聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問122「第一の願いは何だろう」詩篇115篇

2018-05-13 16:21:42 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/13 ハ信仰問答122「第一の願いは何だろう」詩篇115篇

 

 主イエスが「主の祈り」を教えられていなければ、私たちはどんなことを一番に願うでしょうか。何が私たちの願いでしょうか。ともあれイエスは私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。そこで第一に何を願うよう教えられたのでしょうか。

問122 第一の願いは何ですか。

答 「御名が聖とされますように」です。すなわち、第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すそのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、賛美するようにさせてください、ということ、第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなくかえってあがめられ賛美されるようにしてください、ということです。

 去年から「新改訳2017」を用いるようになって、ここが変わりました。

「御名が崇められますように」

だったのが

「御名が聖とされますように」

となりました。確かに原文では「崇める」よりも「聖とされる」という意味です。

 神は聖なるお方です。全く汚れや利己心とか下心、邪心などのない、寄せ付けるもののない憐れみのお方です。聖という字は「きよい」とも読みますが、「きよらか」というと白を思い浮かべるかもしれません。しかし、その白さには黒いシミをつけることが出来ます。人間が考える清さは、汚す事が出来る白さです。けれども、神の聖さ、聖は汚す事が出来ません。むしろ、汚そうとするものまで聖く変えてしまいます。真っ白い布のような白さというよりも、眩く輝く光のような白さが、神の聖です。不純物を取り除いてしまう火のような強い聖さです。光より強い闇がないように、神の聖は火のように強いのです。神は永遠に、汚れや罪や打算とは無縁で、憐れみ深く、恵みに満ち、惜しみなく与える愛のお方です。

 そして、その神の聖なることが最もよく現れているのは、神の御名です。特に「主の祈り」では、私たちは神を

「天にいます私たちの父」

と呼びます。神が私たちの天の父となって下さったことは、神が私たちに御自身の聖なることを最もよく分かるように表してくださった恵みですね。それは限りない恵みです。尊い約束です。その事を思う時に、私たちは神を

「天にいます私たちの父」

と心からの賛美と信頼をもって呼びかけるはずです。しかし、神がそのように私たちに御自身の聖なる憐れみを示してくださったのに、それがまだまだ分からないのも現実です。それは勿体ない事です。

「御名が聖とされますように」

とは、ですからまず、神が私たちの天の父となってくださった素晴らしさを、私たちが正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すすべての御業において、あなたを聖なる方として、崇め、賛美するようにさせてください、という祈りだとされるのです。ただ私たちが口先で神様をほめ称える、というだけではないのです。神を本当に聖なる方として知るように、そして、神の御名が聖とされるようにしてください、という願いなのです。詩篇115篇は、こう始まりました。

私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
 ただあなたの御名に 栄光を帰してください。

あなたの恵みとまことのゆえに。

 その後の言葉を辿っていくと、他の神々を信じる人から、「お前の神は目に見えないぞ。一体お前の神はどこにいるんだ」と馬鹿にされていたらしい。それに対して、目に見える神、人間が考え出せる神は、どうあっても限界がある。けれども、私たちは天地を造られた神を信頼します。この神は私たちを助けて下さる方、私たちを祝福してくださる方。大いなる者も、小さな者も。そんな神は、人間が作ることも考え出す事も出来ない大いなるお方。その方を私たちは信頼します。だから、私たちが求めるのも、自分の栄誉とか、自分の面目が保たれることとか、自分が高くなることではなくて、主よ、ただあなたの御名に栄光を帰してくださることを願います。そして、それは

「あなたの恵みとまことのゆえに」。

 あなたが恵み深く真実だから、言い換えれば、あなたが聖なるお方であるから、まずあなたの御名に栄光が帰されますように、と祈るのですね。

 私たちは、天地を造り、私たちに命や幸いや助けを惜しみなくくださる神を信じています。滝のように恵みを注ぎ、私たちを生かし、祝福を与えてくださっているお方を礼拝しています。私たちの天の父となって下さった方を信じている…はずです。それなのに、私たちはその方のことを差し置いて、自分の名誉や自分の面子、自分の思い通りになることを考えてしまうことが少なくありません。神様に向かってまず栄光を帰して、神の聖なることをほめ称えるよりも、聖とは反対の自己中心、利己的な願いを恥ずかしげもなく神に訴えてしまうということをしてしまいがちです。惜しみない恵みの神に、自分の思い通りにならないことで権利を主張している、考えてみれば、赤面ものの願いにどうしても陥りやすいものです。だからこそ、私たちが「主の祈り」で、最初に何を差し置いても、

「天にいます私たちの父よ。あなたの御名が聖とされますように」

と祈る時、私たちの優先順位に気づかされるのです。「あなたを忘れて自分に、自分が、自分の、と祈っていたけれど、そうじゃない、私にじゃない。まず栄光を受けるのは、私ではなくて、聖なる神だ。私は神ではない」。そう気づかされるのですね。私が神よりも出しゃばろうとしていたことに気づいて、自分は神ではない。自分が崇められなくてもいい。そして、自分がまず神を聖とさせてくださいますように、と祈るのです。

 そうです。

「御名が聖とされますように」

が神へのお世辞や社交辞令であれば、それ自体、御名を聖としない冒涜です。まず私が御名を聖とさせてくださいと祈るのです。私たちの生活の全て、思いと言葉と行いを正していただき、私たちが御名を汚す事なく、かえって私たちを通して御名が崇められ賛美されるようにしてください、という祈りになります。それは、私たちが立派な事や称賛を得ることによってではありません。神が聖であるとは、神が100%憐れみ深い方、惜しみない憐れみのお方であることです。ですから私たちが、自分の弱さや罪に正直になり、この神の聖なる憐れみをたっぷり戴いて、喜んで真っ直ぐに生きること。間違いを犯した時には正直に認めて、そこから回復をいただくこと。また、他の人が間違った時にはそれを見下したり裁いたりせずに、真っ直ぐに向き合い、その回復のために祈り、サポートしていく事。そういう私たちの交わり、祈り、愛し合う、謙った生き方を通して、神が聖とされるように、と願うのです。

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