2018/9/9 ルカの福音書21章1-6節「尊い贈り物 5つの愛の伝え方④」
人身売買から保護された女性に、化粧(メーキャップ)を通して支援をする働きがあります。売春を強いられて身体も自尊心もボロボロにされ、保護されてもうつろだった女性が、お化粧をすることで笑顔になっていく姿は感動的です[1]。震災のケアでも女性たちに化粧品を(それも高級な)届けたそうです。言葉とか必需品だけでは出来ない力を贈り物が果たせる、という実例です。
1.愛を伝える贈り物
「5つの愛の伝え方」、肯定的な言葉、仕える行為に続いて三回目は贈り物を取り上げます。プレゼントを贈るのも愛を伝える方法の一つです。勿論、相手に必要なものを届けること、台所用品や仕事の道具、救援物資や日用品、無くては困るもの、あると助かるものを贈るのも大事ですが、それは「仕える」と重なります。贈り物には必要なものだけでなく、必要ではないもの、記念品、お土産、サプライズ等が含まれます。そういう一見「無駄」な贈り物で愛を伝える人、そういうプレゼントで愛を伝えて欲しい人も多くいます。「それは贅沢だ、物質的だ」ではなく、神が下さった愛の伝え方の大事な一つ、贈り物を特に強く感じる個性なのです。
今日のルカの福音書21章は「レプタ二枚の寡婦(やもめ)」として知られる出来事です。エルサレム神殿に世界中から大勢の巡礼者達が集まっていました。ラッパ型の献金箱に大勢の人が献金を投げ入れていました。しかし、その中に紛れて、いかにも貧しい女性がやって来たのです。彼女が投げ入れたのは、最小単位のレプタ銅貨二枚、数十円の金額です。当時の決まりで、献金は最低でもレプタ銅貨二枚とされていました。この女性はその最低限度額を献げたのです。エルサレム神殿の膨大な規模の運営予算にとって、それはどれほどのものだったでしょう。「わずかですが用いて下さい」というどころでさえなくて、転がってどこかに消えても、献金箱の底に忘れられても、気にされないような金額でした。イエスはその献金を見て、
二一3こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。4あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
イエスはレプタ二枚を通して、女性の心を受け取りました。額では無く、そこに込めた思い、生きる手立て、生活そのものを献げた。御利益や願い事を期待してではないでしょう。「主の御用の足しに」という額でもありません。ただ彼女はひとえに自分の心を、出来る形で表したのです。その思いを主はご覧になって、本当に喜ばれて、受け取ってくださったのです。
2.贈り物の落とし穴
ここから神が求められる贈り物について、とてもシンプルなことを気づかされます。それは贈り物は心を贈るためのものだということです。何を贈るかも勿論大事ですが、その贈り物に添えた心を見るのが、主なのです。主イエスは彼女の思いを受け取ってくださいました。わずか2レプタを献げた彼女の心を受け止めてくださいました。私たちの贈り物も、物だけで無く、言葉を添えたり、一緒に過ごしたり、必ず別のメッセージで思いを届けましょうと『愛を伝える5つの方法』の著者は書いています[2]。物だけでは不十分です。もし「愛の印に高価な贈り物」を要求されたら、「愛」につけ込んで利用したい一方的な関係かもしれません。あるいは贈る側も、知らず知らず贈り物が気を引くための「賄賂」にしやすいのです。祖父母たちが孫の、親同士がわが子の愛を買おうと、より高価なプレゼントを贈って争うなら、それは愛ではなく「賄賂」です。プレゼントに感じるのが自分への愛ではなく、自分の愛を買おうという計算だったら、どうでしょう。子どもには愛よりも競争心が伝わったとしても無理ないことです。
どんな愛の伝え方も、愛を伝えるための手段です。決して、自分の愛が足らないから、あるいは相手の愛を手に入れるための手段ではありません。「あなたが大事ですよ」という思い。それを伝える手段として何かしら形にして贈るのです。高価な宝石でも、小さな貝殻でも、ささやかな絵はがきでも、手作りの何かでも、その贈り物に心を込めて贈ることで、よりそれが伝わるのです。
勿論、好みもあります。欲しくない物は喜ぶよりも嫌がらせに思われるかもしれません。高価なものは無駄遣いだと思ったり、負担に感じさせたりするかもしれません。そもそも贈り物よりも、一緒に過ごして欲しい、何も要らないから話をしたい、という人もいます。
「受け取らない」自由も大事です。
そうしたお互いのそれぞれ違う思いのやり取りも大切にしながら、思いを形にして伝えて、形だけで無く思いを受け取ってもらう。夫婦や親子で、それをしてみることで関係が潤うなら、惜しくは無いでしょう。主が与えてくださった今の生活、家族や人間関係を、そんなちょっとした工夫で生き生きとさせられることがあるのです。
このシリーズの最初にお話ししたように、神は私たちにありとあらゆる贈り物を下さっています。この命も自分という個性的な存在も、家族、健康、自然、出会い、何一つ主からの贈り物でないものはありません。そして、何よりも主の贈り物はイエス・キリストです。
ヨハネ三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3.何よりの贈り物
神は御子をお与えになった。最大の愛の贈り物です。最も大事なものを与えるのは自分自身を与えることです。神は、私たちにひとり子イエスを通して、ご自分を与えてくださいました。そして、昨年クリスマスからお話ししているように、神はひとり子を与えてくださることによって、私たちを受け取ってくださいました。ひとり子を与えるという最大のプレゼントの送り先として、神は私たちを選んでくださいました。私たちは神の愛を受け取るだけでなく、神がこの最大の贈り物の受け取り手としてこの私たちを選ばれた、という贈り物をも頂いています。
贈るにせよもらうにせよ「プレゼントは高価でなきゃ」と考える人は実は「このままの自分には価値が無い」と自己肯定感の低さ、不足感が強いのかもしれません。贈り物の中身によって[3]自分の価値が乱高下するのでしょう。しかし、私たちは既に神から最高の贈り物を頂いています。イエスの血でしか買い取れない、高価で尊い人なのです。私たち一人一人が、自分も含めてお互いが、神がこの世界に贈られた贈り物であり、イエスの命の値を払って買い取ってくださった、最高のプレゼントです。それを忘れて、愛を伝えるよりも愛のなさを裁き合い、どっちが偉いか、価値があるかと競争し、世界も家庭も修羅場にしてしまう現実もあります。それは私たちにとって真剣な課題です。主の憐れみを求めずにはおれません。だからこそ、最初に紹介した人身売買から救出された女性達のように、その苦しみで満身創痍になった人が贈り物をもらって、「自分には価値がある、希望がある」と体験して笑顔を取り戻す、そういう出来事に希望を持ちます。言葉で、お手伝いで、またささやかな精一杯の贈り物は、そうした回復を始めるために、主が与えてくださった大事な手段なのです。勿論、自分が何を欲しいか、好みを伝えて良いのです。ですがそれとともに、まずは贈り物の奥にある相手の心を、相手自身を受け取りましょう。
「やさしい気持ちで受け取ることは最高の形で与えること」です[4]。
レプタ二枚の献げ物を喜ばれた主イエスは、この数日後、ご自分のいのちを十字架に献げました。私たちを神の民としてくださいました。そして今も命や喜びや大事な人生を下さっています。その惜しみない愛にならって、私たちもお互いを、他者を、主の贈り物として受け止め、自分自身も、主がユニークに個性豊かに、そして完璧では無いけれどもかけがえのない存在として造って下さった贈り物として見ていきたい。そうして主の栄光を現させて頂きたいのです。
「恵み深く万物の造り主なる主よ。世界はあなたの宝物、そして私たちもあなたの宝の民です。あなたが言葉だけでなく様々な恵みを下さるように、私たちが互いに愛を贈り合うことが出来ますよう、特にその事が必要な関係に、その事で悩んでいる方に助けと知恵と勇気を与えてください。主イエスを贈られたあなたの愛を、私たちもそれぞれの精一杯で現させてください」
[1] 中日新聞記事「女性救う、化粧の力 人身売買横行のネパール 日本の団体活動」2013年6月5日、向井麻衣氏、TEDトーク「その途上国支援、本当に必要ですか? 17歳で”世界一貧しい国”に飛び込んだ女性の言葉が響く」。この記事では、「化粧」が女性にとっての「自尊心」を高める「外観のニーズ」という視点から語られています。確かに、この働きは「贈り物」だけでなく「仕える行為」「スキンシップ」とも重なる意味があります。
[2] ゲーリー・チャップマン『子どもに愛が伝わる5つの方法』(中村佐知訳、いのちのことば社、2009年)103ページ。
[3] あるいは、「中身」ではなく、「包み方」「渡し方」という付随物によって、浮き沈みをしてしまうこともあるでしょう。
[4] 「やさしい気持ちで受け取ることは最高のかたちで与えることなのかもしれない。わたしには、そのふたつを切り離すことはできない。あなたがわたしに与えるとき、わたしは受け取ることをあなたに与える。あなたがわたしから受け取るとき、わたしはじゅうぶんに与えられていると感じる。 ルース・ベベルマイヤー」(マーシャル・ローゼンバーグ『非暴力コミュニケーション』22ページ)より。追加として、「魂をもてなすとは、安全さを差し出すことでもあります。この人は安全な人だと信頼しきって、自分の言葉を選んだり、心にある思いの善し悪しを考慮することなしに、正直に、ありのままの自分をさらけ出しても大丈夫だと感じられるとしたらどうでしょうか。この人は、私の言葉や思いの中で、受け止める価値のある部分は大切に受け止め、それ以外のものは、優しさという吐息で、吹き払ってくれるだろうと信頼できるとしたら。.....魂の友情とは、批判されたりあざけられたりすることを恐れずに、何でも分かち合うことのできる場所を提供することです。それは、仮面や取り繕いが取り除かれ、脇に置かれる場所です。それは、いちばん深い秘密、いちばん暗い恐れ、恥を感じるいちばん敏感な部分、いちばん心を乱す問いや不安を、安心してさらけ出せる場所です。それは、恵みの場、つまり、その人が将来こうなるだろうという姿のゆえに、現在の姿がそのまま受け入れられる場所です。" (Sacred Companions: The Gift of Spiritual Friendship and Directionより。中村佐知訳)」