聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問67「サクラメントの恵み」ローマ六1-11

2017-05-07 17:25:47 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/5/7 ハ信仰問答67「サクラメントの恵み」ローマ六1-11

 「サクラメント」とは「礼典(聖礼典)」のことですが、アメリカにはサクラメントという町があります。この町を最初に開拓した人が、そこに流れている美しく、肥沃な川に「サクラメント川」という名前をつけたのだそうです。その川が、教会のサクラメント、聖餐のように豊かな命をくれると感じたからだそうです。私たちが与っている洗礼や聖餐の恵みは、本当に川のように豊かに私たちを潤してくれます。今日はその礼典(サクラメント)の恵みをもう一度深く確認してくれる問答です。

問67 それでは、御言葉と礼典というこれら二つのことは、わたしたちの信仰をわたしたちの祝福の唯一の土台である、十字架上のイエス・キリストの犠牲へと向けるためにあるのですか。

答 そのとおりです。なぜなら、聖霊が福音において教え聖礼典を通して確証しておられることは、わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲にわたしたちの祝福全体がかかっている、ということだからです。

 聖霊は、御言葉と礼典の二つを手段として私たちに福音を知らせ、確証してくださいます。そういうお話しですが、もう一度ここで、それが教えてくれるのは「十字架上のイエス・キリストの犠牲」ですね、そうですよ、と確認しています。しつこいぐらいですが、これにはとても大切な理由がありますし、今日の私たちにも大事なことです。

 このハイデルベルグ信仰問答が書かれた当時、洗礼や聖餐はとても大事な儀式とはされていましたけれども、大きな誤解がありました。それは、洗礼や聖餐を受けなければ救われない、という考え方です。つまり、イエス・キリストの十字架は素晴らしい恵みだけれど、それだけでは不十分。神の恵みに私たちが間違いなく与るためには、私たちも犠牲を捧げて、その恵みをいただく必要がある、という考え方でした。また、洗礼の水や聖餐のパンや葡萄酒そのものに、何か特別な力がある、という考えもありました。洗礼の水を「聖水」と呼んで、その水をかけると悪魔が苦しむとか、洗礼を受けたら救われるけれどその後罪を犯すともう赦されないから、死ぬ直前まで洗礼は受けないとか。また、聖餐のパンは特別なもので、教会が火事になって焼けた後、聖餐のパンだけが焼けずに見つかったとか、口にいれた聖餐のパンを飲み込まずにおうちに持って帰ってミツバチに上げたら、翌日お城型の蜂の巣が出来ていたとか。もう訳の分からないお話しが沢山出回っていたのです。

 その時、聖餐や洗礼、その儀式とか水とかパンや葡萄酒そのものが大事になり、力になっていました。更にはその結果、パンや葡萄酒はイエスの体と血とに本当に変わるのだから、万が一にも落としたら大変だ。だから、落とさないように、パンは信者の口に入れよう。けれども、葡萄酒はひょっとするとこぼさないとは限らないから、もう信徒には飲ませないことにして、司祭が全部飲むことにしよう。それが本当に当時のやり方になっていたのです。こういう背景に対して、ハイデルベルグ信仰問答や宗教改革に加わったプロテスタントの教会はそうではないと言いました。

…わたしたちの信仰をわたしたちの祝福の唯一の土台である、十字架上のイエス・キリストの犠牲へと向けるためにあるのですか。

答 そのとおりです。なぜなら、聖霊が福音において教え聖礼典を通して確証しておられることは、わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲にわたしたちの祝福全体がかかっている、ということだからです。

 キリストの十字架だけでは足りないから、洗礼を受けたり聖餐に与ったりするのではありません。聖礼典を通して、キリストの十字架上の犠牲に、目を留めて、それが十分であることを覚えるのですね。神の子キリストがこの世に来て十字架にまでご自分を与えてくださいました。その完全な犠牲には、私たちは何も付け加える必要はありません。そして、それは私たちのための犠牲でした。そこに

「私たちの祝福全体がかかっている」

のです。キリストの十字架の犠牲は私たちのためでした。私たちの祝福は、幸せや喜びや生き甲斐や希望、すべては、キリストの十字架の犠牲にかかっています。その事を、洗礼と聖餐式において、私たちはハッキリと知ることが出来るのです。洗礼と聖餐そのものに何か御利益があるのではなくて、洗礼と聖餐を通して、よりキリストの十字架の恵みがハッキリと分かる。そこにサクラメントの恵みがあるのです。

 神は世界をお造りになりました。私たちに命を下さり、沢山の祝福やお恵みを下さいました。何より、神のひとり子イエス・キリストはご自身を十字架に与えて、私たちを神のものとして買い戻してくださいました。世界の主である方が、最大限に愛を示してくださいました。そこには、私たちに対する罪の赦し、和解、あらゆる祝福が約束されています。偉大な神がどれほど測り知れない愛で私たちを愛し、お恵み下さっているかが、十字架に表されています。ですからキリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは、キリスト・イエスの死にあずかって、もう今は罪に対しては死に、神に対して生きる者となった。礼典はハッキリと、キリストが死なれたように、私たちも古い自分に死んで、もう罪に歩む者ではなく神と共に生きる私だと思い起こさせてくれます。

 私たちはキリストの十字架の恵みを知らされています。けれども悲しいかな、まだその十字架という唯一の犠牲に私たちの祝福全体がかかっている、とまではなかなか思っていません。健康や出世、お金や有名になること、色々な楽しみや、コマーシャルに囲まれて、そうしたものの方がキリストの御業よりも大きく身近に思ってしまうのです。礼典は、そんな私たちに「キリストの十字架という犠牲こそ、どんな楽しみや幸せよりも大きく深く、決して無くなることのない祝福なのだ」と思い出させてくれます。あれこれの楽しみを楽しみながらも、その全てを造られた神が、私たちに与えてくださった十字架の御業こそ、何にもかえがたい祝福だと確認させてくれます。本当に礼典とは大きな川のようなものでしょう。十字架の恵みが私たちの祝福だと豊かに教え、励まし、私たちを運んでくれます。礼典を通して、キリストの恵みを味わう時、その恵みではまだ足りない気がして、礼典に与ったり、色々な雑音に振り回されたりすることから自由にされます。むしろすでに祝福を頂いた者として、ここから出て行くのです。私たちの信仰が十字架を向くということは、私たちの生活や考えの全てが、キリストの祝福に向くということです。礼典は私たちをキリストの祝福に結びつけてくれる恵みです。

 

サクラメント川とサクラメント市

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ヨハネ黙示録11章15-18節「礼拝⑰ 私たちのではなく神の」

2017-05-07 17:10:41 | シリーズ礼拝

2017/5/7 ヨハネ黙示録11章15-18節「礼拝⑰ 私たちのではなく神の」

 「主の祈り」の最後

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」

は、マタイ六章の「主の祈り」本文にはなく欄外にあります。元々この結びの言葉は聖書にはなかったけれども、早い時期に教会でこの言葉を付加して言うようになった。主が直接教えてくださった本文の結びにふさわしい応答の言葉として、教会が早くから生み出し、ずっと大切にしてきた言葉です。

1.天の父のもの

 私はこの言葉を口にする度に、改めていつも思わされるのは、ただ自分の願いを祈って終わるのではなく、もう一度ここで、神の偉大さに立ち返って終われることの大切さです。願いだけで終わるなら心許ないでしょう。願いや心配に思いが向いてしまうでしょう。そうではなく

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」

と口にすることで、神に向かうことが出来ます。天の父は必ずその力をもって良い事を成し遂げてくださる、と信頼するのです。

 同時に、私たちの中には、神を差し置いて、自分の力や自分の栄光を求めようとする強い傾向があります。主の祈りの最初でお話しして来た通り、

「私の名が崇められてほしい。私の国が来てほしい。私の願い通りになってほしい」

と思っているのです。主の祈りで教えられているのは、そのような私たちが

「自分の名前ではなく、天の父の御名があがめられますように。自分が王さまになるのではなく、天の父が治められる国が来ますように。自分の願いではなく、天の父の御心がなってほしいのです」

と祈ること、こう祈る事によって私たちの生き方や願いそのものが変えられて行くことです。そして、その最後にも

「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」

と祈って、私たちは自分の願いを聞いてもらうために祈るのではなく、神が王であり、神を神として崇めて、そこに私たちの目を向けさせてもらうのです。

 特にここでは

「国と力と栄え」

と言われます。最初の「国」は第二祈願で

「御国が来ますように」

と言われていましたことの繰り返しでもあります。そこでもお話ししたように、イエスの福音は「神の国の福音」です。イエスは、神の国が近づいたことを語られ、ご自身が王として神の国を生き生きと示してくださいました。イエスこそは本当の王として、私たちを治めておられます。でも現実はどうでしょうか。日本という国、アメリカや北朝鮮、イスラム国など、強力な政府や為政者が権力を振るっています。お金や能力や人脈がある者が世界を支配していて、私たちもそのような国の一員に過ぎないようにどこかで思っています。そういう支配者たちにとって、教会が

「国と力と栄えとは限りなく天の父のもの」

と祈る事は面白くないに違いありません。もし本気で私たちがこのように祈っているのなら、政府は何とかしてそれを止めさせ、骨抜きにしようとするでしょう。ただ神を誉め称えて、神の摂理や赦しや恵みを歌う以上に、

「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」

と祈るのは、実に革命的な告白なのです。

2.ハレルヤコーラス

 黙示録には人間の歴史が大きなドラマとして描かれています。教会は、迫害が厳しくなる時代にいました。まさにローマ帝国という国家が勢力をふるって、教会を潰そうとし始めた時代でした。黙示録は、苦しみや戦いが続くようでも、最後には神の勝利に導かれていく物語が繰り返して語られています。その一つのクライマックスとなるのが、今日の11章です。

十一15この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。

 これはまさしく、主の祈りの結びと通じる告白です。ただ天の父が王であられる、というだけではありません。この世の国が、私たちの主、およびそのキリストのものとなるのです。この世の国々が、ローマ帝国も日本もアメリカも、全ての国々はキリストのものとなる。自分たちが王だ、世界の支配者だ、それを証明しようと戦争も辞さず、弱い者や他国を踏みつける権力者も、やがてキリストの前に平伏す。私たちを支配しているのは、キリストです。私たちの魂とか信仰とか教会だけでなく、全生活が神の支配の中にある。私たちの願い求める全ての事が一つ残らず、この神の手の中にある、と私たちは大胆に宣言するのです。勿論、だから「神頼み」で何もしないのではなく、神からお預かりしているからこそ、精一杯取り組むのです。

 この黙示録11章15節の歌詞から造られたのが、あの有名な「ハレルヤコーラス」。楽しげに明るく、ハレルヤと喜び歌う、あまりに素晴らしくてあの曲の最後は立って拍手することが恒例になったあの曲です。主とキリストが世界の国をご自分のものとされる事は喜びです。

「国と力と栄え」

この世界に溢れる権力や暴力やプライドとは根本的に異なります。主イエスは愛し仕える王です。嵐を静める力がありながら、十字架にご自分を与え、弱さを通して恵みの力を現される方です。イエスの栄光は十字架でした。恥や苦しみをも全く厭わずに、十字架に死なれた、あの測り知れない栄光です。そのイエスがやがて、完全に世界の王となられる日が来ます。人間が王になろうと背伸びをして、争って、自分で自分の首を絞めているような時代は終わって、イエスが治めてくださる日が来ます。その日、私たちは心から、あのハレルヤコーラスを、いや、もっと素晴らしい歌を、喜びに溢れて歌い始めます。その日を私たちは信じて、今も既に全てを治めておられる王は、主であるという信仰を持って喜び生きるのです。

3.祈りの結び

 新改訳では

「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」。

 つまり、理由を言うのです。これは私たちの普段の祈りの最後でもふさわしい言葉かもしれません。「主の御名によって祈ります」ではなく「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」と結んでも良いのです。

 祈りながら、本当に聴かれているか不安になる時があります。しかし、天の父が王であり、力と栄光を永遠にお持ちなのだから、必ず聴かれている。私たちの願い通りには叶わないかもしれません。国と力と栄えは私たちのものでなく天の父のものなのですから、下駄は神にお預けするのです。神を引きずり下ろして自分が王座に着こうとする思いを手放し、王なる神に背を向けずに、一生懸命願い、絶えず祈り、嘆き、諦めずに訴え、そして委ねるのです。何より御名があがめ、御国が来、私たちの日毎の糧と罪の赦しと悪からの救いを祈ります。それは天の父が永遠の王、力と栄光の方だから出て来る祈りです。そこに立ち戻って、閉じるのです。

 マタイ六章でイエスが仰った注意事項は、神がどんなお方かを忘れた祈りをするな、ということでした。人に見せるために祈るとか、長々と祈り、まるで私たち人間の側の熱心さやしつこさで神を操作しなければならないかのような祈りをイエスはキッパリと警告されました。ここでも

「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」

と言います。口先での賞賛でなく、本当にそうだと告白するのです。また

「私たちが神に栄光をお返しします」

でもなく、

「あなたのものになりますように」

でもなく、もう今現に、そして永遠にあなたのものです、と言うのです。時々、祈りながら、自分でもどう言えば良いか分からなくなることはありませんか。焦って何とか当たり障りのない言葉で形を整えたくなります。焦るその時こそ気づきましょう。自分の祈りの貧しさに関わらず、神は大いなる方です。神は力強く、恵みの栄光を永遠にお持ちです。そこに心を向け、形を整えるよりも、ゆっくりと結びの言葉を言えばいいのです。それほどの信頼こそ祈りの恵みです。そうして私たちは自分が王になろう、人や状況を支配しようとする誘惑から自由になります。世界戦争や様々な力が圧倒しようとも、その上におられる本当の王を仰ぎます。今も永久までも治めておられるイエス・キリストを告白して大胆に生きることが出来ます。私たちの言いっ放しで終わらない。祈りも礼拝も、その最後には、神ご自身を永遠の王と称えます。それは祈り終えて立ち上がる私たちの心に、喜びの明るい歌を響かせるほどのことです。最後にはこの賛美が響くゴールに向けて、私たちは祈りつつここで生きるのです。

「永遠の王なる天の父。大いなるあなたの深い御支配を感謝します。祈る事を通し、あなたを仰ぐ時間を通して、握りしめて強張った手も開かれるのです。祈りがなければ心は闇に流され、生き方はバラバラになります。戦いも誘惑も大きいからこそ、あなた様を仰がせ、祈りにより、神の国の民として育ててください。喜び歌いつつ、あなたの先触れをする民としてください」

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