2016/05/08 ハイデルベルク信仰問答10「神は見逃されない」詩篇5篇4-7節
日本語で「カミ」とは「上」に通じて、上におられる偉いお方、あるいは、天の上、遠くにおられて自分たちとはあまり縁のないお方、というイメージが根っこにあるようです。聖書に出て来る「神」はヘブル語で「さばくお方」というのが元々の意味らしいのです。正しく世界を裁かれるお方。それが神です。この方は、悪を必ず裁くのです。
問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。
答 断じてそうではありません。それどころか、神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしいさばきによってこの世においても永遠にわたっても罰しようとなさるのです。それは、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と神がお語りになったとおりです。
神は
「激しく怒っておられ」
という言葉は恐ろしいですね。私たちは、とても「怒り」に怯えています。ここ数年「怒りの管理(アンガーマネジメント)」という言葉をよく聴くようになりました。大人たちが、自分の怒りで困った思いをしています。とてもひどく怒る人に怯えて、どう対応したら良いのか教えて欲しいと思っています。「怒りのマネジメント」の学びでは、怒らなくて済むようになるのではありません。怒りというのは人間の感情の一つだから、怒ってもいいのだ、と学ぶのです。しかし、その怒りをそのまま人にぶつけるなら、沢山のものが壊れてしまいます。怒りの持つパワーはとても強くて、取り返しがつかないぐらい破壊的にもなる。だから、どう怒れば良いのかを考えたり、自分が何故怒っているのかを知っていきましょう、というようなことをするのです。
「神が激しく怒っておられる」と読むと、とても恐ろしくなります。神の手の付けられない感情に、人間はどうしたらいいのでしょうか。多くの宗教や民族では、神の怒りを鎮めるために様々な儀式をしたり、怒る神を宥めるための方法を考えたりしてきました。しかし、聖書ではそのような、手が付けられないほど感情的で、私たちが何とかしてご機嫌を取らなければならないような、怒り狂う神を言いません。神は、怒るべき事に怒っておられますが、ちゃんと御自分での怒りの管理はしておられて、ただ関係を壊すような、取り返しの付かない怒り方をなさらない方なのです。御霊の実は「自制」という通りです。ですから、ここでも慎重な言い方をしていますね。
…神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらを…罰しようとなさるのです。…
神が怒られるのは、罪の性質と罪の行い(考え、言葉も含めて)ですが、私たち人間を怒って滅ぼそうとはなさらないのですね。マタイの福音書でイエスは、最後の裁きの時に、永遠の祝福と永遠の刑罰に人々を分けられて、祝福への人は、
マタイ二五34…『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。…
と言われるのですね。しかし、もう一方の永遠の刑罰に入る人たちには、
マタイ二五41…『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
と言われるのですね。永遠の刑罰の火は、あなたがたのために備えられていた、とは言われません。あなたがたは本来、祝福を受けるためにあったのに、最後まで、神よりも呪いを選んだために、悪魔とその使いたちのための場所に一緒になる、というのです。神は人を祝福されたいのです。今日の問の後半もそう言っています。
答 …それは、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と神がお語りになったとおりです。
律法の書にある戒めを要約するなら、神を愛し、隣人を愛することの二つです。それは私たちにとって祝福です。その祝福から離れて、嘘を吐いたり、自分中心に生きたり、こそこそと(或いは堂々と)正しくないことをしたり考えたりして生きるならそれは、人生の無駄遣いに他なりません。神も、私たちを愛し、祝福に生かしたいのに、間違った恥ずべき罪に生きる事を見逃すなど、到底出来ないのです。だからその罪を真剣に激しくお怒りになります。しかし、怒り狂って、我を忘れて私たちを滅ぼしたりは決してなさいません。なぜなら神の願いは、私たちが罪を捨てて正しく生きることだからです。
エゼキエル書三三11…『わたしは誓って言う。-神である主の御告げ-わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』
これが神の御心なのですね。この真剣さが、怒りになるのです。それは関係を滅ぼすような、破壊的な怒りではなく、神との関係に帰って来なさい、という情熱なのですね。しかし、聖書に示されている人間の歩みは、人間が自分の間違いに気づいても、すぐにまた自分勝手な生き方に戻ろうとする繰り返しです。神は、忍耐されたり、教えたり、時には罰したり、色々と手を尽くされます。人間がいくら後悔したり自業自得になったりしても、性懲りも無くまた、罪を繰り返しても、神は忍耐を尽くして、人間を懲らしめ、戒め、諭されるのですね。そして、最後には、ひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。イエスも、神殿で金儲けをしている人々を追い散らされましたが、その時、奇跡の力で滅ぼしたりはしませんでしたね。破壊の力をなさることも出来たのに、鞭や手を使っただけで、情けないほどの人間的な怒りでした。それ程、神は私たちの罪を怒り、悲しまれます。そして、最後の十字架において、イエスは、私たちが受けるべき神の怒りを引き受けられたのです。
ですから私たちは、このイエスにあって、神のもとに立ち帰らせていただいたので、永遠に神の怒りの火に投げ込まれることは決してありません。でも、私たちの中にある罪まで見逃されるのではありません。神が私たちの中にある罪を、決して見逃されず、怒っておられる。私たちの心にある罪や生き方の罪を、真剣に考えておられることは、今の生き方にとって、とても力強い約束です。そして私たちも、イエスに従い、悪を赦さず、でも人まで憎んだり馬鹿にしたりしない生き方を励まされ、学びたいと思います。