2017/5/21 ハ信仰問答69「真っ白に」Ⅰペテロ3章21節
今日から「洗礼」についてお話ししていきます。礼拝におけるとても大事な要素です。でも、肝心の「洗礼とは何ですか」という説明は実はありません。それは、このハイデルベルグ信仰問答が書かれた時代、みんな「洗礼とは」何かを知っていたからです。そこに居た人はみんな洗礼を受けていましたし、物心ついた時から赤ちゃんが教会に連れてこられて、洗礼を受けるのを毎回毎回見ていたのです。ですから、洗礼がどんな儀式かの説明は必要なかったのですが、私たちは確認する必要がありますね。
洗礼とは、水に沈めたり、頭にかけたり、ちょっと滴を垂らしたりする儀式です。その時に「父と子と聖霊の御名によって、洗礼(バプテスマ)を授けます」と言います。
(全浸礼)
(灌水礼)
(滴礼)
そして、その事によって、その人は正式にキリストの弟子となり、教会員となります。この、水を使って、主の御名によって施し、キリストに正式に結びつけられるのが洗礼(バプテスマ)という儀式だと言えるでしょう。では、その意味は何なのでしょうか。どうして教会では洗礼を施すのでしょうか。
問69 あなたは聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
この問い自体に大きな鍵があります。「十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを…思い起こしまた確信させられる」と言います。決して、十字架上でのキリストの犠牲が洗礼によって私たちの益になる、とは言いません。キリストが十字架で私たちのために死んでくださったことは、洗礼や何かの手段によらず、私たちの益になるのです。でも、考えてみれば、これ自体不思議なことです。今から二千年も前に、遠くのエルサレムの町で十字架にかけられたイエス・キリストの死が、どうして現代の日本にいる私たちと結びつくのでしょうか。歴史も文化も、時間も場所も、全くかけ離れた出来事が、どうして私たちに効力を発揮するなんて分かるのでしょうか。
実は、それが洗礼の意味なのです。キリストの犠牲が私たちの益になることを、
答 次のようにです。キリストがこの外的な水の洗いを制定された時、約束なさったことは、わたしがわたしの魂の汚れ、すなわちわたしのすべての罪をこの方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ、そして、それは日頃体の汚れを落としているその水でわたしが外的に洗われるのと同じぐらい確実である、ということです。
洗礼を通して、思い起こしまた確信させられるのです。キリストが、私の魂の汚れ、即ち、私の全ての罪を洗ってくださる。そのために、イエスは十字架で血を流してくださいました。本当に尊い苦しみをもイエスは私たちのために進んで引き受けて、血を流されて、あらゆる罪を引き受けてくださいました。そればかりではなく、イエスはご自身の聖霊のお働きによって、私たちのうちに働いてくださいます。聖霊は、私たちの罪をきよめて、心を新しくしてくださいます。といってもピンと来ませんね。なんだかなぁと実感が湧かないのが正直なところです。そういう私たちのために、イエスが制定してくださったのが、洗礼なのです。水にザブッと沈んだり、ジョジョジョッとかけたり、ポタッと垂らしたり、あの水で濡れてヒヤッとする感覚が、イエスの罪の赦しに与った、ということを思い起こさせて、確証させてくれるのです。それが洗礼なのです。
…そして、それは日頃体の汚れを落としているその水でわたしが外的に洗われるのと同じぐらい確実である、ということです。
皆さん、泥や汗で汚れた時、お風呂に入りたいですね。シャワーを浴びて、ごしごし体をこすって、頭もシャンプーでよく洗ったら、流したら、体も心もサッパリするでしょう。お風呂に入って汚れを洗い落として、綺麗になるように、それと同じぐらい確実に、キリストは私たちの罪を綺麗に聖めてくださるのです。私たちの心にある全ての罪や汚れを、キリストは洗い清めてくださるのです。次の問70で、
問70 キリストの血と霊とによって確実に洗われるとは、どういうことですか。
という事をお話ししますので、今日は洗礼が私たちにキリストの洗いを
「思い出させ、確実にしてくれる」
ということに絞ります。そうです、洗礼は、私たちにキリストの洗いを思い出させてくれます。決して、洗礼が、私たちの心を洗ってくれるのではありませんよ。また、罪を犯したら、そのたびに洗礼を受けたら、キリストによって罪が洗われる、というのでもないのです。むしろ、洗礼は、一度きりで良いのです。
Ⅰペテロ三21そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
洗礼が肉体の汚れを取り除くのではないのです。洗礼を受けてからも、大きな失敗をするかもしれませんし、心にある様々な罪に悩むでしょう。その時にもう一度洗礼を受け直して、イエスの罪の赦しをいただきましょう、ではないのです。洗礼は、何度も受けるものではなく、一度受ければ良いのです。なぜなら、イエスがご自分のいのちによって私たちの罪を洗い流してくださったからです。洗礼を受けた、ということは、イエスが私たちの罪のためにもう完全な犠牲を払ってくださったことだ。この罪のために、神が私を汚らわしい目でご覧になっていることはない。神が私をもう責め、怒っていることはない。そう思い出させてくれて、私たちの心を神へと向けるのが洗礼です。私たちが自分で思い出すのでは無くて、洗礼が思い出させてくれます。私たちが思い出せなくて、まだ信じられなくて、疑っているとしても、主は私たちを洗い清めて、雪よりも白くしてくださいました。それを確証させてくれるのが、洗礼の恵みなのですね。
イザヤ一18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」
この言葉を、アフリカの暑い国に行った宣教師たちは、悩んだそうです。雪を見たことがない人たちに「雪のように白い」と言っても分からないからです。考えに考えたあげく、その人たちにとって一番白いものを使いました。
「あなたがたの罪が緋のように赤くても、アーモンドのように白くなる」
(花も実の粉も真っ白なアーモンド)
皆さん、本当にイエスは私たちの罪を赦して、真っ白だと思ってくださっています。洗礼はその事の保証です。