2020/3/22 マタイ伝6章9~13節「試みにあわせないで」
どうかすると、主の祈りに馴染みすぎて、習慣のように唱えていても、この
「我らを試みに遭わせず悪より救い出し給え」
だけは他以上に真剣に願える、ということがあります。試みや悪からの守りを願う。それはとても自然な願いで、本能的といっても良いかもしれません。また、イエスが私たちに祈りを教える中で、もっと高尚な願いや
「試練をお与えください」
という言い方ではなく、
「試みに遭わせないで、悪からお救いください」
と願うよう教えてくださったこと。それは、お祝いしたい喜びであり、深い慰めです[1]。
ここだけではありません。イエスの活動は、いつも私たちの受ける試みを真っ正面から受け止めるものでした。特にマタイが強調しており、4章では人々に語り、福音を伝える前に、荒野で四十日、試みを受けて、サタンを退けた出来事がありました。十字架にかかる前、26章ではゲッセマネの園で祈りながら、一緒にいた弟子たちに
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」
とお語りになりました[2]。イエスはいつも、私たちには誘惑(試み)が付き物であると強く意識していました[3]。この13節の悪には欄外注に
「あるいは「悪い者」」
とあります。単なる「悪からお救いください」以上に「悪い者」試みる者、私たちを誘惑し、悪に引きずり込もうとする存在からの救い、そう訳すことも出来るのです。イエスはその「悪い者」の試みからの救いを願わせています。イエスの言葉や働きは、誘惑との戦いを強く念頭に置いています。そしてイエスご自分が、同じ試みを経験してくださったお方です。
ヘブル4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
イエスは私たちと同じように試みに遭われたお方です。そして、私たちに深く同情しつつ、試みられたら一溜まりもない私たちをも、悪から(悪い者から)救い出してくださるお方です。天にいます私たちの父に、私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください、と祈る願いは決して虚しくはありません。神は私たちを救われます。そのために、御子イエスをこの世界に遣わして下さり、私たちとともにおらせてくださいました。この神への信頼こそ、今日、何よりも覚えていただきたいことです。
この「悪」は「悪い者」とも訳せますが、「悪い者」と言い切りたければ「悪魔」「サタン」という言葉もあったのです。それなのに、悪とも悪い者ともどっちとも訳せるような言葉が選ばれたのもまた意味深長なことです。悪しき者の働きは確かにありますが、それ以上に天の父の力は強いのです。悪の力よりも、イエスの恵み、神の愛のほうが遥かに強く豊かなのです。その事を抜きにして私たちが悪を恐れ、不安から「禍からお守りください」と願うとしても、イエスはその不安そのものから救い出してくださるのです。
何度も立ち戻りますが、この主の祈りの願いの前、5節からでイエスは、祈りが人に見せる偽善になる事や、神に対してのパフォーマンスになることを強く窘(たしな)めていました。
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる」[4]。
その神の子とされる、豊かな恵みの契約をイエスは強く宣言されました。そして主の祈り自体でも、
「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。御心が行われますように」
と、まず神を神とすることに私たちの心を向けさせたのです。そうであるなら、
「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」
という「試み」や「悪」とは、その神の深くて強い恵み、偉大さを忘れさせてしまうことです。父なる神への心からの信頼抜きに生きてしまう悪です。そこから引き離そう、自分を誇らせようとする「悪い者」がいる。そこからの「救い」です[5]。
C・S・ルイスは、悪魔は「悪魔の存在を信じないこと」と「過度の、そして不健全な興味を覚えること」の二つを喜ぶと言います[6]。二つは逆のようですが、どちらも人を神から引き離す、悪魔の思う壺です。誘惑はいつも両極端です。「試み」を「誘惑」と捕らえて、快楽とか不道徳や不正をすぐに思い浮かべます。確かに、食欲や性欲や犯罪に拐(かどわ)かされて、人生を棒に振ることも沢山あります。ギャンブルやポルノや泥酔や、挑発や詐欺やごまかしの誘惑は、決して小さくはありません。しかし、その反対の道徳主義・潔癖主義、「自分たちは正しい」という思いもまた、私たちが陥りやすい試みであり、救い出されなければならない悪です。神が私たちを造られたのは
「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛し…あなたの隣人を自分自身のように愛」
するためでした[7]。この神の「愛する」という御心から切り離すことはすべて誘惑です。「自分たちの方が正しい、自分たちは責められる所が少ない、あの人たちよりマシ」…そう思う時に神は小さくなっています。神への祈りは、一方的な恵みへの感謝を忘れた、独り言になります。「自分は正しい」という思いこそ、イエスが立ち向かった悪でした[8]。不道徳や欲望に流されて放蕩や不正に走るなら、それは惨めな結果になります。ルカ15章の放蕩息子の譬えが示す通りです。しかし、あの譬えで強調されているのは、その弟に腹を立てた真面目な兄息子です。父の心から遠く離れていた兄息子こそ「自分は正しい」というプライドから救われる必要がありました。イエスは、当時の自堕落な生き方をしていた罪人にも、模範的だと自他共に認めていたパリサイ人たちにも、ともに神の元に帰るよう招かれました。そして、自分の罪を認めた人たちより、「自分たちは正しい」と思っていたパリサイ人こそが、イエスの教えに抵抗して、最後はイエスを十字架につけたのです。
マルチン・ルターの妻は、
「まだ赦していない罪を『赦した』と思う誘惑からお救いください」
と言いました。一つ前の第五の祈願を受けた、とても誠実な言葉です。それに加えるなら、「天の父が負い目を赦されたのに『まだ赦されていない』と思う誘惑からお救いください」とも言いたいのです。神が天の父となって私たちを愛し、神の子どもとしてくださっている。その父が王である
「御国が来ますように」
と祈っていながら、まだ神の支配を疑っている。神を信頼できる幸いがあるのに、まだそれを疑っている。神が赦しを下さるのに、それを信じ切れなかったり、問題が起きると「罪のせいではないか」と思ったりする。「《試みに遭わせず悪からお救いください》と祈っても無駄だと思う」という誘惑に陥っていませんか。神を小さく考えているなら、それは、神に背を向ける誘惑にもなれば、自分が神の代弁者のように思う悪にもなる。どちらも神への信頼が小さすぎます。傲慢も絶望も、楽観も悲観も、貧しさも豊かさも誘惑です[9]。自惚れも自己卑下も、禍も幸せも、罪も「正しさ」も悪になります。苦しみや挫折という試練も辛いことです。しかし、成功や順調が神を忘れさせたり[10]、神を自分の幸福の「守り神」に貶めて、本当に神を喜び愛する、人格的な関係を失わせたりする方が深刻です。悲しい死も「まだ生きていられる」という幻想からも私たちは救い出される必要があります[11]。
イエスは、私たちの陥る誘惑には様々な形があるのだと、マタイの福音書はこの後、丁寧に展開してくれます。思い煩ったり[12]、さばいたり[13]、嵐に怯えたり[14]、主の赦しを拒んだり[15]。それはこれから気づかされていきましょう[16]。大事なのは「誘惑リスト」を造って避ける以上に、天の父を見上げて、謙って、父の御心に生きることです。誘惑を避けようとするばかり、罪を犯すまいとするばかりで、神や人を愛すること、神の恵みや人の尊さを喜ぶことを忘れたら、元も子もありません。大事なのは、神を信頼し、互いに愛し合う生き方です[17]。苦難に遭わないより、神の御国を求めることであり、それがイエスの伝えた
「御国の福音」
でした。その途上にある私たちはまだまだ様々な形で「自分」が王になり、主の恵みに背いてしまいますが、イエスは決して見捨てずともにいて、悪から救い出してくださいます。また、私たちが互いに裁き合うのでなく、ともに赦された者として赦し合い、主の民の旅をともに歩ませてくださる。そこから逸らそうと、悪い者が私たちの欲望やプライドに巧みに働きかけるとしても、神はその企みさえ用いて、私たちを深く結び合わせてくださいます[18]。その約束としてこの祈りを祈るのです。
「聖なる主よ。あなたの御心が、御言葉の通りなりますように。あなたを信頼し愛し、また互いに愛し合い、喜ばせてください。恵みを小さく考え、見せなくしてしまう言葉や生き方や思いを取り上げてください。私たちには魅力的でも、あなたが悪と見られることからは強いてでも救い出してください。人となり試みを受けた主イエスがともにいて、神の民の旅路を歩ませてくださる。その幸いにいつも立ち戻り、互いに励まし合い、慰めを分かち合わせてください」
[1] マルチン・ルターは、この願いを二つに分けて、子ども向けに以下の解説文を書いています。「第六の願い また私たちを誘惑から導かないでください。 これはなんですか。 答え 神は確かにだれをも試みられないが、私たちはこの願いにおいて、神が私たちを守り、保ってくださって、悪魔やこの世や私たちの肉が私たちを欺いたり、誤った信仰や絶望、また他の大きな咎や悪に誤り導くことがないよう、また、たとえこうしたものに誘惑されても、私たちが最後にはこれに打ち勝ち、勝利を得るようにしてくださいと願うのだよ。 第七の願い むしろ私たちを悪からお救いください。 問これはなんですか。 答え 私たちはこの祈りにおいてまとめとして、天の父が私たちのからだと魂、財貨と名誉に対するあらゆる類の悪から救い、最後に、私たちの終わりの時がくるときには、祝福された終わりを与えてくださり、恵みを受けてこの苦しみの谷から天へと受け入れてくださるようにと願うのだよ。」
[3] 「試み」には、テストという「試練」の面と、悪へ誘う「誘惑」があります。ギリシャ語のペイラスモスは、どちらにも文脈で訳し分けられる単語です。テストがなければ、自分のうわべだけに満足して、弱さ、狡さ、醜さを曖昧にしか受け止めないだろう。それならば、却って高慢という罪に陥る。悪魔はぬるま湯という誘惑で、人を滅びに至らせる。
[5] また、「主の祈り」の結語「国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです」は、欄外に置かれて解説されているように、本来のマタイの本文にはなかったと考えられます。しかし、主の祈りが、天の神の主権に根ざしていることは、この補足に豊かに表されています。
[6] 「悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは逆方向だが、同じように誤りである。すなわち、その一つは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち、唯物主義者と魔法使いとを同じように諸手を挙げて歓迎する。」『悪魔の手紙』(蜂谷昭雄、森安綾共訳、新教出版社、1978年)、25頁
[7] マタイ22章37~39節「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
[8] 「真実を自分の中に見出すことは危険ですね。ユダヤ人哲学者レヴィナスが、『他者に責任を負うということがなければ、神という言葉は意味をなさない。』と言い放ちます。自分の中に真実をため込んでると、その真実と反する人を裁き始めます。他者との間に境界線ができてしまうのです。自分の中に真実をためるために教会に行くことは真の礼拝ではないかもしれませんね。自分が満たされる。問題の解決の糸口が見つかる。自分の思いや信仰を完成させる。思うように賛美する。神様の導きを無視して、神様が解るという自分の中にとどまる。私たちの信仰の先に他者がいなければ、私たちが、『他者のためにある自分』と出会わなれば、そこに神という言葉に意味がないとレヴィナスは言います。礼拝を通して、わたしの心の中にあるうめきや葛藤がなくなれば、神様と出会えるということではないことに気付く私たちでありたいです。勇気を持って、うめきを持つ私としてありのままの姿で神様の前にでる。そうすると、自分のうめきを聞きながら、御霊が共にうめいてくださっていることに気付き、自分自身が自分を理解することから解き放たれ、心の奥にあるうめきで打ちひしがれている中で、っと気づかされます。それは自分だけではなく、聖霊のうめきだと気付くのです。そこには十字架の道があることに気付きます。わたしのうめきに届く天からの光。神様の愛。 神様がそれを聞き、受け取り、満たそうとしていることに気付く。神様がこのうめきを通して私を呼んでくださっている。真実を手放す意味は、自分の外ある真実を、超越にある真実を受け取り続けることです。インマヌエルの神様と共に生きることです。そこに「他者のためにある自分」がいる。神様によって自分の中が完成されることではなく、神様が他者のためにうめきを持つわたしをも必要とし、呼んでくださっていることを受け取りつつ、神様に従っていきたいです。
「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきを持って、私たちのためにとりなしてくださる。」ローマ8:26 中村穣、Facebook投稿、2020年2月29日「一度は手放さないと分からない真実」
[9] 箴言30章7~9節「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。8むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。9私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」、ピリピ書4章11~13節「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
[10] 来週お話しする「一書説教 伝道者の書」では、快楽からも正しすぎることからも、という。老いていくこと、若くない日が来ること、死やさばきの日が必ず訪れることを忘れてしまう誘惑を語る。
[11] むしろ、十字架の道を語るイエスに「そんなはずがありません」と言ったペテロを「下がれ、サタン」と言われたイエスにとって、悪しき者の誘惑とは、平坦な、楽な道を行こう、試みなどなしに自分を捨てることもなく生きていられる、という思いではないか。若い時の情欲、中年期の皮肉、老いて孤独な日々の自己憐憫(フーストン、205頁)
[12] 6章25節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」
[13] 7章1節「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」 中傷、断罪、噂話、憶測はこの「さばいてはならない」に入るでしょう。そこには、相手への共感・想像力が欠落しています。
[16] 「私でなくて良かった」「私はあの人とは違う」「自分たちは特別」という思いも誘惑です。人格を手段とする悪。自分のために、神も他者も、道具(踏み台・利用)とする悪。試み・試練を恐れすぎる誘惑も、試み・悪しき者を軽視し侮る誘惑も。
[17] 私たちが何が誘惑かを知ることは大事。とても大事。しかし、その私たちの知識・理解が正しいとは限らない。それに限界・誤解があることも避けられない。だからこそ、私たちが誘惑だと思わないことでも、神がよしとされるならば、強いてでも私たちを救い出してください、と祈る。
[18] この事が何よりも分かるのは、誘惑を経験した人々の共同体、互いの弱さをよく知り、互いの重荷を担い合える共同体こそ、最も強く、神の手の中にある、という事実です。AAの12ステップは、真剣なこの第六祈願の告白です。