2016/04/03 ハイデルベルク信仰問答5「みじめさにまさる感謝」ローマ7書22~25節
前回は私たちが自分の惨めさに気づくのは何によってですか、神の律法によってです。神の律法は、私たちに、神を愛し、隣人を愛することを求めています、という問3、4を見ました。神は私たちに愛することを求めておられる。その基準に照らした時に、私たちは自分の惨めさに気づく、というのです。それが、今日の問5です。
問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。
答 できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。
「これらのこと」とは、神を愛し、隣人を愛することです。そして、私たちは神と隣人を愛するんではなく、
「憎む方へと生まれつき心が傾いている」
とこの第五問は答えるのです。「いや、ちょっと待ってくれ。私は、確かに完璧ではないけれども、それでも精一杯、人を愛したいと思ってはいる。他の人と比べたら、これでもマシな方だ。神と人を憎むだなんてとんでもない。そこまで厳しく言われるのは心外だ」。そう思う人もいるでしょう。私たちは自分の愛のなさ、罪と欠点があることは認めますが、しかし、それでも平均的には良い方だ、もっと酷い人もいる、と思いたがります。「あなたはよく頑張っているね」と言ってもらうのを期待しています。何年も前に、聖書の学びをたまたま一対一ですることになってしまった方と、よく分からないまま時間が過ぎていったことがありました。最後に私がお祈りをして、「神様。私たちは、あなたの前に顔を上げることもできない罪人です」と祈った時、相手の方は心の中で「私はそこまで罪人じゃないわよ」と、カチンと来たのだと仰っていました。それが人間の心理です。
この第五問が、「あなたはこれらすべてのことを、精一杯行っていますか」というような質問であったなら、そんな反論もよかったでしょう。しかし、そうは問いませんでした。最初から、
「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」
と問うたのです。なぜでしょうか。それは、「これらのこと」つまり、神を愛し、隣人を愛することが、ただ「神を愛し、隣人を愛しなさい」とは言われていなかったからです。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」
あなたの神である主を愛せよ、であり、また、隣人を
「自分のように」
愛せよ。その愛し方そのものが、「精一杯」とか「人よりも」ではなく、完全な愛し方を求めていたのです。いいえ、そもそも「愛する」とは、出来るだけ優しく人にしてあげるということではありません。自分がいい人だと思われるために、一日一善を欠かさない、というようなことでもありません。まして、その愛が足りないと言われた時に、カチンと来たり傷つけられた気になったりして、言い返すようなそんなことではないのです。
反対に、ここで
「神と隣人を憎む」
と言われていました。これも、強すぎて、いいや神には感謝している、隣人もそれなりに大事にしている、と抗弁する人には引っかかるでしょう。確かに、普通「憎む」というと憎悪や敵対心のような、毒々しい感情が伴っています。完全に愛しているとは言えなくても、憎んでいるわけでもない、と言いたい所です。聖書の中で、「憎む」という言葉は、決して愛の真反対とは限りません。「自分のいのちを憎む」とか「親を憎む」という言い方をイエスはなさいました。それは、自分のいのちや家族を憎悪しなさい、という意味ではなく、自分のいのちや親を後回しにしてでも、イエスに従いなさい、神の国を第一にしなさい、という意味でした。
ですからここでも、神と隣人を憎む、というのは「始終憎しみを抱いている」のではなく、神と隣人を「後回しにする」ことです。本当に大事にはしていない。そして、本当に大事にしているのは、結局自分です。自分が可愛くて、人にも親切にし、神に感謝しています。だから、何かあって、自分の夢が潰されたら、人も罵り、神をも呪うのです。子どもに自分のすべてを捧げるような母親は、結局、自分の不安や果たせなかった夢、立派な母親として評価されたい、そんな自己実現を子どもに押しつけているに過ぎない場合があります。子どもはそんなプレッシャーにも精一杯答えようとしますが、自分の意志や自由を押し殺していることに耐えきれなくなって、ある時、親の敷いたレールから外れる日が来ます。すると、母親はその子を責め、罪悪感を与え、無理にでも操作しようとするかもしれません。子どもが感じるのは愛情ではなく、憎しみです。相手を愛していれば、何があっても愛します。しかし、もし、何かがあって、その愛が憎しみに変わるのだとしたら、罵ったり、呪ったり出来るのだとしたら、それは、最初から神の律法が言うような愛ではなかったのです。
しかし、今日の言葉を素直に受け入れるなら、私たちは希望を持てます。なぜなら私たちは、生まれつき神や隣人を憎んでまで自分を可愛がる傾向を持っている、と言い切っているからです。そんな傾向を持っている人間に、努力して、愛しなさい、頑張って人を大事にしなさい、といくら道徳を説いた所で、不可能です。そうしたくないのが、生まれつきの傾向なのですから。だから、私たちは自分の努力で人を愛するのではありません。かといって、どうせ愛せなくてもいいんだ、ではありません。これは、ハイデルベルク信仰問答で教えられてきたように、私たちの「悲惨」なのです。愛の人になれることへの憧れがありつつも、心の中には人や神を憎んでも我が身をかばおうとする醜い思いがある。それは悲惨です。パウロはそれを先のローマ書で言っていました。
ローマ七24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
自分の自己中心な本性を見ると、本当に惨めな思いになります。でも、私たちの主イエス・キリストは、私たちの心に神の律法を与えてくださいます。心を、神の律法を喜ぶよう変えてくださるのです。まだまだ、わが身可愛さの行動を取ってしまうとしても、もっと深い所で、神が私たちを取り扱ってくださるのです。それが主イエス・キリストの御業を通して私たちに届けられる救いです。この恵みに与るためにも「自分はまだよくやっている」などと、自分の行動を美化したり誇ったりするプライドはさっさと捨てましょう。主の恵みを日々戴いて、心から謙虚に、愛する者へと変えて戴きましょう。