2019/6/2 詩篇3篇「神に祈ろう」はじめての教理問答109~110
「神に祈ろう」。祈りましょう。日本でキリスト者は多くはいません。キリスト教がなかなか理解されない、信じられない現実があります。それでも、日本人にとって「祈る」という発想はごく自然に聴きます。日本文化を考えている学者も、日本には「宗教」よりも「祈り」がずっとあった、と言っています。キリスト教に距離を感じる人にも、教会で祈るとか、お祈りさせてもらうことには、素直に受け入れてくれることが多くあります。聖書から祈ることを励まされて、私たちが祈っていくことは、周りの人にとっても自然な証しになるのかも知れません。今日から「祈り」についてお話しします。
問109 祈りとはなんですか?
答 祈りとは、神さまをほめたたえ、神さまの与える祝福に感謝し、そして聖書において約束していることを、神さまに願い求めることです。
問110 わたしたちは、誰の名前によって祈らなければなりませんか?
答 ただキリストの名によってのみ、祈らなければなりません。
祈りの内容がここでは
「神様をほめたたえ、神様の与える祝福に感謝し、…聖書において約束していることを、神様に願い求める」
と三つにまとめています。神を誉め称え、神の祝福に感謝し、聖書の約束を神に願い求める。そこに浮かび上がるのは、とても親しく、気さくで、ホッとするような関係です。
私たちが神様を誉め称える…「神はすばらしいお方です。神様は偉大なお方です」。そんなことを言おうと言うまいと、神様には関係ないようにも思えるのに、神は私たちが神様に語りかけ、当たり前のことを神に語るのを喜んで聞いてくださるのです。
次の「神様の与える祝福に感謝」する…「今日もご飯をありがとうございます。こんな嬉しいことがありました。有難うございます。」私たちの生活の中に、神様の祝福を見つけては、そのことを「有難うございます」と言葉にする。それを聞いてくださる。それだけで、私たちの心は段々温かくなってきます。
そして、「聖書において約束していることを、神様に願い求める」…聖書には、たくさんの約束がありますから、それを私たちは神様に願い求めるのです。遠慮なく、正直に、神様の祝福を願うのです。聖書にはたくさんの約束があります。それを祈るのは、いくら時間があっても足りないくらいです。その約束を自分のためにも願い求める。それが祈りです。
私たちは、この世界を造られた大いなる神様に、自分のための願いを求めることが出来るのです。それは、本当にすばらしいことです。
神様を知らない人も「ご無事をお祈りしています」と言います。病気や大けがの時には「回復を祈ります」と言います。自分ではどうしようもないときに、何か自分の願いを聞いてくれる存在、頼りになって助けを求められる存在がいてほしい。そういう思いがあります。でも、逆に、本当に困った時というよりも、とても我が儘で身勝手な願いを祈ることもよくあります。「隣の人が失敗するように」「嫌な人が呪われるように」「あいつがひどい目に会えばいい」という呪いもあります。今日の言葉で「聖書において約束していることを、神様に願い求める」というのは、そんな身勝手な願い事まで神様に押しつけることを窘める言葉です。だからといって、「こんなことは、神様に祈るようなことではない」「神様に祈るのは気を使う」「自分には神様が喜ぶようなお祈りは難しい」ということも考えすぎです。神様は、私たちが神様に祈り、神様を褒め、感謝し、願う関係を求めている方です。祈らないことは、どんな奉仕や立派な生き方でも償えない、神との関係の損失です。神とともに過ごすために、私たちは造られたのです。
今日は詩篇3篇を開きました。詩篇は、全部で150篇ありますが、沢山の祈りが記録されています。その一つが、この詩篇3篇です。短い祈りです。そして、決して形式張ったり「賛美・感謝・願い」という順番になったりはしていませんが、ここには、
3しかし、主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾(賛美)
7主よ 立ち上がってください。私の神よ お救い下さい(願い)
と神をほめたたえたり、願いを申し上げたりしている要素が見て取れます。感謝、も4節や5節、8節に見て取れます。「賛美と感謝と願い」が、順番通り並べられている祈りではありませんが、この詩の中に賛美も感謝も見て取れます。そして、4、5節の
私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。
これは賛美とも取れますが、独り言にも聞こえます。とても自由に、自分の言葉で、神様への信頼を言葉にしています。詩篇の最初の祈りは、型にはまった綺麗な祈りではなく、率直に自分の願いを伸び伸びと言い表しています。神様に対する信頼と、自分の願いとが、詰め合わされています。礼儀正しく、神に相応しく祈らなければ、というような遠慮はありません。神様に祈れるとは、難しいことではありません。私たちの言葉の奥にある心を全てご存じの神様が、私たちの祈りを待っておられるのです。人が「お祈りしています」と、祈りを誰か聴いてくれるかどうかも分からなくても言うのであれば、天地を造られた神様が祈りを聞いてくださる。私たちの心の願いを受け止めてくださるという事実は、本当に喜ばしい、素晴らしい事なのです。
ここでは、もう一つ、私たちは他の誰の名前でもなく、
ただキリストの名によってのみ祈らなければならない
と教えています。教会での祈りは「イエス・キリストの御名によって祈ります」というのはここからです。目には見えない神様に祈る時、聖書は、イエス・キリストが私たちと神様との間を取り持ってくださるから、祈りは届けられるのだと教えています。たとえ、私たちに罪や思い上がりがあっても、イエス・キリストが間に入って下さる事で、私たちは安心して祈ることが出来ます。私たちと神様との間を取り持って下さるのは、ただイエス・キリストだけ。そのことをここでは思い出させます。ただ、この詩篇3篇も、他の聖書の祈りも「イエス様の御名によって祈ります」とは言いません。言葉で「イエス様の御名によって」と言うかどうかより、私たちの祈りはイエス・キリストが届けてくださることを覚えるのです。
次回から、イエス・キリストが教えた「主の祈り」を見ていきます。イエスは私たちの祈りを神に届けてくださるだけでなく、私たちに祈りそのものを教えてくださいます。そうして、この素晴らしい祈りの恵みを私たちがもっと戴けるようしてくださいます。