2019/6/16 詩篇一一五篇「第一の願い」はじめての教理問答114~115
主の祈りを今日から6回で見ていきます。イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りのお手本は、第一の願いを「御名が聖とされますように」と祈るのです。
問114 第一の願いごとはなんですか?
答 最初の願いごとは「御名が聖とされますように」です。
問115 「御名が聖とされますように」とはどういう意味ですか?
答 わたしたちやほかのひとたちが、神さまをあがめ敬うように助けてくださいという祈りです。
どうでしょうか、皆さんにとっての第一の願いは何ですか。私たちの一番の願いは、どんなことでしょうか。イエスは、私たちの願いには色々あるとしても、まず第一に
「御名が聖とされますように」
と祈るよう教えました。それは、ただそう祈るように、という礼儀の問題ではありません。本当に、それこそが一番大切な願いだし、私たちの、心からの願いを整えることなのです。心にはどんな願いがあっても、祈る時にはまず「御名が聖とされますように」と祈っておきなさい、という意味ではなく、本心からまず
「御名が聖とされますように」
と願うことを教えられたのです。
私たちの本心は、大抵、神の御名よりも、自分の名前、自分の名誉、自分のことでしょう。それは自然なことでもあります。でも、自分のことで誰もが頭がいっぱいになった世界が、皆が自分のことより、神の御名が聖とされますように、と祈る世界になったら、どうでしょう。平和が身近な世界になります。「主の祈り」は、私たちが、第一の願いを神様のことにする人、世界に新しい変化をもたらす人にする祈りなのです。
詩篇一一五1私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
あなたの恵みとまことのゆえに。
それでは、私たちの願いや気持ちはどうでも良いのでしょうか。いいえ、そうではありません。神は私たちを愛して、私たちの必要や心の動き、気持ちをすべてご存知です。私たちを心を持つものとしてお作りになったのも神様です。そして、私たちに、自分の願いよりも、神の御名が聖とされますようにと祈るよう教えられた神ご自身が、神の御名が辱められ、踏みつけられることも構わずに、私たちの救いを願った方です。
「恵みとまこと」
のお方なのです。神は、私たちのために祈り、願うだけでなく、ご自身を捧げてくださいました。三位一体の神は、御子イエスの十字架によって、ご自身を私たちのために捧げてくださったのです。そのような恵みがあるから、私たちは心から、何よりもまず、神ご自身をほめたたえずにはおれないのです。
「聖とされますように」
とは、実は、そのような意味です。神は、本当に恵みに溢れるお方、一切、利己心や傲慢さがなく、押し付けがましさや見返りを求めることなく、与えて与えて育ててくださるお方です。そういう、利己心のなさこそ、「聖」なのです。
ホセア十一8わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
9わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。
わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。
夕拝で使う新しい翻訳の
「聖とされますように」
の方が元々の意味に近いのですが、朝の礼拝でも使っている今までの「主の祈り」は
「御名をあがめさせたまえ」
でした。「あがめる」というと、褒められる、すごいなぁと称えられる、というニュアンスです。それだけだと、私たちが神の御名をあがめる、賛美する、自分のことは後回しで神を褒めることを神は願っている、と思うでしょう。でも考えてみてください。私たちの周りでも、力が強かったり、能力に秀でて、一番になったり、金メダルを取る人も素晴らしいと思いますが、それ以上に、その栄誉よりも家族を大事にして、勝負を棄権する人こそが、賞賛されるのではありませんか。大豪邸に住むお金があるのに、そのお金で貧しい人を助けるため自分も貧しい暮らしをする人に、心を打たれるのではありませんか。大事な試合の真っ最中に、勝負を捨ててでも、誰かを助けるため、自分を犠牲にするような話に涙を流すのではありませんか。自分が一番だと偉そうにしている人が、命をかけてほかの人を守ろうとするドラマが沢山あるのは、そういう姿にこそ、本当の名誉、本当の尊さがあると、憧れているからなのかもしれません。
神は、まさしく、自分への賛美を求める以上に、ご自身を惜しまずに与えて、私たちの最善を図ってくださるお方です。ご自身の恵みを現す舞台として、この世界を創造されたお方です。私たちは、この世界を見る時に、あちこちに神が聖なるお方であることを知ります。でも、それを忘れて、自分の損得や、自分が少しでも上に行くことばかりが盛んに言われていることも現実です。だから、私たちは
「御名が聖とされますように」
と祈るのです。すべてのことを通して、神様の聖なる素晴らしさが崇められますように。あらゆることが、神の素晴らしさを現しますように。神が聖であることを知らない人も、神の恵みに触れて、心から神を賛美するようになりますように。そうして、自分の事ばかり祈ったり、祈りさえ見せるためにしている人がいる世界が、神の恵みを喜んで、自分の見栄など忘れてしまう世界になっていきますように、と祈るのです。
勿論、私たちには沢山の切実な願いもあります。病気になれば、治るように祈ります。犯罪に巻き込まれれば、解決を祈ります。悩ましい出来事が、無事に決着がつくように祈らずにはおれません。困った時にはその困ったことを祈ります。それでも、私たちはどのように祈れば良いか分からない思いをすることが沢山あります。そういう時にこそ「主の祈り」は私たちを助けてくれます。
「主よ、この事を通して、あなたの御名が聖とされますように。私の願いはありますけれど、それが一番ではありません。私ではなく神はあなたです。私の願いが神様のご計画とは違うとしても、どうか、この病気や悲しみや問題を通しても、神さまの御名が聖とされますように」。
そう祈ることを教えられます。自分の願いや考えよりも大きな、神のご計画を見上げることが出来ます。だからこそ、自分の栄光よりも、神様が賛美されること、神の御名が誉め称えられることが大事な事、一番大切なことだと思い出させてもらえます。私は、そう祈ることによって、心配や怒りや穏やかでない心を静めてもらって、最後には平安を持つことが出来ます。
第一の願いが、
「御名が聖とされますように」
という祈りであるのは、本当に素晴らしい恵みです。この祈りにいつも立ち戻りながら、歩ませていただきましょう。