聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答109~110 詩篇3篇「神に祈ろう」

2019-06-02 20:12:32 | はじめての教理問答

2019/6/2 詩篇3篇「神に祈ろう」はじめての教理問答109~110

 

 「神に祈ろう」。祈りましょう。日本でキリスト者は多くはいません。キリスト教がなかなか理解されない、信じられない現実があります。それでも、日本人にとって「祈る」という発想はごく自然に聴きます。日本文化を考えている学者も、日本には「宗教」よりも「祈り」がずっとあった、と言っています。キリスト教に距離を感じる人にも、教会で祈るとか、お祈りさせてもらうことには、素直に受け入れてくれることが多くあります。聖書から祈ることを励まされて、私たちが祈っていくことは、周りの人にとっても自然な証しになるのかも知れません。今日から「祈り」についてお話しします。

問109 祈りとはなんですか?

答 祈りとは、神さまをほめたたえ、神さまの与える祝福に感謝し、そして聖書において約束していることを、神さまに願い求めることです。

問110 わたしたちは、誰の名前によって祈らなければなりませんか?

答 ただキリストの名によってのみ、祈らなければなりません。

 祈りの内容がここでは

「神様をほめたたえ、神様の与える祝福に感謝し、…聖書において約束していることを、神様に願い求める」

と三つにまとめています。神を誉め称え、神の祝福に感謝し、聖書の約束を神に願い求める。そこに浮かび上がるのは、とても親しく、気さくで、ホッとするような関係です。
 私たちが神様を誉め称える…「神はすばらしいお方です。神様は偉大なお方です」。そんなことを言おうと言うまいと、神様には関係ないようにも思えるのに、神は私たちが神様に語りかけ、当たり前のことを神に語るのを喜んで聞いてくださるのです。
 次の「神様の与える祝福に感謝」する…「今日もご飯をありがとうございます。こんな嬉しいことがありました。有難うございます。」私たちの生活の中に、神様の祝福を見つけては、そのことを「有難うございます」と言葉にする。それを聞いてくださる。それだけで、私たちの心は段々温かくなってきます。
 そして、「聖書において約束していることを、神様に願い求める」…聖書には、たくさんの約束がありますから、それを私たちは神様に願い求めるのです。遠慮なく、正直に、神様の祝福を願うのです。聖書にはたくさんの約束があります。それを祈るのは、いくら時間があっても足りないくらいです。その約束を自分のためにも願い求める。それが祈りです。
 私たちは、この世界を造られた大いなる神様に、自分のための願いを求めることが出来るのです。それは、本当にすばらしいことです。

 神様を知らない人も「ご無事をお祈りしています」と言います。病気や大けがの時には「回復を祈ります」と言います。自分ではどうしようもないときに、何か自分の願いを聞いてくれる存在、頼りになって助けを求められる存在がいてほしい。そういう思いがあります。でも、逆に、本当に困った時というよりも、とても我が儘で身勝手な願いを祈ることもよくあります。「隣の人が失敗するように」「嫌な人が呪われるように」「あいつがひどい目に会えばいい」という呪いもあります。今日の言葉で「聖書において約束していることを、神様に願い求める」というのは、そんな身勝手な願い事まで神様に押しつけることを窘める言葉です。だからといって、「こんなことは、神様に祈るようなことではない」「神様に祈るのは気を使う」「自分には神様が喜ぶようなお祈りは難しい」ということも考えすぎです。神様は、私たちが神様に祈り、神様を褒め、感謝し、願う関係を求めている方です。祈らないことは、どんな奉仕や立派な生き方でも償えない、神との関係の損失です。神とともに過ごすために、私たちは造られたのです。

 今日は詩篇3篇を開きました。詩篇は、全部で150篇ありますが、沢山の祈りが記録されています。その一つが、この詩篇3篇です。短い祈りです。そして、決して形式張ったり「賛美・感謝・願い」という順番になったりはしていませんが、ここには、

しかし、主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾(賛美)

主よ 立ち上がってください。私の神よ お救い下さい(願い)

と神をほめたたえたり、願いを申し上げたりしている要素が見て取れます。感謝、も4節や5節、8節に見て取れます。「賛美と感謝と願い」が、順番通り並べられている祈りではありませんが、この詩の中に賛美も感謝も見て取れます。そして、4、5節の

私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。

 これは賛美とも取れますが、独り言にも聞こえます。とても自由に、自分の言葉で、神様への信頼を言葉にしています。詩篇の最初の祈りは、型にはまった綺麗な祈りではなく、率直に自分の願いを伸び伸びと言い表しています。神様に対する信頼と、自分の願いとが、詰め合わされています。礼儀正しく、神に相応しく祈らなければ、というような遠慮はありません。神様に祈れるとは、難しいことではありません。私たちの言葉の奥にある心を全てご存じの神様が、私たちの祈りを待っておられるのです。人が「お祈りしています」と、祈りを誰か聴いてくれるかどうかも分からなくても言うのであれば、天地を造られた神様が祈りを聞いてくださる。私たちの心の願いを受け止めてくださるという事実は、本当に喜ばしい、素晴らしい事なのです。

 ここでは、もう一つ、私たちは他の誰の名前でもなく、

ただキリストの名によってのみ祈らなければならない

と教えています。教会での祈りは「イエス・キリストの御名によって祈ります」というのはここからです。目には見えない神様に祈る時、聖書は、イエス・キリストが私たちと神様との間を取り持ってくださるから、祈りは届けられるのだと教えています。たとえ、私たちに罪や思い上がりがあっても、イエス・キリストが間に入って下さる事で、私たちは安心して祈ることが出来ます。私たちと神様との間を取り持って下さるのは、ただイエス・キリストだけ。そのことをここでは思い出させます。ただ、この詩篇3篇も、他の聖書の祈りも「イエス様の御名によって祈ります」とは言いません。言葉で「イエス様の御名によって」と言うかどうかより、私たちの祈りはイエス・キリストが届けてくださることを覚えるのです。

 次回から、イエス・キリストが教えた「主の祈り」を見ていきます。イエスは私たちの祈りを神に届けてくださるだけでなく、私たちに祈りそのものを教えてくださいます。そうして、この素晴らしい祈りの恵みを私たちがもっと戴けるようしてくださいます。

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創世記24章15~27節「無名のしもべも導く神 聖書の全体像16」

2019-06-02 17:00:20 | 聖書の物語の全体像

2019/6/2 創世記24章15~27節「無名のしもべも導く神 聖書の全体像16」

 神が選ばれたアブラハムの生涯から、お話しを続けてきました。アブラハムの生涯の最後としてこの二四章を見たいのです。

 荒筋を申し上げましょう。アブラハムが息子の妻捜しをする。神が約束されたカナンの地にいても、そこに住む女性でなく、故郷のアラムの地から迎えたいと考えました。そこでアブラハムは、家の最年長のしもべにその嫁捜しを託します。しもべは、

 「良い候補者を見つけても、流石にここまで来るのは躊躇うのではないか、そうしたら、イサクをその地に連れ戻っても構いませんか」

との懸念だけを伝えます。アブラハムは、連れ戻ることは禁じて

 「もし彼女がここに来ようとしなければ、嫁捜しの責任から解放される」

と応えます。こうしてこのしもべは、一〇頭のラクダと沢山の贈り物を携え、何人かの従者も一緒に、アラムに向かいます。二十日からひと月はかかった筈ですが、その詳細は一切省略しています。アラムに着いたしもべは、夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来る頃、井戸のそばで祈ります。

12「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。

13ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。

14私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」

 こんな都合の良いというか、破れかぶれという祈りをします。ラクダにも飲ませるとなったら、一頭80リットルぐらい飲むそうで、一〇頭なら一時間もかかったと言われます。そんな労苦を買って出るなんて、そのうち現れるのでしょうか。ところが、次の15節は、

15しもべがまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはミルカの子ベトエルの娘で、ミルカはアブラハムの兄弟ナホルの妻であった。

 イサクにとっては従兄弟(いとこ)の娘、イサクの嫁候補には願ったりのリベカが現れたのです。まだこの時点でしもべはそれを知りませんが、彼女に走って行って水を乞うと、リベカは水をくれた上、ラクダにも水を飲ませてくれるのです。井戸と水舟とを何度も往復したのでしょう。しもべが、黙ってその様子を一時間程も見ていました。ラクダが飲み終わって、しもべはリベカから、彼女がアブラハムの血縁であることを知ります。何と言うことでしょう。しもべは、

26…ひざまずき、主を礼拝して、27「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」

 こうして、しもべたち一行はリベカの家に迎えられます。その場で、食事よりも先に、しもべはここまでの経緯を詳しくなぞって繰り返します[1]。それを聞いて、リベカの父も兄もリベカを嫁に出すことに同意する。しもべが最初に心配した、着いてきたがらないのではないか、という点もクリアして、しもべは52節でもう一度

「地にひれ伏して主を礼拝した」

のです。

 長い二四章をかいつまんでまとめました。実にドラマチックな嫁捜しでした。何せ、創世記で一番長い章なのです。そして、全部で五〇章ある創世記の丁度真ん中頃に当たります。しかもアブラハムは最初に登場するだけで、中心になるのは名も分からないしもべです。その無名のしもべが、アブラハムから託された使命を果たすために旅をして、そこで体験した出来事が、創世記の中間で、最も長く詳しく記されている。これは意味深長です。アブラハムやイサク、有名で有力な人物を差し置いて、名もないしもべが神の大きな物語の一端を担ったのです。

27「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」(48、49節も)

 この

「恵みとまこと」

「導いて」

は、48・49節でも繰り返されます。主が旅を導いてくださる。「導く・伴う」はキリスト者がよく使う言葉ですが、ここで初めて使われるのです[2]。「恵みとまこと」も詩篇に何度も出て来る大切な言葉ですが[3]、この二四章で初めて出て来ます。しもべがこの体験を通して、本当に主が導いてくださった、主は私たちを恵み深く、真実に導いてくださるお方だと、深い実感を持って告白しています。アブラハムやイサク、主要人物ではなく、この無名のしもべの体験です。それは、即ち、この創世記を読む読者に対するメッセージでしょう。アブラハムを通して始まった契約の中に入れられたすべての人は、今も主が不思議に導かれている。恵みとまことをもって導いて、役割を必ず全うさせてくださり、主が旅を成功させてくださる。そう確信するように、創世記の真ん中、二四章は語るのです。

 勿論それは《私たち人間にとって都合の良いように、万事順調に上手くいく、最後は丸く収まる》というお導きではありません。しもべは長旅の労を引き受けました。自分の楽や安全を願う以上に、その嫁がここに来るかだけを案じました。イサクの妻にも、自分の生まれ故郷を離れ、今までの住み慣れた生活から新しい冒険へと踏み出すか、という資質は欠かせなかったからです。アブラハムが故郷や父の家を離れて、行く先を知らないで旅立つことを求められたと同じです。主が私たちを導かれるのであって、私たちが主を導いたり行く先を決めたりするのではないのです。私たちは主の大きな導きに信頼して、自分を開いて捧げていくのです。

 また、しもべは

「主が導いてくださった」

と言いましたが、この章には直接「主が・神が」とはひと言も言われません。主の導きはハッキリは見えず、隠れていて「偶然だ」と見過ごす事も出来るものです。また、主の導きだから全てが完璧で理想的ではありません。リベカの兄ラバンは、やがて再登場して、イサクの息子ヤコブを大変手こずらせる曲者です[4]。いいえ、当の嫁のリベカからして、やがてイサクとギクシャクして、息子ヤコブを唆してイサクを騙すなんて行動をとって家族を引き裂いてしまうのです。そういう問題も含めて、この出来事は主の導きとして受け取られているのです。厄介さを抱えた人間を巻き込みながら、主がすべての事の中に働いて、私たちを導いておられる。私たち自身、それぞれに個性があり、取り扱われるべき問題を抱えている不完全な者で、そういう私たちを主はともに導いてくださっています。アブラハムを選び、契約を結ばれた主は、その約束をイサクや子孫、また、しもべや異邦人も巻き込みながら、今も導かれ、実現されます。誰一人完全ではない私たちが、旅をしたり、水を汲んだり、精一杯自分の出来る事をしながら、出会い、助け合い、お互いを通して主の恵みを分かち会いながら、神の物語は進んで行っています。神が見えない時も、いつも全てを、深い恵みと変わらない真実をもって神は、ご計画のままに、私たちを導いているのです。

 そう信じるしもべは、祈り、礼拝しています。主の導きを求め、主が恵みを施されたことを知ることが出来るように祈っています。リベカの自己紹介を聴いては祈り、その家族の了解を得ては主を礼拝しています。折々に、祈っています。勿論、しもべが祈り終えないうちに、いいえ、祈る先から既に、主は導いておられました。だからこそ、私たちは祈るのです。「私たちが祈ったら主が導いてもらえる」のではなく、主が導いておられることを知って、祈らずにおれないのです。神は私たちに、神を信頼するよう、祈るよう、神をますます心から礼拝して歩むようにと、導かれるのです。私たちもこのしもべに自分を重ねて、主の導きを信じつつ、

 「導いてください、それが分かりますように」

とも率直に祈りましょう。アブラハムを通して始められた主の祝福が、今私たちにも渡されていて、私たちもまたその祝福を目の前の人に渡す。そういう大きな物語の中に導かれていると励まされて、祈りながら、導きを求めながら、歩ませていただくのです。

「恵みとまことに富んでいます主よ。あなたの導きを信頼して歩める幸いが、全ての民に約束されていることを今日の箇所からも教えられて、感謝します。あなたの導きが見えないこともありますが、あなたがこの世界を贖い、罪をきよめ、正義と平和の御国をもたらすことを待ち望みます。私たちをお捧げします。どうぞ私たちを伴って導き、御名を崇めさせてください」



[1] 厳密には、全く同じではありません。あちこちで、リベカ家族が受け入れられやすいよう、言葉遣いを工夫しています。

[2] 詩篇23:3「主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。」など。

[3] 詩篇25:10「主の道はみな恵みとまことです。 主の契約とさとしを守る者には。」、57:3「神は 天から助けを送って 私を救い 私を踏みつける者どもを辱められます。 セラ 神は 恵みとまことを送ってくださいます。」、61:7「王が 神の御前でいつまでも 王座に着いているようにしてください。 恵みとまことを与えて 王をお守りください。」、85:10「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします。」、86:15「しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。 怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。」、89:14「義と公正は あなたの王座の基。 恵みとまことが御前を進みます。」、115:1「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく ただあなたの御名に 栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに。」、138:2「私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し 恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。 あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられたからです。」

[4] 創世記29章以降。

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