聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答35~37 ローマ書五章13~21節「私たちはみんな」

2018-09-23 17:05:24 | はじめての教理問答

2018/9/23 ローマ書五章13~21節「私たちはみんな」  はじめての教理問答35~37

 今日のローマ人への手紙5章は

「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に-」

と書き出してから、話しがその説明にそれてしまいます。そして、14節~17節でその説明をずっとした上で、もう一度18節で仕切り直して、

「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます」

と本題に戻っています。一人の人(アダム)の違反によって、罪が世界に入りました。それは、アダムとエバだけの事ではなく、世界に罪が入り、死が入ったという出来事でした。その脱線で話していた大きな変化を、今日は心に留めたいと思います。

問35 罪をおかしたとき、アダムとエバはどのように変わりましたか?

答 きよく幸福な状態から、罪深くみじめな状態に変わりました。

問36 いのちの契約を、アダムは自分だけのためにむすんだのですか?

答 いいえ。アダムは全人類を代表して、いのちの契約をむすびました。

問37 アダムのおかした罪は、あなたをふくめすべてのひとに、どのような影響をもたらしましたか?

答 わたしたちはみな、罪あるもの、みじめなものとして生まれました。

 アダムとエバが、神との「いのちの契約」を破った時、アダムとエバは「聖く幸福な状態」から「罪深く惨めな状態」に変わりました。アダムとエバが神に対して罪を犯したことが、私たちも含めた世界のすべての人に、大きな影響を与えているのです。

 今世界には沢山の問題があります。犯罪や戦争があり、家族の中でもすれ違いや大げんか、憎み合うことがあります。交通事故や仕事の悩みがあります。台風や地震や津波が起こることだってあります。そういう状態を見て、どう思うでしょう。ある人たちは、「こんなひどい事が起きるなんて、神様はいないか、悪い神なのか、どちらかとしか思えない」と言います。別の人たちは「もっと自分たちが頑張れば、世界をよくすることが出来るはずだ」と言い、反対に「どんなに人間が頑張っても、世界は良くなりはしないんだ」と諦めています。今日の問35から問37は、どんな見方をしているでしょうか。

 神が造られた世界には、もとから罪や惨めな状態はありませんでした。最初は

「聖く、幸福な状態」

でした。しかし、アダムとエバが罪を犯した時、それは、全人類を代表しての行為でしたから、全人類が契約違反の影響を受けて、

「私たちは皆、罪ある者、惨めな者」

となったのです。決して神が人間を最初からそんな不幸な状態に創られたからではなく、アダムとエバを代表とする全人類が、神に背いた決定的な決断によって、人間は大きく変わったのです。それはこの世界の問題というよりも、人間の変化、人間の罪や惨めさです。神は、この世界を、美しく、素晴らしい世界をお造りになりました。

 今でも世界は、美しく、素晴らしいことで満ちています。災害や砂漠化、寒波などもありますが、大森林や朝焼け、美味しい果物や野菜、美しさ、素晴らしさ、がすべて取り去られてなんかいません。罪深く、惨めになったのは、人間であって、世界ではないのです。その世界にいながら、神を称えないし、神を信頼できなくなってしまっているのは、まさに人間の罪深さであり、惨めさですね。

 今の私たちは、創られたそのままの在り方ではありません。この世界の中で、争ったり傷つけたり、造り主なる神を忘れて、神ではないものを神のように崇めています。人間は今、決定的に何かがおかしいのです。聖書に寄れば、そういう現実が

「いのちの契約」

に違反した時から始まったのです。恐竜時代が終わって氷河期に入ったとか、平和な時代を終わらせる戦争が始まったとか、そうした大転換にも匹敵する大変化が、この世界に起こりました。人間の心に氷河期が始まりました。神を見失い、人を愛する愛も壊れ、自分の中でも混乱しています。世界には食べ物がなく、病院もなく、死んでいく人が大勢いる国があります。しかし豊かで安心して暮らせるはずの先進国は幸せなのではなく、もっと豊かになろう、もっと贅沢になろうと、ますます忙しく、飢え渇き、人間関係は壊れ、心の病や自殺も多いのです。日本人の「幸福度」は先進国でも最も低いそうです。本当に悲しい、悲惨な現実です。でもそれがこの世界の最初からの姿ではない。神の造られた世界は、もっと素晴らしくて、神はこの世界に、良いご計画を持っておられる。今はあるべきでない姿なのです。

 ナルニア国物語の『銀のいす』というファンタジーがあります。このお話で、地下の世界に入った主人公達に、悪い魔女が魔法をかけて、暗い地下がこの世界のすべてだと思い込ませようとする場面があります。地上って何ですか? 太陽って何ですか? 木や草なんて夢ではありませんか? そんなものは空想で、この地下の世界だけが本物ではありませんか、と催眠術で騙そうとするのです。みんなが魔法で頭がボーッとする中、沼人がこう言うのです。

「あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ」

 こう言って、魔女の呪いを破るのです[i]

 じめじめした暗い世界から、地上の明るいもっと広い世界へ。そここそ、自分たちの住まいがある世界だ。聖書も、この世界にある、罪と悲惨の現実を見据えた上で、これが世界の全てではない、神の世界はこれで終わりではない、と語るのです。

 「いのちの契約」の破棄は歴史を大きく方向付けました。けれども「どうせ世界はこんなものだ」ではなく、その逆です。その事実から目を背けず、罪と惨めな人間の現実を受け止めましょう。自分自身の罪と惨めさも受け止めましょう。非を認めるべきことは認めて、悔い改め、謝罪し、変えていきましょう。でもそれだけでは焼け石に水です。神が、私たちを、本来の聖い幸福な状態にしてくださる、と約束してくださったのです。イエス・キリストは、私たちからその回復を始めるために、この世界に来て下さいました。私たちの痛みや悲しみ、苦しみを徹底的に味わって、私たちのうちから

「聖く幸福な状態」

を始めてくださいました。私たちに信仰や願いや、嘆きや希望を与えてくださっています。そして、やがて、世界の氷河期を終わらせて、前よりも遥かに素晴らしい、聖い幸福な御国を始めて下さるのです。ですから、自分の痛み、悲しみ、苦しさを、そのままに言い表し、祈りつつ、その約束に生き、回復のために出来ることをするのです。



[i] 「あなたのおっしゃるように全部夢かもしれない。でも、心に造り出したものこそ、実際にあるものよりも遥かに大切に思えるんでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ。自分たちは一つの遊び事に耽っている赤ん坊かもしれませんが、あなたのほんとうの世界なんかを打ち負かして、うつろなものにしてしまうような世界をこしらえあげることができるのですとも」『銀のいす』262ページ。

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Ⅰコリント書1章1-13節「途上にある教会 第一コリント」

2018-09-23 16:00:34 | 一書説教

2018/9/23 Ⅰコリント書1章1-13節「途上にある教会 第一コリント」

 今月の一書説教はコリント人への手紙第一。パウロが書いた手紙で最も分量が多く、第二の手紙と合わせると、聖書でコリントの教会との関わりが閉める割合の大きさに驚かされます。そして、実に生々しい手紙。ぜひ各自で読んで、私たち自身と重ね合わせて聴きたいものです。

1.コリントの教会の事情

 コリントの町はギリシャにあり、東西の交通の要衝として大変栄えていました。経済的な繁栄は当然、道徳よりも商売を呼び込み、倫理的には腐敗していました。町の大神殿も敬虔さとは無縁で、神殿娼婦や神殿男娼で知られるいかがわしい宗教でした。ローマ帝国中で周知のことで、「コリント風に振る舞う」といえば淫らなことをするという俗語だったぐらいです。そういう都市だからこそ、パウロはここでの伝道をして、偶像ではない天地の造り主なる神を証しし、気慰みではないイエス・キリストの福音を語ったのです。その様子は「使徒の働き」十八章で読んだ通りで、約二年パウロはコリントに滞在して、多くの人が入信したようです[1]

 その後、パウロがコリントを離れ、第三回伝道旅行でエペソに滞在していた時、コリント教会に宛てて書いた手紙が本書です[2]。その冒頭、1章1節からを読みました。最初の挨拶、感謝、励ましが9節まで書かれていました。

 しかし、10節で一転して

「仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください」

とあって、驚かなかったでしょうか。その後、

「争いがある」

と明言され、教会の中に

「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」

と分裂が起きていたことが分かって、呆気に取られるのです。コリント教会には分裂がありました。開拓者のパウロを批判する人にもパウロは悲しんだでしょうし、キリストよりもパウロ先生だという人の勘違いにも、パウロはもっと残念な思いをしています。

 この「分派」の問題をパウロは4章まで取り上げます。それで終わりではありません。5章からは不品行の問題を扱われます。コリントの道徳は乱れきっていましたが、教会の中にも淫らな行いや買春が行われていたのです。この問題を7章まで扱います。その後8章から10章までが偶像崇拝との関わり、11章から14章では御霊の賜物の問題、15章では復活の教理が否定されている問題が扱われます。いくつかは手紙でパウロに問い合わせがあったようです[3]。ですから、このパウロの手紙は、コリントの教会が分裂や不品行、礼拝の混乱、教理の誤解などに手を焼いて、エペソにいるパウロに助けを求めて書いた手紙への回答として書かれたのです。それも目を覆うような問題だらけだったコリント教会の姿が浮かび上がってくるのです。

2.問題はあっても

 こうした惨憺たる状況がコリント教会にありました。他の教会にも問題はあり、その後の二千年の歴史でも完璧な教会など一つもなく、時に教会はひどく堕落してきました[4]。現在も教会のスキャンダルがニュースになります。そういう時に良く聞かれるのが、

「新約聖書の時代の教会は聖く愛に満ちていた。新約の教会に帰ろう」

というスローガンですが、聖書の教会は、決して理想的で麗しい教会ではありません。グループに分かれたり誘惑に流されたり、貧富の差を持ち込み、外からの圧力に屈してしまう。教会は人間の集まりで、私たち人間はキリスト者となっても聖人になるわけではありません。好みがあり、誘惑に流され、弱さを持っている人間です。そういう人間の集まりである教会は、間違いを犯さずにはおれません。その自覚を忘れて思い上がるなら、キリストの救いに与ってはいても、キリストの名を隠れ蓑にしたり、悪を行ったり、そして未信者よりもひどい暴力を振るうこともあり得るのです。

 しかし、そういうコリント教会に宛てて、パウロは、どのように書き始めたでしょうか。

Ⅰコリント一22コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 「聖なる者とされ、聖徒として召された方々」

というのです。その後も4節で感謝、5節で

「あなたがたは…キリストにあって豊かな者とされました」

 7~9節も、神があなたがたを召して、保って、完成させてくださる希望に貫かれています[5]。パウロはコリント教会のドロドロした問題を踏まえた上で、いや踏まえているからこそ、神の恵みという原点、キリストのものとされた土台に立ち戻るのです。

 主イエスが私たちを捉えて、私たちを神の子どもとしてくださいました。主イエスへの信仰を与えてくださいました。それでもまだ、沢山の問題を抱えています。ひどい罪さえ犯しかねない私たちです。しかし、罪や汚れ、間違い、誤解がある私たちを、主イエスは召して神の民としてくださいました。私たちは聖徒と呼ばれ、神の子どもとされ、神の物語の中にもう入れられています。その神の恵みに立ち戻ることによって、現実の問題を見つめ、自分の過ちを認めて、虚しい考えや恥ずべき生き方や幼稚な争いを止めて、悔い改め、生活を整え、成長し、希望をもって生きるようにと、パウロは励ますのです。

3.第一コリント13章「愛の章」

 「私たちは人として何をすべきか(すべきでないか)」(ルール)

よりも

 「キリストはどんな方でキリスト者とは何者か」(アイデンティティ)

が大事なのです。主はそのいのちをもって私たちを捉えてくださいました。だからパウロは、キリストが私たちを召されたこと、神が私たちをどのような者として選ばれ、どのようなご計画を持っているのかを説き聞かせています。

 あなたがたはキリストのもの。キリストは私たちのために死なれ、よみがえられた。私たちはもうその約束の中に入れられた。(アイデンティティ) だからそれに相応しい生き方が勧められるのです。

 皆さんも「私はクリスチャンとは名ばかりで、実態が伴っていない。末席を汚していて…」などと考えることがあるかもしれません。思い出してください。私たちの行いよりも大事なのはキリストが何をされ、何を約束されたかです。神の国を受け継がせてくださるという無条件の約束があるのです。その途上にあって、私たちはまだまだ過ちを犯し、恥をさらします。しかしそれを隠したり正当化したりせず、逆に正直に謙虚に認めて、主の憐れみに立たせて戴いて歩ませていただく。私たちは途上にあるのだと告白し続けることに、教会の証しがあるのです。

 コリント書でも最も有名なのは13章「愛の章」でしょう[6]

 どんな特別な力があっても愛がなければ騒音と変わらない。いや、知識や信仰や慈善や殉教さえも、愛がなければ何の役にも立たない

と歌い上げます。しかし、これも私たちに「全き愛」がなければ、という道徳や人道主義なのでしょうか。誰もそんな愛は持てません。私たちの内側から愛を生み出したり造り出したりすることは不可能です。ただ全き愛のお方であるイエス・キリストが、私たちを愛して、ご自身を与えてくださいました。その愛のゆえに、教会はしばしば間違え、醜態を見せ、傷つけ合いながらも、歩むことが出来るのです。

 イエスは私たちを耐え、信じ、望み、忍んで育ててくださいます。

 イエスの愛は決して尽き果てません

 イエスは私たちを完全に知ってくださり、私たちの隠れた罪や問題も、その奥にある呻きも知ってくださっています。

 また、今私たちがどんなものであるとしても、将来、神の子どもとして成長して、聖徒として輝くことを完全に知ってくださっています。

 その愛に立つからこそ、教会は自分たちの問題に正直に取り組み、何度でも繰り返して悔い改めて、主の赦しに与って、立ち上がることが出来るのです。

 その愛を追い求めるのです。規則や敬虔に見られるとか、他の宗教の批判、罪を犯した人を責めたり後ろ指を指したりもせず、愛を追い求めなさい。今、途上で不完全な私たちを愛して、すべての罪を赦し、そして罪からも愛のない生き方からも救い出してくださる主イエスがここにおられます。その愛を戴く途上にある私たちなのだと、コリント書は教えてくれるのです。

「私たちを愛したもう主よ。コリント教会の目を覆うばかりの姿に驚きつつ、これもまた私たちの鏡だとハッとさせられ、その中に輝く主の愛の測り知れなさに御名を崇めます。主の死と復活のゆえに私たちは永遠にあなたのものです。途上にあり、多くの助けと赦しと励ましに支えられてあることを、それぞれの歩みでも世界大の教会の歩みでも謙虚に証しさせてください」



[1] その時に語られた有名な言葉が、使徒の働き18章9節以下です。「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。10わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」

[2] 厳密には、パウロはコリントに宛てて、少なくとも四通の手紙を書いています。第一「前の手紙」(Ⅰコリント五9)、第二「コリント人への手紙第一」、第三「涙の手紙」(Ⅱコリント二4、七8)、第四「コリント人への手紙第二」。また、その間では、実際に訪問もしたようです(Ⅱコリント十三2)。

[3] 一11、七1、八1、十二1、十六1、参照。

[4] 「地上にある最も純粋な教会も、不純と誤りの両者を免れない。そして教会の中には堕落してもはや全くキリストの教会ではなく、サタンの会堂になってしまっているものもある。それにもかかわらず、神をその御意志に従って礼拝する教会は常に地上に存在するだろう。」ウェストミンスター信仰告白、第25章「教会について」5節。村上満、袴田康裕訳。

[5] 「一4私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。5あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。6キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。7その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。8主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。9神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」

[6] 「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持(も)っている物のすべてを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならばすたれます。異言ならば止みます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私(わたし)が完全(かんぜん)に知(し)られているのと同(おな)じように、私(わたし)も完全(かんぜん)に知(し)ることになります。こういうわけで、いつまでも残(のこ)るのは信(しん)仰(こう)と希(き)望(ぼう)と愛(あい)、これら三(み)つです。その中(なか)で一番(いちばん)すぐれているのは愛(あい)です。」

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