聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ガラテヤ書2章11-21節「私を愛しいのちまで捨てた主」宗教改革記念礼拝

2017-10-29 21:36:03 | 聖書

2017/10/29 ガラテヤ書2章11-21節「私を愛しいのちまで捨てた主」宗教改革記念礼拝

 五百年前の10月31日、マルチン・ルターが「九五箇条の提題」を張り出しました。しかし今日は、それより更に前にルターが出会っていた福音の原点に立ち戻ってお話しします。

1.「神の義」

 ルターは自分が正しい神の前に受け入れられようと、修道士になり苦行や巡礼で善行を積み、懺悔も真面目にしたのですが、一向に神の怒りを逃れたとは思えず長く苦しんだのです。その末に出会ったのがローマ書の一章17節の言葉でした。ここには「神の義」がこう言われます。

ローマ一17福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 ルターはずっと「神の義」を恐れていました。神が正しく、罪人を罰し裁く、物差しのような「義」を教えられ、考えていたのです。その義を逃れるために、良い行いをしたり、苦行を積んだり、献金をしたりする必要があると教えられていたのです。遂にノイローゼのようになったルターは「気分転換に聖書を研究」するよう進められました。そして聖書を読むうちに、特に詩篇に「神の義」が沢山出て来るけれども、それが希望とか喜びとか恵みや救いと同じような意味で使われていることに出くわして面食らいます。そのうちこのローマ書でも

「福音には神の義が啓示されている」

とあるのに悩んで長い間研究するうちに、ある日ルターは悟るのです。神の義は、罪人を罰する義ではなく、罪人に義を与える義、私たちが信じるだけで神の義を戴き、ますますキリストを信じるように進ませる義。そう気づいて喜びに満たされたのです。この事は、ローマ書の続きでずっと人間の不義を掘り下げた末に、こうも言われています。

ローマ三21しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

 善行や献金や奉仕を求める神ではなく、深い罪を抱えた人間に神が近づいてくださり、人間の罪の罰をご自身に引き受けてくださった。私たちはただイエス・キリストを受け入れるだけです。創造主なる神の義は、人間のように裁いて切り捨てる義ではなく、罪の問題を解決し(清算し)救いをもたらす福音です。それが聖書の神であり、その神が私たちの所に来られたのがキリストの福音です。宗教改革とはこの原点に立ち返ったことから始まっていったのです。

2.キリストの死は無意味に

 ローマ書とほぼ同じ時期に書かれたとも言われるガラテヤ書でも、今日読んだ所の後半、15節以下ではその福音が語られていました。律法を行うことで義と認められる人など一人もいない。ただキリストを信じることによって義とされる。それは罪を助成するのではなく、自分がキリストとともに十字架につけられた、キリストが私のうちに生きている、自分が生きているのはもう自分ではなく、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって生きているのだ、そう言い切るほどの神の恵みなのだ、というのです。

 でもそれをいうきっかけの前半はどうだったでしょう。アンテオケの教会で、ユダヤ人も異邦人も一緒に食事をしていたのに、ある人たちがエルサレムから来たら、ペテロは異邦人と一緒に食事をしないようになった。先週お話ししたことを思い出してください。使徒の働き一〇章十一章では、ペテロが異邦人のコルネリオと食事を一緒にするようになった出来事が詳しく書かれていました。神が不思議な幻をペテロに見せられて、異邦人もユダヤ人も一緒に分け隔てなく食事をするよう示された。それは当時の教会にとって本当に大きな出来事でした。その中心にいたのがペテロでした。そのペテロがまた、異邦人との食事を控えて、距離を置くようになっています。この行動の問題をきっかけにして、パウロはペテロの妥協が福音を実質的に否定することになると非難しました。キリストを信じて義とされると言いながら、異邦人は汚れているから一緒に食事などしない、という生活なら、福音は無意味になると非難しました。

 ではそれでこの問題はもう片付いたでしょうか。いいえ。ガラテヤ書は、パウロが開拓したガラテヤ教会がまた同じような教えに翻弄されたため書かれたのです。ローマ書の背景もそうでした[1]

 では聖書が完成したら大丈夫だったでしょうか。いいえ、教会は福音から離れ、宗教改革が必要になりました。

 宗教改革の後はどうでしょう。ルター派や改革派も、教理としては福音を確定しまとめました。しかし、自分たちを正しいとしてカトリックや再洗礼派を苦しめた事実もあります。奴隷制度を容認し、黒人差別を是認したのも歴史です。

 今の教会や私たちも、神の素晴らしい義よりも、人間的な物差しで生きてしまうことが何と多いかと思います。宗教改革をしたプロテスタントが正しい、福音派が正しい、でなくキリスト・イエスが示してくださった神の義に、宗教改革の原点があります。そして私たちは、教会としてもキリスト者としても、牧師も親も、むしろますます謙虚に正直に、正しいふりをしなくなりたいのです。

3.「正しくありたい」からの解放

 私たちには

 「正しくありたい」

という深い願い、基本的欲求があります。そしてそれは私たちを豊かな恵みで導き、正しく教え、赦しも回復も下さる神によってのみ満たされる願いです。世界の創造主なる方の大きく力強い義に結ばれることで満たされるのです。その神から背いた結果、人間は自分の正しさを握りしめ、必死にしがみついてしまいます。

 間違っていたら恥ずかしい、価値がない、負けだ。どこかで強くそう思っています。

 自分の感情や願いを我慢して、「~すべき」ことを無理にして、心の中には「させられ感」や被害者意識で一杯になる。

 だから伸び伸びしている人を妬みます。そんな自分に自己嫌悪しつつも、自分たちと違う人と比べて安心したがります。

 競争で勝つ優越感は心地よいし、レッテル貼りをするのは楽しいです。

 人を責めたり、言い訳をしたり、自分より間違っている人を見ると安心します。

 人を批判し、噂話をします。夫婦や親子の悪口をいい、陰口を叩きます。

 罪悪感をもたせる言い方をしますし、犯人捜しをしたがりします。

 批判に弱く、怒りやすい。そして災いが降りかかると、自分が正しくないから神が裁いたのだとすぐ思う。

 こうした根っこには、正しくなければならない、間違ったらダメだ、神も正しい者を喜ばれる、という漠然とした強迫観念があります。

 しかし福音は全く違う道を示しました。神の義は、私たちが正しくなることで与えられる義ではなく、罪人に一方的に与えられ、赦しと回復をもたらしてくれた義です。

 この神の福音を知った私たちは、自分が正しくなければという虚勢から解放されます。むしろ、自分の間違いや弱さを認めて正直になることが出来ます。

 「正しくないと不安だ」という恐れも正直に示すことが出来ます。なぜなら、キリストはまだ罪人であった時の私たちを愛して、私たちに赦しと救いを下さったからです。

 比較や災いで嘆いても、自分やその人への神の裁きだと思わなくてよいのです。「キリストが私の中に生きておられる」と言えるほどの愛を告白できるのです。

 そしてだからこそ、他の人にも分け隔てなく接するようになる。文化が違っていて、それ自体は相容れなくても、貶したり正邪や白黒をつけなくてもよい問題で線引きをしない生き方です。人を脅したり操作しようとしたりすることばはもう使わなくても良い。義なるキリストが来られ、私たちのうちに住んでくださって、私たちとの関係も、私たち同士の関係も新しくしてくださいました。こうしてキリストの義は、私たちが互いを尊ぶ神の民を育てるのです。

ガラテヤ書五13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

「主よ。あなたの義を誉め称えます。あなたの素晴らしい福音を何度も再発見してはすぐまた自分の義を握りしめる、そんな歴史に私たちもいます。あなたはご自身の民と絶えず共におられて、原点に立ち戻らせてくださる方です。どうぞ、命をもたらす神の義に立たせ、私たちのすべての人間関係も日常生活も、新しくしてください。主の死を無意味にするような醜い批判や空しい自己正当化から救い出し、主の愛に生かされる交わりの一環に加えてください。」



[1] ローマの教会の中で、ユダヤ人と異邦人、違う文化の人々が一緒に認め合えず、裁き合っている問題があって書かれたものです。

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ダニエル書六章「ライオンの穴で」満濃キリスト教会説教

2017-09-24 17:16:39 | 聖書

2017/9/24 ダニエル書六章「ライオンの穴で」満濃キリスト教会説教

 ライオンの穴、ペルシャの王宮、大臣や官僚たちの嫉妬と悪巧み。ドラマ性たっぷりのダニエル書六章です。そして、その中で真っ直ぐに生きるダニエルが、勇敢に祈りを捧げ、捕まり、ライオンの穴に投げ込まれる[1]。10節の

「彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」

に注目する説教も多くあります[2]。しかし、ここでダニエルの台詞は21、22節だけです。後はずっとダニエルは静かです。むしろ王のダリヨスの出番の方が多いのです。それも、大臣たちの持ちかけた法案が罠だとも気づかずにいい気になって署名し、得意になって、12節でも得意になってあの法案を確証して、

13そこで、彼らは王に告げて言った。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」

と真相を明かされた途端、ダリヨス王は

14非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた」

のですが、法律の取り消しは出来ないと突っぱねられ、ダニエルを獅子の穴に投げ込むよう命令を出さざるを得ません。そうしつつ16節で王はダニエルに、

…話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」[3]

 またその晩、宮殿に帰った王の様子も18節で詳しく書かれています。

18…一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠気も催さなかった。

19王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。

20その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

 こういう王の間違い、情けなさ、つけ込まれやすさ、人間臭さに丁寧にスポットライトが当てられています。そこから見えてくる、彼の後悔、不安、恐れ、悲痛な思い、そして喜び、怒り、最後の賛美があります。正直なところ、私たちが親近感を覚えるのは高潔な信仰者ダニエルよりもむしろ王でありながらオロオロするダリヨスの方でしょう。ダニエルのような信仰者になれ、という励ましも間違いではないかもしれませんが、ダリヨスのような自分が生ける神の力、御業を拝させられていく、という読み方のほうが必要で実際的なのでしょう。

 ダニエル書のテーマは人間の王や国を天におられる神が治めておられる、という事実です。神こそが歴史を支配する本当の王です[4]。六章もダリヨス王の人間性、神ではなく、無力で愚かで、本当の王である神の前に問われる物語です。王は、いわば出世コースのトップです。世界を支配する権力を持ち、崇められて、贅沢に暮らせる。でもダリヨスは満たされていません。ライオンを飼うのは王の権力の象徴だったようですが、それも考えてみれば自己満足でしょう。王を拝む、という法律はそんな彼の功名心や渇き、虚しさをくすぐったのでしょうが、結局それは取り巻きの陰謀で、自分の首を絞めることになりました[5]。18節の

「食事を持って来させなかった」

は欄外に

 「別訳「そばめを召し寄せず」語彙不明」

とあります。食事にせよ側女(そばめ)にせよ、何も彼の慰めにはならず、一人後悔しつつ眠れない夜を過ごしました。ダニエルという捕虜の一人に過ぎないはずの人間が、法令を無視したことに怒るよりも、そのダニエルを自分がライオンの穴に投げ入れ、殺してしまったことの恐ろしさに耐えられなかったのでしょう。

 今も政治や権力を握った人は結局人間でしかなく、プライドや競争心や野心で争い合っています。ミサイルや核兵器を誇示しています[6]。私たちも王の位ならぬ社会の地位、人からの尊敬とか注目に憧れます。ライオンならぬ大型車や豪邸、コレクションやトロフィー、あるいは自分の身体そのものを逞しく、若々しく保つこともあります。王が普段は夜、食事やそばめを持って来させたように、私たちも夜や休日、誰も邪魔されない時間に気慰みにしていることがあるものです。全部がそれ自体で悪いとは限りませんが、そうした自分の姿自体、渇きであり、何か頼るもの、慰めや支えを求めている弱さや寂しさです。そしてそれらはいつかなくなります。それを忘れ、失うことを恐れてしがみつくと逆に自分の足を救われるか、もっと大事な人を失うことになるのです。神ならぬものを神とすることは、結局、ダリヨスと同じ過ちです。

 しかし、そういうことで終わるなら、この物語もただの道徳やお説教に過ぎません。そうではないのは、その絶望で迎えた朝、ダリヨスが聞いた驚くべき言葉から明らかです。

21すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように[7]22私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

 ダニエルは生きていました。それもダニエルが知恵を絞ってではなく、神が獅子の口を塞いでくださったので何の害も加えませんでした、という神の生けるわざでした。それは、ダニエルが無実であること[8]、王に対しても悪いことはしていないことの力強い証明でした。でもそれだけではありません。一睡も出来ず生きた心地もしなかったダリヨスは、ダニエルに責められると思ったかも知れません。真の神を恐れないあんな法律に証明した自分を、本当の神が打たれ、罰せられ、獅子の穴か地獄の穴に投げ込まれると思ったかも知れません。しかし、ダニエルの口からはそんな非難はありません。恨み辛みや反省を促す言葉はありません。礼儀正しく丁寧に真実を語り、手を差し伸べるような言葉を静かに語るだけです。神ならぬものに縋り付いてしまう人間の愚かさを熟知して、自分の過ちに気づいて帰ってくるよう語りかける。それがダリヨスの人生に飛び込んで来たダニエルがもたらした、最大の驚きです[9]。ダリヨスがそのまま王座について一生を終えていたら決して体験できなかった恵みの出会いです[10]

 イエス・キリストも私たちの世界に飛び込んで来られます。ダニエルとイエスには、無実の罪で死に、穴に入れられ、奇蹟の生還を遂げたなどの共通点が浮かびます[11]。しかし今日思い出したいのはキリストが黙示録五章5節で

「ユダ族の獅子」

と言われていることです。イエスは百獣の王に準えられる万物の王です。決して人が捕らえて閉じ込めることは出来ませんが、この獅子は本当に私たちを強くして下さいます。私たちを食い殺すのでなく、測り知れない平安と勇気と希望を下さいます。表面的な礼拝や服従を強いる王ではなく、心の深い思いを憐れんでくださり、取り扱い、支えてくださる王です。疑い迷い失敗する私たちをその力で導かれます。世界と歴史の王は、上辺の力ではなく、心を扱い、憐れみ、強めてくださる獅子です[12]。「獅子の威を借る」ような生き方や、生け捕りにしたライオンを自慢して偉そうにする生き方ではなく、まことの獅子王、イエス・キリストの前に謙る時、私たちも本当の「ライオンハート」を持つようになるのです。いいえ、イエスは、そうしたいし、そうしてくださるのです。

 ダニエルも決して苦難から守られたのではありません。無理な罪状で捕らえられ、手荒く扱われ、獅子の穴に投げ込まれました[13]。獅子の穴に入らないよう守られはしませんでしたが、獅子の穴でさえ主はともにおられましたし、その間、外でダリヨス王の心にも主は働いておられたのです。ダニエルの特別な物語は私たちに奇蹟を保証してくれるわけではありません[14]。 決して祈っていれば戦争は起きない、大変なことからは守られるわけではありません。世にあっては艱難があり、私たちは

「試みに遭わせず悪より救い出し給え」

と祈るのです。その祈りを教えてくださった主が、どんな時にも私たちとともにおられます。人の願う奇蹟よりも深く大きなご計画で、世界も私たちの心の奥深くまでも取り扱われます。一人一人に特別な人生を用意され、不幸や災いのような体験を通しても、人の予想を超えた恵みで強めつつ、歴史を導いておられるのです。だから私たちも

「いつものように」

祈り続け、礼拝し続け、どんな人にも誠実に関わっていく。それが迫害者の思う壺となるとしても、そこにさえ誰も予想もしない展開を主はなさいます。主は今ここでも確かに働いておられます[15]。私たちの信仰や応答の出来不出来を越えて、生きて働かれ、支えてくださる。そういう栄光の王が私たちの主なのです。

「歴史を支配されている主よ。私たちの心の底までもあなたが王として治め、あなただけが下さる希望、平和を与えてください[16]。あなたの恵みを知らぬまま、力を求め、自分の首を絞め、大切なものを失う、これ以上ない悲劇が今も繰り返されています。憐れんでください。私たち自身を恐れや敵意から救い出し、主イエスの大きな恵みの御手の中に自分の人生を見ていくことが出来ますように。そこから見える深い平安をもって、今ここに生きる教会としてください」



[1] 3章との共通点(類似でない点もあるが)に注意しましょう。そしてそれは、この後も今日まで、戦いは続くことを語っているといえます。一件落着、ではないのです。

[2] 獅子の穴に投げ込まれることも恐れず、いつものように祈っていたダニエルは素晴らしい、そういうダニエルを神様が守ってくださったのも当然だ、そうダニエルに注目することも出来ます。

[3] 16節は皮肉なことに、ダリヨス自身が自分ではない神に祈願を捧げる言葉です。ダリヨス自らが、あの禁令を破っています! 更に言えば、あの大臣たちも、ダリヨスの話に耳を傾けないことで(14節)、ダリヨスを真に崇め、服従していたのではないと言えます。重箱の隅を突きたいのではなく、彼らの提案した法案自体が、自己矛盾したものであった、ということです。それゆえダニエルは、形式上はこの法案に違反しましたが、最終的には「あなたに対しても何の悪いこともしていません」と堂々と言うことが出来ました。キリスト者の法令遵守が杓子定規な(ソクラテスのような)ものではない、自由で真実なものであるという、視点も持つことが出来ましょう。

[4] ダニエル書は、旧約聖書の終わり頃に位置しているように、イスラエル王国が散々、神である主に反逆を重ねた末、遂にバビロン帝国軍に包囲され、王国の歴史を終わった、という背景で書かれました。ダニエルはイスラエル民族の都エルサレムから、バビロンへ捕囚として連れて行かれた貴族たちの一人です。若い時にバビロンに来て、王宮に仕えるように召されてから半世紀以上、この6章では80才を越えていたと思います。そして、直前の5章最後では、バビロン王ベルシャツァルが殺されてメディヤ人ダリヨスが王になった、つまりバビロンもまた衰えて、メディヤとペルシャ帝国の時代になった、そういう時代です。世界帝国が終わり、また次の帝国に代わった、大きな世界大のうねりを見据えているダニエル書です。イスラエルも滅びましたが、それを滅ぼしたバビロンも衰えて滅ぼされました。人間の作るものは、国家だろうと戦争だろうと権力だろうと、所詮は人間が作るものでしかありません。

[5] 王は、30日だけ自分以外の神や人間に祈願をする者は獅子の穴に投げ込まれる、という法律に署名しました。それ以前の彼の120名の太守を任命し、三人の大臣を置く、という政策は賢明でした。それは、彼が自分一人では国を治めることは出来ないし、その太守たちが間違う可能性も否定できないし、その損害を受けないように大臣に任せよう、と考えたからです。彼は全能ではないし、みんなに祈願を捧げられても応えることは出来なかったのです。でも、彼はこの法令に署名しました。そんな法令を持ちかけられて悪い気はしなかったのでしょう。

[6] その裏には、ダニエルのように主に奇跡的に救い出されることも自分にはないだろうと思い込む、小さな神観があります。

[7] 「永遠に生きられますように」は6節で大臣たちがダリヨスに言った挨拶の言葉です。同じ言葉をダニエルは繰り返しています。人が永遠に生きられることはありませんが、ダニエルはそのような正論を持ち出すよりも、ダリヨスに対して精一杯の礼儀・敬意を払っています。

[8] この言葉は「罪が・ない」という二語ではなく、「きよいinnocent, clean」を表します。決して「罪が一切ない」「原罪がない」という意味ではありません。彼の罪の告白は、同じ時期に捧げられた9章の祈りからも明らかです。

[9] 偽りの神々に縋るものは、力を誇示し、みんなをひれ伏させ、逆らう者を罰することで溜飲を下げようとしますが、真の神はそんな不安定さとは無縁です。

[10] 獅子の口を封じた神は、もっと早くダニエルの正しさを立証することも出来たろう。しかし、そうはなさらなかった。その意味は、このダニエル書全体でも、王の心を問い、知らせ、自分に向き合わせる主の目的として明記されている。そしてこの事をダリヨスは、「この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された」と告白しています。この「解放」はダニエルの出来事だけでなく、ダリヨスをも解放された御業であり、全人類に対する御業をも見ていよう。私たちは、王から囚人まで、神ならぬものに囚われています。真の神は私たちを、偽りの神、自縄自縛の偶像崇拝から救い出してくださるお方です。

[11] この方も罪がないのに捕らえられ、脅しや策略も恐れず、真実を貫かれました。捕らえられ、弁解や抗議を口にせず静かに不正な罪状を受け入れられました。ここで、イエスの無罪を知って釈放を試みた総督ピラトと、ダニエルの無垢を知ってその命を救おうと画策したダリヨスを重ねることもよくあるようです。どちらも釈放を画策しつつ、しかし、最終的には押し切られ、プライドや臆病が邪魔をして、処刑を許可してしまいました。死の穴に放り込まれ、その穴は石で封印されました。しかし神は御使いを遣わされ、朝になった時イエスは穴から出てこられました。この他、共通点は幾つもあげられます。

[12] 黙示録五5、6。王宮やご馳走や贅沢に囲まれても決して得ることの出来ない平安が、イエスにあってあります。この王なるイエスこそ、私たちのために御自分のいのちを捧げ、屠られることをも厭わなかっお方だからです。この方は本当に殺されて穴に入れられ、本当によみがえったのです。また、このイメージから、C・S・ルイスの「ナルニア国年代記」も思い出せます。「ナルニア」では、天帝の皇太子アスランはライオンの姿をしています。

[13] 決してダニエルのように信仰があればどんな苦難からも救われるわけではないし、災いや不幸に出会っている人を見て、その人の信仰に問題があるように断定することも出来ないと気づかされます。「「(ジェームス)フィンリー は、神についてこう語っている。『(神は)無限大に予測不可能なお方だ。そのおかげで私たちは、[予測不可能なものでも]信頼に値するとわかる。なぜならどんなことの中にもキリストを意識できるようにと、神は私たちを導こうとなさっておられるからだ。あらゆることの中にあって私たちを支えていながらも、私たちを何物からも守ることのない、神の完全な愛に徹底的に根ざしているならば、そのときこそ、私たちはあらゆることに勇気と優しさをもって向き合い、他者や自分自身の中にある痛んでいる部分に、愛をもって触れることができる。』」the absolute love of God(メモ)

[14] 実際、初代教会では多くのキリスト者が迫害され、獅子の餌食にされる見世物となって死んでいきました。

[15] 最終的な裁きと、悪の破滅、ダニエルの救いは、ダニエル書12章の最終的な正しい審判に通じる。その神が、今ここでの歴史や人間関係にも働いて下さり、そのことに勇気を得て、なすべきことを果たしていくよう私たちを励ます。

[16] それは決して私たちの個人的な宗教的な話ではありません。「教会ではそういっても、実際の生活ではお金があるほうが勝つ、出世したり権力を手にし、皆からスゴイと言われる生き方の方が成功者なのだ。」そういう思い込みにこそ、ダニエル書や聖書の様々なエピソードは光を当てて切り込んできます。歴史を支配しておられる神は、やがて全てを裁かれ、悪を罰し、真実な御国を始められます。その途上にある今も、神ならぬものや人間の創り出す名誉や力に縋る生き方は虚しく、一時的で、墓穴を掘るもので、私たちは個人的な悔い改めと神への回心とを必要としているのです。

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マタイ七1-8「何を求めているか」働くクリスチャンの会

2017-07-30 13:46:57 | 聖書

2017/7/30 マタイ七1-8「何を求めているか」働くクリスチャンの会 

 マタイの福音書の5章から7章には、イエスが語られた「山上の説教」が記録されています。この「山上の説教」の中心は六33の

「神の国とその義とを第一に求めなさい」

だと私は思っています。それはイエスの言葉

「天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くなりなさい」

とも言い換えられます。それを具体的に教えるために、沢山の教えと例話とを語っておられるのですが、今日はその一つ、7章1節以下の

「さばいてはいけません」

の部分をご一緒に聞きたいと思います。

 勿論ここでは、あらゆる裁き、裁判や司法制度を否定されてはいません。また、何事につけて判断をしてはならないと仰ったのでもありません。15節では

「にせ預言者たちに気をつけなさい」

と言われ、牧師や教師でも神の御心と正反対のことをしていることがあると強くイエスは仰います。問題がありそうで怪しいのにそれを見ず、はっきり問題があっても「キリスト者なんだから赦そう。さばかず、目を瞑ろう」というような胡麻菓子はイエスの言葉の大きな誤解です。ここではそういう「処理すべき問題」では無く、いつも人を裁いて、批判し、その問題を批評するような、そういう態度が窘められているのです。

「さばかれないため」

というのも、2節で補足されているとおり、その裁きの容赦ない基準が自分にも当てはめられるなら、誰も耐えられる人はいません。人の問題を論うのであれば、自分の問題も論われます。

 この「さばいてはならない」が3節以下ユーモラスに語られます。

「兄弟の目の中のちりに目を向けるが、自分の目の中の梁には気がつかない。」

 人の目にある塵を取ろうとしながら、自分の目には梁が入っている。「針」ではなく「梁」です。材木が目に入るなんて無理です。しかしイエスはあなたの目には梁があると仰るのです。

 この「梁」は、多くの場合、自分自身の問題や罪だと理解されます。人の問題を裁く以前に、自分に問題があることを思い出す、という事でしょうか。人の欠点を直そうとしてやるより、まず自分自身の欠陥を認め、ケアすることが大事です。自分には問題が無く、正しく、あなたよりも分かっているから、という態度を捨てて、自分自身、問題があり、癒やされるべき大きな課題がある。そういう謙虚な生き方へと、イエスは私たちを招いてくださっているのかもしれません。もっと言えば、私たちは自分自身の問題や渇きを、他者の問題を指摘したり、助けたりしてあげることによって解決しようとすることがあります。自分より間違っている人を批判し、助けてあげる善人を演じることで、安心しよう、劣等感から逃れよう。そういう行動を取ってしまうことが少なくありません。しかし神の国は、裁く正しさによって成り立つ国ではありません。ひとりひとりが自分の目に梁を持つ者、裁かれてはひとたまりも無い問題を持つ者として、まず自分が謙虚に癒やしを求めることが神の国の義だ。そう読むことも出来ます。

 最近読んだ『エクササイズⅡ』という本は、この「梁」とは「裁く」ことそのものと理解していました。

 人を裁く行為がその人の目を塞ぐ「梁」だと言うのです。確かに裁きは、正しいようで、本当に正しい判断を曇らせ、問題だけを過大視してしまうものです。もっと言えば、梁は振り回すと危ない材木です。人を裁くような目(見方)は梁を振り回すような、危なっかしい事だ。相手をも自分をも、周囲をも傷つけるような暴力だ、というイメージも連想してよいかもしれません。その裁きがどんなに正しくても、いいえ、非の打ち所のない正論であればあるほど、その人は立ち直れないほど傷つくでしょう。裁く側は、自分の言い分の正しさに自信満々であっても、その梁を振り回した結果、取り返しの付かないダメージで、人間関係を壊すことがあります。私たちが求めるべきは、自分の正義、正しさでは無く、神の国の義です。私たちは、罪や問題を抱えたものです。憐れみを必要とし、サポートを必要としている弱い存在です。その事を認めて、握りしめていた手を開くのです。裁きや評価を止め、相手もまた尊い存在として見ることが始まります。本当に兄弟を助け、その目から塵を取り除く助けも出来ます。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」。

 裁く時、相手を「犬」や「豚」のように見下していることがあります。神聖なこと、真珠のように大事な事を教えてやるのだ、「こうすべき」だ、聞く耳を持たない相手がダメなのだ、そう見下したまま、裁いても、相手には届かなくて当然です。

「それを足で踏みにじり、向き直って」

襲いかかってきても、無理はありません。相手を見下して、裁きの梁を振り回す乱暴な生き方は、ますます私たちを引き裂いていきます。そういう道から、まず裁く自分の問題を見つめ、自分も相手も同じように傷つき、憐れみによって助けを必要としている。そうハッキリ見るようイエスは私たちを招かれます。

 イエスは誰よりも人を裁ける正しいはずなのに、私たちを憐れみ、受け入れてくださいました。私たちを罪人、滅んで当然の無価値な者と見なさず、

「神の子ども」

としてくださいます。まだまだ問題を抱えた者を断罪せず、表面の問題の根にある、深い孤独、傷、疑いを、御自分の痛みのように、断腸の思いで憐れまれました。そして十字架に架かってくださいました。

 

 正論の梁を振り回す代わりに、十字架にかかられた御自身を差し出されました。「裁くな」と命じただけでなく、もっと深く、現実的な回復を初めてくださいました。「お互い様だから裁かない」と目を伏せるのでなく、私たち自身の問題を認めることから始まる新しい生き方を示されたのです。私たちは、裁きという暴力を手放し、イエスの十字架にすがりつき、自分の問題や渇きを認めます。人をも犬畜生のように思わず、自分も相手も同じように弱く、ニーズを持ち、神の前に尊い存在と見るのです。難しい事です。自分の力では無理です。だから、続く七7でも

「求めなさい。…捜しなさい。…たたきなさい…」。

 神の国とその義が、自分の目の前の人間関係の中で果たされるため、求め続ける。それは、実に大胆なイエスのチャレンジです。

 ヘンリ・ナウエンは

「これからの指導者は、まったく力なき者として、つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、何も差し出すものがない者になるように召されている」

と言います。正しい者が勝ち、間違っていればダメで、裁きを恐れ、背伸びをする、そんな生き方からイエスは解放してくださいました。神の国に生かされるとき、私たちはそれぞれの現場で、自分の正しさ、優位さを手放す、非暴力の態度へと導かれます。裁きたいときこそ、祈りましょう。神は与えると約束してくださっています。

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ヨハネ10章7-18節「イエスを知る喜び」

2017-07-30 13:28:01 | 聖書

2017/7/30 ヨハネ10章7-18節「イエスを知る喜び」

 七月最後の日曜日ですので一書を取り上げます。今月はヨハネの福音書です。実は現存している最古の日本語訳聖書はヨハネの福音書なのです。

「はじまりにかしこいものござる。このかしこいものごくらくともにござる。このかしこいものわごくらく」

と始まるギュツラフ訳です[1]。日本宣教最初の翻訳にヨハネ伝を選んだ事実に、ヨハネ伝の大切さが物語られています。

1.イエスを知るために書かれたヨハネ伝

 新約聖書の最初には、イエス・キリストの生涯を伝える四つの「福音書」があります。最初の三つ、マタイ、マルコ、ルカはよく似ていて、観点が共通している「共観福音書」と呼ばれますが、ヨハネはとてもユニークな書き方をしています。最も遅く書かれた事もあるでしょう、他の福音書にはない特徴がたくさんあります。その一つが、執筆意図を明確にしている事です。

二〇31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 そのためにこの事を書いたのだと明言するのです。イエスが神の子キリストである。その事を伝えるため、ヨハネはいくつかの趣向を凝らしています。その一つが、イエスがなさった奇蹟という「しるし」です。この福音書にはイエスの奇蹟が八つ記されています。多くの奇蹟の中から、八つを厳選するのです[2]。カナの婚礼で水をブドウ酒に変え、生まれつき歩けなかった人や目の見えなかった人を癒やされます。その頂点は、死んで四日も経ったラザロを復活させた奇蹟です。そうした奇蹟は、イエスがどのようなお方か、というしるしです。奇蹟だけを求めたり、自分の願いが叶わなかったらイエスから離れたりする関係ではなく、イエスに出会うことが他では叶わない本当のいのちになる。そのしるしとして奇蹟があるのです。ですから、奇蹟の他にも、ヨハネだけが伝えている忘れがたい言葉が沢山あるのですね。一番有名なのは、

三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

です。人目を憚って水を汲みに来た女性にイエスが話しかけられたエピソードも、姦淫の現場で捉えられた女性に赦しと再出発を与えてくださった話もここに出て来ます。障害があるのは、本人か親が罪を犯したためではなく

「神の栄光が現れるためです」

と言われたのも、このヨハネが伝えるイエスです。楽しみや人間関係、男女関係に走って、結局苦しい生き方をしてしまうこともあります。逆に、そういう生き方を馬鹿にして、自分は正しい、立派だという自信を、生きる支えとするのも虚しい生き方です。イエスはそういう渇いた世界、闇の中に来て下さって、責められたり除け者にされていた人も、ひとりとして滅びる事なく、本当のいのちを持つようにしてくださる方です。その事が、言葉でもしるしでも展開されるのです。

2.「わたしは○○です」エゴー・エイミー

 もう一つのヨハネの特長は、イエスが「わたしは○○です」と何度も仰る事です。ハッキリと、そして必要以上のとても強い言い方でイエスは「わたしは○○です」と言われます。

「わたしがいのちのパンです」[3]

「わたしは、世の光です」[4]

「わたしは羊の門です」[5]

「わたしは、良い牧者です」[6]

「わたしは、よみがえりです。いのちです」[7]

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」[8]

「わたしはまことのぶどうの木」[9]

などです[10]。また「○○」なしに

「わたしがある」

とも数回仰いました[11]。これは本当に特別な言い方で、旧約聖書で神がご自分を

「わたしは「わたしはある」というものである」

と名乗られた言葉をそのまま用いられたのです。イエスは、ご自分が神の子であり天の父と一つであることを宣言なさったのです。イエスは神であられます。しかし、その旧約の神が「わたしはある」と名乗られたのも、そこに「○○」を入れて、

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」

と私たちの神となって、私たちとの関係を結んでくださった、という躍動的な神の恵みを現しているものでした。同じようにイエスも、ただ「わたしはある」と言われる以上に、「いのちのパン」「世の光」「葡萄の木」「良い牧者」などと、本当に豊かなイメージで御自身を差し出されたのです。

 こんな豊かで、身近で、生き生きとしたイメージを駆使して、イエスはどんなお方で、私たちがこの方とどんな関係にあるかが、本当に瑞々しく、鮮やかに語られます。生きている時には艱難があります。世界は「闇」に思え、心がカラカラに渇くような思いもします。しかし、どんな事が起きて、苦しみ、悲しむとしても、イエスは私たちを愛して、命を下さる。パンの命、瑞々しい葡萄の実、羊の群れ、そういう絵を描かせようとなさるのです。

 その一つが、今日の「良い牧者」(羊飼い)という言葉です。これは交読した詩篇二三篇でも使われたモチーフで、イスラエルの人にはとても身近でした。羊飼いという職業自体は、決して高貴でも儲かる仕事でもなく、蔑まれていた仕事だったようです。羊たちを集めて、一つの群れとして導くのは大変です。羊が迷ったら探しに行き、襲われたらいのちがけで守る羊飼いは、進んでなろうとする人はいなかった、貧しく汚れる仕事でした。そういう羊飼いにご自分を準えることも厭わずに、イエスは私たちに豊かないのちの関係を伝えたいのです。難しい表現はサラッと流して、ヨハネ伝全体を、そこに浮かんでくるイメージを聞き取って読むことをお勧めします[12]

3.イエスの愛の中に

 最後にこの著者のことを触れておきます。この著者はハッキリ名乗りを上げません。しかし福音書の中にさりげなく登場します。

「イエスの愛されたあの弟子」

と名乗って登場するのです[13]。勿論、他の弟子は愛されていなかったということではないでしょう。でも、自分のことを

「主が愛された弟子」

と呼びます。それは、本当に主が愛のお方だから、主が何よりも愛する事を求められたからです。ヨハネだけが記すもう一つの事は「洗足」、イエスが弟子の足を洗われた事です[14]。弟子たちの汚れた足を奴隷のように洗って、その愛を惜しげなく示されました。

 そして、ご自分が足を洗ったように

「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」

と仰り、それに続いて葡萄の木の例えを語り、

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません。わたしに留まっていなさい。」

 それは

「わたしの愛の中に留まりなさい」

と同じ事でした[15]。イエスの愛に留まり、イエスに愛されたように愛し合う。だからでしょう。伝説では使徒ヨハネは、晩年どこでも「何かお勧めを」と頼まれたら、「互いに愛し合いなさい。主が愛されたように互いに愛し合いなさい」とだけ繰り返したそうです。

 ヨハネ伝の最後に、イエスが弟子のペテロに

「あなたはわたしを愛しますか」

と三度仰る場面が出て来ます。ペテロはイエスを三度裏切った後でした。とてもイエスの顔をまともに見られなかったでしょう。でもイエスがペテロに問うたのは、他のどんな言葉でもなく

「あなたはわたしを愛しますか」

でした。イエスが求めるのは立派な人生でも、真面目な証しでも、失敗を償う善行でも、熱心な伝道でもありません。私たちの目をのぞき込んで「あなたはわたしを愛しますか」です。その証拠を見せよ、とも言われません。私たちが誰であれどんな事をしたかに関わらず、まずイエスとの愛に立ち戻ることを願われます。イエスが愛して下さったのだから、私もイエスを愛します。そう心から答えるなら喜んでくださる方です。それをより豊かに思い描いて信じるよう、ヨハネは厳選した奇蹟とイエスの言葉、そしていくつものイメージを畳み掛けるイエスを示しました。今も変わりません。神の子イエスは、多くの事がある歩みの中で、私たちを豊かに生かしておられます。羊飼いのように身を低くし、私たちの足を洗い、御自身が傷つきいのちを捨てることも厭わずに、私たちに豊かに命を持たせて下さるお方です。

「主イエスよ。あなたは今も、尽きない例えやしるしや多くの御業を通して、その御真実を私たちに示し、励まして下さいます。その愛から離れて、疑いや恐れや違うものに頼って渇いていく愚かさをもあなたは深く憐れみ、救い出し、回復させてくださいます。今日、新たに歓迎式をいたしました私たちが、このイエスの愛に根ざしてともに歩むよう、主よ導いてください」



[1] 三浦綾子『海嶺』は、このギュツラフ訳誕生のエピソードをノベライズしたものです。

[2] 八つの奇蹟(カナの婚礼[二1-11]、カナの役人の息子の癒やし[四46-54]、ベテスダの癒やし[五1-9]、五千人の給食[六1-14]、水上歩行[六16-21]、盲人の開眼[九1-7]、ラザロの復活[十一章]、大漁の奇蹟[二一章]。これ以外にイエスの復活)。そのうち六つがヨハネのみ。

[3] 六35、48。

[4] 八12。

[5] 十7、9。

[6] 十11、14。

[7] 十一25。

[8] 十四6。

[9] 十五1、5。

[10] この他に八18「わたしが自分の証人であり」もエゴー・エイミーです。

[11] 六20、八24、28、十八5、6、8。

[12] ジェームス・ブラウン・スミス『エクササイズⅠ』242ページ。彼は、「神はご自分を捧げるお方」と題する7章の最後に、ヨハネの福音書をまとめて読むことを提案しています。ヨハネの福音書のユニークさは、イエスと天の父との関係がはっきりと描かれている点にあり、だからこそ、福音書の中でもヨハネを読む事を特に推薦しています。「聖書研究」にならないよう、「物語」を読むように注意して、ヨハネ伝を読むのです。それによって、イエスを身近に見、イエスに出会うことが出来るのです。

[13] 十三23、十九26、二〇2、二一7、20。

[14] 十三1-20。

[15] 十五4、9。

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「哀歌 手をも心をも」哀歌3章1-41節

2017-06-26 10:24:21 | 聖書

2017/6/18 「哀歌 手をも心をも」哀歌3章1-41節

 今月も聖書から一巻を取り上げます。祈りのカレンダーに従い「哀歌」を読みましょう。

1.哀歌 悲しみの歌

 「哀歌」は、旧約の時代の終わり近くに書かれた嘆きの歌です。エルサレムの都が異邦人に踏みにじられた頃、自分たちの国が陥ったこの上なく悲惨な状況を嘆いています。イスラエルの王国時代、民は神に従順であるより、逆らい、神から離れてきました。何世紀にもわたって、搾取や偶像崇拝をして、神に背いてきました。主は、たびたび預言者を送って、悔い改めを求めたのですが、イスラエル人の悔い改めはほんのひとときでした。長く複雑な歴史を経て、最終的には、紀元前六世紀に、遂に神は予告されていた通り、神の民を裁かれました。具体的には、首都エルサレムはバビロニヤ帝国に占領され、有力者たちがごっそりとバビロンに連れて行かれました。その残されたエルサレムがどんなに悲惨になっているかを、とことん嘆いたのが「哀歌」です。街は荒廃して、人々が飢え死にする。女性たちは陵辱されて、母親が幼い子どもたちを食べる。そういう様子が、特に最初の一章で嘆かれています。

 哀歌は短く、わずか五章の構成です。日本語ですと分かりにくいのですが、ただ悲しみ嘆いて、考えもなしに言葉を並べているのではなく、非常に考え抜かれた詩なのです。今日読んだ三章では、哀歌の真ん中です。悲惨のどん底から見上げる希望、主への信頼を歌います。しかし、それで四章でもっと希望や確信や信仰を深めるかというとそうではありません。また、嘆きや訴え、涙に戻るのです。そして、最後の五章はこう閉じます。

五21主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。

22それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか、きわみまで私たちを怒られるのですか。

 もっと確信や希望をもって閉じる方が聖書らしいと思いませんか。暗くて、重くて。もっと明るくて、楽しくて、ホッと出来る話のほうがいい。そう思って済む方は、あえて哀歌を読む必要もないとも思います。もう十分悲惨で心がボロボロ、という時に、無理をして哀歌の悲惨な話を聴かない方が良いかも知れません。広島の平和記念館は、すべての人が行ったらよいとは思いますが、あまりに疲れたり傷ついたりしている時は避けた方がよいでしょう。聖書をえり好みしてはいけませんけれども、それぞれの状況に応じた御言葉があるように、その状況には不適切な御言葉もあるのです。逆に言えば、哀歌のこの出口のない荒廃の中で嘆き、祈り、希望と嘆きを行ったり来たりする状況もまた、私たちの生き方には襲いかかるのです。そしてそれは、信仰があれば乗り越えられたり、変わったりすると決めつけてもならないのです。

2.「主に立ち返ろう」

 「哀歌」はエルサレムが廃墟となって悲惨な社会になっている理由を、自分たち民族の罪に対する裁きだと認めています。勿論、どんな禍も神の裁きだとか、人間のせいだと言うのではありません。このエルサレムの陥落は、ハッキリと以前から警告されていた事だったのです。その明らかな罪を悔い改めなかったために、裁きが下されたのは明らかでした。けれど彼は、原因が自分たちの罪のせいだと認めた上で、「だから自分たちが悪いのだ、こんなになっても、責任は自分たちにあるのだから、もうダメだ。諦めよう」とは言わない。ここが肝心です。

22私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

 確かに私たちのせい、罪の報いだとしても、それでも私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。今、滅ぼされずにここに生かされているのは、主の憐れみによる。そう哀歌は言います。そして、そこから主を待ち望み、主に帰ろうとします。「滅ぼされなかっただけでも有り難く思おう。後は神妙にしていよう」ではないのですよ。そんなケチな神ではない。憐れみの尽きない神にこそ立ち帰ろう。そして、自分の嘆きも悲しみも訴えるのです。

39生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。[1]

40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

41私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。

 礼拝のジェスチャーとして手を上げるだけではなく、自分の心をも神に上げようと言います。それは神妙な、信仰深そうな事を言う、という意味ではありません。悲しみ、絶望し、涙を流し、自分の罪を思えば自責の念に押し潰されそうな、このボロボロの自分の心を、隠すことなくそのままに神に上げる、という事です。綺麗に飾った立派そうな心を、ではなくて、嘆きをそのまま神に捧げることが、

「手をも心をも神に上げる」

です。これは二19で明確です。

二19夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。

3.嘆く力

 こういう聖書の祈りを知らないままであれば、「神に祈るときは、綺麗な信仰深い言葉で祈らないといけない」と思い込んでいたでしょう。悔い改めと感謝、神の最善を信じ、神を賛美する、そういう立派な祈りをどんなときもしなければ、と思い込んでいたでしょう。哀歌や詩篇の多くの祈りはそんな私たちの思い込みを吹き飛ばすほどの、「憐れみの尽きない神」を示してくれます。私たちが勝手に神の顔色をうかがい、神の憐れみが尽きないことを忘れて壁を作るものですが、主に率直に大胆に泥臭く祈ることは、決して傲慢でも無礼でもありません。

 哀歌が嘆くのは個人レベルでの悲惨とか挫折ではありません。甚だしい暴力や、戦争の爪痕、壊滅的な無法状態です。特に、子どもたちが飢えて苦しんでいる悲惨です。今もこの世界にはそういう暴力が多くあります。沖縄、パキスタン、日本でも様々な蹂躙、人権無視があります。「そういう悲惨に比べたら私たちは恵まれている、贅沢をいうな」とは言いません。それぞれが嘆いて良いのです。でも自分のためだけ、自分が一番被害者だというような愚かな祈りは一蹴されます。

 嘆きの現実から目を逸らさずに、主の尽きない憐れみを求めて、しがみつくように祈りたいと思います。
 簡単に感謝をしたり、分かったような祈りを並べずに、嘆いて祈りたいと思います。
 悲惨から目を逸らして、明るいことばかり考えるのではなく、現実を見据え、主の憐れみを食い下がるようにして求める哀歌。
 それは、私たちの祈りでもあるのです。

 哀歌を聖書に入れられた主御自身、人の嘆きを不信仰と退けたりなさいません。世界の悲惨を説明せず、罪のせいだと片付けず、むしろ御自身の痛みとして受け止められました。主イエス御自身がこの地上に来、ともに嘆き、苦しみ、最も苦しい痛みを受け止めてくださいました。十字架は、人間の憎しみや暴力、残酷さ、孤独、絶望、自責の念、そうしたすべてをキリストが御自身のものとされた死です。神は私たちの心を、真っ正面から受け止め、私たちとともに嘆かれる方です。そうしてキリストが、私たちとともに嘆いてくださるゆえに、私たちも希望を持つことが出来ます。
 たとえ自分の招いた結果であろうとも、自分のせいだと呟くことを止めて、主に立ち返るのです。私たちの嘆きや胸の内を吐露することが出来るのです。心をそのままに祈るのです。

 いつか嘆きが完全に取り去られる日が来ると、主は約束されています。それまでは嘆かわしい現実があり、それを引き起こす罪が私たちの心には染みついています。だからこそその中で、哀歌があり、これがイエスの祈りでもあり、私たちもともに祈り、待ち望み、諦めずに訴えるよう招かれていることを、哀歌に気づかされようではありませんか。[2]

「罪の報いでも、あなたは責めるよりも、立ち返れと招いてくださいます。嘆きの心を、御前に上げる恵みを感謝します。罪の裁きを自戒しつつ、それ以上に、その末にさえ豊かな赦しで帰らせたもう主の憐れみなのです。本当に悲惨な現実をあなたはともに嘆いてくださいます。私たちもともに執り成して祈り、あなたの約束された大きな回復を切に待ち望ませてください」

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57章15節)



[1] 新共同訳では「生身の人間が、ひとりひとり自分の過ちについてとやかく言うことはない。」と訳しています。こちらの方が遙かに筋が通り、分かりよいです。

[2] 四日市キリスト教会の説教も参考に。http://yccme2015.blogspot.jp/2015/08/blog-post_30.html

 

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