聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ネヘミヤ記1章「現実的な人 ネヘミヤ記」

2018-05-20 18:22:57 | 一書説教

2018/5/20 ネヘミヤ記1章「現実的な人 ネヘミヤ記」

1.どん底からの再建

 ネヘミヤ記は旧約聖書の「歴史書」の最終文書の一つです。イスラエルの民がバビロニア帝国に滅ぼされて70年経って再建が始まりました[1]。この前のエズラ記ではエルサレムに戻ってきたユダヤの民が、神殿を再建したことが記されていました。それは感動的な、重大な再建でした。ユダヤの民が、神への礼拝を蔑ろにしてきた歩みを悔い改めて、まず祭壇を築き直し、小さくとも神殿を再建した事は大きな一歩でした。紀元前515年のことです。

 しかし、神殿が完成しただけでは生活は成り立ちません。今日のネヘミヤ記は神殿再建から60年ほど後のことですが、遠くペルシャの首都スサで王に仕える要職にあったネヘミヤは、ユダから帰って来た友人たちからエルサレムが散々な状況であることを知らされるのですね。

 3彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」

 城壁は崩され門は焼き払われたまま、生活もままならない。それでも神殿はあったのですが、だからといって幸せで感謝していた…わけがなく、民の生活は貧しく、不安定で、惨めでした。

このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。「ああ、天の神、主よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。

 以下、ネヘミヤはもう一度自分たちの歴史的な罪を悔い改めて、憐れみを求めて祈りました。主が約束された契約の言葉を8-9節で引き合いに出して、主の回復に縋ります[2]。こうして二章以下、ネヘミヤは

「王の献酌官」

という高位を捨てて、ユダヤの総督として任命してもらいます。スサからエルサレムに行き、城壁の再建工事を呼びかけ、様々な反対や問題にあいながら、優れたリーダーシップを発揮して、ユダヤの民の復興を助けます。城壁の再建だけでなく、民の中の貧富の格差が広がって、貧しい農民が借金で苦しんで、子どもを奴隷に売ったり、神殿の下級祭司が給料の遅配で逃げていたり、様々な問題が出て来ます。モグラたたきのようですがネヘミヤはその一つ一つに取り組み続けて、ユダヤの復興のリーダーとなったのです。

2.対照的なネヘミヤとエズラ

 今申し上げたように、ネヘミヤはペルシャ王の援助を取り付けて、ユダヤの総督としてエルサレムに行きました。使える手段は出来るだけ利用して、民の再建に取り組みました。これとは対照的なのが、ネヘミヤ記の前のエズラ記に出て来るエズラです。エズラはネヘミヤ記の八章にも登場する、同時代の人です。エズラは祭司の家系で律法(聖書)の専門家で、旧約の文書の幾つかをまとめたほどの人です。彼もペルシャの王からユダヤに派遣されたのですが、それは不思議な神の御配剤でした[3]。ネヘミヤは主に祈りつつ自分から王にユダヤへの派遣を願いました。また、エルサレムまでの道中の援護を求めることも恥じて、断食して祈って旅をしましたが[4]、ネヘミヤは王の援助を求め、道中の無事のために王の保証付きだという手紙を書いてくれるよう求めました。実に対照的な二人です。そして、エズラは生粋の祭司の家系でしたが、ネヘミヤは王の杯にぶどう酒を注ぐ献酌官です。そういう高位の役人は去勢された宦官だったと言われます。そして聖書の律法によれば、去勢は禁じられていました。この点でも、ネヘミヤは純血種のエズラとは違う、異例で規格外のリーダーです。同時代に実に対照的な二人のリーダーが、果たして仲良く出来たんだろうか、と思うくらいです。しかし裏を返せば、この両者が居る所にこそ、神のなさる御業らしさがあるのでしょう。エズラの真っ直ぐさも大事だし、現実主義のネヘミヤも大切です。人に頼らず神を信じる、だけではないし、神に祈りつつ堂々と助けを求めるネヘミヤも聖書には出て来るのです。

 抑も、このネヘミヤ記の柱となる城壁の再建がそれを語っています。神殿だけではなく、城壁も必要でした。城壁の再建は52日という驚異的な早さで完成しますが、そこには妨害工作が入って、武器を片手に工事をしたともあります[5]。神殿や信仰さえ守ればいいと、安全や生活が蔑ろにされるなら、結局は信仰も礼拝も立ちゆきません。

 私たちの礼拝も、礼拝だけではなく、会堂のメンテナンスも大事です。スロープやバリアフリーも考えるのが今の小会の課題です。先日、私たちは避難訓練をしましたし、私は「防火管理者研修」を受講して来ました。そうした全生活の整備を現実的にしていくことを、ネヘミヤ書はありありと描いています。

3.ネヘミヤだけでなく

 聖書を読む時、つい登場人物を理想化したり模範を読んだりしそうになります。ネヘミヤは非常に苦労して、問題が山積みの状況で必死に民を導いたのですが、そこで悩んだり怒ったりする人間臭い人です。彼が自己主張したり[6]

「私を覚えてください」

と何度も祈ったりする姿には引いてしまう人もいるでしょう。それもまた本当に人間らしい姿です。実際、協力しない人もいました。協力者に見せかけて、裏では貧しい人たちから搾取していた貴族たちもいて、激高するような場面もありました。失望させられる事が多くありました。でも、その人たちに横やりを入れられながらも、多くの民が立ち上がりました。同胞たちがともに働いて、城壁を完成させました。たのです。ネヘミヤという「信仰の偉人」を求めるより、自分と同じように欠けも癖もあるネヘミヤを通して、ユダヤの民が立ち上がり、不完全ながらも力を合わせて城壁を再建し、奮い立っていく姿を見るのです。借金の方に子どもを売らなければ生きていけないとか、政治的な結託とか、次々に起こってくる問題に、何とか取り組んで、本当に神を礼拝する民であろう、金持ちや賢い人間が私腹を肥やすような社会ではなく、貧しい者も子どもたちも安心して生きていける社会、本当に神を心から礼拝する社会として歩もうとする姿です。

 ネヘミヤが城壁を造った時も、敵は

「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」

と馬鹿にしたそうです[7]。ユダヤ人たちはそんな柔な城壁ではなく、しっかりした城壁を、敵がたじろぐような頑丈な城壁を完成させたのです。それがあったからこそ、礼拝の民として生きる事も安心して出来たのです。更に、民の中に貧富の差が持ち込まれたり、子どもたちが苦しめられたり、礼拝を形式的なものにする動きとも、取り組みました。引っ切りなしに問題が起きることは避けられませんが、そうしたものにも現実的に対応する全生活の支えの中で信仰生活を歩む事が出来るのです。連休に瀬戸大橋を見てきました。大きさに圧倒されてすっかり「橋マニア」になってしまいました。記念館で、橋の建設の裏にあった技術や工夫や歴史や、人の情熱などを見たのも圧巻でした。四国と本州を安全で頑丈に繫ぐために、本当に莫大なものが注ぎ込まれているのだなぁと感動しました。

 主イエスは私たちと神との間に、よく考えて造られた、頑丈で安全で、渡り甲斐のある橋を渡してくださいました。この橋は何かあれば崩れる頼りないものではなく、イエスの十字架と復活により、そして聖霊が私たちの心に働いて確かにされている道です。主は、礼拝を命じるだけでなく、全生活に光を当て、私たちを慰め、励ましてくださいます。目に入るあらゆるもの、家族の関係、経済的な心配も、主の御手の中に受け止め、祈って最善を尽くし、助け合っていくよう、聖霊によって支えてくださいます。聖霊を体験するとか感じるとかではなく、聖霊が働いて私たちは歩んでいるのです。そして神の子どもとしてゆっくり成長していくのです。ネヘミヤは問題に悩みつつ、祈りつつ取り組みました。そして随所で主の御手が助けて下さったと証ししています。私たちもそういう招きに与って、礼拝を中心としつつ、生活の全て、心配事や課題に取り組んでいきます。私たちの全ての営みを通して主を礼拝していくのです。[8]

「私たちの全生活の主なる神様。ネヘミヤ記を有難うございます。それぞれの心に今ある心配、悩み、崩れて再建が必要な、でももうあきらめて投げやりになっている事に、主よ、聖霊によって望みを与えて、立ち上がらせてください。私たちの全生活に及ぶあなたの恵みを戴きつつ、私たちもあなたの橋わたしの御業の一端を担い、主の豊かな栄光をともに頂かせてください」



[1] 主な年表は以下の通りです:

586年 エルサレム陥落

538年 第一次帰還

515年 神殿完成

458年 エズラ、エルサレムに到着

445年 ネヘミヤ、エルサレムに到着。52日後、城壁完成。

433年 ネヘミヤ、バビロンに戻る。

432年 ネヘミヤ、エルサレムに戻る

[2] ネヘミヤ記一8-9「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」

[3] エズラ七章、特に27-28節。

[4] エズラ八21-23。

[5] 四章13節以下。

[6] ネヘミヤ記五章14節~19節では、彼が総督としての手当を受けず、一切私腹を肥やそうとしなかった自分の献身ぶりを訴えています。その他、最終章の一三章も参考に。

[7] 四章3節。

[8] 「新改訳2017」での大きな変更箇所としては、九章の悔い改めの祈りが詩文体で表記されていることです。これに加えて、九章10節の「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(従来の新改訳では「あなたがたの力を主が喜ばれるからである」でした)も嬉しい改訂です。この言葉をパラフレーズしたものとして、サリー・ロイドジョーンズ『ジーザス・バイブル・ストーリー』170頁以下では、ネヘミヤ記のメッセージが感動的に語られています。ぜひご一読ください。

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問123「義と平和と喜びの神の国が来る」ローマ14章13-19節

2018-05-20 15:54:53 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/20 ハ信仰問答123「義と平和と喜びの神の国が来る」ローマ14章13-19節

 

 主の祈りの第二の願いは

「御国が来ますように」

です。この御国とは「あなたの国」という意味で、

 「国」とはKingdom、王国

という言葉です。これは神が王として治めておられる国や、神の御支配そのもののことです。神が王様となって治めてくださる。もし「御国」を死んだ人がいく「天国」のようなものとして考えていると、

 「御国は早く来ませんように」

となるでしょう。ですから、安心してください。ここでの祈りは、神が王として治めてくださるという、もっと大胆で力強い願いです。そして、イエス・キリストの御生涯は、この「神の国」の教えで始まって、「神の国」の譬えや教えを繰り返し、弟子たちも「神の国の福音」を伝え続けたと聖書は記しています。では、神の国が来ますようにとは、ハイデルベルグ信仰問答はどうまとめてくれているでしょう。

問123 第二の願いは何ですか。 

答 「御国が来ますように」です。すなわち、あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできるようにあなたの御言葉と聖霊とによって私たちを治めてください、あなたの教会を保ち進展させてください、あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください、ということです。

 この最初にはまず

「あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成」

とあります。神が王としてすべてとなられる「完成」。これも大事なことです。先にも「神の国」とは「死んだ人が行く天国」とは違うと言いました。聖書は、この世界と死んだ人の天国という二階建ての考えではなく、あえて図にするなら、このような流れを考えているようです。

つまり、今の世界はやがて終わって、その後に「永遠の神の国」が始まるのです。それが始まるのは、この世界が終わってからです。それまでも死ぬ人はいますが、先に「永遠の神の国」に行くわけではありません。しかし勿論それまでに死んだ人に「パラダイス」という言い方で語られている過ごし方をするようです。詳しい事は分かりませんが、一つ確かなのは、主とともにいる、ということです。そして、最後にはこの人たちも全員がよみがえって、そこから一緒に神の国に迎え入れられます。こういう大きな流れがあります。二階建てではなくて、むしろ、世界は川の流れのようです。最後には海に流れ込むように、永遠の世界に向かっているのです。そしてだからこそ、そこに向かって、今も、神の国に生きるように、神を王とする生き方を始めさせてほしい。それがこの祈りの解説の第一で言われていたことです。

「私たちがいよいよあなたにお従い出来るように、あなたの御言葉と聖霊とによって、私たちを治めてください」。

 正直言って、私が願うのは

「神の国」

よりも

「私の国」

です。自分が王様のように威張っていたいのです。自分の考えや願いを通すような「神の国」であってほしいのです。聖書は、人間が神から離れて、神よりも自分が王になろうとして、神の元に帰ろうとしない人間の物語です。自分が永遠になろうとしては砕かれる人間たちが登場する物語です。人間は皆、裸の王様みたいなおかしな生き方をしてしまって懲りないのです。第一祈りと同様、第二の祈りでも

「私の国ではなく、あなたの国が来ますように。王は私ではなく、あなたなのです」

と祈るのです。もし、自分が王でいたい、自分の思い通りがいいという願いを握りしめたままなら、神の国はその人にとって決して幸せな場所とは思えないでしょう。永遠の御国なんて真っ平御免です。それが神から離れてしまった人間の罪の現実です。

 

 ですから、私たちは自分に都合の良い神の国が来ると思い込んだりせず、今ここで、御言葉と聖霊とによって治めていただくことを求めます。私たちの心も考えも、生き方も、聖書の御言葉を教えられながら、新しくされ、変えられていくことを求めるのです。また、見えない聖霊のお働きによって、私たちが御言葉を受け入れ、従えるよう、働いて下さることを切に願うのです。

 第二に

「あなたの教会を保ち、進展させてください」。

 教会は神の国の現れです。決してイコールではありません。神の国の完全な支配に比べると、教会は実に不完全で、未完成の集まりです。そしてその弱さや不完全さを通して、神の御支配が本当に恵み深く、あわれみによる御支配であることを現すのです。土の器を通して、謙虚に、神様の慰めを指差すのです。それを忘れて、私たちが神様の支配を振り翳し、暴君になってしまうことがあります。或いは、神を伝えることをすっかり忘れた形ばかりの教会になり、内輪だけの世界を造ってしまうこともよくあります。だから、私たちは祈るのです。

「神の国は…聖霊による義と平和と喜び」

 将来の天国ではなくて、この神の国の現れとして保たれ進展することを祈るのです。神の御支配を祈り、教会が教会として前進していくように、御言葉と御霊によって、教会を通して、神の恵みの御支配が現されていくようにと祈るのです。その教会が祈る事、祈る姿そのものが、神の国の証しです。

 最後に

「あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください」

がありました。この祈りが何と大胆で、驚くほどの内容でしょうか。確かにこの世界には、神の国に逆らう力が様々に働いています。日本の国の政治や経済は大きく揺れ動いています。また、世界にはアメリカのような大国があります。沢山の国々が拮抗しています。そうした世界の中で、私たちは

「神の国が来ますように」。

 天の父よ、あなたの国が来ますように、と祈ります。日本やアメリカ、イスラエルなどの国々を越えた神の国の到来を待ち望みます。国家や民族が争ったり、国境で排除したり、力で競い合ったりする中で、どの国も永遠に続く事は出来ない。ただ、神の国だけが永遠の国になる、と信じます。そして、その国の王は、恵みに満ちたイエス・キリストです。偉そうにする王ではなく、ご自分を献げてくださり、私たち小さな者を顧み、祝福してくださる王です。また、民族や生まれや文化の違いを超えて、どんな人をも受け入れ、一つの国として下さる王です。その国の到来を信じて、待ち望むのです。そして、今の私の生活、また私たちの交わりがそのような国を現すよう祈りなさいとイエスは教えてくださいました。イエスがそう仰った以上、王は今ここでの私たちの中に神の国をもたらしたいと願っておられるのです。信じて、祈りましょう。争ったり裁いたりせず、自分の支配やこの世の力よりも強く素晴らしい神の国を待ち望みましょう。その神の国が、やがて永遠の完成をするのです。

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