聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二三章44~53節「わが霊を御手に」 受難日礼拝説教

2015-04-04 19:57:20 | ルカ

2015/03/29 受難日礼拝 ルカの福音書二三章44~53節「わが霊を御手に」

 

 日曜日にもお話ししたように、聖書には、イエス様が十字架にかけられて、どれ程苦しまれたのか、ということは一切記されていません。十字架刑は、当時ローマで行われていた処刑方法、それも最も残酷なものでした。ですから、聖書が書かれた当時の人々にとっては、イエス様が十字架にかかられた、というだけで十分に想像せずにはおれませんでした。確かに、イエス様が十字架という、凄まじい苦しみを味わって死なれたということは、測り知れない事実です。しかし、その十字架の痛ましい苦しみ以上のことが起きていました。十字架刑について詳しく知ったり、あるいは、十字架に実際に釘付けされて体験することになったりしたとしても、決して私たちは、イエス様の味わわれたことを本当に知る事は出来ないのです。

二三44そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。

45太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。

 全地が真っ暗になり、三時間も続いた。神殿の幕が裂けた。そういう、大変な驚くべきことがイエス様の十字架において最後に起きたのだ。ルカはその事実を記して伝えています。

 勿論、ただそんな出来事が起きた、不思議だねぇ、と終わっていいことではありません。聖書では、全地が暗くなるとは、神様の怒り、裁きの表現としてたびたび出て来ます[1]。出エジプト記では実際に、「十の災害」という出来事の締め括りに、全地が暗くなったのです[2]。ですから、聖書全体から考えると、イエス様はその十字架において、神様の裁きをお受けになったのです。それも、イエス様は正しいお方ですのに、私たちの罪に対する神様の御怒りを、イエス様は私たちに代わって、受けて下さったのです。それは、十字架刑という苦しみとは別に、もっと深く、想像することさえ出来ない体験でしたが、この暗やみはイエス様の十字架において、神様の怒り、聖なる罰がイエス様に下されたことを物語るのです。言葉で説明されてはいませんが、どんな言葉を尽くしても説明など到底出来ないことをイエス様は体験されたのです。

 また、それゆえに、エルサレム神殿の幕が二つに裂けるという不思議な出来事も起こりました。神様を礼拝する神殿の幕が裂けるというのは、「不吉な」ことだとも言えますが、イエス様は神殿という建物を神聖視する信仰が間違っていることを繰り返して教えて来られました。神殿という建物がやがて崩れ去ることも予告しておられました。そういうことからすると、イエス様の十字架の時に、全地が暗くなり、神殿の幕が裂けたのは、当時の人々にとっては、世界をお造りになった神様と、この世界との間に、何かとてつもない変化が起きたことを雄弁に語り感じさせることだったのです。

 そうです。イエス様の十字架は、ただイエスという立派な方が苦しんで、最後まで立派な死に方をなさった、というようなだけの出来事ではありませんでした。この時に、神様はかつてなかったこと、世界が暗くなり、神様との関係が決定的に変わるようなことをなさったのです。しかも、それは私も皆さんも含めた、私たち人間を変えてしまう出来事なのです。そのイエス様の死を見て、ローマの兵士の百人隊長がこう言いました。

47この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

 百人隊長は、イエス様を十字架につけた責任者であり、イエス様を嘲っていた一人でした。この人がイエス様の死に何を感じたのかは分かりません。兵士として多くの人の死を見てきたでしょうし、人を処刑することにも慣れていたでしょうこの隊長は、イエス様の死に、これまでにはないものを感じたのかも知れません。けれども、殆どの人は、そんなふうには思いませんでした。この告白は、そういう感動とかインパクトというだけでは説明できないことです。いいえ、むしろ、40節の犯罪人と同様に、この人がこういう告白をさせるために、イエス様がこの十字架にかかることで彼らに近づいてくださったのではありませんか。自然に、あるいは、偶然に、百人隊長がこんな告白をしたのではない。イエス様が十字架に苦しみ、全地を真っ暗にするほどの神の裁きを引き受けられたことを通して、イエス様を十字架につけ、嘲笑ったローマ兵が、イエス様に対する告白を見せる、という信じがたい出来事が起きたのです。

 そして、そのイエス様が、私たちにも届いてくださいます。私たちをも捕らえて、信仰告白を与えてくださいます。そのために、イエス様は私たちの所に来られて、想像も出来ないほどの犠牲を払い、痛みを引き受けられ、忍耐して関わり続けてくださるお方です。

 イエス様と「暗やみ」という事ではもう一つ触れておかなければなりません。このルカの福音書では、何度も「暗やみ」という言葉を使っています。(開きませんが、一79、十一35、二二53)[3]。イエス様が来られたのは、言わば、暗やみに光を照らすためだと表現されたのです。そのイエス様が、十字架において暗やみを味わわれました。そこにはほとんど説明はありません。でも、私は思うのです。私たちの暗やみのことを語ってこられたイエス様が、ここで暗やみに包まれ、十字架の最後の時間は真っ暗でした。それだから、私も自分が暗やみの中にいる時も、そこにイエス様はいてくださるのだ、そう約束されているのだと心から思えるのです。

 病気や悲惨で、目の前が真っ暗になる思いをすることもあります。戦争が起きたり、政治が悪い方向に突き進んだりして「暗黒時代」と称される時もやって来ます。そうした周りとは無関係に、自分自身の中に思いもかけないどす黒い思いがあると気づくこともあります。そんな闇に向き合うと、物凄く深い穴を覗き込むようで、他の一切が霞んで見えます。何も頼れるものがない。自分ではどうしようもない。将来にも明るい見通しが持てない。その闇の中にこそ、イエス様は来てくださる方です。私たちとともにおられるのです。闇をすぐ明るく照らして欲しくても、三時間か永遠に待つような思いをしなければならないかもしれません。それでもその所で、私たちの想像を越えたことをなされるのです。そうして、最後には、

46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 そのように私たちにも、自分自身をお委ねすることの出来るお方、委ねますと言えば、この私をも、嫌がらず、聞き流さずに、間違いなくその御手に引き受けてくださる天の主がおられる。そう信じる最期を迎えさせてくださると、約束されているのです[4]

 この時以来、多くの人々が、イエス様によって人生を変えられてきました。お金や名誉や名声、人や思想、色々なものに人は自分を委ねては空振りに終わってきましたが、そんな闇の中に生きてきた人が、イエス様を信じる信仰へと導かれてきました。また、闇の中で、ともにいてくださる主を知ったのです。どんな闇も、主イエスの臨在に気づく窓となります。この御手に、他のどんな人でもものでもなくこの御手に、私たちも自分を委ねさせていただくのです。

 

「主の、言葉に尽くせぬほど尊い十字架を感謝します。それを忘れて、人に躓いたり、嫌な出来事が起きたり、妥協を迫られたりして弱ってしまう信心から、何があっても十字架のキリストの測り知れない御業に根差す信仰へと深めてください。自分を誇ったり、人を裁いたり、あなた以外のものに自分を委ね恐れる生き方をしていたら、今晩、この十字架の主のお姿を通して気づかせてください。そうして私たちの信仰を新しくし、闇に輝く光とならせてください」

派遣のことば
 
主は、私たちのために十字架に死なれました。
私たちの罪はすべて赦されています。
主は、私たちのために十字架に死なれました。
私たちは、愛されています。
主は、私たちのために十字架に死なれました。
死をも恐れる事なく、出て行きましょう。
 

[1] エレミヤ十五9、アモス八9など。

[2] 出エジプト記一〇21~23、参照。

[3] 一78~79「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、79暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」、十一35「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい」、二二53「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です」(ゲッセマネの園での逮捕にあたっての主の言葉)。また、ルカの続編「使徒の働き」では、二20~21「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(ペンテコステの説教)、十三11「見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。」(福音宣教を妨げる敵に対してのパウロの宣言)、二六18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(パウロの召命の目的についての主のことば)

[4] これは詩篇三一5「私の霊を御手にゆだねます。」の引用ですから、「イエスだから言い得た絶句」ではなく、神を信じるすべての者に許されている、恵みの告白です。そして、初代教会最初の殉教者ステパノがここにならった告白で息絶えるのです。「使徒七59主イエスよ。私の霊をお受けください」。これは、まさにすべてのキリスト者に与えられた言葉です。

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