聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヨハネ十二章12-26節「栄光を受ける時が来た」 棕櫚の主日礼拝

2016-03-20 20:17:43 | 説教

2016/03/20 ヨハネ十二章12-26節「栄光を受ける時が来た」

 

 徳島駅前や高島の公園への道に、南国の雰囲気を出している大きな木はナツメヤシです。別名が、今日の13節の

「棕櫚」

です[1]。棕櫚の枝を取るのは簡単ではありませんね。梯子をかけ、あちこち傷つけて血を流しながら、棕櫚の木によじ登り、枝を落としたのでしょう。大勢の人が、棕櫚の木の枝を取ってイエスを迎え入れた。この週の木曜夜にイエスは逮捕され、金曜の朝に十字架にかけられました。翌週日曜が復活のイースターですが、それに先立つ一週間が「受難週」です。今日はその最初の日。棕櫚の枝でイエスを迎え入れた、「棕櫚の主日」です。

 四つの福音書のうち、棕櫚の枝が出て来るのはヨハネの福音書だけです[2]。これはイスラエル民族の過去の栄光とダブらせた、民族主義的な行動でした[3]。棕櫚の枝を取りながら、人々はイエスがその神の力で、かつての黄金時代を取り戻してくれると期待したに違いありません。

13…そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」[4]

 イエスがイスラエルの王として都に入り、大きな顔をしているローマ帝国やそちら側の人間たちを追い払ってくれる。そんな政治的な期待が、彼らのパレードを盛り上げていたのです。

 しかし、イエスはその彼らの熱狂と距離を置かれました[5]。その第一が、

14イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

15「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

 これは旧約聖書の幾つかの御言葉をアレンジしたものですが[6]、そこでは

ゼカリヤ九9…この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。…

とあります。イエスは、単なる民族主義の王や軍事力や政治的な国家を打ち立てるお方ではなく、正しく、救いを賜り、柔和なお方である。16節では、それが弟子たちにはこの時は分かっていなかったけれど、イエスが栄光を受けられてから、即ち、十字架にかかり、よみがえられてから、この時のイエスの行動の意味、そして、群衆がイエスにしていたことの本当の意味が分かったのだ、と書かれていますね。弟子たちもこの時は、群衆たちと一緒に興奮していたのでしょう。しかし、イエスはそのような中で独り静かにろばの子に跨がって、ご自身が政治的な王や革命家とは一線を画する「王」であることを示しておられたのです。

 この事を裏付けるのが、20節以下です。その祭りにギリシヤ人たちが来ていて、イエスに会いたいとピリポに頼んできた、というのですね。ピリポは彼らをすぐにイエスに取り次ぎません。彼らは民族主義の興奮に舞い上がっていました。その時、所詮は部外者の異邦人が会いたいと言われて、ピリポは躊躇したのです。しかし、イエスは何と答えたでしょうか。

23…「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。…」

 この、実に美しく、心打たれる言葉を、イエスはこの時に発せられるのです。イエスにとってギリシヤ人の面会は、ユダヤ人の熱狂よりも、ご自身の「栄光」に近かったのです。イエスは、イスラエル民族の回復だけを見てはおられませんでした。ギリシヤ人やローマ人、世界の諸国の人々がご自身のもとに集まる時を望み見ておられたのです[7]。そのために、今イエスはご自身がまもなく十字架に挙げられて、殺されようとしていました。でもそれは、

32わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

 すべての人を。ユダヤ人だけでなくすべての人を自分のところに引き寄せる。そのためにイエスは十字架に御自分を献げられます。だから私たちはこの受難週を特別な思いで守り、礼拝をし、私たちのために苦しまれた主への感謝で過ごすのです。しかし、イエスが言われる「一粒の麦の死」は、ご自身の死だけではありません。私たちに対する呼びかけでもあります。

25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 麦が麦らしく実を結ぶよりも麦粒の形のままでいようとすることが可笑しいように、人間も自分のいのちを守り、自己実現や自己中心に生きるなら、結局は窒息してしまうのです[8]。イエスが、一粒の麦が「死ねば、豊かな実を結びます」と仰ったのは、御自分の死によって、沢山の人、世界中の人が神の国に入るだけではありません。自分の民族しか考えず、自分可愛さを手放さない人間がいくら集まっても、「枯れ木も山の賑わい」であって、「豊かな実」とはなりません。イエスの栄光は、当時の人々が酔い痴れたような、世俗的な王となって崇められることではありませんでした。また、私たちのために十字架に死んでくださって、私たちがイエスを信じればこのままでも天国に入れる、といって終わるものでさえありません。

26わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

 イエスは一粒の麦として死なれたように、私たちにも、自分を握りしめるのではなく、自分を明け渡し、主イエスに仕えなさいと言われ、そういう生き方へと私たちを踏み出させてくださるのです。C・S・ルイスは

「自分を、地面にじっと植わっている種だと考えてごらん」

と言いました[9]。自分が、一粒の麦である。そのままでは小さく、何も出来ない、価値もないものにしか思えません。しかし、自分を神に明け渡して、イエスに従うことで豊かな価値を実らせる、そう思わせてくださるのです。イエスの栄光とは、私たちのために死ぬだけでなく、その死によって私たちの歩みや願い、価値観も新しくしてしまう栄光です[10]。私たちの努力や本気で変わるのではありません。ただ、私たちが主イエスの愛を深く味わい、感謝するなら、その愛への憧れが始まります[11]。そうして、私たちの置かれたそれぞれの場所や生活の真っ只中で、主が私たちの心や歩みや行動を潤し、恵み、報いてくださるのです。終わりの時代には、

ヨハネ黙示録七9…あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

10彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」[12]

という幻が語られています。今日は、その日を待ち望む日でもあります[13]。大人たちが興奮して棕櫚の木に登って枝を取ったように、私たちも子どものように喜び叫んで、主の救いを誉め称える日が来る。主はその時に向けて、既に働いておられます[14]。私たちを豊かな実としてくださるのです。キリストのいのちをもって愛された者として、尊い務めを託された者として、喜び仕えなさい。主イエスが十字架に死なれたのは、私たちをこのいのちへと招くためでした。

 

「主よ。あなた様は、大きな事業や劇的なドラマよりも、この私たちを受け入れ、愛し、その愛によって私たちを変えることでご自身の栄光を現されます。どうぞ、その御業に与らせてください。一人一人の生活を、心の奥深くを、十字架の愛によって照らしてください。受難週の歩みが、お一人お一人の慰めと励まし、悔い改めと喜びに深く潤される歩みとなりますように」

ちなみにこれが、棕櫚(ナツメヤシ)の実です。
ちなみに、これがナツメヤシの種。
別名「デーツ」 美味しいデスよね。この種から、あのナツメヤシが育つ!
別名「デーツ」。美味しいですよね~ この親指大の種から、あの棕櫚が育つ!

[1] 「正式名称はナツメヤシで、大きい葉っぱだと二メートルぐらい、高さ十メートル近くになる大きな木です。デイツという甘い実がなります。この実を取るには、かなりの高さまで登っていかなければなりません。現在は、品種改良されて、背の低い木もありますけどね。しゅろの葉が道に敷かれたことには、わざわざ木に登ってとってきたということ以上の意味があります。実はイスラエルでは、この〝しゅろ”は、旧約聖書の創世記にでてくる「いのちの木」をあらわす植物なのです。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、その園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」(創世記2・10) しゅろの木は、エデンの園にある「いのちの木」であり、同時に〝神の祝福”のシンボルでもありました。つまり人々は、この「いのちの木」の葉を敷くことで、イエス・キリストを救世主と信じ、新しい〝いのちのシンボル”として、入城を喜んだのです。 ちなみに、「そこから分かれて、四つの源となっていた」とあるように、〝木を中心として、水が四方に流れている”というのが、中東における天国のイメージです。今でもアラブの町では、庭に噴水をつくり、まわりに緑の葉、特にヤシの木を植えている家をよく見かけます。できれば、噴水の水は四つに分かれて流れるようにしたいとされます。聖書とは関係ない古代の町でも、水が四つの方向に流れるように造られている跡が発見されています。」杉本智俊「天国にヤシの木? つい人に話したくなる聖書考古学第五回」『いのちのことば』2013年3月号。

[2] マタイ二一8とマルコ十一8では「木の枝」と書かれています。

[3] これは、イスラエルの過去でも、何度か繰り返されてきた勝利の光景でした。敵に占領されていたエルサレムを取り戻した時の、歓喜のパレードでした。参照、旧約続編「マカベヤ書第一」13章

[4] 詩篇一一八25「ああ、主よ。どうぞ救ってください。(これがヘブル語の「ホサナ(主よ、救いたまえ)」という慣用句になっていきます。)ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。26主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」より。

[5] これはこの時だけではなく、ヨハネ六15、七6-8などに見られる、一貫した態度です。

[6] ゼカリヤ書九9「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。10わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」これと、ゼパニヤ書三16「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」も加えた言い回しです。

[7] キリストがこの時見ておられたのは、五日後に訪れるご自身の十字架の苦しみでも、その時「十字架につけよ」と叫ぶ彼らでもありません。豊かな実を結ぶことです。私たちがキリストのいのちをもって愛された者としてともに喜ぶ日です。

[8] ギリシヤ文化が求めたのは、本来、自分を伸ばし、自己主張、自己達成を求めるものです。しかし、イエスはその正反対を教えました。そのイエスの教えに惹かれてギリシヤ人が面会を申し出ています。ここに既に、キリストのみわざがあると言えます。

[9] 「あなた自身を大地の中でじっと冬を凌いでいる一粒の種子と考えてごらんなさい。あなたは大いなる庭師の心にかなうときに美しい花として真の世界に生え出るべく、真の目覚めのときを待っている種子です。私たちの現在の生活はかしこから顧みるとき、半ばは目覚めていても、半ばはまどろんでいるとしか見えないでしょう。わたしたちはいま、夢の国にいるのです。しかし鶏が暁を告げるときが近づいています。それは、わたしがこの手紙を書き始めた瞬間より、いっそう近づきつつあるのです」(『目覚めている精神の輝き』275ページ)。

[10] もし私たちがいくらイエスの十字架の愛を素晴らしい、有り難いと言っていたとしても、自分は自分の生き方をガッツリ守って手放す気もないとしたら、十字架の愛への賛美だって本気だとは言えません。

[11] 群衆の大歓声よりも幾人かのガイジンを喜ばれたイエスの姿を想う時、人の声に振り回されて疲れている生き方から自由になりたいと思うでしょう。自分の命や財産やあれこれを握りしめて死んでいく生き方ではなく、一粒の麦となり、人に仕えて生きたイエスや多くの弟子たちの生き方に参りましたと思わされます。

[12] 黙示録七9「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。10彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

[13] 過去の棕櫚の主日は、民族主義やただの熱狂でした。しかし、その時にはまだ隠されていた真実な意味がありました。柔和な王が来られて、真実な支配をなさる。そして、民族や人種を越えたすべての人が集められるという意味も込められていました。そして、その日は必ず来るのです。

[14] そのためには、全ての人の恐れが超克され、民族主義ではない価値観が信頼されないと無理です。民族主義や、それぞれの文化の価値観にしばられたままでは、神の国でまた分派が起きるでしょう。そこを取り扱われる必要があります。イエスは、そのような深い御業をなさるのです。

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問2「だから感謝して生きる」マタイ5章16節

2016-03-20 20:10:59 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/03/20 ハイデルベルク信仰問答2「だから感謝して生きる」マタイ5章16節

 

 先週から、ハイデルベルク信仰問答を開いています。この信仰問答の第一問は、

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。…

という問と答でした。私の全てが、私のものではなく、イエス・キリストのものであること、それが生きる今も死ぬ時も、究極的な慰め、拠り所、確信だ、と言いました。それに続いて、第二問は、ここから踏み込んでこう問います。

問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。

答 三つのことです。第一に、わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか、第二に、わたしのあらゆる罪と悲惨からどうすれば救われるのか、第三に、そのような救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか、ということです。

 私たちは、イエス・キリストのものである。そこに、私たちの慰めがあると、キリスト者は言えるのです。しかし、その慰めに生きる事は、私たちが何もしなくても、自動的に出来るわけではありません。むしろ、私たちの中には、もう私が真実な救い主イエス・キリストのものであることよりも、別のものに慰めや幸せ、生き甲斐や拠り所を見出そうとする、強く激しい思いがあるというほうが事実ですね。お金だったり、子どもや恋人や誰かだったり、勝負事や快楽、興奮させてくれるものとか、自分の健康とか若さとかいったものを追い求めやすいのです。頭では、自分はいつか死ぬと分かっていて、そうした楽しみや価値が自分を救うことは出来ないと分かっているつもりです。でも、それがない人生だなんて考えられないと思い込んでいる者に取り憑かれているのが、人間の現実です。「唯一の慰めは、私がキリストのものであることです」と言っているだけで、心ではそう思っていないのであれば、それは慰めであることを拒んでいるのです。ですから私たちは、この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、準備をする必要があります。それが、この三つのことを知ることです。

答 三つのことです。第一に、わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか、第二に、わたしのあらゆる罪と悲惨からどうすれば救われるのか、第三に、そのような救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか、ということです。

 「慰め」と言っておきながら、「罪と悲惨がどれほど大きいか」をまず知らなければならない、というのも何だかおかしな話に聞こえますね。罪とか悲惨なんて、考えなくてよければいいのに、とも思います。でも、考えなければ、問題がなくなってしまうわけではありません。病気を忘れていたら、治ってくれるわけではありません。借金がないふりをしていたら、消えてしまうわけではありません。大抵は、もっと酷いことになってしまうものです。ですから、ちゃんとそこに目を向けるからこそ、罪や悲惨からも救われた生き方が出来るようにもなるのですね。そこで、この後、ハイデルベルク信仰問答では■「わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか」が、問3~11で、「あらゆる罪と悲惨からどうすれば救われるのか」が問12~85で、「救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか」が問86から、最後の問129で、扱われていくのです。問二は、この信仰問答全体の構造を予告する、目次とも言えるのですね。

 ですから、もう一度確認しておきましょう。キリスト教の信仰とは、私たちの罪や悲惨をちゃんと見据えたものです。私たちが、隠したり、目を背けたいと思っていたりする全ての問題を、ちゃんと見つめています。私たちの心にある闇も、家族の機能不全や、人間社会の格差や悲惨、そうしたどうしようもない問題を、何かのせいにしたりせず、簡単に解決できない、そのあるがままに、見つめています。また、私自身の醜い願望や、自分勝手な妄想や、嫌らしさや甘え、自己嫌悪や虚しさも、恥ずべき過去の失敗も罪も、すべて知られています。その上で、その私の罪や悲惨がどれほどであろうとも、そこから救われる道があることを示します。それは「私たちの真実な救い主イエス・キリスト」によることです。それは、信じがたい事ですが、でもイエス・キリストが、どれほどの事をしてくださったのかを、これから知っていけば、その罪から救われることも本当に出来るのだと受け入れることが出来ます。それは、問1でも読んだように、本当に一方的な恵みによることです。イエスが、御自分の尊い血をもって、私の全ての罪を完全に償ってくださったから、私たちの罪は赦され、悪魔の力からも解放されたのです。

 でも、ではイエスの恵みによって救われるんだから、私たちは何をしてもいいのか、という事にもなりかねませんね。実際、恵みによって救われる、全ての罪が赦される、と誤解する人たちがいましたし、宗教改革ではそういう非難がカトリックからあったのです。「救われるんだから何をしてもいい。救われるのに、どうして正しく生きなければならないんだ?」。でも、今日の問答では言います。■

「そのような救いに対して私はどのように神に感謝すべきか」

 救われた私たちは、これからは神への感謝に生きるのだ。その感謝が、私たちの全生活に溢れるのです。それは、この問そのものに出て来た言葉だとも言えます。

…慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬ…

 喜びに満ちて生きたい。失わない慰めがある者として、感謝に溢れて生きたい。そう思いませんか。どうせ救われるのだから、正しいことよりも罪を続けたい、と人を踏みつけ、傷つけて、自分の人生も台無しにするよりも、喜びや感謝を特徴とした生き方のほうがよっぽど素晴らしい人生ではありませんか。勿論、それは、自分が救われるため、滅びないためにするのではありません。救われるのは恵みです。生かされているのも神の一方的な恵みなのです。神が私たちやこの世界をお造りになったのは、私たちを愛し、私たちが神の恵みを映し出して生きる者とならせたいからでした。

マタイ五16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 私たちが、神から受けた素晴らしい愛を現して、飾らない心からの感謝をもって生きる歩みを通して天の父が崇められるようになる。その生き方を学んで行きましょう。

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