2015/04/05 復活日礼拝 ルカの福音書二四章1~11節「復活の朝」
イースターの喜びを覚えつつ、朝には墓前礼拝を行いました。教会学校では卵を配ります。そして礼拝の後、イースターは恒例のポトラックです。毎年、この春の時期に、主イエスのよみがえりを喜び、ともにお祝いしてきて、今年もこうしてイースターをお祝いします。時代は変わり、顔ぶれも変わりながら、でもともに主のよみがえりを祝うことは大きな幸いです。
新約聖書の四つの福音書は、どれも復活の出来事を最後に伝えています。しかし、その四つがかなり違うことを伝えていて、ちぐはぐな所もあるのですね。読み比べてみれば分かりますが、四つを継ぎ接ぎしてその朝の出来事を再現しようとするとうまくいきません。では作り話だったのかというとそうは思えません。逆に、作り話であれば、口裏合わせも必ずしたでしょう。みんなが同じ事を書いていたら、それこそ口裏合わせをしたに違いないと思われたはずです。一つの大事件に目撃者がいれば、お互いの記憶に食い違いがあることはよくあります。ですから、あえてこの食い違いの記録こそ、復活が事実だという証拠でもあるのでしょう。
それでも、いくつかのことは共通しています。例えば、弟子たちはみなイエス様の復活を最初は信じられなかったし、期待してもいませんでした。最初にお墓に行ったのが、女性の弟子たちでしたが、彼女たちも、イエス様のよみがえりを期待してはいませんでした。そして、墓の蓋をしていた大きな石がすでに転がしてあり、中にイエス様のおからだがなかったことも同じです。そこに、一人か二人の御使いがいたのも、福音書が四つとも伝えています[1]。そして、女弟子たちは、イエス様の復活を知らされて驚くのですね。その後、ルカは一番好意的で、
8女たちはイエスのみことばを思い出した。
イエス様が、前から、ご自分が引き渡され、殺されると予告されていたことを思い出すのです。けれども、その話を帰って、弟子たちにするのですけれども、誰も信じてくれない。
11ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
この信じてくれない、でこの朝は終わってしまうのです。これがイースターの朝だと、福音書は告げているのです。復活は、弟子たちが考え出した作り話や、弟子たちの希望が生み出した神話でもありません。彼らは信じなかったのです。空の墓を見ても、御使いを見ても、イエス様が仰った御言葉を思い出しても、信用しようとはしませんでした。弟子たちの信仰の強さとか、イエス様に対する愛の深さが、「イエス様は死んだけれども、今でも生きていらっしゃるんだ」という希望や告白を作りだしたのではないのです。
では、どうして弟子たちは復活を信じたのでしょうか。それは、この後にあるように、イエス様が弟子たちに近づいてくださったからです。イエス様が弟子たちに近づき、それでも分からず信じられない弟子たちに、聖書を通して語りかけて、パンを割いて渡したりして、彼らに信仰を与えてくださったから、ですね。状況証拠をいくら積み上げても、復活信仰を持つことは出来ません。イエス様が本当によみがえられて、遭いに来られたから、弟子たちはイエス様が復活されたと信じたのです[2]。
勿論、それは何でも「見たら信じる」とか、無茶苦茶な話でも「体験したのだから何と言われようと疑わない」という狂信とは違います。そうでないと、すごい奇蹟をしてみせる宗教だの詐欺まがいの手口にも簡単に引っかかってしまいます。ここに書かれている通り、イエス様の復活は、イエス様も以前から予告しておられたことでしたし、聖書そのものに証言があった神様の約束です。また、イエス様が十字架に掛かられて、死なれて、墓に納められたことも動かしがたい事実でした。十字架に何時間もかけられた犯罪人は、たとえ生き延びたとしても、関節が外れ、背中は曲がり、二度と歩くことは出来なかったでしょうが、イエス様はただ「息を吹き返した」のではなく、神様の力によって、死に勝利されて復活なさったのです。そこには、偶然も、インチキも、種も仕掛けもありません。キリスト教の最大の奇蹟が、イエス様の復活です。そして、その復活が事実でなければ、キリスト教はなんの希望も真実もなくなります。ただの道徳とか、立派な人になる、互いに愛し合い、敵をも愛しなさい、だなんて教えるような宗教がキリスト教だと考える人も少なくありませんが、それは全くの誤解です。
ここで御使いは墓の前で女弟子たちに言いました。
5…「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
6ここにはおられません。よみがえられたのです。…」
イエス・キリストは、「生きているお方」です。だから私たちに近づいて、信仰を持たせてくださいます。私たちが自分たちでこの復活信仰を信じられるかどうか、という問題ではありません。イエス様は本当に今も生きておられます。死からよみがえられた方として、私たちに今も働いてくださるのです。そして、イエス様がよみがえられたことを信じさせてくださるだけでなく、私たちにこの復活のいのちを与えてくださって、私たちを新しくしてくださるのです。よみがえられたイエス様が、今ここに生きている私たちの中に来てくださるのです。
イエス様に出会った弟子たち、特に9節に
「十一弟子」
と出てくる中心となった人は、「使徒」という立場を与えられて、この主イエスの十字架と復活を伝道しました。初めは信じようともしなかったし、墓に行くのも女弟子たちに任せていたつれない弟子たちが、復活を信じ、命をかけて世界に伝えるようになりました。ただの捏(でっ)ち上(あ)げや思い込みや何かの下心があって「イエス様はよみがえられた」と言っていただけなら、そこに自分たちの人生を捧げるようなことが出来たでしょうか。そして、教会は互いに愛し合い、正直に、謙遜な関係を大切にしたのですね。恥も隠さず、問題や罪を告白する所に赦しと回復、祝福があると語ったのです。そういう集団が、一番大事な信仰の中身に、捏造(ねつぞう)や嘘があったら立ちゆかなくなるはずです。
主イエスがよみがえられたという信仰は、それが本当だと考えた方が筋が通ります[3]。でも、私たちがちゃんと説明したら、誰かがイエス・キリストの復活をそれで納得して信じるのではありませんし、それが大事ではないのです。大事なのは、復活して今も生きていらっしゃるイエス様が、その人その人に色々な形で近づいて、信仰を持たせてくださるのだ、という事です。
主イエスは人となって下さいました。生きる中での苦しみ、悲しみ、痛みも味わい知っておられます。その方が今、私たちとともにおられて、私たちを支えてくださいます。ご自分が人々の裏切りや十字架の死を経てよみがえられたように、私たちの労苦や悩みも、その先に、朽ちない祝福を用意してくださいます。心燃やされるような思いを下さいます。喜びや希望を与えてくださいます。飾ったり背伸びをしたりしない、正直で、謙虚な、そして、希望や明るさを持たせてくださる。生きておられる方が、私たちの心にも人生にも、深く慰めつつ、そこにご自分のいのちを輝かせて、私たちを新しくしてくださる。それが復活の信仰なのです。
「主は墓からよみがえられました。不信仰や無理解や疑い、人間の思惑がうずまく中に、主は十字架に掛かり、そして三日目に復活してくださいました。そのあなたによって、心を燃やされ、人生を変えられ、教会が歩んできました。今も主が私たちに、そして私たちを通して多くの方々に、朽ちない救い、慰めと希望、真実な交わりという、命の御業をなさってください。」
[1] ルカでは、二四4で「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」となっていますが、23節では「御使いたちの幻」と言われていますから、これは御使いと理解されています。
[2] 女たちは思い出して信じました。しかし、その証言を聞いても「たわごと」としか思わなかった弟子たちも、主イエスによって思い出させられます(25~27、32、44~48節)。御言葉なしに、主イエスの働きかけだけで信じたのではなく、それまでの約束の繰り返しとそれを「思い出す」という要素が重要視されていることも見逃してはなりません。ですから、私たちも、御言葉を語り、伝え続けるのです。
[3] 3節の「主イエス」という呼称は、どの福音書においても復活後までは使用されないキリスト称号です。福音書で使われるのは、復活以降の二回だけ(マルコ十六11、ルカ二四3)、それが、「使徒の働き」で17回、書簡では81回も使われます。