25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
[1] ヨハネの福音書6章では、もっとハッキリと群衆たちの思惑と、それに対するイエスの(つれないとも言えるほどの)鋭い応対が伝えられています。
[2] 五千人の給食で盛り上がった高揚感を窘める意図もあったかもしれません。逆に、五千人の給食に続いて、弟子たちだけに、イエスが自然界を治める主権者としての力を見せようとなさったのかもしれません。
[3] このエピソードには「すぐ」が三度も繰り返されています。22(ユーセオース)、27(ユースース)、31(ユーセオース)。
[4] 「恐れることはない」は30「怖くなり…叫んだ」と共鳴しています。また、マタイの福音書で繰り返される言葉。17:6、7、27:54、28:5。
[5] 「しっかりしなさい」9:2(すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。)、9:22(イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。)聖書協会共同訳では「イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。」と訳されています。
[6] マルコ、ヨハネは、この嵐とイエスの水上歩行の出来事は記しているが、ペテロの水上歩行については沈黙している。大きな出来事ではあるが、記すと焦点が曖昧になると思ったか、記すほどではないと思ったか。
[7] マルコの福音書9章5-6節「ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」6ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。」
[8] ここで、「怖くなったので沈みかけた」、とは言われていないことに注意。つまり、イエスを信じていた間は歩けたが、強風(や他のもの)に目を向けてしまったために、イエスを信じるよりも疑って、怖くなった。そのために沈んだ、という教訓は、直接に引き出せるものではないのです。それ以外の読み方も出来ます。
[9] 「神の子です」 4:3(すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」)、6(こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」)、8:29(すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」)、14:33(舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。)、16:16(シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」)、26:63 (しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」)、27:40(「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」)、43(彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」)、54(百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」)
[10] 「もしも、ペトロが沈まなかったならどうなるでしょう。もしも、ペトロが完全に信頼して、舟から飛び降り、両足の裏を水面にパシャッとつけると、波の向こうの主イエスに微笑みかけ、主のもとへまったく躊躇することもなく滑るように行ったとしたなら、どうだったのでしょう。もしも、他の弟子たちもペトロに続いて舟からどやどや降りてきて、嵐が猛威を振るい風邪が帆を叩きのめし、頭上では闇夜に稲妻が炸裂する中を、全員が完全な信仰のうちに水の上で大はしゃぎしたとするなら、どうだったのでしょう。それでは、別の物語になってしまっていたことでしょう。もっとすばらしい話だったかもしれませんが。それはわたしたちの物語ではなかったでしょう。わたしたちの真実の姿はもっと複雑なのです。わたしたちの真実の姿は、従い、そして恐れ、歩き、そして沈み、信じ、そして疑うのです。しかも、そのどちらか一方というのではなく、両方してしまうのです。」バーバラ・ブラウン・テイラー「疑いによって救われる」『天の国の種』(平野克己、古本みさ訳、キリスト新聞社、2014年)109頁。
[11] 映画にもなった『神の小屋』には、湖の上を歩く場面が印象深く登場します。また、トルストイの「三人の隠者」という小篇をご紹介します。『トルストイの民話』福音館書店: 人々に大変尊敬されている一人の高僧が、船旅の途中、魂を救う修行をしているという三人の隠者の住む小さな島に降ろしてもらう。そこには、ボロを纏った老人が三人手をつなぎあって立っていた。「私が聞いた話によると、あなたがたはここで魂を救う修行をし、』人々のために神にお祈りをしているとのことだ。そこで私は、できれば、あなたがたにも教えをたれたいと思ったのだ」隠者たちは、だまったまま、にこにこ笑って、お互いに顔を見合わせている。・・・「ところでどんなふうに神に祈っているのかね?」すると年をとった隠者が言った。「わしらはこうお祈りをしております。そちらも三人、わしらも三人、だからわしらをお恵み下さい。」高僧は苦笑して、言った。「それは、あなたたちが“聖三位一体”について聞いたからだろうが、そんなお祈りの仕方は正しくない。私が、神様のお書きになったものによって、お祈りの仕方を教えてあげよう。」 そして、一日中晩まで、高僧は隠者たちを相手に苦労した。一つの言葉を何べんも、何べんも繰り返し隠者たちもその後について同じことを言った。隠者たちが間違ったり、高僧がそれを直したり、初めから繰り返させたりした。月が海からのぼり始めたころ、隠者たちはようやく全部覚え込むことができた。船に戻った高僧は、船尾に腰を下ろし、遥かに遠ざかった島のあたりを、いつまでも眺めていた。・・・・・・ふと気がつくと、柱のような月の光の中に、何かがきらめいて、白く見えている。そしてその白い光が船に向かってどんどん近づいて来る。 ・・・・・・それは、手をつなぎあって、海の上を走って来る三人の隠者たちだった! 隠者たちは、船べりに近づくと、声を揃えて言い出した。「忘れてしまいました。一時間ほど繰り返すのをやめたら、全部めちゃめちゃになってしまったんです。何ひとつ覚えていません。もう一度教えてください。」高僧は十字を切り、隠者たちのほうに身を屈めて言った。 「あなた達の祈りこそ、神様まで届いているのです。隠者の皆さん。私はあなた達を教えるような者ではありません。われわれ罪深い者のためにお祈りをして下さい!」
[12] 詩篇94:18「「私の足はよろけています」と私が言ったなら 主よ あなたの恵みで 私を支えてください」