聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/3/15 イザヤ53:3-11「神ご自身が」ニュー・シティ・カテキズム19

2020-03-14 17:17:55 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/3/15 イザヤ53:3-11「神ご自身が」ニュー・シティ・カテキズム19

 今日の朝の礼拝では「罪の赦し」のお話しをしました。キリスト教では「赦す」ということをとても大事にします。しかし、「赦し」は誤解されることでもあります。決して悪を大目に見るとか忘れる、問わない、ということではありません。問題にしっかりと立ち向かった上で、その罪の傷を癒やしていくのです。夕拝で、人の罪についてお話しをしてきました。罪は、人が神の願いに逆らうこと。神以外の何かを神のようにして生きることです。罪はそれ自体で、自分の首を絞めること、悲惨や破綻をもたらすことに他なりません。その事をしっかり覚えた上で、今日はその罪の解決を見ていきます。
第十九問 罰から逃れ、神の好意を頂く方法はありますか?
答 あります。神の義を満たす為に、神御自身が、ただあわれみによって、私たちを神ご自身と和解させ、贖い主によって罪と罪の刑罰から解放してくれます。
 私たちが、罪の罰から逃れ、神の好意を得る方法。それは、私たちが何かをすることではありません。私たちがどんなに良いことや、何か神を喜ばせる秘密を知って、一生懸命アピールしたとしても、そんなことは何の役にも立ちません。クリスチャンが「私が救われたのは、神様が私の真面目さや一生懸命さを見て、分かって下さったからよ」と言ったとしたら、それは完全な誤解です。私たちには、救いを戴く方法など何一つ生み出せません。ただ「神ご自身が」行動を起こしてくださること。神に対する私たちの罪のために、神ご自身が罰するより、裁いて滅ぼすよりも、私たちのために立ち上がってくださって、神の義を満たしてくださる。そこに私たちの希望があるのです。

 今日読んだ、イザヤ書53章は、旧約聖書の中で、やがてキリストが来て、苦しみを受けて、私たちの救いを果たして下さることを預言した、とても大事な章です。イザヤ書53章。覚えて下さい。この中で、将来のキリストの苦しみを描きながら、
10しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。…
とありました。この「御心」という言葉は、喜ぶ、願うという意味があります。主なる神がそう願われた、というのです。計画とか、意思というだけでなく、神の御心は、神が自らそう選ぶ、ということがあります。そもそも、誰も、神に願わないことをさせることは出来ません。神は人間の罪を怒りたかったけれど、救いたくもあったので、渋々イエスを送り、十字架にかけたのではありません。勿論、それはイエスにとっても、神にとっても、大変な痛みでした。私たちには、十字架の痛みや苦しみがどれほど深く、恐ろしいか、ごく僅かに想像することしか出来ません。まして、神が十字架にかかるという事が、神にとってどんな痛みか、苦しみか、屈辱か、想像すら出来ません。けれどもそれを神は選んでくださいました。神とイエスは、私たちを罪から救うため、イエスが十字架にかかり、私たちが罰せられる代わりに、イエスが不当な罰を受ける、という形を選ぶことを、喜んで選んでくださいました。そうしたいと願ったのは、ただ、神ご自身の私たちに対する愛です。罪に滅ぶことを可哀想に思ってくださる愛です。そうして、キリストが自分のいのちを「代償のささげ物」としてくださったことで、末長く、永遠に、神の民の歩みが続くようになりました。それが主の御心(喜び)でした。

 私たちが、罪の罰から逃れ、神の好意を戴けるのは、神ご自身がそう願ってくださったからです。しかも、罰から逃れさせる、というだけではありません。キリストは、私たちを神ご自身と和解させてくださいます。これは、「罪」が神に逆らうことだ、という基準であることを思い出すと、結びつくでしょう。単に道徳的な悪が「罪」で神はそれを怒る、というだけのことではありません。罪とは神に逆らうこと。であるとすれば、当然、罪が解決するとは、神との和解でもなければなりません。神は、キリストによって、私たちとご自身との関係を和解してくださいました。神が和解してくださいました。それは、神が御心とされたこと、喜んで自らしてくださったことです。
 勿論、未だに私たちには罪があり、神に逆らったり、神との関係を大事に思えなかったりする問題はあります。私たちは神の子どもとして修復されていく途中にあります。罪の悲しさも、神の偉大さも、キリストの十字架の重さも、もっと知っていくことが必要です。しかし、その回復の途上にある事自体が、神が私たちと完全に和解して下さったからこそ始まった歩みです。私たちは不完全ですが、神はその私たちと完全に和解したいと願ってくださいました。一生かかっても、私たちが神の子どもとして教えられ、新しくされることを御心として、私たちに働き続けてくださっています。それが神の喜びだからです。
 時に、キリストの十字架が、神から差し出されたものであることが忘れられることがあります。キリストの苦難が、神の喜びでなく、私たちのための「仕方なし」の妥協案だったように言われることがあります。キリストにより神との完全な和解が与えられたのも「イエスに申し訳ないことだ」と罪悪感を煽り立て、後悔を強いる言い方でも語れます。「神は本来なら罪を罰したかったのに、イエスが間に立って下さったことで、私たちは辛うじて救われるのだ」とでも言うかのような理解があります。私たちはイエスの十字架に負い目を感じなければならないのでしょうか。「十字架にかかってくださってゴメンナサイ」と言わなければ恩知らずになるから、信じるのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエスは十字架に死に、よみがえられました。神は私たちが罪の罰を受けるよりも、ご自身が犠牲を払ってでも私たちを罪から救い出したい、私たちとの関係を回復したいと願いました。私たちが救いを願うより、神ご自身が私たちとの関係回復を願ってくださいました。イエスが下さったのは後悔や罪悪感ではなく喜びです。

 この神に替えて私たちが縋っているものは全ていつか失われます。私たちは自分の持っているあれこれがなくならないよう神が守ってくれることを期待して、何かあると神を信じない理由にしてしまいます。しかし、神との関係はそんなものではないのです。神がこの私を失うまいと思ってくださった。そのためにイエスが来ることを喜んで選ばれた。こんな幸いは他にはありません。その喜びをもって、今を生きてゆけるのです。

「和解の神よ、私たちのために道を備えてくださり、ありがとうございます。あなたは正義においても、恵みにおいても、いつも完全なお方です。私たちは救われる資格などないものです。しかし主よ、あなたの救いを受け取ります。あなたの愛するひとり子イエス・キリストの御名によって、私たちではなくイエスが成し遂げられた御業に信頼し、あなたの御前に歩み出ます。アーメン」
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2020/3/15 マタイ伝6章9~12節「お赦しください」

2020-03-14 17:10:54 | マタイの福音書講解
2020/3/15 マタイ伝6章9~12節「お赦しください」

 「主の祈り」の第五の祈り、
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」
に聴いていきましょう。これは文語文では
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」
です。見比べて、大きな変更が二つあります。主の祈りの中で最も大きな違いかもしれません。一つ目は「罪」「負い目」の言葉の違い。もう一つは文全体の違いで、順番が逆です。現代文なら
「私たちが私たちに負い目のある人たちを赦すように、私たちの負い目をお赦しください」
なのか、
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」
なのか。原文では最初に
「お赦しください」
です。イエスが教えてくださった「主の祈り」の言い回しは「お赦しください」なのです。
 私たちはイエスから「お赦しください」と祈る「主の祈り」を与えられています。その後に「私たちも赦します」という言葉も教えられています。また、続く14節15節でも、私たちが赦すことと、天の父が私たちを赦してくださることとが切り離せないのだと、重ねて強調もされます。ですから、私たちが赦さなくていい、ということではありません。けれども、決して、私たちが人を赦すから私たちも神に赦してもらえる、私たちが人を赦さなければ神も赦してはくださらない、という事ではないのです。これは、文語文でずっと祈ってきていると、交互に変わったとしても無意識のまま、そのように思い込んでしまっている誤解かもしれません。この祈りが教えるのは、「赦せば赦される」のような道徳ではありません。その反対です。赦しとは天の父からの贈り物に他なりません。いきなり「お赦しください」と願うだなんて、調子の良い、図々しい、立つ瀬のないような願いです。でもそんな祈りが「主の祈り」なのです。他にあれこれ思いつく願いもあるのに、何よりも「お赦し下さい」と願わなければならない私たちが、「お赦しください」と祈る。そんな図々しい祈りをイエスは下さったのです。
 マタイは「罪」を
「負い目」
と言っています。負債、借金です[1]。「罪」を「負い目」と言われても私たちにはピンと来ないかもしれません。でも少し心の内を探れば、負い目とか借りとか後ろめたさとか、申し訳ない気持ちを隠していることがないでしょうか。あるいは、人からされたことに対する貸しとか恨みとか、解決できていない「負債」が今の生活で心を開けない壁になっているかもしれません。そう考えると、罪とは、神に対する私たちの「負債」だ、というのも少し分かるのではないでしょうか。単に、悪いこと、邪な行動という以上に、私たちと神との間にある柵(しがらみ)とも言えます。返さなければならないのに返せていない、返しようのない負債がある。それをイエスは
「お赦しください」
と祈れ、神が待っている祈りは「負債をお赦しください」との祈りだ、というのです。そして、私たちも、自分に負債のある人、「貸しのある」人、解決できていない問題がある人のことも、
「私たちも赦します」
というようにとイエスは導かれるのです。神との間にも私たちの間にも、返しきれない負い目がある中で、それを解消し、関係を修復する赦しの贈り物が差し出されるのです。
 赦しは神からの贈り物です。私たちは自分の愛情や決意だけでは到底赦せないような問題と紙一重に生きています。そういう意味でも、私たちが赦せば神も赦してくださる、という順番はナンセンスです。「赦してやった」という思いでは、その赦し自体が、相手に対する「貸し」になっていることでしかありません。それでは、負債の赦しとは違いますね。天の父は「赦し」という貸しを負わせて、私たちは「赦された」という負い目を抱えて生きていく、のではないのです。もう負い目はなくなった、一切の支払は済んだ、それが「赦し」です。何しろ、ここでも神は天の父です。14節15節でも
「あなたがたの天の父」
という家族関係は、私たちが赦そうと赦すまいと変わらない土台です。赦したから天の父になるのでもなく、赦さなかったら天の父を止めるとも脅さず、変わらない。神は、私たちに返しきれない負債があっても、その私たちを子どもとしたい、どんなわだかまりや柵があろうとも、それを必ず解決して、神の子として成長してほしいと願い、そうして下さるお方です。その、私たちの問題を周知の上で、私たちを愛し、尊ぶ神の愛。それは、私たちの罪によって冷めることは決してないのです。
 それは、神が罪に平気だ、ということではありません。「赦し」とは、罪を不問にすることではありません。私たちは
「負い目をお赦しください」
と祈れる不思議に驚きながら、この祈りを祈ります。そして、この祈りを授けてくださったイエスが、この赦しと神との親子関係を与えるために、この世界に来て下さり、私たちのためにどれほどの犠牲を払って下さったかに驚くのです。イエスはその最初から、
「ご自分の民をその罪からお救いになる」
ために生まれると預言されていました[2]。イエスの生涯は、私たちに赦しを与えるためでした。マタイの福音書ではこの「赦す」という言葉が50回、福音書では一番多く繰り返されています。その一番初めは3章15節、イエスの最初のひと言からして「赦し」でした。それは
「そうさせてほしい」
と訳されています。「赦す」とは「そうさせる、放っておく、置いておく、後にする」という意味合いなのです。負債をそこにおいて置く。過去の負い目をそこに残して、今日を生き、明日を迎えていく。そういう赦しです。ですから、赦しとは「なかったことにする」とか「大したことはないと思う」「水に流す」とは違います。腹が立ち、悲しく、確かに人生に何らかの影響をもたらした事、あったことは動かせない借金です。しかし、神はその負い目を肩代わりして、そこから関係を修復して、まっさらな関係を始めてくださるのです。罪の負い目を背負い続けよと仰るのではなく、それをそこに置いて、そこから何度でも新しく、一緒に歩み出して下さる。そこには、罪を肩代わりするイエスの測り知れない痛みがありました。
 ここから、私たちの赦しに光を当てましょう。
 まず、私たちが心から人を赦すことは、命じられて出来ることではありません。少なくとも、簡単には赦せない痛みが、世界にも家庭にも深い傷跡を残しています。それは確かに罪として責められるべきものです。その深い傷が、十分見つめられて、十分嘆かれて、赦しによらずには癒やせない、ひどい痛みであることが分かち合われる必要があります。イエスはそれなしに「赦せ」と仰ったのではありません。むしろ、人が黙認して諦めていた罪をイエスは遠慮なく責めたお方です。それは「お赦し下さい」としか祈れない「負い目」であって、「大した問題ではない」と片付けることではありません[3]。
 また、私たちが「赦される」ことと「赦す」ことは深く繋がっています。自分が赦されていることを知る時に、人をも赦すことが始まります。自分も人も同じような不完全な人間だ、赦しを必要とする人間だ、そう思うことが心からの赦しになります。ヘンリ・J・M・ナウエンは
「私たちは、お互いが神ではないことを許し合うことが出来るでしょう」
と言います[4]。
 また、天の父は人の罪よりも強い方です。
「御国が来ますように」
と祈った通り、神は王であり、深い恵みに満ちた御心を行われ、罪からの救いを下さる方です。罪がもたらした破綻や痛みを通しても、人の心の奥に触れながら、新しい恵みの業を創り出されます。人は、罪で壊したことは戻せず、後悔しか抱けなくても、造り主である神は、すべてを働かせて益となさる神です。その摂理を仰ぐことも、私たちが人を赦せる上で欠かせないことでしょう。[5]
 赦しと和解は最も素晴らしい恵み、最も心打たれる出来事です[6]。赦せない出来事や修復しがたい関係を取り扱う実話や映画や良書は、深い涙が溢れます[7]。そうして十分に感情を汲み取ってもらうことは大事なプロセスです。そして、神は本当の赦しと和解を創り出してくださいます。お赦しくださいという祈れる憐れみを噛みしめましょう[8]。そして私たちもお互いに、その赦しを見えなく阻んでしまうような言い方を一切捨てて、お互いに赦された者、赦す途上にある者として語り合い、「私たちの負い目をお赦し下さい」とともに祈っていきたいのです[9]。

「天にいます私たちの父。赦しを求める資格などない私たちを、あなたは赦す価値があると見て下さり、主イエスを遣わされました[10]。あなたの赦しは、復讐や罰よりも遥かに力強く、喜ばしい恵みの力です。どうぞ、あなたの赦しによって、冷たい罪が責められ、罪の生き方を悔い改めさせて癒やしてください。教会を、本当に必要な和解の場、慰めの場としてください」


[1] 罪を「負債」と表現するのは、新約聖書ではここ以外にない珍しい表現です。しかし、レビ記25章の「ヨベルの年」は、「負債の免除」の年であり、イスラエルの生活が、負債を重ねること、それを返せないことも十分想定できるとした上で、50年ごとにはその負債が免除されることにより、神が示された歴史が、安息(シャローム=負債の免除)へと向かう未来志向のものであることを示しています。負債の免除こそは、聖書の福音のイメージです。
[2] マタイ1章21節。
[3] 「赦すことへの憂鬱や絶望、恐れ、不安、嘆き、悲しみ、怒り、苦悩、狼狽、疑い、批判や拒絶を体験しながら、辛抱を繰り返して進んで行く以外に豊かな人生を生きる方法はない。こうした感情の揺れ動かない人生は自分にとって無益なだけでなく、他人にも無益である。我々は進んで苦痛を受けなくては、いやされない。」(マイケル・スコット・ペック) ヨハン・クリストファー・アーノルド『憎み続ける苦しみから人生を取り戻した人々の物語』(いのちのことば社、2002年)、100頁より。
[4] ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン 明日の糧』(女子パウロ会、2001年)、56頁。この日課の1月24日以降29日までは、「許し」を扱っています。すばらしい洞察に満ちた短い霊想です。お勧めします。
[5] この言葉もまた、驚きであり、不可解である。ただ、イエスの十字架により、私たちは神の大きな赦しを知り、その赦しが注がれて、私たちも赦され、赦すようになるに他ならない。この世界にある、途方もない、癒やしようがあるとは思えない破綻をも、神が癒やし、さばき、和解させて下さる。万事を益と変えてくださる。神に背を向けた結果の人の罪や後悔をも、神の憐れみを縋り、赦されて、神の国が完成する道としてくださる。人の考える「因果応報」ではなく、神の恵みによる「摂理」があると信じるのである。それゆえに、私たちは、嘆きを注ぎ出しながら、赦しの道を歩めるのである。
[6] 豊田信行『父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て』(いのちのことば社、2016年)、197頁以下の「第五章 ヨセフの生涯 神の摂理と赦し」を特に参照。聖書全体が、赦し・回復の物語。それを信頼するときに、私たちも、神が下さる完全な和解を待ち望む。自分の中から、感情を抑えつけて赦す、のではない。感情を十分に受け取って下さる神に注ぎ出しつつ、心から赦させてくださる神に、自分の癒やしも悪へのさばきも、委ね、赦し以上の愛を求める。
[7] 加害者が心から悔い改めて、「悪かった。赦して欲しい」と言うようになること。それは到底期待できない事だが、神はそのような思いへと導かれる。
[8] 教会の中にも、身の回りや家族にも、赦されなければならない負い目があることを、それ自体とやかく言ったり、責めたりしてはならない。それは、赦されるのだと、回復を神が下さるのだと、語ってこそ。過去をほじくり返したり、批判したりは、主の祈りを妨げる。そのようにした時はどうすればいいか。赦して下さい、と祈るのだ。自分こそ、赦されなければならない負い目がある事を深く心に刻んで、主に憐れみを乞うのだ。
[9] 赦しは、祈りの中でなされること。祈りという神の関係なしには、自分の中からは出て来ないこと。創造主なる神が、壊れた関係を壊れたままにはなさらず、新しい思い、新しい関係を創造してくださる業である。弱々しい臆病や優柔不断からの裁きを放棄するのではなく、神の力強く真実で創造的な業に支配して戴くこと。悪の支配を終わらせ、神の支配を迎え入れること。
[10] 私たちに、赦される資格があるのではない。しかし、神は私たちを「赦す価値がある」と見て下さる。弟息子は「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません」と言おうとした(しかし、それは食べ物を恵まれるための口実だったのかもしれない)。しかし、父は弟息子を「赦す価値があるわが息子」と見た。父の中に、そのように見たい愛、見ずにはおれない憐れみがあることが肝心だった。
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