聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記二二章(1~12節)「知らんぷりをするな」

2016-05-01 14:29:53 | 申命記

2016/05/01 申命記二二章(1~12節)「知らんぷりをするな」

 

 私はウッカリ者で、落とし物、忘れ物の常習犯です。特に、帽子や手袋を通勤電車に忘れたことは数知れません。その度に駅の落とし物窓口に行くのですが、その時にまた帽子の特徴を聞かれても、書いてあった文字が何だったかが思い出せない、ぐらいの忘れっぽい性格です。それでも落とし物を拾って届けてくださった方がいて、何度も返って来ました。そんな私には今日の律法は格別有り難い律法です。「人がなくしたものを見つけたなら、知らぬふりをしていてはならない。それを返しなさい、あるいは遠くの人や知らない人であれば、わざわざ探して遠くまで出かける必要はないにせよ、保管しておきなさい」です[1]。有り難い規則です。

 「聖書の律法は面倒臭い、几帳面すぎる」そう思いたくなる事もあります。しかし、する側からはそう思えても、してもらう側は実に有り難い気配りです。家畜や着物がなくなったとか、道で立ち往生して本当に困っている時が想定されているのですね。そして、自分が助けてもらいたいように、他の人が困っていれば、知らぬふりをせず助けなさいと言われているのです。

 しかし、今日の箇所では

「知らぬふりをしてはならない」

と三度も言われています。また、

「見つかる」

という言葉もこの二二章には何度も出て来ます。誰も見ていない時、知らぬふりをしようと思えば出来ない訳でもない時、見つからずに隠せそうに思えるその時にも、聖書は光を当てています。むしろ、隠れた所において何をしているか、という本心こそ、神は光を当てられ、そこでの生き方を問われるのです[2]

 あの「良きサマリヤ人の譬え」[3]で、祭司やレビ人、神に仕え、人からの尊敬を受けている立派な立場の人たちが、道で強盗に遭って倒れている人を見た時にどうしたでしょうか。彼らは

「反対側を通って行った」

とあります[4]。普段、礼拝や宗教的な指導でどれほど立派で、欠かせない役割を果たしていても、見えない所での彼らの行動は、神の御心から離れていることを証ししたのです。しかし、普段は敵対していたサマリヤ人が、そこを通った時、強盗に襲われた人を助けてあげました[5]。イエスは、

ルカ十36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

と尋ねられました。異国人で、反対側を通って見なかったことにも出来るその人に、あわれみ深く接し、その隣人になったのは誰か、と問われました。そして、

37…「あなたも行って同じようにしなさい。」

と仰ったのです。主は私達が、見る人のいない所で「知らぬふり」をしやすいことをご存じです。見える所、人前では良い人に見せよう、キリスト者らしく取り繕おうとします。でも、隠れた所、誰も知り合いのいない町や人混みで、あるいは夜道や、部屋で一人の時、家庭の密室で、見つかったら評判を落とすような行動を取ってしまうことをご存じです。買い物で、旅先で、間違い電話を受けた時、知らない人とぶつかった時、自分がされたら嫌な態度を取って、そんな行動を取ったことも忘れかねない私達であることをご存じです。しかし、神はそこをご覧になって、そういう隠れた所での失敗を責め、重箱の隅を突かれるのではありません。ただ、そのような時にも「知らんぷり」をする生き方を止めなさい、と言われるのです。[6]

 6たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。

 7必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。

 何と細かい指導でしょうね。けれどもそれは、「細かすぎて、五月蠅(うるさ)すぎる」という意味ではなく、「繊細でデリケート」なという意味での、御心の細やかさだと思うのです。たまたま見つけた鳥の巣で、母鳥と雛が一緒であれば、「得をした!」と丸ごと取りたくなるでしょう。

 絵本の『まのいいりょうし』はまさにそんな話です[7]。「てっぽう一発って…かもを十五わに大いのしし、山のいもなら二十五本、えびっこやどじょっこやざこはおもたいほど、大きなきじのたまごを十こ」。でもその話でも、巣から卵を十個拾うのは母雉が逃げた後なのです。巣ごと卵も一絡げにではない所に、優しさを感じます。申命記も、母鳥と卵や雛を丸ごと戴かず、母鳥を去らせよ、と命じます。狩猟自体を禁じたのではないのです。雛や卵を取るのも可哀想ではあるのですけど、その母鳥の母性本能につけ込んで、全部捕まえてはならない。母鳥の気持ちを少しでも想像するのです。取るのであれば、母鳥を去らせてから、子だけを取れ、と言われる。そして、そうした場面でする小さなことが、幸せと長生きのためと言われるのです。イエスは「空の鳥を見よ。雀の一羽でさえ天の父のお許しなしには落ちることがない」と言われました[8]。天の父が小さな雀の一羽一羽にさえ慈しみ深い方であるように、私達も道で見かけた鳥の家族にさえ想いを致せ、と言われます。

 「愛とは想像力である」

と言います。8節で言われている、屋上に手すりをつけることも、自分は落ちないから大丈夫、というだけでなく、誰かが落ちることがないように、という「想像力」ですね。将来この家に来る人を想像する。木の上の鳥、迷子になっているのを見かけた羊の飼い主にまで想像力を働かせるように、と言われるのです。そしてそれは、主が私達に幸せになって欲しいから、なのです。

 この戒めの根底にあるのは、主ご自身の憐れみです。主が、民に求めておられることは、主がまずしてくださったことなのです。エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を主は憐れんでくださいました。決して「知らぬふり」をせず、その叫びに耳を傾けてくださいました。主が、私達の苦しみを御自身の苦しみとして、深く知ってくださいました。だから民に対しても、知らぬふりをせず、誰に対しても自分がしてほしいように想像力を働かせて行動することを求められるのです[9]。私達の中には、知らんぷりを通したい狡(ずる)い気持ちがあります。誰も見ていない所で涌き上がる我が儘な想いがあります。でも、主はそういう感情や欲求があることを責め立てて、悪人呼ばわりなさるのでもないし、私達にも恥や否定的な感情を抱かせたいのではないのです。むしろ、その逆に、その隠れた所で身勝手な思いが出て来る時にこそ、他者の思いを想像しなさい、自分がして欲しいような行動を選びなさい、神がいつでもどこでも私達の苦しみにも狡にも知らぬふりをなさらない方であることを思い出しなさい。そうすることで、私達のすべてに、神を迎え入れなさい[10]。そういう招きをここに聞くのです。

 イエスは、苦しむ人の反対側を通る生き方をしている人間を、天の上から責め、裁き、批判するのではなく、放っておけずに、自らこちら側に飛び込んで来てくださいました。そうして私達のために死なれただけでなく、私達の生き方も、温かい想像力のある者へと変えてくださるのです。自分勝手な妄想に生き、知らぬふりで胡麻菓子て、隠し事や言い訳をしながら生きる生き方は詰まらないものです。そこから、神の想像力にならって、他者の立場に自分を置くことが出来るようにされていく。そういう幸せへと、主は私達を招かれるのです。[11]

 

「主よ。私達が善人を装うのでも、隠れた罪の思いに恥じ入るのでもなく、私達の全て、全生活が、全時間が、あなたの愛の眼差しの中にあることを感謝します。知らぬふりをしている自分に気づかせてください。その気づきから、決して知らぬふりをしないあなたを仰がせてください。私達を慈しみ、私達にも慈しみ深い生き方を選ばせて、神の民の歩みに加えてください」

まのいいりょうし

[1] 出二三4、5に既出している命令でもあります。

[2] 隠れた所で何をしているか、が問われるというのは重要なテーマです。二九29「隠れていることは主のもの。しかし…」も、聖定的御心と啓示的御心という読み方がよくされますが、本来は、このような意味でしょう。

[3] 参照、ルカ一〇30-37。

[4] ルカ一〇31「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」

[5] 同33「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」

[6] ここでは5節の「男が女の衣装を、またその逆をすることの厳禁」には触れませんでした。ここから、性的マイノリティを罪とする読み方もあります。しかし、現代の医学的な事実で、男女の差がハッキリしない先天的な肉体もあることや、心が女性の人が男性の体を持っている場合もあると分かってきました。その場合には、むしろ、隠れた「本当の性」に苦しむ方が不自然であり、カミングアウトすることを招かれているとも言えます。そして、それを受け入れる度量も必要です。

[7] 瀬田貞二再話 /赤羽末吉画『まのいいりょうし』福音館書店、1975年。因みに、同じタイトルで、小沢正作、飯野和好画(教育画劇出版、1996年)というものもあるようです。

[8] マタイ十29「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。30また、あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています。31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」

[9] 「イスラエルの民が知らぬふりをしないように求められているのは、彼らがエジプトや荒野において、知らぬふりをなさらないお方に導かれて来た恵みの経験をしているからである。イスラエルの民はその恵みに答えて、知らぬふりをしない生き方をするように期待されている。それ故知らぬふりをしないで生きる道は、知らぬふりをなさらないお方を見上げて行くことである。「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった」(詩篇二二24)とある通りである。」宮村武夫『申命記 新聖書講解シリーズ』いのちのことば社、156頁。

[10] マザー・テレサの言葉にこのようなものがあります。「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うことでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。けり返されるかもしれません。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい…。」

[11] 今回は、二二章の他の規則については割愛しましたが、特に後半の、結婚以外の性交渉についての厳しい規定は、重要です。ただし、純潔と潔癖は違います。結婚までの処女性が絶対視されているのではありません。再婚は禁じられていないことからも明らかです。「処女のしるし」も「月経のしるし」と理解すべきだとも言われます。ここでは、処女かどうか、というよりも、処女でないことを隠したまま結婚していること、場合によっては既に別の男との子どもを妊娠していて、夫がそれと知らずに育てて長子とすることが厳しく戒められています。犯した罪は、自分から告白し、赦しをいただくことは出来るのです。過去の事実としては残るが、人がそれを責めることは出来ません。しかし見つかるまで隠しておくなら、罰を招くのです。
 また、これらの戒めは死刑を宣告しており、厳しすぎるとも考えられます。実際、古代中近東では、同じような規定も、もう少し「寛大」でした。しかしそれは、金持ちや男性にとっての「寛大」です。つまり、貧民や奴隷、女性にとっては著しく不利であり、暴力や不実にも涙を呑んでなかったふりをせざるをえなかったのです。13節以下の「処女のしるしを見なかった」というのも、堂々と裁判に訴えるのではなく、個人的な中傷です。しかし、そうした陰口や悪意をも神は非難され、女性を守り、裁かれるのです。
 また、12節の「房」については民数記十五37-41を参照。房が神の御心を思い起こさせるリマインダとなるのです。しかし、この房を大きくすることで敬虔さをパフォーマンスする、という本末転倒がイエスの時代には起こります。マタイ二三5、参照。

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問9「賜物である要求」申命記30章15~20節

2016-05-01 14:27:10 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/05/01 ハイデルベルク信仰問答9「賜物である要求」申命記30章15~20節

 

 夕拝で今読んでいますハイデルベルグ信仰問答の問一を確認しましょう。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるようにはたらくのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 この「慰め」から始まったハイデルベルグ信仰問答は、しかし、その慰めに生きるために必要なこととして、まず、私達がどれほど惨めになっているか、をしばらく語っています。今日見ます問9もそうです。しかし、それで私達がますます惨めになるのではないはずです。この「慰め」に帰って来るような、そんな言葉を今日も聴きましょう。

問9 御自身の律法において人ができないようなことを人に求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。

 神が律法において、人間に、神を愛し、隣人を愛するようにと求めておられます。でもそれは、人間には出来ないことになっています。なぜなら、人間が神に背いたからです。人間の心は、神を疑い、自分の手近な満足を追い求めるものになってしまいました。ですから、神の愛の律法を求められても、人間には不可能なのです。心を尽くし、思いを尽くし、神を愛しなさいと言われても、出来ない。隣人を自分のように愛しなさいと言われたって、やっぱり自分の方が可愛いし、人との関係で傷つくこともあれば、なかなか赦せないし、比べてしまったりするのです。それなのに、私達に出来ないことを求めるとは、神が間違っておられるのでしょうか。神は人間の限界や性質を考慮して、もっと無理のない要求にレベルダウンしてくださったほうが公平なのでしょうか。

答 そうではありません。なぜなら、神は人がそれを行えるように人を創造されたからです。にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、故意の不従順によって自分自身とそのすべての子孫からそれらの賜物を奪い去ったのです。

 神の律法は、最初から無理だったのではなくて、人間が自分から出来ないように奪い去ってしまったのだ。だから、神が不正なのではありません。ただし、それを神は意地で続けておられるのではありませんし、出来ないことを無視して押しつけておられる、ということではありませんね。

 ここで、

「賜物」

とあります。プレゼントのことです。元々の言葉では「恵み」とも訳せます。では、そのプレゼント、恵みとは何のことでしょうか。それは「律法」の事ですね。心を尽くし、思いを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛しなさいと仰った要求。それは、賜物であり、プレゼント、恵みなのです。無理になったからレベルを下げて上げないと可哀想、というようなものではなくて、元からがプレゼントなのです。そう考えると、どうでしょうか、律法の見方も、神との関係も随分違って見えてこないでしょうか。

申命記三〇15見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。

16私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。…

19私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。…

 主の道、命令と掟と定めを守ることは、いのちを選ぶことなのです。愛することはいのちであり、喜びです。本当の幸せです。幸せを得るために、難しい愛の命令を守るのではないのです。愛すること、御心に従うことがいのちなのです。人を赦すこと、大事にすること、自分の感情や欲や損得を後回しにしてでも、神を喜び、人を敬う時、私達のいのちは最も満たされるのです。愛しなさい、という律法は、私達への贈り物です。

 もしこのいのちの律法を、無理だからと言って下げてしまったらどうなるでしょう? 嘘をついてもいいよ、裏切りたいときは裏切っても良いよ、神よりも偶像や他の宗教に混じっても良いよ、浮気もごまかしも、少しならいいよ。そんな生き方は、価値自体がなくなるし、そういう人とはあまり友達になりたいとは思わないでしょう。神が下さった要求は、素晴らしく大切な贈り物です。問題はそれを守れない私達の側にあります。私達に合わせて、律法をもっと引き下げるなら、いくらでも私達は自分に都合良く、引き下げてもらいたくなるでしょう。そしたら、人間はますます惨めで、わがままで、狡い人間になってしまいます。私達が自分でもなりたくない、そんな人間になるなんて死んだ方がマシだと思いたくなるようなものになってしまうだけです。

 神が人間に下さった律法は、神が今も私達をどれほど愛しておられ、尊い者として見ておられるか、をハッキリと証ししています。そして、前回お話ししたように、これを私達は自分で頑張って守ることは出来ません。ただ、イエスの十字架のゆえに、神の御霊が私達を新しく生まれ変わらせてくださる以外に、望みはありません。神もそれをご存じです。ですから、私達が律法を守れない時、神が私達を拒絶したり、無理難題を押しつけたりする酷いお方だと思わないようにしましょう。神が何も分かっちゃいないかのような本末転倒を止めましょう。神の愛の掟に従えず、自分の感情や判断にしがみついてしまうのは、私達こそ何も分かっていないのです。自分のちっぽけな考えで、世界を見よう、幸せになろう、将来を手に入れられるかのように勘違いしているのです。

 神は慰めに満ちた神です。私達を愛しておられる神です。だから、私達を愛して、愛しなさいと仰って止みません。人間がそれを自分から投げ捨て、いのちに背を向けた後も、神は御霊によって私達をもう一度再生して下さって、このいのちの道へと導いてくださっているのです。神を愛し、人を愛し、赦しなさい、その時は苦しくても、本当に喜ばしく、幸せなことなのだと味わい知らせて下さる。そういう慰めのプレゼントです。

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問8「生まれ変わる恵み」ヨハネ3章3~5節

2016-05-01 14:24:52 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/04/24 ハイデルベルク信仰問答8「生まれ変わる恵み」ヨハネ3章3~5節

 

 誰もが、多かれ少なかれ、「自己嫌悪」とか「劣等感」を持っているのではないでしょうか。また「人生をもう一度やり直せたら」という願望があって、そうしたドラマが流行るわけです。今日の説教題「生まれ変わる恵み」という言葉をよくよく考えてみるなら、「私を生まれ変わらせてくれる神様がいるなら、そうしてほしい」と思う人は決して少なくないと思うのです。でも、そんなことは諦めている人もたくさんいますね。先に読みました、ヨハネの福音書3章でも、ニコデモは年配だったのでしょう。

ヨハネ三3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

とイエスに言われながら、■

 4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。

と答えるのです。自分は新しく生まれるなんて無理ですよ。すると、

 5イエスは答えられた。まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。…

 新しく生まれるとは、母親のお腹にもう一度入り直すことではない。それは、水と御霊によって生まれ変わることです。「水と御霊」とは、当時の言い方で、水のような働きをする御霊、ということです。神の聖霊が私達を洗って、新しくして下さる、ということです。水による洗礼は、その洗いを象徴する儀式で、洗礼で受ける水に力があるのではありません。神の聖霊が、私達を洗って、新しく生まれさせてくださり、神の国を見るようにしてくださる、というのですね。自分で何とかして母親のお腹に入るとか、そんなことを例え出来たとしても、それで人は新しく生まれ変わることは出来ません。タイムマシンや魔法を使って、過去に戻ることが出来たとしても、それで幸せになることは出来ないのですね。なぜなら、問題は、もっと深く、私達の心にあるからです。

問8 それでは、どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。

答 そうです。わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは。

 とても強い言い方がされています。

「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いている」。

 そんなに悪いですか。今の震災でも、ボランティアや募金に沢山の人が惜しみなく捧げていますよね。人の行動の美しさや立派な奉仕や自己犠牲の生き方に、私達は心を打たれます。私にはとても叶わないことをなさる方がたくさんいます。だからそういう人を否定して、人は全く良いことをせずに、あらゆる悪いことしかしないのだ、と言うのだとしたら、とてもそれは傲慢で、間違った、失礼な言い方です。

  しかし、同時にやはり私達は、善意や立派な行動にも、すぐに競争とか、下心とか、甘えなどが入ってくる現実も目にしています。救援活動の現場ではガッカリするような見栄や甘えも目にします。

 三浦綾子の『氷点』という小説があります。主人公が、自分の娘を誘拐されて殺される。しかし、主人公はその犯人の娘を、自分の養女に引き取るのですね。彼は聖書の言葉のように「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に強い憧れを持っていて、犯人の娘でも愛そう、という思いがありました。でも、同時に、娘が誘拐されたときに、自分の妻が娘にかまっていなかったことを恨む思いもあったのです。その妻を罰したくて、犯人の娘をそれと知らずに愛し育てる所を見てやりたい、と言う醜い復讐心もあった。そういう相反する二つの思いが同時に主人公の心にはあった、と言うお話しです。善や愛や誠実さを願うし、人の悪を批判するのです。でも、同時に、恨みとか復讐心とか、自分の損得やあわよくば、という思いもあるのが人間です。

 シモーヌ・ヴェイユという女性が『重力と恩寵』という本を書いています。私達の中には、人を押しのけようという思いがある。その下へ向かう力、悪くなり、滅んでいこうとする傾向は、まるで「重力」のように私達の中に働いている。そこから上に上らせるのは、ただ神の「恩寵」(恵み)による以外にないのですね。自分の力や良いことを積み上げることによってではなく、ただ神の恵みによって引き上げて戴くことで、重力のような罪から私達は救われるのです。それを私達は待ち望むだけです。そう、シモーヌ・ヴェイユは書いたのです。今日の問8を読んで思い出すのが「重力と恩寵」です。

 神の御霊は、悪に傾いてしまう私達を生まれ変わらせてくださいます。それだけが私達の唯一の望みです。とはいえ、それは、すぐに心が丸きり新しくなって、どのような善も行えるようになって、あらゆる悪に傾かなくなる、という意味ではありません。ここではそんなことは言っていません。「私達は堕落しているのです」と言っているのであって、「堕落していたのです」と過去形では言いませんね。ただ、神の御霊によって再生されることによって、堕落している私達の中に変化が始まったのです。ですから、まだ自分の中に私達は狡さや悪い心、悪への傾向があるのを忘れてはなりません。自分はもう神の御霊を戴いたのだから、善意で生きています、悪い思いはなくなりました、などと自惚れてもおかしな事になります。でも、自己中心の思いや罪があるからといって、自分がダメだ、まだ再生されていない、と悲観する必要もないのです。悪への重力があるからこそ、神の御霊による恩寵が私達を新しくしてくださる希望があるのです。

 「救いの確信」という言葉があります。自分は神の救いに確かに預かっている、と信じることです。皆さんはどうでしょうか。自分は神の救いに確かに預かっていると信じていますか。ある方がこう教えてくれました。心や生き方が汚れていて、「自分なんかが救われるんだろうか」と思う事がある。でも、そのように自分の罪や堕落ぶりを、自覚できること自体が、聖書によれば、神の御霊によって初めて持つことが出来ることです。御霊によって再生されなければ、自分が神の恩寵を必要としている、と正直に認めることなど出来ません。だから、自分なんかが救われるんだろうか、と思うこと自体が、御霊によって再生され始めている証しです。御霊は、私達の中に働き続けている重力よりも強いお方ですから、確実に救いを完成させてくださいます。救いを確信してよい。これは私にとって、本当に有り難い慰めでした。生まれ変わらせて下さる御霊のお働きを信頼しましょう。どんなに悪への傾きを痛感しようとも、神のご計画を信じましょう。

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