2018/3/11 ハ信仰問答115「目標「感謝が満ちあふれる」」Ⅱコリント4章14-18節
夕拝のハイデルベルグ信仰問答も、十戒の解説は今日が最後です。前回は十戒を守ることはどんなキリスト者にも出来ない、それは神が与えてくださった始まりを歩み出したに過ぎないとお話ししました。私たちは十戒を守って神の子どもらしく生きることが出来るわけではありません。誰もそんなことを言える人はいないのです。その続き、
問115 この世においては、だれも十誡を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまでに厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。
どうせ一生完璧に出来ないのなら、十戒なんて説教しなければいいんじゃないの? そんな声を汲み取っています。ここではそれに対して、二つの答を教えています。
答 第一に、私たちが全生涯の間、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心にキリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされて行くためです。
第一は、律法を教えてもらうことで、私たちは自分の罪の性質が分かる。それも次第次第にもっと分かっていく、というのです。そうして私たちがますます熱心に、罪の赦しと義とを求めるようになっていくため、と言います。確かに私たちは、律法を教えてもらってそれを守れるようになるわけではありません。けれども、律法を教えてもらわなければ、それを守れない事にさえ気づかないでしょう。自分が間違っていることに気づかず、憎んだり盗んだりウソをついたりしてしまいます。それで、とても大切な人生をもっとひどくしてしまうでしょう。あるいは、自分が悪いのに、人を責めたり、自分は悪くないと言い張ったり、自分の事を棚に上げて文句ばかりいうかも知れません。そういう狡い所も、罪の特徴の一つです。けれども、律法をしっかり教わることで、私たちは問題が、誰かとか何かとかではなく、自分が持っている問題だとハッとさせてもらえます。人のことは言えない、自分にも同じ問題があると気づけます。
この図は、クリスチャンとしての成長を現した絵です。時間が経てば立つほど、聖書を通して、聖なる神についての知識が増えていきます。そうすると、同時に、自分自身の罪や小ささがもっと分かるようになって、ますます謙遜になります。でもそれは悲しいことや、いじけた事ではありません。小さな自分と大いなる神様とが、イエス・キリストの十字架によってつながっています。イエスの十字架の恵みがどれほど大きな、素晴らしいかが分かるから、自分の小ささも素直に受け入れるようになります。背伸びや背比べをせず、謙虚になります。だから、人との関係にも気負いがなくなるのです。
それは全生涯かかる作業です。私はもうすぐ五〇才になりますが、小さい頃は、大学生ぐらいになったらもう人間として立派で落ち着いて、間違いなんかしなくなると思っていたんですが、その倍以上を生きても、心はまだ間違いや罪の思いが一杯あります。いま三重県にいらっしゃる尊敬する牧師も、そんなことを書いていました。若い頃は、もっとクリスチャンらしくなろうと頑張っていた。中年になってもそれが全然できない。ますます自分の罪が見えてくる。もう中年も終わる今は、あきらめて、力みが抜けて、こんな自分が神様に愛されていることを幸せだなぁ~と思う。そんなことを書いていました。罪を犯さない聖い人になったのではなくて、ますます神様に頼るようになって、毎日、赦しと行くべき正しい道を示していただいている。それを幸せと感謝している。私もそうなりたいなぁと思っています。
先のパウロの言葉を思い出しましょう。
Ⅱコリント四15すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。
神はやがて私たちをともに御前に立たせてくださいますが、今も私たちを訓練しておられます。色々な事を通して、私たちは誘惑もされますが、そういう中で律法があるからこそ、私たちはますます神に拠り頼み、恵みを戴きます。十戒を学ぶ歩みは、窮屈や無意味な事ではありません。恵みがますます及んで、感謝が満ちあふれて、神の栄光が現れるようになる。それが神によって今与えられた時間の目的なのです。
第二はもっと積極的に
「完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされて行く」
とダイナミックな世界を語っています。確かにこの生涯では完成しません。私たちの中に始まった、神の子どもとしての心はほんの始まりに過ぎません。でも、やがて完成する素晴らしいゴールに向けて、今、一日一日励まされて、聖霊の恵みを請いながら歩むのです。「聖霊の恵みを請う」は、この次の問116からの「祈り」についてのお話しに続いていきます。ですから、簡単に言えば、十戒を教えられ、聖書で示されている生き方を学ぶ度に、私たちはますます祈るようになるのです。聖霊なる神が助けて下さるようにと縋るのです。私たちの成長は全て聖霊の力による恵みです。聖霊に頼らなくても良くなるのではなくて、ますます聖霊の恵みを請い求めます。神のかたちへと新しくされて、完成されることを待ち望んで、今励むのです。
その事を書いたこんな図がありました。私たちは、キリストの心と人格を持つように変えられて行きます。そこには、計画的な訓練、学びや練習も大事です。そして、毎日の生活自体が、計画できない訓練となって、私たちを作っていきます。その頂点にあるのは聖霊のお働きです。そこには、コミュニティとアカウンタビリティと、両方での成長があります。こうした全人格的な成長であって、決して、ただ清らかに、人畜無害な聖人になっていく、というようなことではありません。こうした面があるのも参考になります。でももっとシンプルにこういうイメージをお持ち帰りください。
私たちは種です。やがて大きな神の国という森の一本になる。そこに向けて今、芽を出したのです。とてもまだ大樹には似ても似つきません。しかし芽を出し、育ち始めたのです。十戒は、私たちがやがて完成に至る、麗しく強い神の国の姿を教えています。神以外のものに誘われたり、人間関係を壊したり怖がったりすることがなくなるのです。今はまだ信じがたい話です。そうでない世界にいます。しかしこの今の生活もまたそこに向けての訓練です。聖霊は全てを恵みとして永遠の栄光を下さいます。祈って、聖霊に拠り頼みつつ、御言葉に教えられ、励まされて、このゴールに向かって行きましょう。