聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問10「神は見逃されない」詩篇5篇4-7節

2016-05-08 14:28:31 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/05/08 ハイデルベルク信仰問答10「神は見逃されない」詩篇5篇4-7節

 

 日本語で「カミ」とは「上」に通じて、上におられる偉いお方、あるいは、天の上、遠くにおられて自分たちとはあまり縁のないお方、というイメージが根っこにあるようです。聖書に出て来る「神」はヘブル語で「さばくお方」というのが元々の意味らしいのです。正しく世界を裁かれるお方。それが神です。この方は、悪を必ず裁くのです。

問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。

答 断じてそうではありません。それどころか、神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしいさばきによってこの世においても永遠にわたっても罰しようとなさるのです。それは、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と神がお語りになったとおりです。

 神は

「激しく怒っておられ」

という言葉は恐ろしいですね。私たちは、とても「怒り」に怯えています。ここ数年「怒りの管理(アンガーマネジメント)」という言葉をよく聴くようになりました。大人たちが、自分の怒りで困った思いをしています。とてもひどく怒る人に怯えて、どう対応したら良いのか教えて欲しいと思っています。「怒りのマネジメント」の学びでは、怒らなくて済むようになるのではありません。怒りというのは人間の感情の一つだから、怒ってもいいのだ、と学ぶのです。しかし、その怒りをそのまま人にぶつけるなら、沢山のものが壊れてしまいます。怒りの持つパワーはとても強くて、取り返しがつかないぐらい破壊的にもなる。だから、どう怒れば良いのかを考えたり、自分が何故怒っているのかを知っていきましょう、というようなことをするのです。

 「神が激しく怒っておられる」と読むと、とても恐ろしくなります。神の手の付けられない感情に、人間はどうしたらいいのでしょうか。多くの宗教や民族では、神の怒りを鎮めるために様々な儀式をしたり、怒る神を宥めるための方法を考えたりしてきました。しかし、聖書ではそのような、手が付けられないほど感情的で、私たちが何とかしてご機嫌を取らなければならないような、怒り狂う神を言いません。神は、怒るべき事に怒っておられますが、ちゃんと御自分での怒りの管理はしておられて、ただ関係を壊すような、取り返しの付かない怒り方をなさらない方なのです。御霊の実は「自制」という通りです。ですから、ここでも慎重な言い方をしていますね。

 …神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらを…罰しようとなさるのです。…

 神が怒られるのは、罪の性質と罪の行い(考え、言葉も含めて)ですが、私たち人間を怒って滅ぼそうとはなさらないのですね。マタイの福音書でイエスは、最後の裁きの時に、永遠の祝福と永遠の刑罰に人々を分けられて、祝福への人は、

マタイ二五34…『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。…

と言われるのですね。しかし、もう一方の永遠の刑罰に入る人たちには、

マタイ二五41…『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

と言われるのですね。永遠の刑罰の火は、あなたがたのために備えられていた、とは言われません。あなたがたは本来、祝福を受けるためにあったのに、最後まで、神よりも呪いを選んだために、悪魔とその使いたちのための場所に一緒になる、というのです。神は人を祝福されたいのです。今日の問の後半もそう言っています。

答 …それは、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と神がお語りになったとおりです。

 律法の書にある戒めを要約するなら、神を愛し、隣人を愛することの二つです。それは私たちにとって祝福です。その祝福から離れて、嘘を吐いたり、自分中心に生きたり、こそこそと(或いは堂々と)正しくないことをしたり考えたりして生きるならそれは、人生の無駄遣いに他なりません。神も、私たちを愛し、祝福に生かしたいのに、間違った恥ずべき罪に生きる事を見逃すなど、到底出来ないのです。だからその罪を真剣に激しくお怒りになります。しかし、怒り狂って、我を忘れて私たちを滅ぼしたりは決してなさいません。なぜなら神の願いは、私たちが罪を捨てて正しく生きることだからです。

エゼキエル書三三11…『わたしは誓って言う。-神である主の御告げ-わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

 これが神の御心なのですね。この真剣さが、怒りになるのです。それは関係を滅ぼすような、破壊的な怒りではなく、神との関係に帰って来なさい、という情熱なのですね。しかし、聖書に示されている人間の歩みは、人間が自分の間違いに気づいても、すぐにまた自分勝手な生き方に戻ろうとする繰り返しです。神は、忍耐されたり、教えたり、時には罰したり、色々と手を尽くされます。人間がいくら後悔したり自業自得になったりしても、性懲りも無くまた、罪を繰り返しても、神は忍耐を尽くして、人間を懲らしめ、戒め、諭されるのですね。そして、最後には、ひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。イエスも、神殿で金儲けをしている人々を追い散らされましたが、その時、奇跡の力で滅ぼしたりはしませんでしたね。破壊の力をなさることも出来たのに、鞭や手を使っただけで、情けないほどの人間的な怒りでした。それ程、神は私たちの罪を怒り、悲しまれます。そして、最後の十字架において、イエスは、私たちが受けるべき神の怒りを引き受けられたのです。

 ですから私たちは、このイエスにあって、神のもとに立ち帰らせていただいたので、永遠に神の怒りの火に投げ込まれることは決してありません。でも、私たちの中にある罪まで見逃されるのではありません。神が私たちの中にある罪を、決して見逃されず、怒っておられる。私たちの心にある罪や生き方の罪を、真剣に考えておられることは、今の生き方にとって、とても力強い約束です。そして私たちも、イエスに従い、悪を赦さず、でも人まで憎んだり馬鹿にしたりしない生き方を励まされ、学びたいと思います。

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申命記23章(15~23節)「のろいを祝福に変えられた」

2016-05-08 14:23:04 | 申命記

2016/05/08 申命記二三章(15~25節)「のろいを祝福に変えられた」

 

 申命記の二三章を、1節からではなく15節から読みましたが、説教題は5節の、

 5…あなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。

から取りました。背景にあるのは、民数記二二章から二四章の出来事ですが、神の民は、神がのろいを祝福に変えて下さることを信じます。神が私たちを愛しておられるので、呪いも祝福に変えて下さるし、神はそれが出来るお方であると信じます。しかし、神にそのようなことが出来ると信じても、実際自分の身に、呪いや禍が降りかかると、それを神が自分のために祝福に変えて下さるとは信じがたくなるのも、正直な現実です。神には不可能はないとは信じても、その力を自分のために働かせてくださるとは信じ切れなくなるのです。自分がもっと神に認めてもらえるように頑張るとか、信心深い生き方をしないと、神も自分を気にかけないのだ、と考えやすいのです。神の民の二流市民か、まだ余所者のような意識なのかもしれません。

 今日は5節から説教題を取りましたが、前半は朗読しにくいように思いましたので、15節以下を読んでいただきました。1節には障害者差別のような規定があります。2節も「不倫の子」はダメだと言われて、3節以下では「アモン人とモアブ人」への民族差別のようです。障害とか生まれた事情とか民族などで、受け付けてもらえないのだとしたら、やっぱり神の民になるのは難しいのでしょうか。神は差別の神、冷酷なお方なのでしょうか。しかし、

15主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。

16あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。

と言われています。この場合の「奴隷」とは、イスラエルの同胞の奴隷というよりも、外国から逃げて来た奴隷を念頭に置いています。その外国がどの外国か、アモン人とモアブ人はダメなのか、エドム人とエジプト人ならいいのか、そんなことは言いません。民族や人種を問わず、逃亡奴隷は突き返したり虐げたりせず、住みたい場所を選ばせて、ともに暮らすようにと言われています。これは、驚くべき規定ではないでしょうか。しかも、当時の国際法だと、友好関係にある国同士は、逃亡奴隷の引き渡しも協定を結ぶのが常識だったそうです。ということは、申命記が逃亡奴隷を引き渡さないと決めると言うことは、他の国家との同盟関係は持てないのです。近隣諸国との利害協定よりも、逃げて来た奴隷を守る方を優先する。そう考えても、聖書が観ている所が、ビックリするほど人道的だと気づくのですね。[1]

 そして、これは前半の規定でも変わりません。1節で言われているのは、事故や病気などで損傷した男性のことではなく、人為的に切り取って去勢した男性、つまり「宦官」です。宗教上の、あるいは政治や職業上の理由で、その人の男性としてのあり方を一生否定してしまう。それがここでは禁じられているのであって、怪我や病気での身体障害者となっている人が拒否されているのではないのです。しかも、後には宦官でさえ受け入れられますね。

イザヤ五六4まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、

 5わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

 6また、主に連なって主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を保つなら、

 7わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。[2]

 宦官も外国人も、全ての民が主に仕え、主に礼拝と祈りを捧げるように招かれ、楽しみ、受け入れられる[3]。そういう約束へと展開するのです。申命記や聖書の最初では、大事な原則が具体的に述べられます。体を傷つけたり、不倫をしてはならないことを厳しく教えています。しかし、その字面だけを盾にして、本当に大事な、正義や憐れみや真実が見失われる時、それが修正されるのも聖書です。21節以下では、誓願を果たせとありますが、これもまた後に乱用されて、無責任な誓願もされていきます[4]。そこで、この二千年後、イエスは言われました。

マタイ五34…決して誓ってはいけません。…[5]

37…あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。…

 こういう流れがあるのですね。他にも「不倫の子」でいえば[6]、後にはダビデ王の不倫の子ソロモンが王となります。「モアブ人」は十代目の子孫さえ主の集会に加われないとありますが、「ルツ記」にあるように、ダビデの曾お祖母ちゃんのルツはモアブ人でした[7]。新約聖書の一ページ目の長い系図は、不倫や外国人の血がイエスの家系に入っていたことを強調しています[8]。不倫の子もモアブ人も、主の集会に加えられたのです。そして、使徒の働きではもっと積極的に、神の民は広がっていって、宦官や外国人たちを迎え入れていますね[9]

 そしてそこには、彼らが加わりたい、という魅力があったからです。お情けや無理遣りに「入れてやる」と言われても入りたいとは思えません。奴隷としてこき使われている者が、あそこに行けば自由になれると、逃げて来るような自由さがあったのです。貸せるほどに財産を持つ者が利子でますます富むような社会ではあるな、と言われるのです。口で約束したことは必ず守るとか、腹一杯食べるけれどお持ち帰りはしないとか、不倫はしない、人を呪わない、そういうあり方を大事にするのです[10]。けれども仕事で成功せよとか、嫌でも逃げるな、などガチガチに型にはめることは言われません。模範的な生き方をせよとか、クリスチャンらしくすべきだとも押しつけず、むしろ自由や個性を奪われて苦しむ奴隷が、ここに逃れてきて息をつくことが出来る場所としたいのです。そのための最低限のルールが述べられているのです。[11]

 何よりも、その根底には、私たちを愛しておられる神がおられます。私たちに降りかかる、呪いのような禍や、どんなことをも、神が祝福に変えて下さる。そのような約束が、神の民に与えられています。人の悪意とか敵意とか、禍や災害が降りかからないわけではないのです。病気や死、不幸な出来事は無差別に襲いかかります。そういうことがない「祝福」は言われていません。そうではなく、呪いやどんなことをさえも、神は「祝福」へと変え、万事を益としてくださるのです。それは経済的な祝福とか、個人的な成功よりももっと深く、豊かな「祝福」です[12]。私たちを愛し、ひとり子をさえ惜しまずに与えてくださった神が、私たちの生涯に働いておられます。今はまだ、呪いは呪いとしか見えず、どうしてそれが祝福になるかは分からなくても、神は一つ一つを特別なご計画によって、必ず祝福に変えて下さるのです。

 

「主よ、あなたの祝福は、どんな呪いよりも強く、どんな者をも受け入れ、神の民としてくださる、強く確かな約束です。そして、最も呪わしい呪いは、主ご自身が引き受けてくださいました。心挫く出来事を避けようとせず、なおあなたを信頼し、希望と寛大さを与えてください。痛みや傷の深い世界ですから、あなたからの祝福をもって祝福し合う民とならせてください」



[1] 6節「あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない」も、友好関係を結ばない、ということであって、民族差別ではありません。律法が命じるのは、どんな人をも、個人的に虐げたり、辛く当たったり、不正を行ってはならない、という対人関係だったのです。

[2] イザヤ五六3「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」

[3] 「王の献酌官」であったネヘミヤも宦官であったと考えられます。ネヘミヤ記一11。

[4] 19-20節では「利息」を取ることを禁じていますが、当時の経済と現代の貨幣経済とを単純に同一視することは無理があります。銀行業や金融業は利息で成立しており、イエスの譬えでも「銀行にあずけるべきだった」ともあります。当時の「利息」は、50%など、現代でも「高利貸し」としか思えない法外なもの。ここから、利息は非聖書的、とは言えませんし、利息の支払いを拒否するなどもってのほかです。

[5] マタイ五33「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われたのを、あなたがたは聞いています。34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。…」

[6] 「主の集会」申命記で、この二三章でしか使われない語。

[7] ルツ記参照。

[8] マタイ一5-7。

[9] 使徒の働き八章など。

[10] 9-14節では、主の祝福に答えて、自分たちの中に醜いもの(汚物や排泄物)を放っておかない生活が求められています。14節「あなたの陣営はきよい」は「きよくせよ」という命令ではなく、すでにきよいとされていることに注意。

[11] ただし、契約の本体であるキリストが来られる以前の旧約故、まだこの時点での限界もあった面もありましょう。イエスが来られた時に、聖所の幕は裂け、神と人との隔てが取り除かれ、すべての人が受け入れられるが、旧約では、まだその和解を「待ち望む」段階であったのです。

[12] 神から離れている人間の中では、「神の祝福」そのものの理解が、経済的豊かさや権力や安定になりやすいのです。誓願を止めるのも、誓願を無意味な形式とするのも、奴隷を(積極的にではなく、消極的にであったとしても)虐げることに荷担するのも、貸して上げられるほど豊かなのに利息を取ろうとするのも、みんな私たちの中にある「奪われたくない、損をせず得をしたい」という自己中心です。常にお金のことを考え、損得をはじき出す私たちの「貪り」という偶像崇拝であり、生けるまことの神の祝福を信じ切れない惨めな姿です。与え、他者を生かし、喜んで気前よく惜しみなく、というあり方から程遠い、自分たちさえよければよい、という醜い「祝福」であるならば、それが奪い取られて、本来の祝福に立ち帰ることこそ祝福です。

教会行事BBQ

 

 

 

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