうです。しかし、マタイは四人の女性の、それも立派な女性ではなく、むしろ曰く付きの女性の名前を四つも記すことで、その夫たちの間違いや恥部を浮かび上がらせます。

 本当は、こんな系図は書かなくても良かったのかも知れません。実際、次の二章に出て来るヘロデ王は、そのようにしました。自分が純粋なユダヤ人ではないことを誤魔化すために、妻に名門マカベヤ家のマリアムネを娶っただけでなく、自分の系図を揉み潰して証拠隠滅を図ったそうです[2]。マタイは、それとは正反対のことをしました。イエス・キリストがお生まれになるまでの、失敗と没落の卑しい歴史を、恥じたり隠したりしようとせず、キッチリと描くことから始めます。そして、そこにイエスがお生まれになった事を明記します。

 日本だけでなく今世界で、民族感情が強まっています。自分たちの国や民族が特別であることを訴え、立派な歴史や優秀さを求めようとしています。歴史の汚点や戦争での暴力は否定しようがないのに、「自虐史観だ」と切り捨てようとしています。二つの国がそれぞれに相手国を卑しめる事でプライドを保とうとするからますますややこしくなってしまいます。そういう中で、教会が、自分たちの良さだけを語ろう、恥に蓋をしようとするなら、キリストの誕生のメッセージも骨抜きにしてしまうだけです。聖書はその逆から語るのです。

 イエスは、祝福も王位も遠い過去になったようなヨセフの家にお生まれになりました。卑しく、低い家にお出でくださいました。でも、それによって、忽ちヨセフの家が繁栄を取り戻した訳ではありません。人々が心を入れ替え、歴史が良い方向に変わったのではありません。教会が順風満帆な歩みをしたわけでもないし、今の時代でも、信仰と愛に燃えて純粋に歩めるのが真実な教会だ、と考えるのは夢物語です。キリストを信じたら、不幸や挫折とは無縁の人生を歩むとも、聖書は保証しません。むしろ、聖書全体が示すように、私たちは苦しみや失敗、弱さを通して、深く心を取り扱われて、ますます謙り、見せかけでなく心から神に頼り、神の民とされていくのです。そして、そのような卑しい人間の歴史にこそ、神は深い憐れみをもっておいでくださり、私たちを導かれるのです。もしイエスが、恥や卑しさと無縁で、私たちの生涯も美しく取り繕ってくれる王であれば、新約聖書はこのようには書き出されなかったでしょう。キリストは、人間の罪や不完全さ、失敗や破綻の真っ只中に、卑しくなって来てくださいましたし、そのようなお方です。その卑しさが、キリストの偉大さを現しているのです。

 17節で、マタイはこの系図を、三つの十四代だと言っています。三は完全を現しますし、十四も完全の七の倍で欠け無き完全さを現しています。神がアブラハムからイエスに至る歴史に完全に十分に働いておられて、時至りキリストがお生まれになったのだ、というのです。でもマタイも最初の読者であったユダヤ人たちも気づいていた筈です。旧約に出て来た王のうち、何人かの名前が飛ばされています。また、12節以下の名前は十三代しか出て来ません。最初のエコニヤを二度数えたら十四になる。そんな明らかな「数合わせ」をマタイはしています[3]。でも、何かそんな「こじつけ」も大らかに堂々とやってのけるところがいいのです。きっちり十四人じゃなきゃとか、実は足りないとか、言い出したら切りが無いでしょう。人間の側からしたら足りなかったり苦しかったり欠けだらけ。けれどもその不完全な中で、神が働いてくださっている。そこにこそキリストがお生まれになり、私たちとともにおられ、深い祝福に与らせてくださるのです。神は私たちの不完全さも卑しさも排除せずに、そこに完全な御業を現してくださるのです。栄光を捨て、人間の卑しさの中に、想像もつかない犠牲を払って、飛び込んで来られました。だから、私たちは今も、どんなことがあろうとも、そこに主が来られ、私たちとともにいてくださると信じます。アブラハムの子、ダビデの子である主が、私の王として、祝福の中に生かしてくださるのです。そのイエスの偉大な卑しさを、感謝し崇めましょう。

 

「主が零落(おちぶ)れ果てた人間の所に来てくださった愛を、このクリスマスに改めて思い巡らさせてください。人類や教会が綴るのは今も過ちの物語ですが、そこにも憐れみに満ちた主が来られて、希望と再生を、再出発を与えてくださいます。私たちをその恵みによって、心から新しくしてください。取り繕いや言い訳を捨てて、謙虚に、砕かれて、主と人に仕えさせてください」



[1] 「ダビデ」は、マタイで15回言及されています(マルコ7、ルカ12、ヨハネ1)。「ダビデの子」としてのイエス理解が突出しているのが、ユダヤ人を読者として書かれたマタイの福音書の特徴です。王であり、羊飼いからの選び、イエスの予型であるダビデ。ちなみに、「アブラハム」は6回(マルコ1、ルカ14、ヨハネ9)です。

[2] ヘロデは系図を憎んだ。異邦人の血が混じっている事実を隠そうとして、登録所の官吏を殺して証拠隠滅を図ったそうです。(加藤『マタイによる福音書1』p.17)

[3] 8節のヨラムの次に「アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ」が、11節のヨシヤとエコヌヤの間の「エホヤキン」が、12節のサラテルとゾロバベルの間の「ペダヤ」が省略されている。第三区分の12節から16節までは、13代しかいない。バビロン捕囚からの六百年が、わずか十三世代? そんなはずはないのに。ダビデ以降、ルカは四二世代記している所を、マタイは二七世代のみです。

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ルカ二章8~20節「救い主がお生まれになりました」

2014-12-23 18:34:28 | クリスマス

2014/12/21 ルカ二章8~20節「救い主がお生まれになりました」

 

 今日この夕拝に来ているのは、お昼のクリスマス礼拝に、何かの用事があって参加できなかったから、という理由が多いでしょう。クリスマス礼拝や祝会がどれだけ楽しかったかを聞いても、却って寂しい思いがするのでしょう。クリスマスは家族や恋人がステキな時間を過ごすというイメージがある分、一人の人や、家族と別れて過ごす人はいつも以上に寂しくなる時期でもあるそうです。「せっかくのクリスマスなのに、わびしいなぁ」といいたくなる事もあるでしょう。しかし、今日の聖書を読む時に、クリスマスは、そういう人のためにこそキリストがお生まれになったと告げ知らされることなのだと分かります。この夜、私たちにも、御使いが告げています。

10…恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

 この知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは、

 8…野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

のです。そうです、彼らは仕事をしていました。他の人たちは、住民登録のために宿を取り、ごった返していた時に、彼らはその数にも数えられず、仕事を黙々と果たしていました。夜も、狼や盗人(ぬすっと)が来ないように交代で見張りをしながら、羊を守っていました。それは、単調ですが、気の抜けない、日陰の労働でした。羊飼いたちは何を思っていたのでしょうか。二千年前の彼らが何を思っていたかは想像も出来ません。でも、大事なのは、彼らが闇の中で何を思っていようと、そして、その心までもどんなに暗かったのだとしても、そこにキリストのお生まれの素晴らしい知らせが届けられた、という事実です。彼らの所に御使いが来たのは、偶然ではありませんでした。御使いは、

10…今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

と言ったのですから。彼ら羊飼いにこの素晴らしいニュースを知らせるために、御使いは来ました。神様が御使いを羊飼いたちに遣わしたのです。神様が、この知らせを真っ先に受け取る相手として、羊飼いたちを選ばれたのです。

 神様は、羊飼いたちが、この知らせを受け取るのに、一番相応しかったとお考えになりました。でもそれは、この羊飼いたちが、とてもよい心で、信仰も厚くて、仲が良かった、ということでしょうか。神様を待ち望んで、立派な人生を生きていたから、神様も彼らに、福音を最初に告げ知らされる特権を与えられた、ということでしょうか。

 いつの頃からか、クリスマスにはそういう考えが入って来ています。それこそがクリスマスの意味だと信じられています。だって、こう言うでしょう? 「良い子にしていたら、サンタさんがプレゼントを持って来てくれますよ」って。「良い子にしていないと、プレゼントがもらえませんよ」って、みんなが言っています。そして、プレゼントを貰うために良い子になったり、良い子でいてもプレゼントが貰えないと「クリスマスなんて楽しくない」とガッカリしたりするのです。

 もともとはそうではありません。その反対です。羊飼いたちも、「この民全体」も、ちっとも良い子ではありませんでした。神様から離れていました。けれども、その彼らを取り戻すために、イエス様が来てくださいました。人となってマリヤの胎に宿り、この夜、お生まれになりました。私たちが相応しかったから、ではありません。相応しい人を救うために、相応しい良い子達だけに与えられる「すばらしい喜びの知らせ」ではありませんでした。ふさわしい者など一人もいないのにも関わらず、神が、ご自身の民のために、主をお遣わしになりました。キリストが、自ら人となって貧しくお生まれになることさえ厭わずに、来てくださいました。この知らせの素晴らしさは、私たちが相応しくないのに、それでも神様が私たちにお与えくださった、救いだからです。

 御使いたちは、最後に神を賛美しました。

14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。

 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 この賛美が、御使いたちが私たちにくれた、新しい歌です。私たちは、いと高き所にいます、栄光ある神を忘れています。神に栄光を帰するよりも、自分の栄光や評判、世間体や自己充実を求めています。そして、神を忘れて、自分が神に成り代わろうとするような生き方をしていますから、地の上にも平和が作れず、争ったり、妬んだり、衝突ばかりしています。神様が与えてくださった人生を感謝することが出来ず、与えられた仕事を虚しい思いや不安、文句を言いながらこなし続けているだけ、という事になるのです。でも、キリストのお生まれの知らせは、この簡単な賛美へと私たちを救います。

14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。

 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 神に栄光を帰すること、そして、地の上で御心にかなう者とされ、平和にあずかる者とされること。それが、クリスマスに響いている、救いの歌です。この歌を歌わせるために、主イエスはお生まれになったのです。そして、実際、最後の20節で、

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

のです。神をあがめ、とは、神に「栄光」を帰するという言葉です。賛美も、御使いが賛美したように、でしょう。そして帰って行って、何をしたのでしょうか。やっぱり、羊を飼ったのでしょう。彼らは羊飼いなのですから。でも、羊飼いであって、羊を飼い、その後も野宿で夜番をすることはあっても、彼らは今までと同じではありません。神をあがめ、賛美しながら、羊を飼う者となったのです。素晴らしい喜びは、彼らが仕事をしている真最中に来たのですから、彼らの全生活がこの知らせで新しくなるのです。

 クリスマスは私たちに届けられた喜びです。忙(せわ)しい毎日、疲れた夜、孤独、そして神など忘れた人間の闇のどん底で「救い主がお生まれになりました」と言われたのです。

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ルカ2章1~7節「皇帝と飼葉桶」

2014-12-23 18:31:51 | クリスマス

2014/12/21 ルカ2章1~7節「皇帝と飼葉桶」

 

 今、読んで戴きましたルカの二章の直前、一章の最後、68節から79節に、「ザカリヤの讃歌」と呼ばれる歌が記されています。先ほど交読しました交読文44は、この部分の文語訳から持って来たものです。そこでは、美しく、力強く、神が賛美されます。全部は読みませんが、

一71この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

72主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、

73われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、

74、75われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、

 きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

とこのように、力強い救いが歌い上げられています。キリストがおいでになること、約束されていたメシヤがお生まれになることは、本当に喜ばしい、神様の御業だと歌っているのです。

 ところが、そのような前置きに続いて、今日の二章に入った途端、意外な言葉が始まります。

二1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。

 2これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

 3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

 一世紀に、当時の地中海世界をローマ帝国としてまとめていた、初代皇帝アウグストゥスの勅令が全世界に告げ知らされた、と書き出します。いきなり、世界史や政治の話になってしまいます。初めにこれを聞いた人はどう思ったでしょう。神様の導きによってこの福音書を書いたルカにとって、ザカリヤの讃歌に続いて、他の書き方ではなく、皇帝アウグストゥスを登場させて綴っていくことは、とても意味があったことだろうと思うのです。

 もしかすると、それはユダヤの人々の愛国心を燃え上がらせたかも知れません。アブラハムに遡る神様の契約、イスラエル民族の歩みを振り返る時、いま自分たちがローマ帝国の属州に成り下がり、税金を納めなければならず、そのための住民登録をせよと言われても黙って従わざるを得ない、という事実は大変な屈辱でした。ローマからの解放を願い、神が送ってくださる救い主が来られたなら、たちまちにしてローマ軍を焼き滅ぼしてくれるのだと、軍事的・政治的なメシヤを待望していました。そういう期待は、後のイエス様の弟子たちの中にも強くあったことが分かっています。

 しかし、ここに出て来るのは、そうした巨大なメシヤではありません。

 4ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、

 5身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

 7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ここに出て来るキリストは、産着には包(くる)まれても、宿屋にはいる場所がなくて、飼葉桶に寝かされたような、貧しく、気にも留められない小さな存在です。皇帝アウグストゥスの勅令に翻弄されて、ナザレからベツレヘムまで行かざるを得ない、無力な存在です。また、本来、女性であるマリヤまで登録する義務はなく、まして身重の時期に長旅をするのは大変だったでしょう。それをヨセフが一緒にベツレヘムまで連れ上ったのは、正式な結婚をする前に、聖霊によってイエス様を身籠もったマリヤが、田舎村のナザレで好奇や非難の眼に曝されていて、一人残して自分が旅立つことが心配だったからでしょう。そこでもマリヤたちは、ご近所や身内からさえ理解されず、後ろ指を指されて耐えるしかない、理不尽さの中にいました。それは、当時の人々が期待していた、力強く、向かう所敵なしの救い主のイメージとは全く違っていました。神の権威と力を振りかざして、みんなを平伏させる方ではありませんでした。でも、この方こそは、真の救い主であり、私たちを救い出し、新しくしてくださるお方なのです。

 ローマでは、皇帝アウグストゥスが、主とも救い主とも言われていました。彼が「ローマの平和」という新しい時代を築き、世界を治める者として称えられ、全権を委任されていました。けれども、その「平和」は、重税に苦しむ民衆の貧しさや不満には目を瞑り、反乱が起きれば圧倒的な兵力で抑えつけることで成り立っていた平和でした。しかし、イエス様は違いました。上に立って権力を振るい、敵には剣を突きつけて言うことを聞かせる王ではないのです。

 主イエスは、私たちの世界に降りて来られ、人間となって胎に宿り、生まれ、貧しい人の子どもとなり、弱い者のようになってくださいました。そしてそれは、最初から、十字架に至る苦難と死へと向かって行く道行きでした。皇帝の力強く輝く栄華とは対照的に、主イエスは、ご自分に与えられた場所が飼葉おけであることを受け入れておられます。けれども、忘れないでください。主イエスよりも皇帝の方が強いのではありません。アウグストゥスが歴史を支配していて、キリストもキリスト者も教会も、それに対しては為す術がない、ということでは決してないのです。ここで言われているのは、この皇帝アウグストゥスが勅令を出しているただ中で、キリストはひっそりとお生まれになった。でも、飼葉おけに眠るこの方こそ、神の真実で力強い救いをなさる、真の皇帝であり、主の救いを成し遂げてくださる救い主だ、ということです。

 世界を作られ、支配しておられる神様は、偉大な栄光のお方であり、決して無力でも詰まらないお方でもありません。けれども、この神は、本当にこの世界の小さなものを愛しておられ、いる場所さえ与えられない者とともにいることを厭われないお方です。貧しく、小さな一人となることを通して、私たちに深く語りかけるお方です。上から頭ごなしに命ずるお方ではなく、私たちの心に深く語りかけることによって、形ばかりの平和ではない、本当の平和-一人一人が自己中心を捨てて、罪を悔い改めることから始まる平和-をもたらされるお方です。そのような神様のご計画こそが、世界の歴史を貫いて、神様が大切にされていることなのです。

 私たちは政治家に成り代わることは出来ません。神の力や知恵を授かって、人生の悩みや病気や悲しみを全部解決してしまうことも儚い望みです。でも、それは神様を信じても無駄だとか主イエス様が来られても何も変わらない、ということではありません。主イエスは、確かにこの世界の中に来られたように、私たちの所にも来られて、私たちの歩みを導き、私たちの心に住んで、私たちもこの世界をも深く導いておられます。

 この神に出会って、私たちが主を信じて礼拝する者となり、私たちがお互いに、精一杯助け合い、愛し合い、仕える者となっていくことは、神の前には、皇帝よりも尊く歴史を作る歩みです。私たちのためにお生まれくださった、この小さなイエス様は、救い主であり、真の王であられて、私たちの人生、政治や歴史を見る眼をも一変させ、神を仰ぎ、希望をもって共に歩ませるために来てくださったのです。

 

「主よ、あなた様はこの世界に、貧しく小さくお生まれになることによって、私たちの救いの御業を果たされ、神の御心を教えてくださいました。高く強くされることを夢見がちな私たちですが、あなた様を自分の心深くにお迎えし、愛によって癒され、新しくされることを願い、その御業に与らせてください。主の惜しみない御真実に希望と勇気をいただかせてください」

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2012/12/23 クリスマス礼拝 マタイ伝二章「王としてお生まれになった方」

2012-12-31 09:39:37 | クリスマス
2012/12/23 クリスマス礼拝 マタイ伝二章「王としてお生まれになった方」
ミカ書五2―4 ルカ伝一68―79

 イエス・キリストがお生まれになったとき、また、お生まれになる前、そのおいでを知らせたのは、御使い(天使)たちや星、東の国からの博士たちなどであったと、聖書のクリスマス記事は伝えています。また、先に読みましたミカ書のように、五百年以上前に書かれていた旧約聖書の文書も、イエス様がやがて来られることを様々に予告していたのです 。イエス様がおいでになったことは、歴史も天界も総動員するほどの、本当に大きなことだったと分かるのです。
 お生まれになったのは、小さな可愛い(とは聖書に書かれていませんが)赤ん坊でした。クリスマスの絵や置物によくあるように、人の泊まる宿ではなかったのですが、小さな小屋でもそこにマリヤとヨセフに挟まれて、飼い葉桶に寝かされているお姿は、ほのぼのとした、という表現がピッタリだと思うのではないでしょう。何かそこに神々しさとか偉大さなどを持ち込むことは、興醒めのようにも思われるのかも知れません。しかし、そのどちらもあってのクリスマスなのですね。
「 1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
 2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」」
 ユダヤ人の王を拝みに、遠い東の国からの博士たちがやってきました。当時のヘロデ王は、そんな偉大な王が来るなら自分の立場が危うくなると恐れました。
 「 3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」
 しかし、そうして博士たちが導かれて探し当てたのは、
 「11…母マリヤとともにおられる幼子…」
だったのです。しかし、彼らはそれでガッカリしたりはしませんでした。
 「10…彼らはこの上もなく喜んだ。」
のであり、
「11…ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
 はるばる旅をしてきて拝ませていただくにふさわしいお方。高価な贈り物をささげるに価する偉大なお方。そして同時に、だれも顧みないで人間の宿さえ与えられないような迎えられ方をされて、暗い飼い葉桶に寝かされて、それでも怒ったり不機嫌になられたりせずにスタートを切られたお方。それが、イエス・キリストなのですね。
 それは、当時のエルサレムの宮殿に踏(ふ)ん反(ぞ)り返っていたヘロデ王とは見事に対照的な王でした。「王らしくない王」と言ってもよいでしょう。私たちが思い描くような王とは全く違うお方。クリスマスの歌にはそういう歌詞のものが沢山あるのも頷けます 。
 けれども、神様の中では「偉い」というのと「威張る」というのは同じではないのですね。本当に偉いお方、力強いお方ですが、そこで人間みたいに偉そうにするとか成金根性が出るとか、そういうことは考えもしないのが神の子イエス様なのです。それでも、イエス様は、まことの神であられ、まことの王であられます。この王様は、ご自分の国である世界が、正義から背いて罪に満ち、自分のことばかりを考え、滅びに向かっているのを本当に悲しまれ、怒られて、そこから私たちを救い出すために、王として来られたのです。
 祈祷会で学んでいますテキストで、キリストを預言者とか祭司としては信じているけれども、王だとはっきり信じていない教会が多い、という文章がありました。王だと全く信じていない、というのではないのだと思います。ただ、王だとはいえ、力がない。決定権を持たない。落ちぶれた王、ぐらいに考えている、ということなのでしょう。
 勿論、イエス様のお姿を見れば、イエス様が権力を振るって、上から人間を治めたり、私たちに無理強いをしたりなさるお方ではないことはハッキリしています。赤ん坊になって来られたイエス様は、すべての武器を捨てて、丸腰で来られたのです。けれども、だから王様でもなくなった、というのではなくて、そういう方法で私たちを本当に治め、御自身のご計画を間違いなく確実に実行される王であられる。外からの力尽くではない、ということも私たちにとっては有り難い恵みですし、でも私たち任せで指をくわえておられるというのでもなくて、見えない形で私たちを導き、心に語りかけてくださり、あらゆる形で私たちが神様に立ち帰るよう働きかけておられる。外から無理矢理ではありませんけれど、内側から進んで悔い改め、信仰を持てるようにと働いてくださる。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」
という通りです。ただ、そこには、私たちの外側のこと、生活だの外見だのも入るのですが、一番肝腎なのは、やはり私たちの「心」ですね。見えはしませんが、私たちの思いや行動の根っこにある心。「生活の座」、一番奥に隠している「自分」、そこに神に対する罪があります。自分が神になろうとする。あるいは、神にさえ触らせるもんか、と思っているエゴがある。そこが神様の前に正されない限り、決して神様が私たちを喜ぶことはあり得ません。私たち人間には決して自分の力で直すことは出来ません。そこで、イエス様がおいでくださった。私たちを幸せにするとか、欲しい生活をくれるとか、そういうためにではなく、私たちを治めるため、私たちの心の一番奥底までも、神様の光によって照らし出して、罪を認めさせて、自分が神ではなく、まことの神を神として歩ませるためです。自分が王様ではなくて、イエス様を王としてお迎えして歩むようにならせるためです。
 王であるイエス様が来られたとき、みんながそのイエス様を大歓迎したでしょうか。凱旋行列を造ってお迎えすべきお方のパレードをしたでしょうか。いいえ、今日のマタイの福音書が伝えているクリスマスの記事は、イエス様を殺そうとしたヘロデが、周囲の二歳以下の男の子を皆殺しにした、という出来事を語っています。残酷な記事です。クリスマスには相応しくないような、読むに堪えない事実です。ここを読まない教会も多いでしょう。しかし、世界で祝われるクリスマスには、必ずここも読む。クリスマスの劇をするときは、この幼児殺しまでちゃんと演じるという伝統もあるのだそうです。それは、自分たちが、独裁者の圧政に苦しんだとか、敵の支配下で子どもを殺されたとか、そういう歴史がある町や村が、ヘロデの幼児殺しまで演じるのだと、何かで読んだことがあります。そういう、残酷な歴史を肌で知っている人たちにとっては、クリスマスがそういう暴力のただ中で起きたという事実に、深い意味を見出している。これをカットしてしまったら、なんとも薄っぺらい話になる。そう思われているのでしょう。
 私たちもまた、イエス様を王として知り、心にお迎えし続ける必要のある者です。クリスマスや日曜だけイエス様を誉め称えはしても、いつしかすぐに自分が王様になる。神様にも誰にも従いたくない、と思う自分がいる。その末はヘロデの姿です。今年、シャロンの会で学びました子育ての話では、子どもは周りを支配しようとするものだけれども、大人になっていくとは、周りを変えようとするのでなく、自分の行動や感情や生き方に責任を持てるようになることだ、ということを軸に学び続けました 。けれども私たちは何とそれを間違えやすいことでしょうか。そうかと思えば、イエス様が王として私を捉えていてくださる、すべてに働いていてくださる、と信じられず、疑ってしまう。
 勿論、神様が働いてくださるのだから何もしなくていい、ということではありません。博士たちははるばる東から旅をし、ヨセフはマリヤと幼子を連れて、エジプトまで逃げなければなりませんでした。イエス様がこれ以上出来ない行動を取られたように、私たちも自分の力や知恵や忍耐を尽くして、行動していく。イエス様が王であられる、とは私たちがイエス様の足跡に、喜んで従って行く、ということでもあるのです。しかしそこにも、イエス様が私たちの王であられて、私たちを導き、守り、必ず支えていてくださる、という信頼が裏付けとしてあるのです。私たちを、御自身の民として、子どもとして、訓練し、新しくし、成長させてくださる。そう信じるのです。
 一昨日、陸前髙田に行き、被災地の現場を走って、保育園を周り、子どもたちへのプレゼントを届けてきました。喜んではいただきましたが、お話しを聞いたり、瓦礫の山や荒野のような場所を見て、圧倒的な無力感を感じてきました。私自身、自分の今を考えても、どうなるんだろう、どうすればいいんだろうと思う問題があります。クリスマスは、そういう私の所に、人間のどうしようもない現実の中に、イエス・キリストがおいでになった。ひっそりと、けれども確かに王であるお方がおいでになって、そこに必ず御業を進めてくださっている、というメッセージでもあるのです。どうかそのことを信じて、そしてその主に従う柔らかな心もいただいて、クリスマスの喜びに歩んでいきたいと願うのです。

「その誕生とご生涯の貧しさによって、私共を本当に豊かに、深く、治め、あなた様の愛に似せてくださる恵みを感謝します。どうぞ頑なな心を恵みによって砕き、主の喜びに満たしてください。王である主。あなた様に従わせてください。御心が見えない時にも、心に光を灯して、望みに生かし、恵みの器として強めてください。御国が来ますように」


文末脚注

1 ミカ書は、紀元前八世紀から七世紀ごろに書かれたと考えられています。
2 たとえば、讃美歌101番「君の君なれどマリヤより生まれ、うまぶねの中に産声をあげて」、107「黄金の揺り籠、錦の産着ぞ、君にふさわしきを」など。
3 ローマ書八28。
4 ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント『聖書に学ぶ子育てコーチング』(あめんどう、中村 佐知訳、2011年)

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