2020/3/1 Ⅰペテロ1:3-9「悲しまなければならないのですが」新型コロナ危機の中で
今日、集まれる人は会堂に集まり、マスクを着用して離れて座りながら礼拝をし、終わったら解散の形を取りました。感染者の多い所では、集まる礼拝を取りやめた教会も多くあります。見える形で集まることは大きな恵みですが、絶対的な義務ではありません。「神様第一」と「会堂での礼拝」とはイコールではありません。集まれざるを得なくても、私たちは一つ礼拝の民です。抑も教会は世界中に散らされ、この世界の隅々で礼拝を捧げている「地の塩」です。
韓国では「教会で感染拡大した」と報道されました。正式には「新天地」というカルト団体で「私たちの教会に来れば癒やされる」とか無謀な発言をする団体です。ホントの教会こそ「自分の教会に来れば安全」とは言いません。「私だけは特別」という特権意識からイエスは救ってくれます。「イエスを信じれば病気にもかからない」と保証はしません。私たちは人として謙虚に、自分が出来る対処をし、柔軟な姿勢で危機に対応していきます。今もその時です。
1:6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、…
先週読んだ第一ペテロの言葉です。この言葉を思い巡らしています。私たちの生活にある多くの「当たり前」は、何かあれば失われるものです。しかし、それは「悲しみ」だとも言われます。「どうせ失うのだから、悲しむな。永遠の救いを喜んでいよ」とは言いません。悲しまなければならない事があるときには十分に悲しみつつ、しかし、それによって、決して失われることのない恵みをますます確かめて、喜びながら進んで行くのです。
これから教会や世界がどう変わっていくのか分かりません。コロナウィルスも過ぎ去って、「あんなこともあったね」と笑い話に出来るぐらいになるのかもしれません。この出来事で、世界も経済も社会も大きく変わって、これまでの生活のほうが「あんな時代もあったね」と遠い過去になるのかもしれません。思い出してください、聖書の物語も、舞台は激変しました。
エデンの園の時代
族長時代
エジプトの奴隷時代
荒野の放浪
ダビデ王朝
ざっくり見るだけでも、これだけ大きく変わりました。
旧約と新約でも、イスラエル王国の歴史から、ローマ帝国の属国となっての歴史は、大きな変化です。
予想の出来ない変化を、神の民は経てきました。
教会の時代もそうです。迫害の時代、
ローマの国教となり教会が生活の中心になった中世
そして、世界宣教に励む近代、現代。
私たちには想像を絶する変化です。
宗教改革の前には、ヨーロッパをペストという病気が襲った時がありました。ペストのため、ヨーロッパの人口は、4分の1か、3分の1が亡くなったと言います。教会は沢山の人を埋葬し、大きく変化したでしょう。
そういう試練をくぐり抜けて、教会は歩んできました。
迫害されて建物が崩れたり、難民となって散ったり、時には、地下の墓地に集まることもありました。
ウィルス対策で、私たちはお互いに近寄ることを止めて、会食やお茶やお菓子もお休みします。かつて、教会が迫害されて集まることを禁じられていた時も、お互いに顔や名前を知らせることはせず、ただ集まって、聖書の物語を聞き、ともに祈り、それだけで去って行っていました。しかし、その困難な時期こそ、キリスト者が最も増え、広がっていった時代です。G・K・チェスタトンは
「キリスト教は生き残ってきたのではない。死んでは復活してきたのだ」
と言います[i]。教会は、困難を生き延びたのではなく、何度もそれまでの形を壊されてきました。そして、その度に復活し、新しい形で集まり、パンを分け合い、主を証ししてきたのです。
今回の出来事がどんな変化になるか分かりません。精一杯の予防や対策を取りながら、私たちにはどうにも出来ない大きな変化がありうる現実に、柔軟になりましょう。悲しまなければならない変化をともに悲しみながら、どんな「変化」も「終わり」ではなく、神はともにいて、全く新しい次の時代が始まって行くのかも知れません。その変化の時、私たちを支えるのは、他でもない、変化の中でも変わらずともにおられる神の言葉です。御言葉が私たちを慰め、養います。聖書の物語の一つ一つ、また、それぞれの書や、旧約全体、新約全体、そして聖書全体の物語を心に刻むことです。今日はその一つ、イエスの病人の癒やしを心に留めましょう。
イエスは、多くの病気を癒やされました。時にイエスは、遠くにいた病人や亡くなった子どもを癒やしました。お言葉一つでたちまち人を癒やす権威を持っていました。それなのに、イエスの癒やしの圧倒的に多くは、病人に触れ、その手を取って一緒に歩いたりしての癒やしでした。「触ったら汚れる」と忌み嫌われていた人たちをも、イエスは近寄って、触ったり抱きしめたりしました。すると、イエスに汚れが感染するのではなく、イエスのいのちが病人たちに感染して、汚れを清めたのです。触れる必要がないのにイエスは触れました。触れることも忌み嫌われた人たちにとって、どれほど嬉しい温かさだったでしょう。私たちはイエスと違い、不完全です。人を癒やすような聖さや、ウィルスに負けない免疫力はありません。ですから、マスクをしたり防護服を着たり消毒をする必要があります。しかしその、面倒くさい手間をも厭わずに、出来る形で人に触れ、助けようとする。それが愛です。イエスもそうでした。ただ触れるために、神としての栄光を捨てて、人間の体を取られました。それは無限の謙りでした。その深い憐れみで、私たちは触れられたのです。そうして私たちも人に、精一杯手を差し延べるとき、病を直接癒やせなくても、人の心を繫ぎ、癒やす、良い感染が出来るのです。
まだコロナウィルスについては不明な点ばかりだそうです。精一杯予防をしますが、もしかしたら感染するかもしれず、もう感染しているかも知れず、そして、誰かに感染させているかも知れない。「自分一人の事」と済ませられない、大きな影響力を与え合っている。私はこの事を、不思議だなぁ、凄いなぁと感動さえ覚えます。コロナウィルスに限らず、私たちはいつも、何か影響を与え、感染し合っています。実際、私たちが「病気が怖い、不安だ、感染されたくない」と思っていること自体が、お互いに、疑いや不安やよそよそしさを感染し合っています。それは、致死率2%と言われる肺炎ウィルスよりも遥かに強力で、致命的な影響です。
時には実際に、マスクや食糧を奪い合い、血を流し、それを見るすべての人の心を殺伐とした気持ちにさせます。トイレットペーパーやティッシュが足りなくなるとデマを流した人がいて、お店のペーパーが空になりました。今度はそのデマを流した人が特定されて、ネットに情報が流れ、袋だたきにされる。悪い感染の広がりです。逆にこうした中でも、普段でも、私たちがお互いを喜び、大事にし、笑顔を向けたり、優しい言葉をかけたりしたら、それもまた、お互いによい感染をしていくのです。不安な思いを分かち合いながら、「恐れなくて良い。悲しんで良い。神がともにいてくださる」と寄りそう、良い感染も出来るのです。
今、中国人だ、韓国人だ、アジア人だ、あの舟に乗っていた人だ、と何かと差別されることが起きています。誰かを「ばい菌扱い」するようなことは決してしない。そういう行動を取ることも、よい感染になります。それは、病気だけでなく、どんな時もです。世界が大きく変わるとしても、私たちが互いに愛し合うこと、支え合うこと、良い感染を与え合う大切さは変わりません。
Ⅰペテロ4:7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。9不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。10それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」。どの人にも「自分だったら」という思いで接して、お互いをかけがえのない存在、繋がっている人と見ていきましょう。その時私たちの感染対策や人生は愛(おもいやり)によって強められます。自分の免疫力も高められますし、互いに良い感染をすることができます。そうしてこの事を通しても、主の業が現されますように。私たちが変えられ、愛し合うようになる主の業が、現されますように。主の憐れみを祈りましょう。
「すべての主よ。あなたは、私たちを愛し、癒やし、互いに影響を与え合う、かけがえのない存在とされました。どうか、今、新しい病気を前に、戸惑い不安を覚えている私たちを憐れみ、謙虚な心で、お互いへの思いやりと望みをもっていけるよう、整え、支えてください。」
- 新型コロナウィルスの対応のため。これ以上の感染が広まらないように。
- 罹患した方の回復、亡くなった方々のご遺族、医療従事者、子どもたちや家庭、困難と不安の中にいる方々のために。
- 心ない差別や偏見、疑心暗鬼で行動せず、主の愛に根ざした発言・行動が取れるように
- 政府・指導者たちがよい判断を出来るように
- どんな時も主がともにいて、私たちを強め、新しくしてくださるように。
[i] G・K・チェスタトン『人間と永遠』(別宮貞則訳、春秋社)、398頁