2018/3/4 ハ信仰問答114「わずかでも始まった」ピリピ3章12-16節
先週まで、神である主が神の民に下さった十戒について一つずつお話しをしてきて、最後の第十誡までお話しが出来ました。神以外の神を持たない、父と母を敬う、殺さない、姦淫しない、欲しがらない、そういう戒めを一通りお話しした上で、次の問答は、十戒を守ることが出来る人はいますか?という問いかけをします。
問114 それでは、神へと立ち帰った人たちはこのような戒めを完全に守ることができるのですか。
答 いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間はこの服従をわずかばかり始めたにすぎません。しかしながら、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけにでなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです。
十戒は神が下さったとても大切な戒めですが、私たちは神の民とされても、これを完全に守ることは出来ません。私たちはこの戒めをもらって、大切な生き方を願い始めただけです。完全に守ることなど出来ませんし、完全どころかほんの一歩を始めたに過ぎません。これを誤解して、十戒や聖書の戒めを完全に守れるのがクリスチャンだと思っている人は沢山います。
「敵を愛しなさい」
「右の頬を打たれたら左も差し出す」
なんてのがクリスチャンで、自分には出来ない、と言う人も結構います。クリスチャンでも、完璧な愛があるように生きる立派な生き方がクリスチャンの証しだ、とどこかで思い込んでいる人がいます。しかし、それは無理ですし、聖書の教えそのものとも違います。自分が愛のある、立派なクリスチャンだと見られたい-そんな思い上がりは思い上がりとして捨てなければなりません。また、そんな誤解をされて、自分には無理だと思っても凹む必要はありません。それは人間が思い込んでいる勝手な誤解です。聖書が教えているのは、私たちの本当の幸せや、自然な本来のあり方、神様の基準であって、それを私たちが、いや
「最も聖なる人々」
でさえ、出来るわけではないのです。
歴史上の立派なキリスト者も私たちもみな、神の戒めを完全に守るには程遠いのです。その一例として、聖書の使徒パウロもそう告白しています。
ピリピ三12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
励まされる言葉だと思います。パウロも、既に得たのでも、完全にされているのでもない。ただ捕らえようと追求して、目標を目指して走っている、というのです。キリスト・イエスが下さる生き方は、目標を目指して走る長距離走のようなものです。そして長距離ですから、短距離のようにダッシュして全力で走ってはすぐにバテて息が上がってしまいます。生涯掛けて、神の国のゴールを目指して、淡々と走って行くのです。でもその走り方は、まだ下手かも知れません。へっぴり腰だったり、無駄なエネルギーを使ったり、力みすぎて転んだりするかもしれません。神は十戒を与えて、神の国の生き方を教えてくださいましたが、私たちはまだ下手で、それを身に着けている途中です。でもそうこうしながらも、神は私たちの下手さを笑ったりなじったり非難しません。私たちと一緒に走り、応援して下さいます。休みやケアをしてくださいます。そして、私たちとともにおられて、完走させてくださるのです。完璧なフォームで走ったり、完璧なスウィングやピッチングをしたり出来なくても、スポーツは楽しいものです。神の戒めもそれと同じです。神は私たちに、神を愛し、互いに愛し合うよう命じられました。これが私たちが願うことです。大事なのは、神を愛し、人を愛することです。
私たちが「自分が素晴らしい愛の人になるぞ」とか、「天使のような人になろう・そう思われたい」と考えているとしたら、おかしなことになります。そうではないでしょう? 大事なのは、自分と同じように、神と人を喜ぶようになること。だから、まだ今は、完全には程遠い始まりです。それでも良いのです。そして、完璧ではないから、私たちは神に頼ります。自分の過ちを告白します。愛を願いつつ、そうできない自分に気づかされる度に、正直にそのことを祈ります。自分では恥ずかしいと思うとしても、聖書はそれが今の私たちの姿だとあっけらかんと教えています。
だから、その自分の思いを告白し、祈ってもらうことが出来ます。大きな失敗をしたとしても、その時こそ、自分を差し出して祈ってもらい、悔い改めと赦しを一緒にしてもらえます。立派な人でないとダメなような考えで、クリスチャンだったら神様から完全な人にしてもらえると考えると、息苦しい関係になります。愛し合うことを求めるはずが、愛がないといって裁き合うのは、大変なちぐはぐです。それよりも、不完全な者同士だから、支え合い、それでも愛し合い、助け合える。立派なふりをしなくても良いし、正直に告白をしたり、その人を受け入れて、愛する方が遥かに美しい姿ではないでしょうか。
こう考えると、神は私たちに「愛しなさい」という命令だけを下さったのではないことに気づきます。愛する相手との出会いも下さいました。そしてそれは、私たちを愛してくれる仲間でもあります。また、愛したいという
「真剣な決意」
も下さいました。それはまだ、ほんの少しの始まりでしかありません。まだまだ、妬みがあります。自分の方が大事に思えます。けれども、神はその私たちを愛してくださり、私たちがともに愛し合うことを願って、そのために私たちに近づいてくださいました。イエスは、私たちを愛して、十字架の苦しみと孤独、屈辱と忍耐にも耐えて、赦しといのちを下さいました。その愛に、私たちは到底及びません。イエスのような愛なんて、遥かに手の届かない愛です。しかし、そのイエスが私たちに近づいて、御自身を与えてくださいました。私たちが、神を愛したい、人を愛したいと願う心は頼りなくて弱くても、でもそれ自体が、イエスが下さったかけがえのない始まりなのです。私たちが今、主の愛をいただいて、神の戒めに従って生きるよう歩み始めている。謙虚に、希望をもって覚えましょう。