聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二四章1~11節「復活の朝」 復活日礼拝

2015-04-06 19:35:53 | ルカ

2015/04/05 復活日礼拝 ルカの福音書二四章1~11節「復活の朝」

 

 イースターの喜びを覚えつつ、朝には墓前礼拝を行いました。教会学校では卵を配ります。そして礼拝の後、イースターは恒例のポトラックです。毎年、この春の時期に、主イエスのよみがえりを喜び、ともにお祝いしてきて、今年もこうしてイースターをお祝いします。時代は変わり、顔ぶれも変わりながら、でもともに主のよみがえりを祝うことは大きな幸いです。

 新約聖書の四つの福音書は、どれも復活の出来事を最後に伝えています。しかし、その四つがかなり違うことを伝えていて、ちぐはぐな所もあるのですね。読み比べてみれば分かりますが、四つを継ぎ接ぎしてその朝の出来事を再現しようとするとうまくいきません。では作り話だったのかというとそうは思えません。逆に、作り話であれば、口裏合わせも必ずしたでしょう。みんなが同じ事を書いていたら、それこそ口裏合わせをしたに違いないと思われたはずです。一つの大事件に目撃者がいれば、お互いの記憶に食い違いがあることはよくあります。ですから、あえてこの食い違いの記録こそ、復活が事実だという証拠でもあるのでしょう。

 それでも、いくつかのことは共通しています。例えば、弟子たちはみなイエス様の復活を最初は信じられなかったし、期待してもいませんでした。最初にお墓に行ったのが、女性の弟子たちでしたが、彼女たちも、イエス様のよみがえりを期待してはいませんでした。そして、墓の蓋をしていた大きな石がすでに転がしてあり、中にイエス様のおからだがなかったことも同じです。そこに、一人か二人の御使いがいたのも、福音書が四つとも伝えています[1]。そして、女弟子たちは、イエス様の復活を知らされて驚くのですね。その後、ルカは一番好意的で、

 8女たちはイエスのみことばを思い出した。

 イエス様が、前から、ご自分が引き渡され、殺されると予告されていたことを思い出すのです。けれども、その話を帰って、弟子たちにするのですけれども、誰も信じてくれない。

11ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

 この信じてくれない、でこの朝は終わってしまうのです。これがイースターの朝だと、福音書は告げているのです。復活は、弟子たちが考え出した作り話や、弟子たちの希望が生み出した神話でもありません。彼らは信じなかったのです。空の墓を見ても、御使いを見ても、イエス様が仰った御言葉を思い出しても、信用しようとはしませんでした。弟子たちの信仰の強さとか、イエス様に対する愛の深さが、「イエス様は死んだけれども、今でも生きていらっしゃるんだ」という希望や告白を作りだしたのではないのです。

 では、どうして弟子たちは復活を信じたのでしょうか。それは、この後にあるように、イエス様が弟子たちに近づいてくださったからです。イエス様が弟子たちに近づき、それでも分からず信じられない弟子たちに、聖書を通して語りかけて、パンを割いて渡したりして、彼らに信仰を与えてくださったから、ですね。状況証拠をいくら積み上げても、復活信仰を持つことは出来ません。イエス様が本当によみがえられて、遭いに来られたから、弟子たちはイエス様が復活されたと信じたのです[2]

 勿論、それは何でも「見たら信じる」とか、無茶苦茶な話でも「体験したのだから何と言われようと疑わない」という狂信とは違います。そうでないと、すごい奇蹟をしてみせる宗教だの詐欺まがいの手口にも簡単に引っかかってしまいます。ここに書かれている通り、イエス様の復活は、イエス様も以前から予告しておられたことでしたし、聖書そのものに証言があった神様の約束です。また、イエス様が十字架に掛かられて、死なれて、墓に納められたことも動かしがたい事実でした。十字架に何時間もかけられた犯罪人は、たとえ生き延びたとしても、関節が外れ、背中は曲がり、二度と歩くことは出来なかったでしょうが、イエス様はただ「息を吹き返した」のではなく、神様の力によって、死に勝利されて復活なさったのです。そこには、偶然も、インチキも、種も仕掛けもありません。キリスト教の最大の奇蹟が、イエス様の復活です。そして、その復活が事実でなければ、キリスト教はなんの希望も真実もなくなります。ただの道徳とか、立派な人になる、互いに愛し合い、敵をも愛しなさい、だなんて教えるような宗教がキリスト教だと考える人も少なくありませんが、それは全くの誤解です。

 ここで御使いは墓の前で女弟子たちに言いました。

 5…「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

 6ここにはおられません。よみがえられたのです。…」

 イエス・キリストは、「生きているお方」です。だから私たちに近づいて、信仰を持たせてくださいます。私たちが自分たちでこの復活信仰を信じられるかどうか、という問題ではありません。イエス様は本当に今も生きておられます。死からよみがえられた方として、私たちに今も働いてくださるのです。そして、イエス様がよみがえられたことを信じさせてくださるだけでなく、私たちにこの復活のいのちを与えてくださって、私たちを新しくしてくださるのです。よみがえられたイエス様が、今ここに生きている私たちの中に来てくださるのです。

 イエス様に出会った弟子たち、特に9節に

「十一弟子」

と出てくる中心となった人は、「使徒」という立場を与えられて、この主イエスの十字架と復活を伝道しました。初めは信じようともしなかったし、墓に行くのも女弟子たちに任せていたつれない弟子たちが、復活を信じ、命をかけて世界に伝えるようになりました。ただの捏(でっ)ち上(あ)げや思い込みや何かの下心があって「イエス様はよみがえられた」と言っていただけなら、そこに自分たちの人生を捧げるようなことが出来たでしょうか。そして、教会は互いに愛し合い、正直に、謙遜な関係を大切にしたのですね。恥も隠さず、問題や罪を告白する所に赦しと回復、祝福があると語ったのです。そういう集団が、一番大事な信仰の中身に、捏造(ねつぞう)や嘘があったら立ちゆかなくなるはずです。

 主イエスがよみがえられたという信仰は、それが本当だと考えた方が筋が通ります[3]。でも、私たちがちゃんと説明したら、誰かがイエス・キリストの復活をそれで納得して信じるのではありませんし、それが大事ではないのです。大事なのは、復活して今も生きていらっしゃるイエス様が、その人その人に色々な形で近づいて、信仰を持たせてくださるのだ、という事です。

 主イエスは人となって下さいました。生きる中での苦しみ、悲しみ、痛みも味わい知っておられます。その方が今、私たちとともにおられて、私たちを支えてくださいます。ご自分が人々の裏切りや十字架の死を経てよみがえられたように、私たちの労苦や悩みも、その先に、朽ちない祝福を用意してくださいます。心燃やされるような思いを下さいます。喜びや希望を与えてくださいます。飾ったり背伸びをしたりしない、正直で、謙虚な、そして、希望や明るさを持たせてくださる。生きておられる方が、私たちの心にも人生にも、深く慰めつつ、そこにご自分のいのちを輝かせて、私たちを新しくしてくださる。それが復活の信仰なのです。

 

「主は墓からよみがえられました。不信仰や無理解や疑い、人間の思惑がうずまく中に、主は十字架に掛かり、そして三日目に復活してくださいました。そのあなたによって、心を燃やされ、人生を変えられ、教会が歩んできました。今も主が私たちに、そして私たちを通して多くの方々に、朽ちない救い、慰めと希望、真実な交わりという、命の御業をなさってください。」



[1] ルカでは、二四4で「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」となっていますが、23節では「御使いたちの幻」と言われていますから、これは御使いと理解されています。

[2] 女たちは思い出して信じました。しかし、その証言を聞いても「たわごと」としか思わなかった弟子たちも、主イエスによって思い出させられます(25~27、32、44~48節)。御言葉なしに、主イエスの働きかけだけで信じたのではなく、それまでの約束の繰り返しとそれを「思い出す」という要素が重要視されていることも見逃してはなりません。ですから、私たちも、御言葉を語り、伝え続けるのです。

[3] 3節の「主イエス」という呼称は、どの福音書においても復活後までは使用されないキリスト称号です。福音書で使われるのは、復活以降の二回だけ(マルコ十六11、ルカ二四3)、それが、「使徒の働き」で17回、書簡では81回も使われます。

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Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」 復活日夕拝

2015-04-06 19:34:05 | 説教

2015/04/05 Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」

 

 今日開きましたテサロニケ人への手紙第一は、新約聖書の中でも、最も早く書かれた手紙ではないかと言われているものです。その中でも今日の箇所は、パウロがテサロニケの教会の信じた信仰がどんなものであったのか、思い出させる意味でも、簡潔にまとめている言葉です。教会が、最も早い時代から何を信じ、何を教え、何を伝えてきたのか、それを教えてくれていると言えます。そして、当然と言えば、当然ですが、ここにイエス様の復活のことが述べられていますね。

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、…

 もちろん、これはパウロがテサロニケに行ったときに、こういうことを教えたのですね。「神ではない偶像から、本物の神に立ち返りなさい。生けるまことの神に仕えなさい。そして、イエス様を待ち望みなさい。イエス様は、神が死者の中からよみがえらせなさった神の御子であり、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるお方です」と伝道していたのです。それを信じた人ばかりではなく、むしろ、大半の人々は、偶像から離れませんでした。復活だなんて馬鹿馬鹿しい、神の怒りだなんて信じたくない、と福音を嘲り、抵抗しました。けれども、これを信じる人もいたのです。

 ある人たちはこう言います。「現代は科学や医療が進んだから、復活だなんてあり得ないと知っている。昔の人なら、奇蹟や復活を信じられたのかも知れないが、自分たちは信じられるわけがないさ」と言います。けれども、聖書を見ると、今から二千年以上前の時代だって、奇蹟や復活は、普通ならあり得ないこと、信じがたい特別なことだと十分疑われていた事が分かります。昔だから信じられたのではありません。そして、今でも、「科学だ」何だと言いながら、「占い」だ「祟り」だ「風水」だなんて言っているほうがよっぽど可笑しいのではないかと思います。

 今日の箇所が教えているのは、教会は、イエス様の復活という奇蹟が本当に起こったのだと信じただけではない、ということです。奇蹟があり得るかどうか、という問題を論じて信じただけではないのです。もしそれだけなら、今、私たちがイエス様の復活を伝えても、「信じられないけど、そんな二千年も前の話、結局、どっちだっていいんじゃない?」という事になりますね。「よみがえったかどうかなんて、自分には関係ないよ」で済んでしまいます。そういう事ではないのです。

…神さまが死者の中からよみがえらせなさった御子[は]、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス…

 イエス・キリストが復活されたという信仰は、そのイエス・キリストが今も生きておられて、私たちにも新しいいのちを下さること、やがては神の正しい審判の時にも私たちを、罪に対する怒りから救い出してくださる、という信仰でした。私たちとは関係ない、昔々の遠い場所での不思議なお話、ではありません。いいえ、神さまがイエス様をよみがえらせなさったのは、イエス様を通して私たちを救ってくださるため、死を越えた力に、私たちも与らせてくださるためだったのです。その御力が、復活という事実に現されたのであって、復活とは死人が息を吹き返す以上のことだったのです。よみがえられたイエス様は、今も私たちとともにいてくださいます。そして、私たちのうちにその命を注いで、私たちを新しくしてくださるお方なのです。

 でも、その「新しいいのち」は、人間が思い描くような、特殊な能力とか人も羨むような輝かしく魅力あるもの、とは少し違います。9節に、

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

とありましたね。偶像から神(本物の神)に立ち返った、というだけでなく、生けるまことの神に仕えるようになった、とわざわざ言っています。神に仕えるようになる。これも、キリストの復活と切り離せないことですね。偶像から神に立ち返ったけど、その神様にも、自分がしたいことをお願いするばかりだったり、自分が輝いたり羨ましがられたりさせてくれることを期待するだけ、ということだってあるでしょう。でも、それは本当に、神を知ったことにはなりません。自分のために神様があるという思い上がりでしょう。自分が幸せになる秘密を見つけた、と考えているだけなら、神様を卑しめていることにしかなりません。

 「生けるまことの神」は、世界を作られた大いなる神です。いくら科学が進んでも、この宇宙のことではまだまだ分かっていないことの方が多いのです。動物や植物についての百科事典を完成させようとしたら、どれ程の量になるか分かりませんし、読めるだけを読んでも到底理解できないぐらいのものです。その世界を作られた神様は、もっと偉大なお方です。そして、この神は正しいお方です。罪を見逃さず、深く怒り、悲しまれ、裁かれるお方です。しかし、その神が、御子イエス・キリストをこの地上に送り込まれ、十字架の死にまで謙る道を行かせられました。私たちのために、です。そのイエス様をよみがえらせなさいました。イエス様は今も生きておられて、私たちに、この信仰を与えてくださるのです。偶像を信じたり、偶像に願ったり、神ならぬものに仕えて、振り回される生き方から、生きておられて、大いなる神で、そして、本当に真実で尊いまことの神様に仕える生き方を与えてくださっているのです。

 10節の

「救い出してくださる」

は未来形ではなく、現在形なのです。御怒りも、イエス様がおいでになるのも「やがて」のことです。でも、イエス様の助けは「やがて」の将来のことだけでなく、今の私たちに与えられている現実です。よみがえられたイエス様は、今も私たちを助けて、救い出してくださっています。神の御怒りを受けるような生き方の間違いに気づかせ、世界が自分を中心に回っているかのような勘違いに気づかせてくださいます。イエス様は、今も生きておられ、私たちに働いて、新しい心を下さって、導き、助けてくださっています。イエス様の復活とは、そういう約束なのです。

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2015墓前礼拝

2015-04-06 19:33:03 | 説教

2015/04/05 墓前礼拝

 

 今日、ここに、鳴門キリスト教会の墓前礼拝に集まってまいりました。同じこの場所に、ともに墓前礼拝のために集まってはいても、それぞれの思いは違うのでしょう。何年も経っても未だに思い出すと苦しくなるという方もおられるかもしれません。それほど歳月は経っていなくても、もう悲しみよりも感謝の思い出の方が大きい、という方もいらっしゃるかも知れません。亡くなった年齢、突然か長く伏せっておられたか、ご本人が苦しまれたか安らかだったか、といった亡くなり方、最後の交わした言葉、別れや「有難う」の言葉を言えたかどうか。また、皆さんご自身の性格も関係するでしょう。そういう、様々な方々が集まっている所で、一括りにお話しすることの難しさを感じました。

 死、あるいは死に別れる、とはそういうものです。どれも思いもかけない死であり、誰も自分の死に方を予想することは出来ません。そして、やり残しなく、キレイなタイミングで死ねることはまれで、何故なんだと問わずにはおれない状況であろうと、訪れるのが死です。そして、そういう様々な死、ありとあらゆる死別を含めて、主イエスは私たちの所に来てくださり、ご自身が死を味わわれ、よみがえってくださって、私たちに語りかけておられます。どのような死であろうと、その死は終わりではない。また、私たちがやがてどのような死に方をして、この世を去り、からだを葬ることになったとしても、それが終わりではない。いつ、どんな去り方をしようとも、それが決定的なことではない。その先に、なおキリストは、いのちがあることをご自身の死と復活によって示してくださいました。

 墓標に、「我らの国籍は天にあり」と書いてあります。これは、聖書のピリピ人への手紙3章20節にある言葉です。少し前の18節から読みます。

ピリピ三18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 神の御子キリストは、「万物をご自身に従わせることのできる力」を持っておられます。でも、イエス様ご自身は、万物を従わせる力があるのに、その力で何でも「エイヤッ」と片づけたり、ご自分に都合良く世界を変えようとなさったりした方ではありませんでした。その力をもって、イエス様は私たちのところまで降りて来てくださり、人間として最も貧しい生涯を歩まれました。十字架の死という苦しみまで味わってくださいました。そして、その末に、日曜日の朝、よみがえってくださったのです。今日はそのことを記念するイースターです。

 言い換えれば、イエス様は、その力で私たちに近づいてくださったのです。私たちの生身の人間としての思いを分かち合ってくださったのです。そうして、私たちに天の国籍を与えてくださったのです。私たちを天国や楽園にたちまち入れる、というのではなく、悲しみや痛みがある今ここで、天に国籍を持つ者として歩むようにしてくださったのです。神様は愛の神ですから、私たちを愛されて、天の国籍を持つようにとその力をお使いになったのです。

 でも折角そんな神様の素晴らしい愛があるのに、そっぽを向いて、自分の事ばかり、自分の目の前のこと、人を押しのけたり無視したりして、自分さえ良ければいい、と考えるのが私たち人間に染みついている考えですね。「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる…彼らの最後は滅び…彼らの神は彼らの欲望…彼らの栄光は彼ら自身の恥…彼らの思いは地上のことだけです」と言われていたのはそういうことでしょう。

 墓前礼拝は、私たちが、自分の今の生き方をもう一度考えさせられる時です。地上の事がすべて、という思いが如何に虚しいか、惨めか、を振り返らされます。同時に、「我らの国籍は天にあり」です。キリストは天の国籍を下さいます。今、天に国籍を持つ者として生き、やがては死なせてくださいます。死の悲しみも知りつつ、死を恐れたり目をそらしたりせず、その先にある希望を知らせてくださいました。私たちを愛するキリストは、世界を支配しているほどの力で、私たちのうちに働きかけ、私たちのために苦しみ、死んで、よみがえって、天の国籍を下さったのです。どうぞ、主がその力によって、皆さんの悲しみを十分に包んでくださいますように。また、皆さん自身の天の故郷に帰るまでの歩みも日々助けてくださり、何よりも、キリストにしっかりと繋がらせて、歩ませてくださるようにと、祈りたいと思います。

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