聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問121「遠くて近い天の父」Ⅱ歴代誌6章12~21節

2018-05-06 20:24:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/6 ハ信仰問答121「遠くて近い天の父」Ⅱ歴代誌6章12~21節

 今日も「主の祈り」を祈りましたが、その最初に「天にいます私たちの父よ」と呼びかけました。その「天にいます」とはどういう事なのでしょうか。

問121 なぜ「天にいます」と付け加えられているのですか。

答 わたしたちが、神の天上の威厳については地上のことを思うことなく、その全能の御性質に対しては肉体と魂に必要なことすべてを期待するためです。

 二つのことが言われています。第一に神の威厳(厳かさ、重々しさ)について、第二に神の御性質について、です。第一の神の威厳は、天上のものですよ、この地上の世界の威厳とは違いますよ。文字通り、雲泥の差、天と地ほども違うのが神の威厳なのですと思うためだ、と言います。人間の世界にも、神のように崇められるものもあります。古代の王国の話や宝物や軍隊の話を聴くと、信じられないような話も沢山あります。でもそうした人間の凄さにどんなに圧倒されても、やがてはそれは失われます。違う人に追い抜かれたり、朽ちていきます。また多くの人間の威厳には、嘘があったり、暴力があったりします。聖書の時代にも、見えない神を信じることを忘れさせるような建物や財力が沢山あったようです。しかし、それは今殆ど残っていません。もう住む事も出来ない廃墟が残っているぐらいです。教会でさえそうです。聖書の時代から今に至るまで、大きな教会も何百年で交代しています。父なる神様の威厳は、そのような地上の権威とは違います。神の権威は決して朽ちることがありません。また、ごまかしや暴君のような所もありません。神の威厳は天上の威厳であって、人間の威厳のようなものではない。そう念を押すために

「天にいます私たちの父よ」

と言うのです。これが第一です。

 第二に、天の父の御性質が天のものであるとは、私たちにとって遠い、ということではありません。神は私たちの父となってくださったのですから、私たちに関わり、私たちを養ってくださるのです。それも、神は天の父という測り知れない大いなるお方なのですから、私たちの必要なこと全てを期待して良いのです。天の父への信頼をも、完全な信頼へと広げてくれる。それが、「天にいます」と付け加えるもう一つの恵みです。

 先ほど第二歴代誌の言葉を読みました。ソロモン王が神殿を建てた時の祈りです。2年も掛けて、立派な神殿を建てたのです。その最初に、ソロモンが台の上に載って、主に祈った、長い祈りが記されています。ここでソロモンはこう祈っていました。

Ⅱ歴代誌六13…そしてイスラエルの全会衆の前でひざまずき、天に向かって両手を伸べ広げて、14こう言った。「イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。

 天に向かって祈っていますね。そこで天にも地にも、あなたのような神は他にありません。私たちが精一杯あなたの前で、あなたに仕えながら生きようとする者に、契約と恵みとを守られる。神の約束してくださった契約を決して破棄されません。また、恵みもいつまでも守ってくださる。そんな神はあなたの他にいない、と言ったのでした。

 けれども、この後にソロモンが言った言葉でもう一つ、忘れがたい言葉があります。

18それにしても、神は、はたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。

 この建てたばかりの立派な神殿を自慢するのではありません。いや、神は地の上に住む方ではないし、天だって十分ではありません。天の上に天があるとしても、そこにもあなたをお入れする事は出来ません。まして、この神殿など尚更あなたをお入れする事は出来ません、というのですね。とても大胆で、謙虚な言葉です。

 確かに神は天よりも大きな方です。聖書は神が天と地をお造りになった、と教えていますし、私たちはそう信じています。神は天と地をお造りになった方で、天と地よりも大きなお方です。私たちから観ると、天は途方もなく大きく、広い、手の届かない世界です。けれども神から観ると、地球だけでなく、宇宙全体が小さなものなのでもないでしょうか。

 宇宙は神の手の中にあるもの。神が愛おしんで造られたとは言え、その天に神が入る事は出来ないはずです。天の天も神の家には小さすぎます。しかし、その宇宙の中のほんのちっぽけな私たち人間を、神は愛おしみ、その私たちを子どもとしてくださり、私たちから「父よ・お父ちゃん」と呼ばれる事を神は喜んで選んでくださいました。それと同じように、神はこの世界の中の天に下りて来られて、私たちの

「天の父」

として御自身を現してくださったのです。天の天も神には小さいのですが、それで終わっては、私たちは全く神をイメージすることが出来ませんね。神が天にいますと呼べることで、私たちは神を

「天にいます父」

と思えるのです。ですから神が

「天にいます」

ということは、私たちにとっての遠さ、距離感ではありません。その反対です。神が近くなって下さった、ということです。天が入れる事が出来ないはずの偉大な神が、私たちに神の威厳の偉大さを思えるように、そして、神が私たちに必要なすべてのものを下さるとハッキリ確信できるようにと、天にまで降りて、近づいて来て下さったのです。

 ですから、私たちは

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかける時、神が遠い天におられる方ではなく、天にまで近づいて私たちをご覧になり、支え、励ましてくださる神に、ますます信頼を寄せるのです。更に、天に留まらず、神の子イエスはこの地上にまで降りてこられ、私たち人間と同じになることを厭われませんでした。私たちを神の子どもとするために、父なる神と子なる神が惜しみないチームプレーで近づいてくださいました。その御業を思って、私たちは今、天を観ながら生きていけます。

伝道者の5章2節「神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」

 神は天におられ、あなたは地にいる…。それは距離の遠さではありません。天よりも偉大な神が、天に来られて、私たちの「天の父」としてご自分を示してくださっています。心からその偉大さを崇めて、大きく信頼を寄せるのです。天の父の偉大さを忘れて、人間の小さな考えや焦ってしゃべっていることがよくあります。この方に祈るのは、たくさんの言葉を並べ立てるより、少ない言葉でゆっくり、信頼を育む時間なのです。

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使徒の働き二三章11-23節「勇気ある避難」

2018-05-06 20:21:35 | 使徒の働き

2018/5/6 使徒の働き二三章11-23節「勇気ある避難」

 今日の箇所は、使徒パウロに対する暗殺計画というサスペンスが伝えられていました。元は生粋のユダヤ主義者の先鋒であったパウロが、イエスに出会い、今では他民族にも神の福音を届けて生きている。そのパウロに怒り、殺そうとした民衆から、ローマ兵の将校がパウロを救い出したのですが、遂に暗殺計画となって、パウロが救い出されていく、という顛末です。

1.主を証しするために

 もうこの暗殺計画で、パウロはエルサレムからカイサリアに移送されますので、エルサレムでのパウロの証しは終了するのです。この時点でパウロは出来る限りのことは果たして、これ以上留まる事は危険だという判断で、引き上げるのです。その事を示すのが主の幻です。

11その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。

 主はエルサレムでのパウロの証しを受け入れて下さって、目をエルサレムからローマへと向けさせます。ここで「勇気を出しなさい」とあるのは、パウロがこの時点でよっぽど落胆していたのでしょうか。主はパウロに頻繁に現れていたわけではありませんし、私たちが憔悴している時には神様が現れてくださる、ということもありませんから、あまりここでの心境をとやかく憶測しない方がよいでしょう。いずれにしても、この言葉はパウロを勇気づけたに違いありません。エルサレムでの証し、特に23章前半の議会でのやり取りは、学者たちも評価に苦しむぐらい理解しづらくて、パウロの証しは失敗だった、ちゃんと証ししていないとも思ったりするのですが、この幻は主がパウロの証しを責めておらず、受け止めて下さった証しですね。

 もうパウロを葬り去ろうとしか考えないぐらい、聞く耳は持たない段階でした。パウロは愚直に真っ直ぐ語るより「変化球」を投げたのです。ただ十字架の福音や自分の信条をオウム返しに繰り返すばかりが証しなのではありません。私たちがその主の御言葉をどう受け止めるか、私たちの生活や心に真っ直ぐに向かい合って来られる方の前に自分が立っているか、そしてそれを相手にも投げかけていく。そういう証しが証しなのです。そういう証しは、様々な形を取り得ますし、たとえぎこちなくて誤解や逆上で終わるとしても、主は受け止めてくださる。私たちのたどたどしい生き方も長い目で用いて下さる。そこに励まされて勇気を持てるのですね。

 パウロの告白に耳を貸したくない人々はパウロを殺すまでは飲み食いしないと誓って集まり、パウロを裁判にもう一度引き出したら、隙を見てパウロを殺そうと企みました。これをパウロの姉妹の子ども(甥)が聞いてパウロに知らせて、パウロは甥を千人隊長の所に送って、その夜、パウロは五百人近い兵士に囲まれてカイサリアに護送されていくことになるのです。

2.平気なふりをしない

 甥っ子が来た時、パウロはこうは言いませんでした。

「心配は有り難いが、自分には主がいてくださる。夕べは主が幻に現れて、これからローマで証しすることを保証してくれた。だから心配しなくて大丈夫。うちに帰って、イエス様に祈っていてくれ。君も教会に行くんだよ」。

 そこに気づかせてくれた説教を忘れられません[1]。パウロはこの時、逃げずに留まろうとはしませんでした。主が何とかして下さると信じるのが信仰だとか、ローマ兵の手をこれ以上借りるなんて証しにならない、などとは考えず、甥っ子を千人隊長の所に送って、自分の危険を伝え、対策を講じてもらいました。その結果、彼はカイサリアに護送されます[2]。ここでもパウロはまた守られて、救い出されました。以前のように、御使いが現れたり、地震が起きたりといった奇蹟はなかったにせよ[3]、ユダヤ人の甥っ子や異邦人の百人隊長が動いてくれました。あたかも彼らは神の御使いのように働いて、パウロの命を守ってくれたのです。

 逃げたり、このままではダメだと認めたりするのは案外難しいものです。

「逃げるなんて卑怯だ、逃げないのが勇気だ」。

 そう思い込みがちです。もう危険なのに思考を停止したり、危機的な状況なのに

「何とかなるんじゃないか」

と思い込もう。あえて考える事は拒否して、自分のやり方を変えたくない心理が働くのです[4]。その時、信仰さえ自分の行動の正当化に使うのです。

「自分で動かず祈って主が動いて下さるのを待つのが信仰だ」

と行動を禁じる声さえ聞く事があります。行動を起こしたくないための、まことしやかな口実として

「祈って待っています」

と信仰を隠れ蓑にするのです。逃げれば良い、頑張らなくて良いのでもありませんが、頑張れば何とかなる、信じれば解決するという精神主義は恐ろしい結果を招きます。

 この時パウロを暗殺すると呪いをかけて誓った人たちは、計画失敗にどうしたのでしょうか。本当に飲み食いしなかったのでしょうか。それを批判や笑うつもりはないのです。飲んだり食べたりしたんであってほしいのです。「それ見た事か」なんて笑ったりしないから、それはそれで真剣だったと認めるから、命を大事にしてくれよと思うのです。この十数年後、ユダヤとローマの関係が急速に悪くなりエルサレムがローマ軍に包囲されます。それでも多くの熱心なユダヤ人が「エルサレムは神の都だから大丈夫」と狂信的になって、都に籠城し続けるのです。このユダヤ戦争は、紀元七二年、餓死や自害で凄惨な最後を迎えます。死者は百万人とも記録されています。そうした行動とは違って、パウロは自分の命を大事にしたことにホッとします。

3.逃げる勇気

 主イエスが下さる勇気は現実の厳しさが見えない狂信とは違うはずです。現実をしっかり見つめ、出来ることをする勇気です。無理をして、神からお預かりした本当に大事なもの(いのち、心、人)を犠牲にする勇気ではなく、無理を認めて大事でないものから手を引ける勇気です。逃げたり引き返したり出来る勇気。助けを求め、相談し、解決に向けて行動を起こす勇気でした。パウロも自分の身を守る行動を起こしました[5]。いいえ、主イエスでさえエジプトに逃げ、危険な道を避け、本当に向き合う十字架の時までは安全な道に退かれました。

「イエスでさえ逃げた」「パウロは助けを求めた」。

 これは「逃げてはいけない」と思い込んで、自分を追い詰めて、自殺や鬱が減らない今の時代への慰めです[6]。学校のいじめ、過労死寸前の勤務、家庭の問題、人間関係の辛さ、或いは教会生活の負担もあります。そういうことは相談しづらくて、自分で解決できればと思いますが、やはり一人で抱え込まずに相談して、自分の安全を確保したほうが良い場合、恥ずかしがることはありません。具体的にどういう行動が賢明かはケースバイケースです。だから祈って奇蹟でも起きて解決してくれたら有り難いし、楽ですが、それだけが信仰だと言う狂信は危険です。勇気を持って手を引けるよう祈る場合もあるのです。

1コリント十13あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 パウロは「神は堪えられない試練には遭わせないのだから堪えるのだ」とは言っていません。堪えられるよう、試練とともに脱出の道を神は備えておられる、です。黙って堪える時もあれば、脱出の道が備えられていてそこから逃げる選択もありなのです。現実逃避とは違います。逃避は気を紛らわすだけでもっと問題をややこしくするだけです。

「脱出の道」

は新しい始まりへと通じる道です。ここでもパウロは、エルサレムから移され、それがローマに護送されていく道程になっていきます。彼の避難は次の証しへの「道」となりました。今も、厳しい出来事の中で、主はどんな道を備えてくださるか知れません。だから、意地で留まったり、場当たり的な気晴らしに逃避したりせずに、現実に臨機応変に行動しましょう。そのように自分の限界を素直に認めて、賢明に行動する生き方そのものが、主を証しするのです。

「私たちの隠れ家なる主よ。あなたは隠れる者を守り、蔑まない方です。どうぞ私たちに本当の勇気と知恵を与えて、あなたから授かった命を大事に育ませてください。現実を見つめ、危険を避け、ノーと言える勇気を与え、間違った逃避から救い出してください。与えられた生活で、本当の勇気をもって、自由に、喜んで生きることで、あなたの恵みを証しさせてください」



[1] 榊原康夫『使徒の働き』

[2] それが驚くような大軍による護送だったのか、実はパウロの他にも移送された人がいた、ちょっと前倒しになっただけの予定されていた護送だったのかは分かりません。千人隊長の親切だったのか、先にパウロを鞭打ちかけた失態を隠すためのわざとらしい大げさなパフォーマンスだったのかも不明です。ただ、いずれにせよパウロは馬に乗せられて、暗殺の手を逃れることが出来ました。

[3] 使徒五19以下、十二7以下、十六25以下、参照。

[4] この心理を「一貫性の法則」と『影響力の武器』(第3章「コミットメントと一貫性」、ロバート・B・チャルディーニ、社会行動研究会訳、誠心書房、1991年)で述べられています。同書は、人間がどのような心理で行動を起こすものか、また、それを利用して企業が商品を購買したり宗教勧誘や寄付を集めたりしているかを教えてくれます。

[5] パウロの甥が、おじの暗殺計画を知った時、それを知らせたのは本当に勇敢な行為でした。知らせた自分が裏切り者とされる恐怖を考えたら、祈るだけで黙って何もしなくていいのではないかと思いたかったかもしれません。それは信仰のふりをした優柔不断ですが、ともかく甥っ子は危険を冒してでも知らせてくれました。自分が出来ることを勇気をもって行動しました。

[6] ゲオルギー松島雄一「東風吹かば 第23回 主でさえ逃げた」『舟の右側』(地引網出版、2017年12月号)、40-41頁。

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