2018/3/18 ハ信仰問答116「祈りが必要です」ルカ十一章1-13節
これはキリスト教会に残っている、最も古い、三世紀後半の壁画です。迫害や殉教の時代から、芸術を残す余裕も出来てきたのでしょうか。そのキリスト教美術の一番古いものに祈りの姿があります。それも、女性が両手を挙げて、目を天に向けて祈っているというとても自由な、明るい姿です。教会の信仰の特徴が、この祈りの伸び伸びとした姿勢によく現されているようです。今日から、祈りについて学んでいきましょう。
問116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。
答 なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです。また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけだからでもあります。
ハイデルベルグ信仰問答も、他の信仰問答と同じように、最後に祈りについて触れ、主の祈りの解説で終わります。しかし、とても特徴的な事があります。それは、祈りとは何か、というよりも「なぜ祈りが必要なのですか」と言う言い方です。
ハイデルベルグ信仰問答の当時、一六世紀、教会で「祈り」と言えば既に言葉が決まっていた「主の祈り」や「アヴェ・マリア」やラテン語「祈祷文」での祈りでした。今のように自由な言葉で祈る「自由祈祷」は主流ではありませんでした。そうすると多くの信徒は、あまり祈りに身が入らない。大事だと思えない、という事があったでしょう。私にも祈りが必要なの? と思ったとしても不思議ではありません。だから、そういう時代に「なぜ祈りが必要なのですか」と問いかけたのです。神が私たちの救いのために、もう完全なことをしてくださいました。ですから、私たちが生きるのは、神の恵みに付け加えるためではなく、感謝をもって生きるためだ。そうハイデルベルグ信仰問答は言ってきました。そして、
「祈りは、神が私たちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」
という言葉を生み出したのは、本当に素晴らしいことだと思います。
祈りは
「感謝の最も重要な部分」
しかもそれを神は求めておられます。私たちの良い行いや、献げ物にもまして、私たちが祈る事を神は求めておられる。それはとても驚くような言葉です。そして、実際に、分かる言葉で祈りを唱えるようにしたり、自由に祈ったり、祈る喜びを育てることが始まったのでしょう。だから今の時代に、キリスト者はこの時代よりももっと喜んで、祈るようになっています。
祈りの大切さ、素晴らしさを見ることが出来ます。もしも祈りの必要性が分からなくなったり、「祈るのは面倒くさいなぁ」と思ったりしているとしたら、それはとても大きな損失です。たとえば、先の絵でも、この写真でも祈りの姿勢は本当に伸び伸びとしています。神様に向かう思いが、姿勢にも表れています。手を上げたり目を開けたり、肩を抱いたり、もたれかかったり、その人の心がそのまま姿勢になっています。以前私は「手を組むのがクリスチャンの祈りで、合掌は仏教だからダメだ」と言われたことがあります。そういう考えだと祈りは、途端に窮屈で、義務や余所余所しいものになるような気がします。
神は私たちに祈りをお求めになります。神の救いとは、私たちを天国に入れるとか、幸せにしてくれることぐらいに考えるのは、とても勿体ない誤解です。私たちが神との関係を回復すること。私たちのすべてを祝福したもう神の恵みに感謝して、神との人格的な交わりを持つようになることが「救い」なのです。私たちが、神に祈ることもなく、ただ真面目に、清らかにしていればいいとか、それなりに幸せに楽しんでくれていればいい、とは思われません。そもそも、神が私たちのために救いを備えて、キリストの十字架というとんでもない犠牲まで払って下さったのはなぜでしょうか。私たちを愛されたから、私たちとの交わりを回復することを願い、求めてくださったからです。それこそが、神に作られた私たちの本来の生き方です。私たちは、神への感謝に生きるようにと造られたのです。祈りなくして、私たちは生きることは出来ません。私たちは祈りを必要とする存在なのです。神に祈り、感謝を献げ、恵みと聖霊とを請い求めることなくしては、糸の切れた凧のような生き方になってしまうのです。
…また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけだからでもあります。
この部分を私たちはどう読むでしょうか。人間がこんなことを言うなら、ケチ臭くて、依怙贔屓だと非難されます。そんな心が狭くて意地悪なのが神だとしたら、確かにそんな神を信じるのもゴメンです。そういう事であって欲しくないのは分かります。
先に読んだルカの18章は
「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」
語られたたとえ話です。そこでイエスは
「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」
を持ち出されました。そんな不正な裁判官でさえ、貧しい女性が困って訴え続けるなら、重い腰をやっと上げるだろう、
「まして神は」
と仰るのです。
言うまでもなく、神はそんな怠惰で強欲な裁判官とは全く違います。神は私たちを深く深く愛し、全ての必要を私たちよりも知っておられます。私たちが願わなければ動かない神ではなく、私たちの心にある全ての思いも心配も、完璧に知っておられます。しかし、そんな神に祈る事を勧めるために、あえてイエスは、不正な裁判官と貧しい未亡人という譬えを持ち出されます。それは、私たちに祈って欲しいからです。
イエスは私たちが、祈りを聞いてくださる神を見上げて祈るようになり、失望や諦めで生きて欲しくないと願われます。また、私たちが「どうせ自分なんかの祈りなんか聞いてもらえない」と勝手に思わず「神に心からの呻きを持って絶えず祈り、感謝する」なら神は必ず聴かれると励ましてくださいました。
神は私たちが祈らなくても全てをご存じです。いや、私たちがいなくても困りません。でも私たちを作られ、私たちが祈り神に語り、神を信頼し、この関係を喜ぶようにと、私たちをお造りになりました。イエスはそのために、人となって私たちの中に住まれ、こんなユニークな譬えを語り、ご自分の命まで与えて、関係を回復してくださいました。ですから、このイエスにあって祈りましょう。心からの祈りは決して無駄ではありません。心を神に向けて、私たちの必要を全て知り、願いも思いもすべて既にご存じの神に、ゆっくり願いと感謝をささげましょう。