聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問6「神は人をよいものに創造された」 創世記1書26~31節

2016-04-10 20:20:52 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/04/10 ハイデルベルク信仰問答6「神は人をよいものに創造された」 創世記1書26~31節

 

 私たちの心には、神の掟に叶わない、自己中心の願望が強く染みついています。それをこのハイデルベルク信仰問答では、「悲惨」と呼んでいます。「罪」とも言いますが、罪だといって責めるよりも、神の愛から離れている状態を、悲惨、みじめさと呼ぶのです。その上で、そういう人間の我が儘な姿について、今日はこう問うのです。

問6 それでは、神は人をそのような悪い邪悪なものに創造なさったのですか。

 ここで「邪悪」と訳されている言葉は「逆さま」という意味だそうです。頭と足がひっくり返っている状態です。神は人間に、神を愛し、隣人を愛しなさいと命じられましたが、でも人間が、神をも隣人をも愛するよりは、いつでも自分の都合で憎みかねないのだとしたら、それは神が人間を創るときに、間違ったのではありませんか。愛するのとは逆さまな存在に造ってしまったということではないのですか。そういう質問です。しかし、そうではない、と答ではいいますね。

答 いいえ。むしろ神は人をよいものに、また御自身のかたちに似せて、すなわち、まことの義と聖とのうちに創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。

 そうです。神は人を善いものとして創造されました! これは、多くの宗教や創造の神話が、人間の邪悪さや問題を、創造の時点でのミスや偶然とするのとの違いです。人は善いものとして造られました。それも、神ご自身のかたちに似た者として。

創世記一26神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 神御自身が、御自分に似た者を造ろう、と仰って創造された。それが人間だ、というのです。すべての人が、男も女も、誰も彼も、人間はみんな

「神のかたちに造られた」

ものです。「義」正しさ、「聖」厳かな聖さを備えた存在として造られたのですね。

……それは、人が自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。

 こういう、人間に与えられた特別な目的が、人間にはあるのです。素晴らしい言葉です。人が、自らの造り主なる神を正しく知る-この「知る」とはただ知識を学ぶとか正確な知識を覚えるということではありません。人間と人間がお互いを知るというのは、もっと温かくて、親しくなることです。人が神を知るとは、神の素晴らしさ、聖さ、美しさ、正しさを知って、ますます神を崇めるようになることですね。そして、神を「心から愛する」ようになり、「永遠の幸いのうちに神と共に生き」そして、「神を誉め歌い賛美するため」です。それ程に人間は、よいものとして造られたのですし、人間が神御自身のかたちに造られたから、そういうことが出来るのです。

 この後、問七から、ではどうしてその人間が、神を愛するどころか、憎むようになってしまったのですか、と罪の原因を教えていきます。今日は、その説明の前に、人間がよいものとして造られたと言う言葉を心に味わいたいのです。

 神は人を善いものとしてお造りになりました。だから、今も私たち人間を、本来の善さ、測り知れない価値あるものとして見ておられます。中には、「私は神様の御言葉通りに生きられないからダメだ」と自分を低く低く考える人がいます。皆さんはどうでしょうか。神は、私たちをどのように見ておられると考えていますか。怒っている、気にしていない、ガッカリしている、私にメロメロ、いろいろなイメージがあるでしょうが、特に失敗したときには、神も私には失望しておられるに違いない、私を恥ずかしく思っておられるんではないか、と考えてしまうのではないでしょうか。

 確かに、私たちが、神の愛に背いて自分のことしか考えなくなっているとき、神は決して平気ではおられません。それを、この信仰問答では「悲惨・惨めさ」と言ってきました。

「自らの造り主なる神を正しく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するため」

に創造された人間が、神を知ろうともせず、神を愛さず、神と共に生きることを幸い所か苦痛としか思わないで、自分が自惚れた歌を歌って満足しようとしているなら、それは本当に惨めなことです。それだからこそ、神は私たちに、本来の目的に帰るように求められます。私たちが惨めでも平気でニコニコしているわけではありません。でも、それは神が私たちを愛すればこそ、真剣でいてくださる眼差しです。親は、子どもが失敗したり、泣いたり、悔しい思いをしたりしながら、少しずつ成長していくのを見守り育てます。神も、決して私たちにガッカリも腹を立てもなさいません。神には出来ないことがないと言いますが、神の義と聖に反することは出来ません。悪いことは出来ませんし、私たちを愛することを止めることも出来ません。私たちが神をガッカリさせることも、見捨てさせることも出来ません。神は私たちを善いものとしてお造りになった以上、そのよいご計画を完成なさるのです。

 私たちも、この世界も、本来はよいものとして造られました。神は私たちを、御自身のかたちにお造りになり、義と聖のうちにお造りくださいました。だから、私たちが神を知り、愛し、神とともに、神を賛美しながら過ごすことが、一番自然なことです。今はそれが出来ていなくて、自分のことしか考えないばかりか、自分のことも善いとか素晴らしいとは思えないかも知れません。世界も虚しく、悪い世界に感じることもあるでしょう。でも、キリスト教はそういう嫌な世界から逃げるために信じるのではありません。

 イエス・キリストの恵みによって救われるとは、私たちの生き方が回復され、神を正しく知って、神をますます愛し、神を誉め称える生き方へと変えられることです。私たちが神を知り、神を誉め称えることを神が喜ばれるのです。「自分は惨めだ」と思っていた者が、聖霊によって、自分の存在や信仰や神様への賛美が神に喜ばれ、尊い価値を与えられていると気づかされながら、喜んで生きるようになる「救い」なのです。

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申命記二〇章(1~9節)「戦いよりも大事なこと」

2016-04-10 20:19:00 | 申命記

2016/04/10 申命記二〇章(1~9節)「戦いよりも大事なこと」

 

 今日の箇所は戦争について教えています。日本の法律も変わって、戦争が遠い話ではなくなり、都会の真ん中で、テロに遭うかもしれない時代になってしまいました。安全の壁に守られた中で戦争や平和を論じ、「聖書は好戦的だ」「旧約の神は戦いの神だ」などと聖書の血(ち)腥(なまぐさ)い記事を批判する時代から、もっと現実的なこととして戦争を考える時代になりました。しかし今日の箇所は、とても戦争に対して冷静で、水を差すような視点を語っています。戦争をしようとする軍人や将軍にとって、今日の箇所は、絶対に開きたくない箇所であるはずです。

 確かに1節から3節の前半ぐらいなら勇敢にも聞こえます。戦いに出るときは恐れるな、神、主がともにおられる、と勇ましい。弱気になるな、恐れるな、と士気を鼓舞されます。しかし、うろたえるな、おじけるな、と余り繰り返されると、帰ってこれから始まる戦いが厳しいものだと印象づけてしまうようです。そして5節以下は、軍の人材確保からは最悪の勧告ですね。

 5新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか[1]。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。

 同様に、ぶどう畑を作ってまだ収穫していない者、婚約したけれどまだ結婚していない者は、戦闘に加わるよりも、帰って自分の家に住み、ぶどう畑の収穫をし、結婚しなさい、と言われるのですね。それも、ぶどう畑の収穫をさっさとして来いとか、結婚式だけ挙げてまた戻って来い、ではありません。二四章5節では、新婚後、一年は兵役を免除されて、妻を喜ばせなさい、とあります[2]。また、ぶどう畑は作ってから収穫するまで、五年待たなければならないとされていました[3]。ですから、ぶどう畑を作った者が帰って収穫をして来るなら、何年も兵役を免除されることにもなったのです。だめ出しが8節ですね。

 8…「恐れて弱きになっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」

 ここには戦死の可能性が明言されています。「主が守ってくださるのだから、必ず生きて帰れる」などと楽観的な保証はしてくれません。神がともにおられるから戦いを恐れるな、とは言われるものの、命懸けであり死ぬこともあり、狼狽(うろた)え怖じけたくもなるほど、熾烈を極めるのですね。だからこそ、安易な戦争への突入は窘(たしな)められています。1節で、

馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても

とありますが、平時から馬や戦車や最強の軍事力を持とうとしない、ということです[4]。軍人たちにはやりにくい考えだったでしょう。武器や戦車、戦闘機、軍事技術を万端にし、いざ戦争となれば、集まった兵士たちを鼓舞し、勝利を夢見させ、恐れて逃げ帰ろうとすることなど力尽くでも許したくないのではないでしょうか。残した生活や家族のことなど考えさせないか、その家族のためにこそ戦え、と士気を高める方向に持っていったはずです[5]。申命記の言葉は、それとは正反対です。むしろ、戦争に勝つことが最大の目的になってしまう時、人間の生活や農業や夫婦といった、人間としての基本的な営みが犠牲になることを厳しく戒めるのです。軍人の論理が社会を支配するなら、市民は後回しになる。軍隊は国民よりも作戦や勝利を優先しがちなのです。赤紙が来れば断れない。兵士のストレスや秘密保持などのため、夫婦や家庭は深く傷つき、苦しんでいます。19節20節には、包囲戦において、不必要に木を切り倒すことが禁じられていますね。戦争において、自然や環境が無闇に破壊されます。勝つため、あるいは敵を少しでも苦しめるためならば、自然を簡単に壊すのです。その復元には何年、何十年もかかりますし、永久に戻せない場合もあります。これの最たる行為がヒロシマ、ナガサキ。原子爆弾の投下でした。その後も、朝鮮半島の地雷の野原、ベトナムの枯葉剤、湾岸戦争の劣化ウラン弾、そして辺野古です。

 ここでは「恐れず戦え」と言われています。戦わなければならない現実はあるのです。しかし、では普段から強く負けない兵器、軍事技術、最強の軍人たちを育てよう、というのはまた反対の極端な危険です。でも戦争とはそういう誘惑があるものです。その原理は形を変えて社会を動かし、人間性や家族や自然を破壊しています。国家や政治家、中央の生活や、強い人々の欲や利益のため、庶民や地方は顧みられていない。軍事予算が福祉を減らすのも、原発問題や過労死などは、まさにそれです。あるいは個人個人が、自分の責任に向き合いたくなくて、大義ある戦争や大事業や仕事の成功、または教会の奉仕や活動に逃げて、本当に大切にすべき、家庭や人間らしい営みを犠牲にしてしまうこともありがちです[6]。容易い誘惑です[7]

 10節から15節には、遠くの国々と戦わなければならない場合のことが書かれています。まず降伏を勧めること、だまし討ちや奇襲攻撃はしないのですね[8]。捕虜にした場合は、申命記は彼らを在留異国人として大切にするよう命じるのです[9]。苦役に服すると言っても、好きなように虐げていい、人間扱いする必要はない、ということではありませんでした。

 でも16節から18節には、カナンの地のヘテ人、エモリ人たちの絶滅が命じられます。これは正直、やはり抵抗を覚えます。そのまま納得して無理に説明しようとしてはならない言葉だとも思います。ただ、この地の人々が、忌みきらうべき事、子どもの人身御供や近親相姦など、人としてあるまじき文化だったのも事実です。戦いにおいては容赦なく、それこそ軍隊の論理、国家の都合で動いていた国です。そういう国に対して、神は厳しく立ち向かわれるのです。

 「聖絶」は神が特別に、ハッキリと命じられた場合だけのものです。人間がこれを持ちだして、敵を壊滅することを正当化する事は決して許されません。私たちは、神が本当に強く、悪を憎まれることを厳粛に覚え、自戒すべきです[10]。「神がともにおられるのだから恐れない」という告白を乱用して、変な楽観論を持って欲しくはないし、この言葉でもって家庭や生活を犠牲にするような事はしたくないのです。戦争は大変です。まず戦争が起きないよう努めるべきです。ここを読んで「聖絶などしてはならない」と言える現代であれば尚更、私たちは平和づくりが求められています。そして、戦争以上に、人間の生活や農業、夫婦という小さな営みを、また自然環境を守るための戦いを優先したいと思います。これらを失うことはどれほどの悲しみでしょう[11]。それもまた簡単な戦いではありませんが、私たちの神、主がともにおられますから、恐れず弱きにならず、この戦いをしていくのです[12]

 キリストは、この戦いの絶えない世界に、全く大胆で、思いもかけない新しいあり方を示されます。自分の欲望や利益のために人を押しのけるとか、自分の狭い正義感のために人間らしさや家庭や自然も壊して構わないとか、そういう人間の愚かさを覆されるのです。神がともにおられるとは、そのようなものとして私たちが生きることです。私たちの小さな手の業には、自分や出会った人たちの家庭には、この自然には、国家の戦争の勝利にも引けを取らない価値がある。それを守るための戦いは簡単ではないとしても、神がともにおられるほどの尊い意義があるのだと確信して、自分の人生をシッカリ生きるのです。

 

「私たちを愛したもう天の父よ。『恐れてはならない』と言いたもう御声に励まされて、私たちが平和のため、日本や近隣の国々のため、隣人や家庭、小さな人たちのために、労し、戦うことが出来ますように。惑わされず、また逃避せずに、大切なものを守らせてください。大変ではあっても、あなたの愛する私たちの歩みに、かけがえのない価値を確信させてください」

 



[1] 「奉献する」とありますが、実際には、竣工した上で住み始めている、ということでしょう。P. C. Craigie, The Book of Deuteronomy, The New International Commentary on the Old Testament, p.273.

[2] 申命記二四5「人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」 これは「妻を喜ばせる」ためであって、「子どもを産むため」ではないことも注目。結婚の目的の一つは、子孫を産むためですが、それ以上に人格的な交わりこそが目的です。子孫を多く産んで国力を増強するために結婚するのではありません。それならば、結婚は国家繁栄のための手段となってしまいます。

[3] レビ記十九23-25。

[4] この事は、十七16で王に対する注意として戒められていました。

[5] たとえば、以下の記事を参照。「卓越したリーダーはチームの士気を高め、人をやる気にさせるすぐれた演説術を身につけている。ナポレオンの演説は次の三つの要素を含んでいた。 一、まず最初に兵士らの過去の功績を称賛する。これは部下を認め心からの信頼を示すことで、彼らの自尊心を煽る効果がある。 二、次にこれからやる共同の目標を告げる。ここで戦う相手をはっきりさせる。 三、そして最後に敵をののしり、魅力的な褒美を与えることを匂わせる。相手をおとしめることで「自分たちは有利である」と思わせ、かつ「頑張れば褒美が手に入るのだ」というエサを最後に持ってきてやる気を引き出すのだ。戦いに臨む兵士に伝えなければならないことは、これですべてなのだ。」ナポレオンの演説術「人間力」エピソード集「君ならできる。目標はこれだ。敵はまぬけだ。褒美もでかいぞ」

[6] 単調な現実に目を向けるのが面倒臭いから、ますます家や農業や結婚を後回しにして、もっと血湧き肉躍る、戦争とか「国を守る」という大義に酔い痴れる、という力も働くでしょう。「家族のためだ」と言い聞かせて給料を入れるだけで、本当に家族にとっての家長(夫、父親)としてじっくり向き合うことを避けてしまうのです。

[7] 教会も又、「聖戦」の名の下に十字軍などを行いました。十字軍は「聖絶」を掲げたが、時代的には現状への不満のはけ口としてイスラムとの戦いにすり替えたのです。今ここでの仕事に忠実にあるよりも、他に敵を作ることによって、問題を押しつけてやり過ごそうという誘惑は人間に大きいのです。

[8] しかし、士師記十八27ではダン部族がこれをしています。「彼らは、ミカが造った物と、ミカの祭司とを取って、ライシュに行き、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、火でその町を焼いた。」

[9] 特に、二一10-14では、捕虜の女性さえ、権利を与えられるとされています。その他、律法全体の正義や憐れみ、権利保護の対象に入るのであって、エジプトの奴隷のような非人間的な扱いは断じて禁じられていたのが申命記律法であったことを忘れてはなりません。

[10] McConvilleは、三つのポイントをあげて、本章と聖書の戦争についての記事を読む上での助けとしています。①生きている以上、戦争は避けられず、なんらかのスタンスを持つ必要がある。イスラエルの戦争は主(ヤハウェ)の教唆とその先導のもとになされることを本質とする。②申命記の戦争律法は、現在の戦争にすべてが当てはまるわけではない。現代に「聖戦」はない。③聖書の戦争論は、神が悪と戦われることの象徴である。悪と戦闘とは、地上的な形を取り、最終的には天における戦争と切り離すことは出来ない。J.G. McConville, Deuteronomy, Apollos Old Testament Commentary, IVP, pp.322-323.

[11] 5-7節は、二八30と共鳴している。「あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。」

[12] 恐れずに戦争に行け、家の事は心配するな、ではありません。恐れずに、家の事を大事にせよ、自分の生活の義務を果たせ、なのです。それこそが、国を守る力です。「今日においても、一つの健全な家庭が形成されるなら、その家庭が及ぼす社会的影響は実に広く、深いものがある。家庭の形成、保持のため、どれほど厳しい戦いがなされ犠牲が払われても、行き過ぎとは言えない。日常生活において、家を建てたり、ぶどう畑を管理活用したり、家庭の形成や保持など、武力によらない種々様々な戦いがある。こうした日常の営みこそ何よりの力であり、国を守る力なのである。」宮村武夫『申命記 旧約聖書講解シリーズ』p.142

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