2016/03/06 申命記十七章14~20節「学び手であること」
アメリカでは大統領選挙のニュースが真っ盛りです。日本でも、国会や選挙の駆け引きが報道されて、政治家たちは有権者にアピールをして、自分たちへの支持を失わないようにしようと躍起になっています。今日の申命記十七章後半では、王を立てたいと思う場合のことが書かれています[1]。どんな人を選ぶべきで、その王にどんな義務が求められるのか、を端的に書いていますね。ここで言う「王」とは絶対君主とか、神に成り代わって好き勝手に振る舞う存在ではありません。しかし周辺の国では、王は神のように振る舞っていました[2]。そこで、
14あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、
15あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。…
と言われて、以下に、いくつかの大切な決まり事が書かれているわけです。主が選ぶ者であること、同胞イスラエル人から選ばなければならないこと。そして、16節では、多くの馬を増やしてはならないこと、17節では、多くの妻を持ってはならないこと、金銀を非常に増やしてはならないこと、が言われています。
「馬」
を増やすのは、財産だけでなく、軍馬の増強、即ち兵力そのものです。ですから、馬を増やすとは、軍事力の増強です。馬や兵力が禁じられるのではありません。しかし、軍隊を持つとそれに過剰に信頼して、誇って、脅威となろうとするのは権力者の常です。神を信頼して謙るよりも、力を持ち、人を威圧しようとするのです。その時、神の民が、本来あるべき、平和と自由の国ではなくなっていくのですね。
16王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだと言って民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない」と主はあなたがたに言われた。
今までの申命記を思い出してください。繰り返して、エジプトでの奴隷生活から救い出されたことを忘れずに、これから始まる新しい生活で、隣人や弱者を虐げたり、財産の奴隷になったりしないように注意しなさい、と言われていました。ここでの「エジプトに帰る」も[3]、馬を増やそう、軍備を強大にしようとするなら、必ず民をまた虐げる。王のプライドや願望のために、民に税金や労働を強いることになる。エジプトの奴隷生活から救い出されたはずなのに、新しい生活がまた実質的に元の木阿弥になってしまう、と注意するのです。場所は変わり、王を立てるほど国家として成熟した時の話です。一見全く違うようで、しかし結局見ていることは、神でも人でもなく富や名声。エジプトと同じ。その事を強く警告しているのです。
そう考えると、現代にもどれほどこれは当てはまるでしょうか。馬を増やそうとは思わないでしょう。また、多くの妻を持とうとも思わないかも知れません。金銀という経済感覚もありません。けれども、国の指導者たちは最新鋭の軍事技術を誇りたがるし、GNPを競おうとします。私たちも、TVや広告に煽られて、これがあれば安心できる、という生き方に流されやすいし、通帳の預金額を必要以上に気にするものです。教会さえ、立派な建物や最新の設備や沢山の献金があればいいなぁと思いやすい。でもそれは「エジプトに戻る道」なのです[4]。
18節以下では、王が、一生、主の御教えを書き写し、読み続けなければならない、と言われます。王は神の律法の下にある、という「立憲君主制」ですね。[5]
19…それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。
20それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。
心が民の上に高ぶらないために、神の命令から逸れないために、そしてそれが最終的には長い統治に繋がるために、主の掟を守り行うことを学び続けるのです。主の教えを守ることを学び続けないと、高ぶって、自分だけは特別だ、自分には自由にする権利がある。そういう風に考えやすいのが私たちですね[6]。高ぶりはいけない、富や力に頼ったら滅びる、というのは基本中の基本です。でもそれを「もう知っているから大丈夫、自分は高ぶりません、神様だけに頼ります、自分はもう学ばなくても大丈夫」などと言える人はひとりもいません。だから学び続けること、学び手であることが、私たちを守るのです。神の掟を守ることを私たちが学び続ける時、律法が私たちを守り、祝福を与えるのです。[7]
けれどもこの後の歴史は、何を教えているでしょうか。イスラエルにやがて王が起こされていった時、彼らはみな馬を増やし、多くの妻を娶り、金銀を増やしてしまいました。主の掟を学ぶことを疎かにして、高ぶって、最後にはダビデ王朝も絶やされたのです。そればかりではありません。その反省の上に立って、イスラエル民族は律法を熱心に学び、暗記するようになりました。しかし、主イエスが来られた時、神の掟の専門家であり実践者を自他共に認める、律法学者やパリサイ人たちこそは、心をそらせ、イエスに抵抗したのですね。律法を学んでさえいれば大丈夫、ではない。それぐらい人間の心は深く病んでいることが分かったのです。
ではどこに私たちの望みがあるのでしょうか。それは、この掟を完全に成就された王、イエスご自身です。イエスはユダヤの同胞から建てられた王であり、馬や力を増やそうとせず、心をそらせることなく、貧しい生涯を歩まれた王でした。イエスはこう仰いました。
マルコ十42…「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
43しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。…
45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
このイエスのお姿を、絶えず学ぶのです。イエスは、私たちのために身を低くし、私たちに仕えてくださった王であられます。それは二千年前だけの話ではありません。今も私たちに仕えておられます。今日も日ごとの糧もいのちも与え、私たちの足も心をも洗い、私たちの心を探り、涙を拭い、ともに歩んでいてくださるのです。私たちを奴隷のように見做さず、本当に私たちを愛し、尊び、喜んでくださっています。そして、私たちの立場だけでなく生き方をも回復するために、ご自分のいのちさえも惜しまれない王なのです。このイエスが私たちの王であられます。馬も多くの妻も金銀も、他の何も私たちを救えません。イエスだけが私たちを生かし、滅びからも、傲慢からも救い出してくださるのだと、生涯、学び続けていきましょう。
「力に憧れ、自分だけは特別でいたいと思い上がって滅びて行く人間の中に、あなたは御言葉をもって語り掛け、行くべき道を示してくださいます。主ご自身の模範と十字架の死は、私たちが傲慢や奴隷化の道から救われる保証です。世界を支配しているのは、強者でも富でもなく、恵みと真実の主、永遠の王であるあなたに他ならないことを私たちを通して証ししてください」
[1] 王を立てること自体が罪だったわけではありません。創世記十七6で「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」と既に言われていたのです。ここでも、王を立てることに伴う注意をしつつ、王を立てること自体を否定してはいません。申命記の文脈では、それが大罪であれば断固として非難されていたはずです。しかし、そこに伴う問題として、主の選びよりも自分たちの好みで選び、異国人(異教徒)から好もしい人材を連れて来たり、その所有欲に負け、妻を多く娶ったりする危険が注意される。
[2] 私たちにとって、本当の王は、主なる神であります。(出十五18、申命三三5。)神こそが本当の王であります。しかし、神は決して、暴君でも恐ろしい絶対君主でもありません。恵み深く、また、人間の自由と意志を尊重され、世界を育んで成長させ、完成に至らせるお方なのですね。神は善き王です。神の支配とは、政治家や権力者たちが得ようとするものとは違うのです。ところがそのような生ける本当の神とは違い、多くの宗教の神は生きていません。ですから、神を崇めてはいても、実際は、祭司や神官が絶対君主となったり、王が神のように振る舞ったりしてしまうのですね。神に説明責任を持つわけではないからです。
[3] このエジプトに帰るとは、馬を買うためにエジプトに行くとか、エジプトに民を連れて行って奴隷として売りさばくとか、そういう意味だと考える人もいます。
[4] 後のソロモンはこの律法を破ります。しかし、よく言われるように多くの妻を娶った(Ⅰ列王十一4-8)だけではありませんでした。彼は、馬を増やし(Ⅰ列王四26)、最高の財産を誇った(Ⅰ列王十14-22)ことも見逃してはなりません。この後半は、是認していないでしょうか。憧れていないでしょうか。教会が、道徳的なスキャンダルを犯すことは嫌悪しても、立派な会堂を持ち、豊かな財政を持つことに憧れがないでしょうか。そこに既に、落とし穴があるのです。
[5] 王やお殿様は、自分自身が法律になって、人に命じる立場になりやすいのですが、ここでは逆です。王こそは、誰よりも神の教えを心に刻むべきです。
[6] 自分も民の一人である、という自覚は非常に大事です。孤独感や特別意識は、非常に危険なのです。自分もみんなと同じ一人、と思うことが人を守る面もあるのです。
[7] 「学び」とは何か難しい事や新しい知識の学びではありません。聖書を学ぶのは、高度な知識を身に着けることではありません。知るべき事はもう知っているけど、それに加えて聖書についての知識を増やしていく、ということではないのです。学ばなくてもいい、というのは謙遜のようですが、実は高ぶりへの確実な道です。「自分は知るべき事を知っている、自分の判断は正しく、大きな間違いはしない」という自信でもあるのですから。「学び」とは、新しく高度なことを学ぶのではなく、基本的なこと、当然の態度を学び続けることです。なぜなら、私たちの中にある堕落の影響は、根本的な所で根を下ろし、生き方を歪めていくのですから。偶像を拝み、人を支配しようとするのですから。自分の欲を求めたり高ぶったりしては神の御心に添わないと教えられながら、それを生きることの出来る人など一人もいないのですから。