聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/1/3 ローマ書8章34節「私たちの弁護人」ニュー・シティ・カテキズム51

2021-01-02 12:21:19 | ニュー・シティ・カテキズム
2021/1/3 ローマ書8章34節「私たちの弁護人」ニュー・シティ・カテキズム51

 ニュー・シティ・カテキズムでのお話しもあと二回。最後から二番目はこれです。
問51 キリストの昇天は私たちにとってどのような利点がありますか?
答 キリストは、私たちのために肉をとって地に降りて来たのと同じように、肉を持って私たちのために昇天されました。そして今、父の御前で私たちのために弁護し、私たちのために場所を用意し、私たちに聖霊を送ってくださいます。
 キリストは十字架の死の三日目に復活し、そして「昇天」、天に昇られました。
因みに教会では人が亡くなった時、天に召された「召天」という表現を使います。イエスの昇天と紛らわしいですが、イエスは復活後の昇天です。

 弟子たちの見ている前で、天に上って行かれた、と使徒の働きに記されています。ここでわざわざ「肉を持って」と書かれていて、「肉をとって地に降りてきたのと同じように」と書いています。キリスト者の中にも、キリストの復活も昇天も、本当にあったはずはない、弟子たちの信仰において、キリストは復活し、天に昇ったと理解したのだ、と考える人たちもいます。もしそうだとしたら、キリストの誕生も、本当に神の子が、肉をとって人になったかどうか、ただの人間ではなかったのか、と怪しくなります。私たちは、神の子キリストが本当に人間となってくださったと信じます。同じように、その死の後も本当によみがえって、弟子たちの前に現れ、その体で、天に昇られたのです。
 ここではイエスの昇天の利点を、イエスが「今、父の御前で私たちのために弁護」しておられ、「私たちのために場所を用意」しておられ、「私たちに聖霊を送って」くださる、と三つあげています。

 第一は「今、父の御前で私たちのために弁護」しておられること、言わば、イエスが私たちの弁護人になってくださる、ということです。
ローマ書8章34節だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
 ここにあるように、私たちは「罪あり」と言われかねないような罪、過ち、悪を行ってしまいます。少しずつ完成されつつも、不完全です。大きな過ちも冒しかねませんし、そうでなくとも罪悪感や後悔に責めさいなむ事は多くあります。しかし、自分や誰かが「罪あり(有罪!)」と言うとしても、キリスト・イエスが、神の右の座に着いておられます。私たちの罪のために死なれた主イエスが神と私たちの間におられます。
 その上、主は私たちのためにとりなしておられます。取りなすとは「よいようにはからう。もめ事などの中に立っておさまりがつくようにする。なだめて機嫌よくさせる。」という意味だと辞書には書かれています。主イエスは、私たちと神との間に立って、良いように計らってくださいます。罪が引き起こす様々な問題の間に立って、収まりがつくようにしてくださいます。「宥めて機嫌良くさせる」は主イエスの場合、違います。何しろ、神ご自身が御子を右の座に置くことを選んだのであって、神が怒っているのを主イエスが「まぁまぁ」と宥めるのではないのです。また、人間の弁護人なら、口がうまく、裁判官を丸め込んで問題をもみ消す、というような悪い弁護士も思い浮かびます。
 でも、イエスはそのようなことはなさいません。そのローマ書の少し前27節には、
…御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださる…
とあります。神の御心に従ってのとりなしです。ですから、私たちは有罪だと罰せられたり、切り捨てられたりすることはありませんが、自分の罪を認め、その責任を負い、回復のために成長するようにしてくださいます。実際の裁判でも、加害者を罰するか、無罪とするか、だけではなく、罪を犯したのは事実だからこそ、罰するより、更正させていくというやり方が今広まってきています。主イエスの取りなしもそうです。罰する、罰しない以上に、私たちを神の子どもとして成長させてくださるのです。


 第二は「場所を備えに行く」です。イエスは十字架に掛けられる前の夜、言いました。
ヨハネ伝14章2節わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
 イエスが天に昇られたのは、私たちのために場所を用意してくださるためでした。私たちは、主イエスが私たちのために場所を備えてくださっていることに安心して良いのです。それがどんな場所か、私たちには分かりません。でも、今「居場所」という言葉が時代のキーワードになっています。自分が自分のままで受け入れられる場所、心からくつろげてホッと出来る場所。また、自分が貢献できる場所。学校や職場、自宅でも、自分の居場所が見つからなくて苦しい人が多いのです。そういう私たちに、主は場所を備えてくださると約束されています。「自分には居場所なんてない」と思ってしまう人も主イエスが場所を用意してくださっている。私には居場所がある、帰る家がある。そう思えるとはなんと幸せなことでしょう。

 第三は「聖霊を送ってくださる」です。
ヨハネの福音書16章7節…わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
 天に昇ったイエスはそこから助け主なる聖霊を遣わしてくださいます。聖霊が私たちに働いてくださって、主イエスへの信仰を与えてくださいます。みことばの約束を私たちに果たして、私たちを励ましたり、慰めたりしてくださいます。私たちが祈る時、言葉にならない思いも、イエスがともに呻き、とりなしてくださいます。私たちを通して神の栄光を現してくださいます。そして私たちが最後には、用意された場所、私たちの居場所、家に必ず帰り着くことが出来るようにしてくださいます。

 主イエスの昇天は、私たちと天とがシッカリと結ばれていることを教えてくれるのです。だから今、希望と大胆さをもって、ここで生きることが出来る。ここから踏み出して行けるのです。

「私たちのためにとりなしてくださる救い主、主よ。あなたは絶えず私たちをあわれんでくださいます。あなたは人と同じ誘惑を受けたので、今私たちの受ける誘惑を知ってくださり、私たちのためにとりなしてくださいます。地上にあるものすべてを裁かれる父なる神の御前で、どうか主が私たちを弁護し導いてくださいますように。アーメン」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/1/3 マタイ伝14章22~33節「向かい風の中で」 新年礼拝説教

2021-01-02 10:31:04 | マタイの福音書講解
2021/1/3 マタイ伝14章22~33節「向かい風の中で」

 マタイの福音書を続けて読みます。新年を迎えたタイミングで今日の箇所を味わいます。
22それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
 ここでイエスは弟子たちを舟に乗り込ませて向こう岸に向かわせ、群衆をイエスご自身が解散させます。直前に「五つのパンと二匹の魚」で五千人以上の人を養う奇蹟がありました。その大きな奇蹟に弟子たちも群衆も高揚しそうな余韻を、あえて打ち切るように散会させました[1]。そして、一人で祈るために山に登ったのでした。
 何のための祈ったか、というよりもイエスにとって、父との会話そのものが、楽しみであり、大事なことです。祈りとはそういうものです。
24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
 弟子たちの中には四人の漁師がいましたが、この時は向かい風に悩まされて、なかなか進みません。何時間もかかって、夜明けが近づいても、まだこぎあぐねていた。そこに、イエスが湖の上を歩いて弟子たちの所に来られた、というビックリする出来事が起きます。
26イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
 弟子たちはそれを見て「あれは幽霊だ」と言って怯えます。欄外に「取り乱した」とも訳せるとあります。「恐ろしさのあまり叫んだ」と、弟子たちの大変な取り乱しぶりをシッカリと伝えています。夜の湖に、弟子たちの叫び声が響く。これもまた怖い場面です。この出来事の意味とか、イエスの意図を推し量ることはあれこれできます[2]。しかし、いずれにせよ、その意図は弟子たちには伝わってはおらず、彼らは怯えきって、大声で叫んだのです。
27イエスはすぐに[3]彼らに話しかけ「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」
と言われます。幽霊ではなく、わたしだ、イエスだ、と。
 でも、思います。恐れるなと言ったって、無理です[4]。こんなことを仰有るぐらいなら、弟子たちと最初から一緒に舟に乗るとか、風で悩まされないように湖を凪にするとか、湖の上を歩いたりしないとか、そんな現れ方をなさったら良いのに。
 でも、イエスはこの時、弟子たちを向かい風の湖へ漕ぎ出させ、予想もしないタイミングと方法で現れて、弟子たちの度肝を抜かれました。いいえ、イエスはいつも私たちの予想を裏切ります。「イエスに従えば恐れないで済む人生がもれなく保証される」かと思ったら、折角の盛り上がりに水を差され、真っ暗な中を(嵐とまでは行かなくても)向かい風に悩まされます。イエスが近づき方も私たちには意外すぎて、怯えないわけがない。そんな様々な出来事の中で、
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない[5]」
という声を聞かせてくださる。それがイエスというお方であり、イエスに従う私たちの歩み、水の上の旅路です。
 さて、続いて弟子のペテロまでもが、とんでもないことを言い出します。[6]
28するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。29イエスは「来なさい」と言われた。
 ペテロが水の上を歩かせてくださいと言ったのはどうしてでしょうか。興味本位なのか、自己顕示欲なのか。純粋にイエスに近づきたかったからか、前から波の上を歩いてみたかったからか。他でもよく考えもせずに「何を言えばよいか分からなかった」[7]と口走り、突っ走ってしまうペテロです。ともかくこれはイエスからの招待でもないし、何の必然性もないことでした。その彼の子ども染みた発言を、イエスは受け入れてくださったのです。
29…そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。30ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
 歩けたのです。歩けたのに、強風を見て怖くなり、沈み掛けて叫ぶ[8]。二度目の絶叫ですね。
31イエスはすぐに手を伸ばし,彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
 イエスはこの言葉を、ペテロをつかみながら言われました。沈み掛けて溺れると思ったけれどイエスが彼をつかんでいました。主イエスはご存じです。弟子たちの信仰がどれほど未熟で、イエスを見ても「幽霊だ」と叫び、風を見て「助けてください」とまた叫び、ここで助かって「まことに、あなたは神の子です」[9]と礼拝しても、それからも疑い、突っ走り、恐れるかもご存じです。私たちの信仰より遙かにイエスは大きな方です。私たちの恐怖や疑いよりも、主イエスは強く、私たちをつかんでくださっている方です。
 バーバラ・ブラウン・テイラーという説教者はここからも見事な言葉を紡ぎます。もしもペテロが沈まなかったら、他の弟子たちも海の上を歩いていたなら、素晴らしい話だったかも知れないが、私たちの話とはならなかったでしょう、と[10]。そうです、私たちも弟子たちのように、こぎあぐね、イエスを見ても恐れます。
「歩かせてください」
と無意味な、しかしワクワクするような願いをイエスにぶつけることも許されていて、そこで怯えて疑っても、主イエスがしっかりつかんでくださっている[11]。そういう歩みを繰り返しながらいます。
 私たちが安心できるのは、ここにイエスがいるからです。人の理解を超えた導き方をなさる神の子が、私たちの最大級の信仰にも収まらない恵みによって、私たちを捕まえ、この一年の旅路も、私たちの一生も導いてくださるからです[12]。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」

「主よ。新しい年、この世界という海の船旅に漕ぎ出しました。向かい風に進まず、無力で孤独に思えもし、近づくあなたを見間違う時もある私たちです。また大それた願いを持ち、あなたの力に与りたいとの願いも受け入れて戴いている私たちです。いつか、私たちは皆、水の上を歩き、空を飛び、神の子としての自由、罪赦され、回復された喜びに踊り歌う時が来ます。その時まで、私たちの旅路を導き、あなたの恵みを表す歩みをこの一年もお導きください」



脚注:

[1] ヨハネの福音書6章では、もっとハッキリと群衆たちの思惑と、それに対するイエスの(つれないとも言えるほどの)鋭い応対が伝えられています。

[2] 五千人の給食で盛り上がった高揚感を窘める意図もあったかもしれません。逆に、五千人の給食に続いて、弟子たちだけに、イエスが自然界を治める主権者としての力を見せようとなさったのかもしれません。

[3] このエピソードには「すぐ」が三度も繰り返されています。22(ユーセオース)、27(ユースース)、31(ユーセオース)。

[4] 「恐れることはない」は30「怖くなり…叫んだ」と共鳴しています。また、マタイの福音書で繰り返される言葉。17:6、7、27:54、28:5。

[5] 「しっかりしなさい」9:2(すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。)、9:22(イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。)聖書協会共同訳では「イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。」と訳されています。

[6] マルコ、ヨハネは、この嵐とイエスの水上歩行の出来事は記しているが、ペテロの水上歩行については沈黙している。大きな出来事ではあるが、記すと焦点が曖昧になると思ったか、記すほどではないと思ったか。

[7] マルコの福音書9章5-6節「ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」6ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。」

[8] ここで、「怖くなったので沈みかけた」、とは言われていないことに注意。つまり、イエスを信じていた間は歩けたが、強風(や他のもの)に目を向けてしまったために、イエスを信じるよりも疑って、怖くなった。そのために沈んだ、という教訓は、直接に引き出せるものではないのです。それ以外の読み方も出来ます。

[9] 「神の子です」 4:3(すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」)、6(こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」)、8:29(すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」)、14:33(舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。)、16:16(シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」)、26:63 (しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」)、27:40(「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」)、43(彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」)、54(百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」)

[10] 「もしも、ペトロが沈まなかったならどうなるでしょう。もしも、ペトロが完全に信頼して、舟から飛び降り、両足の裏を水面にパシャッとつけると、波の向こうの主イエスに微笑みかけ、主のもとへまったく躊躇することもなく滑るように行ったとしたなら、どうだったのでしょう。もしも、他の弟子たちもペトロに続いて舟からどやどや降りてきて、嵐が猛威を振るい風邪が帆を叩きのめし、頭上では闇夜に稲妻が炸裂する中を、全員が完全な信仰のうちに水の上で大はしゃぎしたとするなら、どうだったのでしょう。それでは、別の物語になってしまっていたことでしょう。もっとすばらしい話だったかもしれませんが。それはわたしたちの物語ではなかったでしょう。わたしたちの真実の姿はもっと複雑なのです。わたしたちの真実の姿は、従い、そして恐れ、歩き、そして沈み、信じ、そして疑うのです。しかも、そのどちらか一方というのではなく、両方してしまうのです。」バーバラ・ブラウン・テイラー「疑いによって救われる」『天の国の種』(平野克己、古本みさ訳、キリスト新聞社、2014年)109頁。

[11] 映画にもなった『神の小屋』には、湖の上を歩く場面が印象深く登場します。また、トルストイの「三人の隠者」という小篇をご紹介します。『トルストイの民話』福音館書店: 人々に大変尊敬されている一人の高僧が、船旅の途中、魂を救う修行をしているという三人の隠者の住む小さな島に降ろしてもらう。そこには、ボロを纏った老人が三人手をつなぎあって立っていた。「私が聞いた話によると、あなたがたはここで魂を救う修行をし、』人々のために神にお祈りをしているとのことだ。そこで私は、できれば、あなたがたにも教えをたれたいと思ったのだ」隠者たちは、だまったまま、にこにこ笑って、お互いに顔を見合わせている。・・・「ところでどんなふうに神に祈っているのかね?」すると年をとった隠者が言った。「わしらはこうお祈りをしております。そちらも三人、わしらも三人、だからわしらをお恵み下さい。」高僧は苦笑して、言った。「それは、あなたたちが“聖三位一体”について聞いたからだろうが、そんなお祈りの仕方は正しくない。私が、神様のお書きになったものによって、お祈りの仕方を教えてあげよう。」 そして、一日中晩まで、高僧は隠者たちを相手に苦労した。一つの言葉を何べんも、何べんも繰り返し隠者たちもその後について同じことを言った。隠者たちが間違ったり、高僧がそれを直したり、初めから繰り返させたりした。月が海からのぼり始めたころ、隠者たちはようやく全部覚え込むことができた。船に戻った高僧は、船尾に腰を下ろし、遥かに遠ざかった島のあたりを、いつまでも眺めていた。・・・・・・ふと気がつくと、柱のような月の光の中に、何かがきらめいて、白く見えている。そしてその白い光が船に向かってどんどん近づいて来る。 ・・・・・・それは、手をつなぎあって、海の上を走って来る三人の隠者たちだった! 隠者たちは、船べりに近づくと、声を揃えて言い出した。「忘れてしまいました。一時間ほど繰り返すのをやめたら、全部めちゃめちゃになってしまったんです。何ひとつ覚えていません。もう一度教えてください。」高僧は十字を切り、隠者たちのほうに身を屈めて言った。 「あなた達の祈りこそ、神様まで届いているのです。隠者の皆さん。私はあなた達を教えるような者ではありません。われわれ罪深い者のためにお祈りをして下さい!」

[12] 詩篇94:18「「私の足はよろけています」と私が言ったなら 主よ あなたの恵みで 私を支えてください」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする